人は生きていく中で幾多の人の「死」と接します。人は生まれ、そして人は「死ぬ」そんな運命
ゆえに誕生で喜び、「死」で悲しみます。出会いがあれば別れがあります。教師職でしたので毎年
のように生徒達と出会い、生徒たちと別れました。人との別れは辛いものです。しかし、別れても
この星空のどこかで生きている。どこかで人と出会い様々な物語があると思いますと、その別れは
「慰み」を与えられます。しかし、「死別」はどんな場合でも悲しいものです。私は現職時代、役
職の関係で生徒の死、父母の死、生徒の祖父母の葬儀に年に何回も参列する機会を得ました。その
場面ではご遺族の深い悲しみを幾度も目の当たりにしたものです。また、長い職場生活では、何人
かの同僚を「病死」という形で失いました。この同じ教職員の「死」は殊の外、辛いものがありま
した。人は出会い、そして「愛」を育み、思い出をたずさえ別れる。昨日まで教育の世界で心を分
かち合った仲間を失うことはこの世の無常を感じざるを得ませんでした。「何故?何故?」と自問
せざるを得ませんでした。
ましてや家族の「死」は、自分の体の一部が失われた悲しみに襲われるものです。私の家族は、
私が小学校時代の頃は祖母を含めて家族8人で明るく賑やかな家庭でした。しかし、一人減り
二人減り、今では大阪の枚方市在の姉と埼玉の岩槻在の兄と私の三人になりました。父と姉と兄
が癌という病いに倒れ他界。祖母は脳軟化症・母は老衰衰弱のため他界。
世の定めとはいえ、寂しいかぎりです。
さて、私の兄弟の内、姉(長女)は昭和45年の三月に胃ガンで他界しました。私が27才の時
でした。今から37年前のことです。その死は壮絶な死でした。
私が大阪から美術に憧れて東京に出てきた時、姉は世田谷の社宅に居を構えていました。姉は私
とは10才違いでした。とても聡明な女性で自分でも言うのはなんですが美人でした。
姉は私が幼い頃からとてもいろいろと気遣ってくれました。私に初めて油絵を手ほどきしてくれ
たのは姉でした。私が大学受験で東京に出てきた時、(芸大・多摩美・武蔵美を受験)この受験期
間中は姉の家にご厄介なりました。大学に合格してからは中野の親戚の家に下宿。教師生活に入っ
てまもなく学校にほど近い所に下宿することになったのですが、東京にいる間、離れていても何時
も何かにつけて生活面も含め気遣ってくれて愛情を持って私のことを見守ってくれました。
そんな姉が私が26才の時、胃腸の不調を訴え、胃ガンと診断。残念ながら手遅れ状態でした。
手術後、療養を兼ねて奈良の病院に入院、最後は神戸の病院で息を引き取りました。享年36才
夫と幼い二人の子を残しての若すぎる死でした。姉は亡くなる数年前に「ものみの塔」というキリ
スト教の新興宗教に入信しました。家族がキリスト教で幼い頃からキリスト教に接していたことも
影響したのでしょう。たまたま熱心に布教に来た女性と親しくなり「ものみの塔」に入信したので
す。その姉が神戸の病院に入院。「ものみの塔」から離れて「パウロの十字架教」になったのでし
た。両親はとても喜んだようでした。
二月の末日、私の下宿に「姉が危ない」という報に接し、急遽神戸の病院に駆けつけたのでした。
姉はマスクを付けて人工呼吸器姿でした。母が姉の背中に手を入れて幾度も幾度もさすっていま
した。
「痛いよ。痛いよ・・。」
姉は涙も枯れるばかりのて苦しみの中でした。父も姉に寄り添うようにただただ祈るばかりでし
た。私は姉の変わり果てた姿に言葉を無くしました。
母が姉の耳元でささやく
「さぶろうちゃんが来たよ。さぶろうちゃんが来たよ。」
姉はマスクの下から私の姿を捜す。
「よう来てくれたね。」
姉の頬につーうと涙が流れる。
私はオロオロするばかり・・。
母が言う
「さぶろうちゃん。背中さすってあげて。」
私は姉の背中に手を入れてさする。
「痛いよ。痛いよ。」
姉の苦しみが手を通して伝わってくる。
母が言う。
「学年末で忙しいのによく来てくれたね。ありがとう。」
1時間ほどして私は姉の病状を聞いた上、学年末のこともありいったん東京に戻ることにした
のですが、病室を出る時、姉が苦しい息遣いの中で言った。
「帰らんといて。帰らんといて・・」
「姉さん、学年末の仕事を終えたらすぐ来るから。ねっ、姉さん」
私は、後ろ髪を引かれる思いでそのまま東京行きの車中の人となったのです。
東京に戻った翌日、下宿屋の電話がなった。姉がなくなったのでした。
どうして無理を押しても姉のそばに付き添わなかったのだろう。
まるで私は罪人を犯したような思い気持ちと悔いを携えて再び神戸に向かったのでした。
棺に収まった姉の遺体を前にして母は泣きながら言いました。
「あのね。お姉ちゃんは、亡くなる時はお父さんとお母さんが賛美歌を歌ったてね。
慈しみ深き ともなるエスは
我らの弱きを知りて哀れむ
悩み悲しみに沈める時も
祈りに応えて慰めたまわん
最後はね。とても穏やかに表情になってね。祈りと賛美歌とともに天国に召されたのよ」
私は、心の中でこの賛美歌を繰り返し歌った。
父の悲しみは如何ばかりだったでしょう。初子であった姉は殊の外父には思いがあったのでし
ょう。戦地に行っても思いは初子の姉であったようです。
父は姉が病床に着いてからというもの、毎朝陽が昇りきらない内うら書斎にこもり聖書を開
き、祈り続けたと思います。
父のこの姉への思いと悲しみの深さはその後の遺稿集作りに没頭させました。
書斎に閉じこもり何日もかけて幼い時から書き残した姉の文章を遺稿として原稿に書き起し編
集し遺稿集としたのです。
それがこの写真です。この遺稿集はかなりの厚さとなりました。出版されたこの遺稿集は香典
返しとして配られました。この遺稿集を開くたび、姉の回復のために祈りに明け暮れた父の姿
が浮かんでくるのです。
キリストにありてこの言いようのない「恵み」を感謝する私です。
遺稿集より 「許して下さい」
許して下さい。
天のエルサレムを待ち焦がれています。
手に手にシュロの小枝を持ち
白い衣をまとった大勢の人々の
仲間入りをしたくて
夜々ジッと息をひそめます。長い夜ー
許して下さい
弱い人間です。
生きながらえてもしょせん
肉の思いにとらわれる
罪の生活に足をすくわれるでしょう。
弱く貧しい人間です。
許して下さい。
一生懸命生きるつもりでした。
地の使命を投げ捨てたくなかった。
一生懸命許されるかぎり
生き抜くつもりだったー。
許して下さい。
サタンの跋扈している今の世
終わりの世に私の息をする場所はありません。
自然はこんなにすばらしく
美しいのに。
人の世は汚れていくばかり
天のエルサレムを待ちこがれます。
「お父さん、お母さん」
本当にありがとう。口には尽くせません。
牧ちゅん(次姉) 雅道ちゃん(長兄)
次郎ちゃん(次兄) 三郎ちゃん(私)
みんなありがとう
大勢の人々の愛情の支えに
今日まで生かされました。
深い感謝でいっぱいです。
喜美ちゃん(長兄嫁) ありがとう
ご苦労さまでした。 圭さん(次姉夫)にも
(以下略)