私の人生

July 07 [Wed], 2010, 15:47
其の2
毎年10月になると全日本団体選手権と言うのが愛知県体育館であり、地元愛知県から愛知県警とトヨタ系の会社が出場あとは警視庁・旭化成等と言った全国的に名の知れ渡ったチーム6チームと合わせて8チームで団体戦を戦うのでした。この秋田先輩に比べると小型でしたがすばしっこさなら天下逸品の森岐阜県警特練生・町道場と言うのは大方柔道整復師が経営しているケースが多く当時は大先生と呼ばれた兄住田鉦造この方は柔道の師としても尊敬できる方で醍醐が醍醐がと盛んに言っておられました。
この秋田先輩に比べると小型でしたがすばしっこさなら天下逸品の森岐阜県警特練生・町道場と言うのは大方柔道整復師が経営しているケースが多く当時は大先生と呼ばれた兄住田鉦造この方は柔道の師としても尊敬できる方で醍醐が醍醐がと盛んに言っておられました。」
高校受験というのがあるでしょ私の成績は中の上と言ったところでしたが、当時まだ中統と呼ばれる試験があり、愛知県中の中学生が成績を競い遭うのです。不思議なことにこの中統は成績がよく学校で上位50(300人中)番くらいに入っていました。度胸がよいというか・・・。そうして受験当日僕はレベルを下げて工業高校を受けたのでさほどの緊張は無かった。それで冒頭に書いた1977年4月に名古屋市立工業高校に入学した僕は柔道部に入ることが決められていた。1977年5月に初の公式試合に出場成績2勝1敗1分けでした。6月に弐段の免状届く。7月20日からから恐怖の合宿が始まる
前田という自転車屋の息子3年前のインターハイ・国体(71Kg クラスの選手・ゴリラのような筋肉モリモリ)でした。ネズミ花火で歓迎。一生瓶で夜も寝ずに飲み明かす。(この頃から酒飲みになる。)、1年生のときだけは学校に泊まり込み6泊7日の楽しい合宿。早速朝練で、昨夜の酒を抜く。きつかった合宿。朝練の始めはまず、庄内川へのランニング学校から約3から4Km酒を抜くのにちょうどよい距離、高校に入ってからも柔道の町道場通いも辞めなかった。月謝は無償。出口先輩もそろそろ年齢だしそのころ結婚もしたし、代わりに指導員になる。柔道部に町道場に忙しかったが、学業はクラスで3位をキープ大したことないや、そんな調子でレベルの低い学校でそんなに頑張る気もなく何となく、試験前日の頑張りだけで何とかして来ました。1978年6月の試験で同じ山王中学出身の大森信一郎の「完璧だぜ」が口癖の男で、頭にきた僕は兎に角、電気科ですから電T・電U(1)・電U(2)・電Vとことごとく満点を取り、柔道部の顧問(川口先生が)担当していた現代国語と古典については試験前に試験の問題をガリ版を刷り込む作業をしていたこともあり、あと数学、科学・歴史とほとんど100点満点を頂いて専門科目400点国語系200点数学・科学・歴史は得意なこともあり300点合計9科目で900店との驚異の100点満点ショ―をこなし、2位に120点差を付けてぶっちぎりの1位を取るなど学業で頑張った。8月に開催された、期末テストも2月期の中間も期末も3学期の中間も期末もすべて1番となり、夏休みに入ると即刻松本での合宿、先生の出身大学と合同でそれが終わった後には家屋解体業のアルバイト18日バイトして11万円で8万円の自転車を買い、3万円で当時名古屋からフエリ−で、大分へ・・。そこから宮崎(宮崎は両親の生まれ故郷でした。お袋のお兄さんが粋な方でお寿司の大皿を差し入れてくれました。)」
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