いい出会いがたくさんある人の共通点をみつけるブログ

西洋的世界の超克 / 2009年11月16日(月)
 国民と民族がどんなに矛盾しているかについては以前取り上げていますが、もう少し体系的に説明しなければなりません。ここで結論だけお話すれば、その矛盾を解消するためには、その二つを一致させるのが良いと思います。それには、エトノス、つまり民族に基軸を置くことを前提としなければなりません。 私たちがこれから議論する、民族を基準とした国民こそ、私たちが先ほど民族帝国と呼んだ、来るべき世界の正当な住民となるべき領邦です。 なぜ、民族を国民にする必要があるのか? これまで民族については折に触れて詳細に説明をしてきたつもりですが、国民の現実的必要性の説明をおろそかにしてしまっています。 ぼくは民族の現実的、あるいは法的権利を国民並みの水準に引き上げるつもりをしているのです。これが、民族を国民にするということです。現在ある国民の地位を、民族に与えるということです。これについて説明しましょう。 国民は、現在の世界では、唯一といっても良い、法的正当性があることにされています。この権利は、前提として不可侵なものなのです。 本来は、この国際的常識も解体しうる脆弱な虚構としての側面を強調したいところですが、私たちの目的は正義の説明ではなく正義の実現です。概略だけお話しますと、現在までに国際社会で堂々の法的地位を占めているとされる諸殖民主義国民ですが、彼らの領土の規定は根本的に根拠がないというものです。 いわゆるアメリカはいわゆるイギリスから独立したといいます。しかし、イギリスがアメリカの統治する領土をそもそも領有していたという法的な前提はどこに存在するのでしょうか? 簡単な回答があります。イギリスからの移住者が、現地人を無視して英国の法治主義の範囲が拡大したことを宣言すればよいのです。当時は国際的基準などなく、ようは言ったもの勝ちだったのです。これらは暴力(構造的圧力)と結託することによって増幅し、世界はそのようにして西欧諸国の独壇場となったのですが、しかし私たちはこの状態を法学的に認めるべきでしょうか? この現状を一旦認めるのは仕方がありません。私たちはまだそこに打ってでるだけの暴力を持たないからです。しかし、現在の国際社会は、そのように汚い植民地主義が薄汚れた領土主義と権利主張の果てにようやく均衡を得たときに作られた、ウェストファリア条約というものによって機能しているのです。主権国家体制、国民国家体制という先天的異常を抱えた法制度はこのとき完成しました。西洋的世界です。 当然ながら、私たちはしばらくはこの主体としての日本国民でい続けなければなりません。今後百年ほどは、単なる暴力の結果の堆積、つまり歴史的偶然に生まれた殖民主義国家という詐話組織との対等な友好関係を望むべきでしょう。 しかし、それは百年目には彼らの法学的な前提解消と経済・暴力的構造の解体を終えるまでの手段で無ければなりません。 つまり、共栄主義者はいくつかの国民国家の政体を獲得しなければなりません。それらの国民は協力して諸民族の経済的発展、文化保護につとめ、徐々に勢力を伸張しなければなりません。そして機が熟し次第、共栄主義者の指揮するいくつかの国民は、ウェストファリア体制の正当な手続きによって、諸民族を法学的根拠のあるとされる近代国民国家の地位に引き上げなければならないのです。 さて、そうして晴れて国際舞台に登場するのは、五、六百年もの間、匪賊諸君に貶められていた先住民族の諸集団です。 諸民族は、そのとき固有の完全なる文化を備えた国家を築き、またその構成者の個人は、一方で普遍なる進歩性を以ってそれらの国家の連邦制を整えることでしょう。 そうするまで、世界は西洋のものであり続けることでしょう。私たちは秩序ある多様性こそ唯一の精神とするものです。しかるに現状はどうでしょうか? 私たちの属する国民は、私たちが信頼するべきものなのでしょうか。 人々の関心のあるものは全て西洋のものです。そもそも、現実に目の届く範囲にどれだけ日本的なるものが残っているのでしょう。残っていたとして、そもそも国内にそのような残滓があるということを喜んでいるという事態そのものが、私たちの危機の深刻さを表しているといっていいでしょう。ですから私たちの目標は文化の自立です。それらは世界の諸民族と連帯してより視覚的に印象強く多様性と共に私たちの自主性を表現できるものでなければ人の心を捉ええず、ひいては意味がないのです。 若干散漫な議論となることをお詫び申し上げます。 私たちは、国民としての日本に信を置いていてはなりません。それは西洋に定義された日本です。ほんの一部分でも例を挙げておきましょう。君が代が日本をあらわすというならぼくはそれに異を唱えません。しかし西欧に発達した宮廷音楽、国民音楽の方式によって演奏されることに違和感を感じるものがいないということを残念に思うのです。日の丸が日本のものであることに異議は唱えません。しかしなぜ、それは横旗でなければならないのですか。スーツは日本人の儀礼衣服となりました。外交上、日本国民の迎賓料理はフハンス料理です。私たちはワティカンのカトリック教徒にさだめられた暦で行動しています。 ある人は国際語を英語だと説きます。そうでなければ、カスティーリャ(スペイン)語、オイル(フハンス)語、そうして例に挙げるいくつかの言語は、異なる民族の諸言語の地位を奪うことでの仕上がってきた帝国主義者の言語です。その国際社会に理想的言語として生まれたエスペラントが、真髄までローマ帝国の文化に浸りきっているのは悪い冗談でしかありません。 そうしているうちに、二週間に一回なくなっている言語の表にいつしか私たちの民族名が載せられたとしてもおかしくはないでしょう。 そのような現状を、否定する何かが無ければならないのです。 私たち世界に立つものは、本来の世界をいつまでも西洋の手中に留めておくつもりはありません。そのような意識を共有することが、今後世界を作り変える具体的な力となるのです。 そのことは主張しなくて良いのです。あえて主張しないほうが良いかもしれません。なんとなれば、仲間内にさえ知れていれば、理論の役目は次に行動にその座を譲り渡すのですから。 続けます 二六六九年〇九月〇七日
http://www.kawaii-ne.net/
http://www.glad-glad-reception.com/ntnt/iyashi/
http://www.ee072.net/
http://www.ai-to-koi.com/
http://www.ireteyo.net/
http://www.arisa-chan.org/
http://www.winwinlose.net/
http://www.lover-chance.net/

 
   
Posted at 17:39/ この記事のURL
  | 前へ  
 
Powered by yaplog!