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何が残るのか / 2005年02月03日(木)
帰り道で梅の花が咲いていることに気づいて、
季節を感じつつ、昔のことを思い出す。

昔知人が住んでいた土地に公園があって、そこには梅の木が多くあって
たまに泊まりに行ったときなんかに、一緒に買い物に出るついでに
何度かその公園を散歩したことがある。
なんというかまあ、青春だか何だかよくわからないが
とりあえずその光景を思い出すとやたらと気恥ずかしいことは確かで。

もう知人はその地にはおらず、泊まりに行くことも無く、
共に夜散歩することも無くなった。
でもあの公園は今頃梅の花が咲き始めているんだろうな、と。
思うだけで見に行く気は全くない。

といって、公園もずっと存在を続けるわけではない。
もちろん僕たちもそうだ。
「あと何度、  を見ることができるだろう?」
桜でも、満月でも、恋人でも、世界でも、何にでも当てはまる疑問は、
少し虚無的な位置に僕をおいやっていく。

何もかもが、いずれ、そして突然に、終りを迎える。
時間の経過に勝利できるものは存在しない。
永遠のものなど無い。
物も、人間も、人との関係も、自分自身もそしてその思考も。
全てがいずれ、突然、終わる。

何を大切にすればいいんだろう。
何を、どんな風に、大事にしていますか?

結局のところ、
自分が欲しいものに、自分が失いたくないものにしがみついて、
ふとした拍子に手のひらから零れ落ちないように
その場その場でなんとかするしかないのだけど。
できてるのかそれ、という話。

最近日常が少し穏やかになって、油断していたのかもしれない。
 
   
Posted at 15:01 /  / この記事のURL
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予想したように / 2005年01月30日(日)
電車の中でドアにもたれて立ち、到着を待つ。
到着駅までこちら側の扉は開かないはずだけど
もしかしたら突然ドアが壊れて外に投げ出されるかもしれない。
身を起こして手すりを掴む。

「突然天地が逆さになるって考えて恐ろしくなりませんか?」と尋ね
「お前はペシミストだな」と返答するやりとりをしたことがある。
考えてみれば、当時にしては珍しい心情の吐露であるわけで
返答者に多少思うところが無くも無い。
あのやりとりで少年に与える影響を考えていなかったのだろうか。
いやはや。

悲観的思考で述べたように
未来予測の傾向は実はどうでもよく、行動力が重要であり、
当時の少年が思ったように
「楽観主義者(オプティミスト)の方が
悲観主義者(ペシミスト)よりも価値を持つ」
というわけではない。
楽観的である方が悲観的であるよりも生きやすいとは思うが。
『馬鹿になりたい。馬鹿なら自分が馬鹿だとわからない』という格言が、
確かにそこにある脅威を受け入れていない楽観主義者への憧憬を
示しているように思われる。
まあ、もちろんそんな格言は無い。

楽観悲観の定義の問題であるような気もするのだ。
前向き後ろ向き、ということと楽観悲観は違う。
前のパラグラフを基にすれば、
前向き後ろ向きというのは行動力のパラメータになるだろう。

前述の昔の話においては、
結局少年が「悲観的」と「後ろ向き」を同一視していたことが
間違いなのであって、その点では
少年が一人勝手に落ち込んでいただけ、とも言える。
それは今の僕の解釈でしかなくて、
返答者の意図なんて今更知りようも無いけれど。

悲観的予測は将来の危機に対する安全弁である。
時折僕は最悪を予想する。
これでもかとばかりに最悪の事態を妄想する。
そしてそうならないことに安心する。
だけど、落とし穴はどこにでもあるもので
まるで路地裏強盗のように
予想しないところで一発厳しく殴りつけて去っていく。

予想したようにならない、のは
それが非現実的な妄想だからでしかなく、
もう少しきちんと有り得る最悪を想定しなければならないな、と
そんなことを電車の中で考えていた天気のいい日でした。
 
   
Posted at 17:10 / 思考 / この記事のURL
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空が見える / 2005年01月27日(木)
近頃、と言っても数ヶ月前からわかっていたことだが
近所にあった大き目のビルが取り壊されて
高層マンションが建つことになった。
そうした情勢の常として反対運動が起こるわけで
僕がマンション建設の予定を知ったのも
その運動ののぼりを見たからでしかない。

現在ビルは取り壊されていて、
元々10階建ほどだったビルの代わりに空が見えている。
帰り道、駅から階段を降りていくときに都心の夜景が見えて、
それは一日が終わる感慨を深めてくれるものだったけれど、
今、その夜景は少し範囲が広がっている。

あったはずのものが、あるべきだと認識していたものが
すっぽりと抜けているという事実は、
少しばかり戸惑いを生み、何故か寂しさを伴い、
そしてちょっとずつ慣れていくものだ。
僕個人の生活そのものに対して影響の少ない、
非常に瑣末なこうした事柄すらも
何かしらの喪失感を僕に与え、過ぎ去っていく。

自分自身が認識している限りの「世界」は、こういった具合に
少しずつ揺さぶられ、見えていようと見えていまいと変化し、
違和感は飼い馴らされて、新たな「世界」認識が形成される。
かつての記憶との違いが、時折心中に思い起こされて、
かつての「世界」そのものに戻ることができないことを知っているから、
その思い出す心の中の活動を指して、感傷と呼ぶのだろう。

おそらく一年しないうちに、高層マンションが建築され、
今見えている夜景を見ることはできなくなってしまう。
その頃僕はこの近くにはいないだろうと思いながら、
まるで既に感傷を先取りするかのように、
一日が終わる感慨と共に、夜景を見つめて帰り道を歩く。
 
   
Posted at 19:41 / 思考 / この記事のURL
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再開 / 2005年01月26日(水)
というわけで
ブログ更新しろと言われなくなって久しい頃にひっそりと再開。
更新していない間も毎日一人は来てくれていたようで
誰だか想像つきはするものの確かめることなくありがとう。
僕すら見ていないブログだったのに。

休止期間中何をしていたかと言うとひたすら引き篭もって作業。
非常に鬱々とする生活を送った後、反動で少し遊びすぎた。
そういうわけで実はブログの書き方を忘れている。
つまり、文章の組み立てと、語彙の選択範囲指定を忘却した。
それはもうすっかりさっぱりと。

だからこれからしばらくは書き方とそれに伴う思考の方向性を
取り戻すためのリハビリテーションとして書く。
元々リハビリみたいなものだったので
「リハビリするためのリハビリ」という酷い状況になるわけだが
堕ちてしまったらそれ以上堕ちないように上を向くしかないわけで。

「別に日記でもいいんじゃない?」
と言われることもあったけれど。
最初にここの文章は自分のためのものだと書いてはいるけれど。
本質的に中核に位置する問題は僕の現実に即したものだから、
当然「書いてはいけないこと」が存在する。
昔ここに書いた文章を思い出すと、やはりそういった
「書いてはいけないこと」を婉曲に例を用いて遠まわしに
書いているものがある事に気づく。

そういったことを念頭において、
リハビリは問題を囲い込むように
外側から包み込むように
以前の婉曲さに輪をかけた婉曲さで
穏やかに進めることになると思う。
 
   
Posted at 18:13/ この記事のURL
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記憶の彼方 / 2004年12月29日(水)
ふと誰かから〜〜って話聞いたことがあるな、と思い出して
そこで自分が何を応えたか思い出せなくなって詰まる。
当然そのときは真剣に考えて返答しているはずなのだが
時経て思い出そうとするとどうしても明瞭にならない。
これはなんだろう。何かの自己防衛なんだろうか。

考え方や物の見方や性格なんてものは変えることが可能で
実際そういった変化と共に僕は生きてきた。
低反発枕に擬えるまでもなく、僕は他人の影響を受けやすい人間で
それは言ってしまえば自分の中に芯を持っていないということだ。
「譲れない何か」だとか「信念」といったものは僕の中に無い。

発言の責任の所在、というものを考える。
僕が発した言葉が持つ責任は常に僕にある。
であるのに僕は自分の反応を正確に思い出せない。
再度問題に向かい合えば同様の答えが導かれるのかもしれないが
それを確かめる方法は無い。

結局のところ僕の問題である怠惰から生まれる無責任が
そういったところに見られるわけで、如何に
「そのときはそのときできちんとした判断をして答えを出した」
と言っても現在思い出せないのであれば全く意味が無い。
責任を果たさないで発言の権利を求めるようなものだ。

自分の中に行動の理由となる信念が見出せないならば
他に何かのルールを作る必要がある。

いやはや。もっとちゃんと大人になろう。
 
   
Posted at 00:03 / 思考 / この記事のURL
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安心装置 / 2004年12月02日(木)
そういう述語はあるのかもしれないけれど、何も調べずに書く。
ついでにニュースも話題に出すけれど、それはただのきっかけで
この文章は、ニュース批判でも自殺批判でも宗教批判でも無く
ただ僕の思考を追っていくだけだ。

ここ数日ニュースを見ていると集団自殺の話題が
何度か繰り返されているように思えた。
なにげなくテレビを見ながらふと
裏に宗教とか絡んでないのかな
と、思ってしまった。

殺人でも自殺でも没落でも堕落でも何でもよいのだが
そういったものは僕たちのすぐ近くにあるものであって
ふとした拍子にそちら側にずり落ちてしまう可能性がある。
衝動。思いつき。スイッチ。
僕たち誰もが背後に持っている、捨て去るべき可能性は
通常、個々人の理由付けによって
選択肢から消されていく。

思い付きを行動に移してしまった別のルートの自分というべき他者を
僕たち自身のありうる可能性として捉えることは、
僕たちを不安がらせる。
そのため、そうした他者と自分を分けるための
グループ分けがなされる。
それが安心装置だ。
先に書いたような新興宗教のカルト的要素を持ち出すことが、
その一例である。

・個人が引きとどまるための理由
・グループ分けという安心装置
それはつまり
・個人的に突き詰めた納得できる理由
・社会的に広く用いられている(常識的な)理由
とも言える。

常に自分で考え納得した上で動けるものではない。
反射的に対応を決めて先に進むことが大事な場面も多い。

だが考えるのだと僕が自分で決めた以上、
安心装置を使うときは、
それを使っているのだという自覚を持つべきなのだろうと思う。
 
   
Posted at 11:55 / 思考 / この記事のURL
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悲観的思考 / 2004年11月20日(土)
他人に接するとき、一般的には明るい人の方が好まれる。
それは普通に理解できることだが、
根本的に楽観的であるか悲観的であるかとは
切り離して考える必要がある。
端的な理由を挙げるならば、人が何かを口にするとき、
その言葉が常に本音であるとは限らないということになる。

楽観的、悲観的であること自体が問題となることは
本来それほど無いはずだ。
楽観/悲観は単純に「将来の予測をするときの傾向」を示すもので
実際に問われるのは、予想した後の行動である。



AとCが楽観的思考、逆にBDが悲観的思考。
またABが対応能力をもっていることを示し、
CDは対応能力を持ちえない領域である。
すなわち、
A:楽観的な未来予測を行い、それに対する行動力に優れている。
B:悲観的な未来予測を行い、それに対する行動力に優れている。
C:楽観的な未来予測を行うが、それに対する行動力に劣る。
D:悲観的な未来予測を行うが、それに対する行動力に劣る。

個人的には、B>A>CDの順に価値を感じている。

一般的に楽観的であることのほうが悲観的であることよりも
良いものだとされている傾向があるとするならば、
それは前向きに行動に移すことが可能かどうかを
楽観/悲観が影響するという観点から見ているからだろう。


もし、変えたいと思うならば、
思考も行動もどちらも変えられないものではない。
最大の敵は悲観的であることでも行動力の無さでもなく、
「怠惰さ」だ。
 
   
Posted at 07:03 / 思考 / この記事のURL
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先を読むということ / 2004年11月19日(金)
知り合いに天才がいるのだが、かの人が言うには
「先を読むことが大切」らしい。

先を読む、ということは、誰もがしていることではある。
現在から未来を想定する。
行動の結果を予測する。
世の流れを読む。
そういったことは無意識になんとなく行っているものだ。

この問題を、自分に引き付けて考えてみる。
僕と天才の差異はどこか。
・知識とノウハウ
・思考速度
・覚悟
この三つが挙げられる。

スペックの差は埋められる部分もある。
もちろん埋まらない部分もある。
環境と経験、そして生来の差。
簡単に埋まらない距離というものは、ある。
それはさておき。

最後の覚悟なのだが、ここが一番の問題だ。
絶望的な未来を想定したときに、
というのは楽観的未来を想定する意味が薄いからだが、
そのとき、現実の対応策まで立ち戻れるかどうか。
ここが大きな壁となっている。

結局のところそういった強さを得るには、ある種の自信が必要となる。
自信が生じるには、実績か支えのどちらかが必要なわけで、
僕はとりあえず力を蓄えるしかない。
 
   
Posted at 07:02 /  / この記事のURL
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肉体と精神 / 2004年11月18日(木)
人間は精神活動のみで生きているわけではない。
同様に肉体活動だけで生きてもいない。
肉体と精神は分けることができず、互いに作用しあっている。

例えば。
腹痛を感じるときと、健康であるとき。
その精神状態には大きく差があることは、
誰もが経験済みのことではないだろうか。

昔僕は、考えごとをする人間だった。
考えごとをして、結論を出さずに投げ出していた。
つまり悲観的な想定をして、それに対する代案を考えられなかった。
こういった思考が止むことはなく、僕は困っていた。

身体を動かすことが、ある示唆となって現れる。
身体を動かしているとき、それはバイトでもスポーツでも何でも良いが、
そのような止まらない思考が緩むことに気がついた。
差し迫った必要に対応するとき、
無為な思考は本能的に後回しにされるのかもしれない。

肉体と精神が不可分であるという考えは、
このような経験を経て僕の中に根付いている。
 
   
Posted at 17:53 / 身体 / この記事のURL
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泣くことについて / 2004年11月17日(水)
涙を流すことで、どうやら人間はストレスを解消しているらしい。
大抵の人が実感を伴って感じられることだと思うし、
涙の構成物質も証拠となっているようだ。

泣くことについて。

小さな頃僕はとてもよく泣く子供だった。
泣く原因なんて何も覚えてないけれど、とにかくやたら泣いていた。
当然あだなは泣き虫で、どうしても涙を止められず
顔が歪んでいく感覚は今もしっかりと残っている。

泣かなくなったのは小学五年生くらいから。
理由は覚えていない。
ということにしておく。

高校の頃に自分が泣けなくなっていることに気がついた。
落ち込んでも悲しくても泣くことができない。
当時はそれでも困らなかったけれど。

泣くことは必要だ。涙を流すことが大事なときはある。
例えば僕は、時折泣くために本を読む。
きっかけが何であれ、涙を流すことで
自分の内にたまった消化しきれていない何物かを
一緒に流してしまう必要がある。

頭の中でぐるぐるしているだけでも、
身体へとその影響は出るものであって、
そちらもある程度制御していかないと壊れてしまう。
それは出そうで出ないくしゃみのようなもので
意識的に発散させる場というものも必要なのだ。

自然に泣けなくなった僕のような人間は、
不自然でもどうにかして泣く方法を覚えなければならなかった、
ということだろう。
 
   
Posted at 13:49 / 身体 / この記事のURL
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