hisasiburini.. 

July 25 [Sun], 2010, 23:06
24歳です。

一年ぶりにここを開く。ちょうど、昨年は自動車の免許の合宿に行っていた時期だと思う。今回は山口県の下松というところで、友人の紹介を頂いたお寺さんで法務します。

さっき古いブックマークを開いたら、大学三年生から四年生にかけての頃のブログが出てきた。凄く痛いのは言うまでもないことで、思わず丸ごと削除してしまった。当時の自分が、当時の彼女を慕う文章とか、とてもとても読めたものじゃないね。

勢いで削除してしまったけれども、実は惜しいことをしたんじゃないか?とも思う。yuzukiさんのおっしゃるところの存在の裂け目、や、真っさらの世界に人間が死にものぐるいで作り出してきた折り目、複雑な入り組みよう、それが生まれてくるまでの誰かの努力、物事の連鎖の厚みに、凄く敏感な私がそこにいたんです。あぁ、惜しいことをした気がしてきた。

しかし、あれだ、実名を出したら駄目だね。著名人とかなら良いけれども、それ以外は駄目だと思う。やっぱり削除して良かった。

当時の私が大切にしていた事柄は、

「自他を苦しめるのは私の作り出す自己中心的でその時ばかりの恣意的な分別」

ってそのこと一つ。

総て人間は自分中心の分別の中で生きている、ということ。それを絶対化して、人に押しつけたり、自分がそれに捕らわれたりして、人の境界線と私の境界線とがぶつかりあって、日々傷を作り続けていると言うことだった。およそ、私が考えつくところの総ての境界線は、私の心が作り出したものであって、あやふやなものなんだって。

自分の愛しい人は傷つけないが、他人ならいくらでも傷つけることが出来る。自分と他人の境界線は自分の実感。揺れ動き続ける自分の実感を頼りに自分を傷つけ、他人を傷つけている。なおらない。都合が悪くなったらどんなに恩人だったり、一秒前まで愛しい人をも他人にする。なんと危ない私であるか。

大学生活はそのことをとみに味わって確認していたように思う。

本当は今だって、きちんと本当の事を確認する暮らしに切り替えることだってできるはずなのだ。なぜそれができない。自分の迷いっぷりが確認できても、そこから離れようとしないからではないか。救いの理屈それそのものに生きることを決意して、本当に行ききっている人をそばに見ないことには、私はなかなかその道を歩かないし、歩けない。なんともなさけないことである。

おわり
P R
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23歳メンズ。仏教と音楽と散歩が好き。堅苦しいことを考えようとするけど、結構すぐ無理が出る。be here,now.
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