さよなら常識空間 

2010年08月20日(金) 13時26分
いいともが見られる幸せ
あると思います


いいともが見られる悲しみもあると思うけどね



ここ三日間テレフォンショッキングがAKB祭です


AKBすごいですよねー
みんな黒髪で可愛いですよねー


一人として名前わからんがな!

48人の名前覚えてる人って居るんだそうですね
凄いですね


まだ化学反応式を48個覚える方が楽チンそうですよ
理屈あるし



しかし…

自分よりも年下の少年少女がアイドルとして活躍している所を見ると自分の老いが感じられます

ちょっと前までアイドルなんて年上の存在だったのに
自分も無駄に歳を取ったものです

できたら
歳相応の知性というものが身に付けられていて欲しいものです


さて
日常茶飯雑感

年下のアイドルグループを見ていると何だか自分が恥ずかしくなります

屑も屑、ニート寸前のろくでなしの馬鹿野郎な浪人生の私からすれば
彼女達は高校生か大学生程度の歳なのに働いている
そして成功を収めている

立派です
すごく立派です

しかも彼女達は恋愛禁止だそうじゃないですか


精神の自由を制限されてなお働く
素晴らしいです


勿論
教育を受けずにアイドルグループとして働いている彼女達と、親に大枚はたかせて質の良い教育を受けさせてもらっている私とでは住む世界がそもそも違いますし
私に彼女達の境遇は理解しがたいものだと思います
内実を少しも知らん部外者ですから


ですが
彼女達とてレールに乗ってトントン拍子に売れっ子アイドルになれた訳ではないでしょう
下積みから始まり、多かれ少なかれ無力感や挫折感、軋轢や葛藤を味わいながら20に満たない短い年月を爆発的に生きてきたのではないでしょうか

だのに
テレビの前では笑顔です
それが商業スマイルだとしても
むしろ商業スマイルだからこそ
働く苦労があるんじゃないでしょうか


それに比べて
私といったら
今まで受験勉強にかこつけてアルバイトすらせず
働くことの苦労から一切隔絶された温室の中で
ぬるくぬるく育ってしまいました
今、一つの挫折を一年かけて味わっていますが
それだけですね
まだそんなに酷くない挫折です
世の中には取り返しがたい不可逆的な挫折すらあるのですから


勉強なんて
実際、何の役にも立たんのですよ

一日の座学より
一時間の労働の方が
よっぽど人の精神を成長させると思います

私達は勉強ばっかりしてるから
頭がガキなんですよ
きっと

「最悪な世界だったよ、神様!!」 

2010年08月10日(火) 21時45分
夏期講習で全然更新できてない私です


マジ言い訳もありません


でも
気力が無くなるのよね
夏期講習ってのは本当に気力が吸われる




近況報告ー

短編は遅々として書いていません

しかも他の作品に浮気をすりという駄目具合

なんだか書けない気がしてきた……


いやいや
弱気はいけませんね
書けるよう努力しましょう



某予備校東大オープン模試受けてきました

オープンって言ってる時点でバレバレだけど敢えて予備校名を伏せてみるこの無駄な努力



結論から言うと
理科の破滅具合に爆笑が止まりません


50アルカナァ…

数学は相変わらずの数学(笑)具合でしたし

国語は古文が沈没してますし


英語は易化したのかかなり解けました
110/120答えを書きました
自己ベスト更新です
パネェ
ただし正答率は悪いがな!
チラッと解答みただけでも間違いがボロボロと…
泣きてぇ


東大英語は文法が難しいんだよチクショー
流石、高校生が文法嫌いなの良くわかってんぜ…


感触として
数学80
国語40
理科50
英語70
合計240

まぁ理一A判定は当然ってか
取れない奴は冷静になって東大は諦めなさいって感じですが
理三A判定は無理っぽいですね
良くてB、妥当でC、悪くてD
E判定はないでしょう



とか言って200切ってたら爆笑ですね
ハハハ、泣きてぇ

そう一瞬の光纏った 

2010年07月22日(木) 16時03分
今、現在

暇を見つつ
哲学シリーズ3作目を書いています
タイトルはもう決まってて
一死者から見た一機械少女の世界のあり方
です

1作目、2作目と違って長い作品になりそうなので
かなり完成は遅れると思います
あんまり暇が無い上に
もうそろそろ夏講が始まるのでねー
浪人生は辛いよ

しかも1週目は3講あるので、予習がギャースなんですよね
何で3講も入れたんだろう
馬鹿なの?

でも数学と英語なんだもん、仕方ないじゃない
お世辞にも手を抜いてどうにかなる科目ではないじゃないですし
ねぇ?

私の得意科目なんて物理ぐらい(それもそまで得意じゃない)で、後はほとんど大して得意科目は無いですからね
その代わり、私は平均的万能型なので、総合においてはそこそこのスコアはマークするんですけど
どれも神がかってできる訳じゃないけど、その代わりにどれも出来ない訳ではない
まぁ、確かにねー、勉強なんてやれば出来るもんなんだから、得意不得意なんてまずあんまり無いはずですからね
どっちかって言うと、好き嫌いのほうが成績に影響する気がしますね
実際私がそうでしたし
何でも、やりゃあできるんですよ、皆さんやってないだけで
私はそう思います
私なんかも、生来やる気が無い人間なので、こんなレベルに留まっていますが
もっとやればもっとできるんだろうなぁ、って思うところはあります
思うだけでどうせしないんだから、即ち今が私という器の限界なんですけどね

言うだけなら、何とでも言えますからね

話がそれました

とにかく、哲学シリーズ3作目は遅くなりそうです
確実に夏講になだれ込むと思いますし
そうなると夏講が忙しくてきっと手をつけないと思いますし


ということで作品投稿はしばらくとまると思います
雑記ぐらいは多分あげると思いますが

うーん
これは本来3作目が出来てから言うべきなのかもしれませんが
ちょっと哲学シリーズ裏話

哲学シリーズ3作品は以下のタイトルラインナップになっています
・一機械少女から見た世界のあり方
・一死者から見た世界のあり方
・一死者から見た一機械少女の世界のあり方

タイトル自体はそれぞれシリーズ観を出すために統一してますが
そもそもこのシリーズは何時構想が出来たのかというと
今年の3月頃
1作目の機械少女を思いついて数日で書き上げたのが始まりです

その後、4月ごろに3作目の構想が思いついて
それにあわせた伏線として2作目を作りました
1作目が意味不明な作品な分、2作目、3作目はラノベタイプの読みやすいものを、と考えています

この3作品を通じて描いているのは「思考形式の違い」です
一番それが色濃く出ているのは1作目です
思考っていうのはそもそも言語で形成されているというのは一般常識かと思います
ようはつまり、日本人は日本語でものを考えますし、アメリカ人は英語でものを考える、ということですね
だから?って言われると、それでおしまいなのですが
異なる言語で思考するというのはようは、異なる思考回路を持っているというのと同義なので
そのことを踏まえずに融和とか言っても土台無理な話じゃない?って思います
有名な例ですと、欧米人がアメリカ大陸に移住した際のお話で
食料が尽きた欧米人が食料を求めてインディアンと物々交換の交渉をしたそうです
その際、欧米人は服だとか剣だとかそういう手持ちのものを交換に出したそうですが、インディアンはそれに消極的だったそうです
何故かというと、欧米文化においては貨幣経済というものが流通していますから、あらゆる物質は貨幣という概念を媒介してすべて同じ数直線上で語れるのに対し、インディアン文化においてはそういう概念が無く、食料は食料の数直線上で、衣服は衣服の数直線上で、それぞれ独立のベクトルで価値を決定していたのです
だから、食料と服の価値は相互比較不能だったのです
さて、話が長くなりましたが、つまりは、そういう相互理解ができない、状況というのは確実に存在します
それを無視して相互理解なんて無理な話です
という以上のようなことを明確に感じれるテーマというのが哲学シリーズの目指している所です
なので、その一番激しいパターンとして人間と機械を選びました

さて、話が長くなりましたが
そんなところです



これで1週間分は稼げたな

9、I am YOU !! 

2010年07月15日(木) 9時00分
久しぶりの屁理屈のお時間です


今回のお話は「自と他」というお話です


自と他、というのは哲学としてもかなり使いふるされたテーマです
なんせ浅学な私ですら読んだことがある話題ですからね

月並みな話しか出てこないと思います


さて
では屁理屈を始めましょう



自と他とは何でしょうか

文字通り考えたら
自分と他人です


じゃあ
自分と他人って何なのさ?
と考えてみると


言葉を失ってしまうのが常です


そもそも考えたことが無いですからね
自分とは何ぞや、他人とは何ぞや、とね

ではまず
産婆術よろしく、一般的な定義から論理を展開してまず矛盾にぶつかって困ってみることにしましょう
その方がこの問題の本質を理解しやすいでしょうから


と言うことで
他人から定義を始めていきましょう
他人とは何でしょうか

他人とは自分以外の人間です

敢えてここで定義不明な「自分」という要素を条件に入れてしまうのは気が引けますが

ここは逆転の発想で自分でないものを決めることで自分であるものを決める
外から固めていく方針で行きます


さて
では他人の存在を認めた上で自分とは何かを決めていきます

いきなり考えたって分かりませんから、一体どういう時に自我が形成されるかということを考えてみましょう

人間は生まれながらにして自我は持ちません
もし自我があるならば、その子供の性格は生まれた瞬間から決定しており、即ち遺伝情報によって自我は全て形成されることになる

ではいつ自我が形成されるのかというと
そりゃ生まれた後です

生まれた後の外界からの刺激によって自我が形成されていくのです
文化的、文明的、性格的、それこそあらゆる面で
そして、その外界には常に他人の存在があります

まぁ、ここまで言ってしまえばもうお分かりですよね

自我というものは究極的に他人に存在を拠るのです
日本人に囲まれて育てば日本人らしくなり
欧米人に囲まれて育てば欧米人らしくなり
という訳です

さて、ここで、なんともびっくりなことに、論理をひっくり返します
今手に入れた結論を前提に再帰代入してみます

他人とは何でしょうか
定義としては「自分」以外の人間、でしたが
このままでは再帰代入できないので、こういう考え方を導入してみます

代入する考えは簡単に言えば観測位置の等価性です
まぁもっとぶっちゃけると、他人も「自我」を持っている、という考えです

無論、この考え方を導入しないという手もあります
自分の見ている世界で自我を持つものは観測者である自分だけ
それ以外の一切は自我が存在しない「現象」にすぎない、と
そういう仮定もまたアリでしょう
ですが、今はその仮定は置いておきます
またいつか扱うかもしれませんけど、とりあえず今は「他人も自我を持っている」という仮定を採用してみます

では、他人が自我を持つ仮定をここに代入してみる訳ですが
もう、おわかりですね

他人とは自我を持つ
自我とは存在を他人に拠る
では、他人が持つ自我は一体何に拠るのか?
もちろん、ロジックに従えば、他人です
ここで、便宜上、自我を持他人を「他人A」と呼び、それ以外の他人を「他人」、そして自我を持つ自分を「自分」と呼ぶとします
そうするとあくまでロジックに従って考えると
「他人A」は「他人」に存在を拠ります
その「他人」の中には、「自分」も含まれています
これを結論1とします

そして、先ほど証明したとおり
「自分」は他人に存在を拠ります
その他人は「他人A」と「他人」で構成されます
これを結論2とします

では結論1と結論2を見比べてみましょう
ここで、「他人A」と「自分」の共依存関係が生まれます
つまり、「自分」の変化は「他人A」の変化を生み、その「他人A」の変化が「自分」の変化を生じる
永遠にお互いを変化させ続ける関係に陥ります

矛盾ですね
まぁ、自我の変化というものは時間変化を伴うものですから、ある意味矛盾ではないという捉え方もありますが
私はこれを矛盾だと思います
理由はもちろん、なんといっても、これは鶏と卵の話です
どっちが先でどっちが後か分からんというのと、定義がふわふわしている気がして好きではない、というのが理由です


さて、矛盾が出ました
困りました
それでは、この矛盾を解決する方法を模索してみます

まず、矛盾を呼んでいるのは、定義の失敗です
定義が狂えば後は全部狂うのは当たり前ですサイコロジカルです

さて、ではどういう定義を導入してみるかですが
あえて、自我・他人というどちらかから定義を始めるのではなく
「場」を定義していきたいと思います
つまりは、自我と他人が同次元に存在するような、そういう場を想定します

理系の人にわかりやすく言うなら、変圧器などにおける相互誘導現象をイメージしてください
あれは1次コイルか2次コイルのどちらかから数値定義を始めるとこんがらがるはずです
なので、大抵はその1次コイル・2次コイルの両方を貫く、磁束というものから定義を始めていくはずです
ようは、場の設定をするのです
1次コイルと2次コイルが同時に変化するなら、その両者を同時に定義できる場から決めてやれ、っていうことですね

それと同じで、自と他の間に場を設定します
つまり、自と他がお互いに影響を及ぼすものから定義するのです

そうすると、変化が観測できる側の変化を、場に代入して、その結果を影響を受ける側に代入するのです
つまりは、片方が主体となって変化を促す、という考え方ではなく
両者が出会うことで生じる何らかの「場」が、両者に変化を促す、という考え方なのです
そう考えると、一方の変化がわかれば、もう一方の変化もまた推測可能だろうということですね

……自分で書いておきながら、ひどく分かり難いと思います
すごく抽象的ですし
数式で示すのが一番楽なんですけどね
そう簡単に数式で示せないのが世の中ってもんでね
辛いもんです


うーん、今回は論理失敗って感じですね

36.5℃の情熱 

2010年07月09日(金) 17時37分
今週は更新されるとでも?


甘い

甘いよ


甘過ぎる


東海道中天津甘栗毛ぐらいに甘いよ



予定が立て込んでましてねー


はっはっはっ

予定があるのは良いことです
それの良し悪しには関わらずね





さて

最近驚愕したこと


昔々
私にも自意識過剰な時期が御座いまして
そんな時期にこんな迷言を残しています



「俺は将来、大物になるだろう。但し、その未来はオセロのようなものだ。例えば、一つの未来として俺は歴史に名を残す偉人になるかもしれないし、もう一つの未来として俺は史上最悪のテロリストになるかもしれない」


私が文章そのままに言ったわけではないですが
意味としては同じことを言ったはずです



まぁ
若気の至りと言いますか
青春の輝きと言いますか

よくもまぁそれだけ自分に自信が持てたもんだと自分でも不思議です



まぁ当時は世間知らずだったのでしょう

井の中の蛙なんとやらです


さて
何でそんな事を持ち出してきたのかと言いますと


実はこの発言、偶然私の中の一面を言い当ててるんですね


何も自分が優秀だと言うんじゃありません
テロリスト因子とでも言えるでしょうか

自分の中にごくごく自然に変革を望む過激な一面があるという事に驚いたのです


というのも
少しばかり日本の財政について考える事があったのです

このままじゃあ日本は財政破綻すんじゃねぇかな、と
詳しい理由は省きますが

とにかくそう考えたのです

そしてそう考えた上で、こう考えたのです


「日本転覆を企てるなら先ずはその財政から崩しにかかって財政破綻から生じる各所への歪みをさらに刺激していけば、思うよりも簡単に日本って転覆しちゃうかもな」

そうごく自然に考える自分が居たのです


皆さんにはわかりますでしょうか
この思考が孕んでいる酷く逆説的な二面性が

一つは、日本社会を改善すべく脆弱性認識する私、もう一つは日本社会をひっくり返す足掛かりとして脆弱性を認識する私

片や愛国者、片や売国者



私は最近は自分が社会という文脈の中に生かされているんだと認識してからは、自分は生きることの対価に社会へ何らかの還元をしなければならないと考えているのですが


そんな一方で
日本はもう救いようがない所まで来てしまっているのではないだろうか
ならばいっそ早く殺してやる方が慈悲ってもんじゃないのか


そんな左な思想が自分の中にあると気づいて
大変驚きました



自分はわりと右かと思っていたんですが…

左でもあり右でもあるようです


やはり人間というものは
どっち付かずな生き物なのですね


その他にも傲慢な考え方ではありますが


そもそも自分が役割はここにあるのかな、なんて考えたりもします

私は現代日本という文脈の中で生まれ、そして若かりし時代を過ごした訳ですが
果たして私はこれから先日本という物語の登場人物なんだろうか

という気もします



この現代が日本という演劇の第何幕目なのかは預かり知らぬ事ですが

私が演じる役はそこにあるのだろうか
私はもしかして別の演目の役者であるのではないかとも思います


まぁ
そんなもん
実際に幕が開けてみないとそこに私の役があるのかは分からないんですがね


デウスエクスマキナは我々には分からないもんなのです

生き残りたい 生き残りたい 

2010年07月02日(金) 17時50分
オーゥシィーット


更新を完全に忘却していたぜ


という訳で今週は休刊



最近テンション低いのでねー
やる気ナッスィンというか…


それもこれも発売日を発表しやがった任天堂及びゲームフリークが全て悪い


九月に発売しやがる任天堂なんて大嫌いだ!
半年延期しろチクショー


マジで許せん

この私が浪人してる時期に当ててくるなど

このスキル【不遇】かつ【不運】がついている私に

そんなオイシイ話がある訳ないだろう
死んでしまえ


もーキレた


キレたから



三月に3DS(発売してたら)と両バージョン買ってやる


に、任天堂なんか大っ嫌いなんだからぁっ!馬鹿ぁっ!(///)


来年の三月には廃人プレイの真髄ってやつを見せてやるぜぐへへへへぇ


とか言いつつ

旅行とか宴会とか引越しとかを考えると
なかなかできそうには無いですけどね


考えたくは無いですけど
万が一第1志望が無理でも
私は東京行き確定なのでね

滑り止めも東京だしね


もう関西は嫌なんや!


別に関西が嫌いなんじゃ無いけどね
一人暮らしするには東京かなぁって感じです


ちなみに今自分が一番住みたいのはアメリカかイギリスだったりします

ハーバードとケンブリッジは憧れッスよねー
やっぱ


いつか留学したいなぁ


てか
外国人の友達が欲しいよね
欧米系の


英語で喋ってみたい
どうせ喋れないんだけどさ


カジュアルな英語を知らないもんね
フォーマルな英語は泣きたいぐらいよく知ってるけどね



話はπラジアン変わって


最近ラノベが書きたいね
少しだけだけれど


まぁ
そのうち書くかも知れませんし
書かないかも知れません
多分書かない気がします
性格的に



でも一回
自分で書いて自分で挿絵も描くってやってみたいよね
どっちも力量足りないんだけどさ

夢ではあるよね

嘘と嘘が重なって本当に変わる 

2010年06月25日(金) 19時25分
人に教えるのって難しいですねー


自分の理解していることを教えるだけじゃん、楽勝じゃん
とか思ってましたけど

教師という専門職が存在するのも納得ですね

予備校の同じクラスの生徒に化学で質問をされて
一応、解説はしてあげたのですが、どうも根本的に知識がつながった顔をして無かったですね
なんとなくモヤモヤが残っている顔をしていました

昔の自分を彷彿とさせますね
って、今もそんな感じか

こういう、しこり的モヤモヤ気分というのは時間とともに解消されることが多いのでねー
バシッと分かる時もあるのですが……
やっぱり、自分の知識の一部分となるのはすぐにとは行きませんからねー
じっくりとモヤモヤしたまま熟成させるといい味の知識ができあがるのですが
まぁ、それは個人差があるし、モヤモヤのままほうっておくのも気持ち悪いのもまた道理ですし
難しいもんです


必ずしも自分の理解している内容が他人に理解されるわけではないと
考えてみれば至極当然な訳ですが

実感が伴うとまた違うものですね

どうやら
私は理科が得意、つまり、センスで解いている所がある分、理科を教えるのが苦手なようですね
質問に対して所謂、「え、何でって……そりゃ、当然やろ、常識的に考えて」という回答をしてしまいがちになってしまう
相手が分からない理由が分からないのですよね
厳しく言うと、何でそんなことを疑問に思うの?という感じですか

自分でも物事を理詰めに理詰めにできるだけセンス的なものを排除しているつもりですが
やっぱりセンスとい精神的障壁というものは他人との間にあるのですね

なんというか、すごくもどかしい気分です

私は、大学に入った後は一応、家庭教師のバイトで金を稼ごうと思っているのですが
前途多難なようです


そう考えると
教育のプロってのはすごいものですねー

8、幸福ベクトル 

2010年06月25日(金) 0時50分
ある人は言いました
世界の全員を幸福にする事が人間の理想である、と

またある人は言いました
世界の全員を幸福にする事は人間の絵空事である、と


人類の普遍の幸福というものは常に言われる人類の理想です
小学校なんかでも
皆が楽しく暮らせる社会を作りましょう
というスローガンがよく聞かれます

ようは裏で自分の利益だけを追求するなって主張を正当化されてんですけど


まぁとにかく
皆様も少なからず「社会の皆が幸せになれる社会を作りましょう」というスローガンは聞いたことがあるかと思います


そして
心がひねくれている方なら自分で
素直で素朴な心をお持ちの方ならひねくれた他人から
「世界の全員を幸福にするなんて無理な話だ」
と思ったりあるいは聞いたりしたこともあるでしょう


当然だと思います

むしろ
世界の皆が幸せになれるなんて言葉を疑いもせず鵜呑みにする方が信じられません

そんなことあり得ない
現実問題、社会の全員が幸福でないのが良い例だし
例なんか考えなくても
貧富という概念を考えたら
直ぐに否定できます

背理法で示しましょう

世界の全員が幸福になれるとする
幸福であるならば少なくとも裕福(貧乏であるならば不幸の対偶)であるので
世界の全員が裕福である
ところで
裕福である人間が居ればそれだけ貧乏である人も居るので
少なくとも世界の一人は貧乏
これは世界の全員は裕福に矛盾
以上から
世界の全員を幸福にすることは出来ない

というように非常に簡単に示せますね



しかしながら
敢えて言いましょう

この証明正しくない

いや
論理自体は正しいのです
正しいのですが

前提が間違っています
皆様もお気づきかと思います
証明の一部に違和感がありませんでしたか?
そう
幸福⇒裕福のくだりです
私は今回
貧乏⇒不幸の対偶であるから真偽性は一致する(なので貧乏⇒不幸が真だから幸福⇒裕福も真)という理由を提示しました

何でそんな回りくどいことをしたのか
答えは皆様を誤魔化すためです

そう
実はここの論証、非常に怪しいのです
っていうか間違ってます

直感的におわかりですよね
幸福⇒裕福って本当に真ですか?
貧しいけど幸せですって人一杯居ません?

そうなのです
しかし逆に
貧乏⇒不幸
は何となく正しい気がするのです
実は正しくないのですが
これは我々が比較的貨幣価値のある資本主義社会に住んでいて、消費が生活に必要不可欠だという考え方が植え付けられてるからですね
だから満足に消費できない人を不幸に思う

さて
ではこの誤りが何を意味するか、ですが
そいつは自明でしょう
幸福の考え方は人それぞれ
幸せのベクトルはあくまでも関係無く、幸せはそのベクトルの大きさが決めるのです

例え幸福を測る尺度が貧富だけだったとして
貨幣信者は富の方向に幸せを見いだすでしょう
清貧を最上とする者は貧の方向に幸せを見いだすでしょう

ある二人の貧富のベクトル和がゼロであっても
その二人の幸せは大きさの二倍なのです
つまり1単位裕福な人間と1単位貧乏な人間が居たとき
その二人の幸せの合計はゼロではなく2単位なのです

一定電場中で相反する等加速度運動をする同電気量の荷電粒子の変位ベクトルの和がゼロでありながら、そのエネルギー量合計は一方のエネルギーの二倍なのと同じように


幸せはベクトルではなくスカラーなのです
プラスマイナスを単純に決められる量ではないのです



だから理論上は
世界の全員を幸福にすることは可能です
単純な話、世界の半分が裕福に幸せを見出し、残りの半分が清貧に幸せを見いだしたら
ちょうど上手く皆が幸せになりませんか

そういうことなのです
理論上は可能なのです

しかし
ご存知のように世界の全員が幸福ではない
これは様々な要因から発生しますが
一番の問題は
幸せのあり方が文化によってだいたい決まってしまっていて、その文化圏において大多数がせの幸せのあり方を受け入れている

椅子は5脚しかないのに人間が6人いるのと同じです
絶対に誰かが溢れてしまう

だから全員幸福が実現しないのです


これを解決するとしたら
各人が自分だけの幸せのあり方というもの見つけ出していくしか無いでしょうね


以上、今回はちょっと理系っぽい屁理屈でした

7、一死者から見た世界のあり方 

2010年06月17日(木) 9時00分
世界は発展した。
そういうと実はそうではないだとか相対的発展は云々と言い出す輩も居るだろうが、そんな屁理屈は関係無い。
屁理屈をこねて抽象概念をどうこう小難しく言うのはナンセンスだ。
単純に科学技術や生活水準が発展したことを発展と呼んで何か不都合が生じるか?
むしろ、それらを発展と呼ばない方が不都合だろう。
確かにその発展が良いか悪いかまでは俺には判断できない。
だが俺が言いたいのはそんな話じゃない。
そう、世界は善くも悪くも絶対的に発展した。
具体的には様々な紆余曲折がありながらも、世界中にごまんと散らばっていた国家は統廃合を繰り返し、やがてそれぞれが生業とする産業単位でまとまった。
農業国・軍事国・技術国…、歴史的背景から分裂していた国家達は究極の国際分業という形で繋がったのだ。
この国家再編が成されたのは新しい経済理念が産み出された事が大きい。
自由資本主義を残しながらも、世界市場での共産主義の確立。
細かいローカルな市場を見れば自由資本主義であるが、世界規模というグローバルな市場を見れば計画的に資本と資源が分配されるように仕向けられた経済。
それが今世界が採用している経済理念だ。
さて、そんな経済理念を持つ世界なのだが、やはり戦争というものは無くならない。
ただ、戦争の有り様はやはり以前とは異なる。
かつては戦争は熱いものだったらしい。
一時的には冷たいものとしたこともあるようだが、とにかく今の戦争はそれに比べ、温い。
そう、格段に温い。
かつてのような、人と人とが血の池地獄で殺意と殺意で殺しあう、半狂乱の悲鳴と怒号のアンサンブルに爆砕音の行進曲が喧しく覆い被せたような不協和音、そんな肌を灼くような戦争は今や過去の遺物だ。
何も俺は戦争狂信者って訳じゃない。
ただ、最初から結果の決められた、ノルマを達成するだけの、予定調和甚だしい戦争に意味が見出だせないだけだ。
今行われる戦争は言うなれば商品だ。
調整しがたい国家間の財政不均衡が生まれたときに、その不均衡を正す存在として戦争は行われるようになった。
兵器の消費、労働の消費、そして最終的に支払われる賠償金すら考慮に入れて戦争は行われる。
財政均衡を図るために。
これを茶番と言わずして何というんだ?
少なくとも俺は茶番に代わる言葉を知らない。
さらに面白くないことに、ただでさえ温い戦争はもはや温いを通り越して空気に変わりつつある。
どこの馬の骨が作ったかは知らないが、人工知能と呼ばれるものが開発され、それが試験的に機械兵に導入され始めている。
とうとう戦争は人間が行うものではなく機械が行う時代が来たらしい。
戦場のオートメーション化だ。
それを戦場と呼ぶのかは俺は知らないが。
世界は知っているのだ。
戦争の無意味さを。
戦争の茶番具合を。
だからオートメーション化して人間は楽をすると決めたのだ。
そして世界は戦争の茶番具合を知りながら、決して戦争は止めない。
経済均衡を保つ必要悪として戦争は止めない。
とんだ茶番だ。
茶番の戦争よりよっぽど
「茶番だと、思わねぇか?」
「主語が不明のため命令を了解できません」
彼女、いや彼女という言葉が果たして適切なのかは甚だ疑問だが、彼女という他無いのでそう呼ぶことにして、俺が語りかけた彼女は微動だにせず無表情にそう答えた。
まぁ、そんなもんだろう。
彼女達に話しかけるときはまるで外国人に話しかけるように文意を明確にして話さねばならない。
でないとさっきみたいな返事が返ってきて会話が繋がらない。
それも当然で、彼女達は例の人工知能を搭載した人型軍事兵器群AIRシリーズの先行量産型、AIRia-03(エアリア・サード)なのだ。
名前は大層だが人工知能の技術は未だ拙く、日常会話に事欠くレベルの思考しかできない。
もっとも、流石軍事兵器だけあって軍事用語や作戦・命令の理解は驚くほど出来るのだが、気さくに話し掛けるとこの始末だ。
これは人工知能を作る過程で、入力される情報が偏るためで、会話を理解できないというより、会話を知らないというのが正しい。
現に人工知能技術のベースになったAIRis-00(エアリス・マザー)はまるで人間のように会話ができたという話だ。
しかし彼女達には必要最低限の語彙しか与えられなかった。
そりゃそうだ。
使い捨ての戦略兵器に愛なんて教える馬鹿は居ない。
愛情は憐情に繋がり、その引き金を鈍らせる危険性がある。
兵器はあくまで兵器であって、兵器は人間であってはならない。
そう、兵器は人間であってはならないんだ。
「隊長、指示不明のまま76秒待機しています。次の指示を」
彼女はあくまでも純粋に無垢に無機質に俺に問いかける。
知らぬが故の純粋。
覚えぬが故の無垢。
思わぬが故の無機質。
果たして、それは純粋と呼べるのか?
「隊長――」
「あー。今回の任務は以上だ。戻って休止せよ」
「了解しました」
俺の下から離れていく彼女を見送りながら、俺はいつもながらの無気力に襲われる。
これで何度目だ。
このやるせない無気力を感じるのは。
これで何度目だ。
彼女達の背中を見送るのは。
そして、次は何度目になるんだ。
彼女達が無惨極まりない残骸になるのを見るのは。
所詮兵器は使い捨て。
俺の下で最終訓練を終えた彼女達はやがて戦場へと投入される。
そして戦争に消費されるのだ。
憐情は湧かない。
彼女達にはそもそも悲しいという感情が無いだろうから。
共感はただの押し付けだろう。
だが、酷い閉塞感は感じる。
酷く終わっている気分がする。
活路がない感じがする。
というかそもそも生きていないのだから活路もあったもんじゃない。
俺と同じで。
路がないんだ。
だから俺は彼女達を見ると酷く閉塞感を感じる。
しかし彼女達の閉塞感を憐れんでいるのではない。
憐れみなんてこれっぽっちもなく、ただ彼女達の閉塞が己の閉塞を連想させて、それに絶望しているだけだ。
そもそも、俺の体には痛覚がないのだから、痛みを知らないのだから、彼女達の痛みなんて解る筈もないし、そこが解らなければ根本的に憐情など湧く筈がない。
時折、ふと彼女達にキスでもしたらどうなるだろうと考える。
どうしようもなくどん詰まった俺がどうしようもなくどん詰まるだろう彼女達と口付けを交わしたところでそこには何の意味もないだろう。
俺は何も得るものがないし、彼女達は俺の行動を理解できず無反応に立っているだけだろう。
そう、そこには意味はない。
意味がないから結果もない。
だが、このどうしようもないどん詰まりに対する無意味な抵抗は無駄にはならない、そんな気がする。
いや、実際無駄だ。
とんだ勘違いだ。
ただ、とんだ勘違いにも一つだけ意味がある。
それは俺にまだ意志が有ることだ。
俺は今、死んでいるのだが、ギリギリのところで意志は保っている、つもりだ。
人間である、つもりだ。
死んではいるが、人間までやめた覚えは俺にはない。
だから酷く終わっていても俺は人間をやめない。
だから、無駄な抵抗をやめない。
だが、彼女達はどうなのだろう。
彼女達は人間なのだろうか。
それは俺には解らない。
例えば彼女達は俺がキスしたら、人間になるのだろうか。
抵抗をするのだろうか。
俺には解らない。
俺には彼女達の閉塞は真の意味で解らないから。
でも興味はある。
口付けは眠れる美女を起こすのか。
もしそうだとしたら、さぞ痛快だろうと俺は思う。
何故って
「世界が開くからな」

あとどれだけ叫べば良いんだろう 

2010年06月13日(日) 8時39分
今週はお休みでした

書くもんは決まってて
短編小説再び
哲学シリーズ(自称)第二作なんですが

困ったことに書くネタがあんまり決まっていない

ぼんやりイメージはあるんですが
結晶核が無いといいましょうか
ぼんやりアイデアが漂ってるだけで一所に収束してないのが現状でございます


なので書き上がるにはしばし時間がかかりそうです



さて
その代わりに適当な下らないお話をば



最近、私、所謂一般高校生的な生活をしています
共学の定時制学校に通いどの女の子が好きかだとか教師がどうだとか
本当に絵に描いた見たいな健全な高校生生活です

通う学校が予備校であることを除いてな!


と言っても
女の子が好きになったとかどーとかはあくまで私の知り合いの話で
私はその知り合いの話を聞いてあげて恋にやきもきしている様を端から見て爆笑しているだけですが


まぁ私には特に愛しい人は居ないので
恋に奔走することは無いでしょうが

二次元を愛しているって意味じゃないですよ


あぁ、この子綺麗だなぁとかは人並みに思いますし
下品な話、良い体つきしてんなぁ、とかいうセクハラ視線を発する場合もあります

しかし
この人の傍に居たいと思う人に出会った事がありません

理想が高いというかロマンチストなのかも知れません


でも自分の中で条件はあるんです
大抵の女性はその条件を満たさないのでときめきませんが

その条件は

条件1
一緒に居て気にならない人(容姿が見苦しくない等)
条件2
知識欲のある人
条件3
私の会話レベルについてこられる人
条件4
静寂を好む人
条件5
他人を束縛しない人

以上の条件のうち条件1を必須として条件2〜5のうち二つ以上を満たす人は私のドストライクです


ちなみに条件を満たしていても頭悪そうな言動が目立つ人は除外です

阿呆と天然を相手するのは嫌いです
イラつきますから


逆に知的な人は大歓迎

もっとも
私は自分以上に哲学・理学を語っている女性ってのはお目にかかったことがありませんが

頭の良い人って奥手だったりしてあまり口数は多くないですから
見逃してるだけなのかもですが


逆に口数が多い人は自らの低脳を曝している場合が経験的に多いですね
「え〜、わからへん。○○君教えて〜」
教えを乞う前に先ずは自分で一晩考えろという言葉を彼女達には贈呈したい

人間、じっくり考えたら大抵の事は「何だ、良く良く考えたらシンプルな話じゃないか」とか「成程、良く良く考えたらアレと同じじゃないか」と分かるもんです

そうですよ
人間頭の良さなんてのはあんまり関係無くて
物事をどれだけ腰を据えて真面目に考えられるかで頭の良さが決まるんですよ
勉強に才能なんてありゃしませんよ
才能ってのはほんの一握りの天才に使う言葉であって
そんな天才が毎年毎年何百人と居るはず無いでしょう
勉強できるかできないかは才能なんかじゃないんです
この私も恥ずかしながら頭が良い人間と言われます
でも決して頭が良いのではないのです
ただ学問が好きで、他人よりも少しばかり多くの時間を考える事に費やしているに過ぎんのです
私だって最初から何もかも分かってんじゃないんです
むしろ片っ端から分からんから考えて考えて、納得するまで考えて、初めて納得がいったとき、その知識が自分と有機的に繋がるんです
その繋がりが他人よりも少し多い、それだけのことです
才能じゃないんです
才能は真面目に考える気の無い奴が使う方便です
考える事に少しでも時間を割けば良いだけなのに
それをしない
考える事をしなければ学問が出来ないのは当たり前でしょう
考える事が学問なんだから


ただまぁ
才能で言い訳をして合理化するのが悪いとまでは言いませんが
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