新聞に望むこと
December 18 [Sun], 2011, 15:59
今年(2011年)、北海道新聞で「私の新聞評」を3回書いた。1ヶ月の新聞を読んで、印象に残った記事をできるだけ多く取り上げ、苦言を呈し、同時に、良い記事はほめてほしい、というのが新聞社の意向だったが、字数が1300字ほどに決められているスペースで、こんなにたくさんのことをできる訳がない。
新聞評の他に、10月の新聞週間の時に「新聞に望む」ことを書いてほしい、と頼まれて書いたのが、以下の文章。これは字数が650字しかないので、言いたいことをストレート書くしかない。しかも新聞に望むことがほとんどないのだから、どうしてもきつい言い方になってしまった。
「正直に言うと、私は新聞に多くを望んでいない。期待とあきらめが、入り混じっているのだ。ただ、「3・11」以後の報道、とくに原子力発電をめぐる報道を読むと、新聞報道が少しずつ変わろうとしていることが感じられ、あきらめるのはまだ早いかなと気持ちになる。
私が新聞に強く望みたいのは、権力による犯罪や不正に正面から挑んでほしいということだ。ここでいう権力とは、政治だけでなく、巨大企業や官僚組織などが一体となった複合的なもののことだ。これまでの新聞報道は、首相や有力政治家など顔の見える「権力者」の批判は熱心に行なってきた。しかし、その背後にある官僚組織のような「顔の見えない権力」による不正に対する批判は弱かったような気がする。この『顔の見えない権力』の構造にもっと挑んでほしい。
先にふれたように原子力発電についての最近の報道は、地域の巨大独占企業である電力会社と経済産業省などの官僚組織、原子炉を製造する巨大企業、学者、政治家、マス・メディアなどが一体となって、原子力発電を進めてきた構造とそこでの不正を明らかにしている。このような取材と調査をもとにした報道がもっと増えてほしい。
またウィキリークスによる外交文書の公開も、これまで政府が一手に引き受けてきた「外交」なるものが、情報公開や議会の関与などを無視した非民主的なものであることを明らかにした。ウィキリークスが示したように、権力が隠している情報を何としても明らかにし、人びとに提供するという強い決意と新たな取材方法が、これからの新聞報道に求められているのではないか。」(北海道新聞 2011年10月13日)
北海道新聞の読者が何人いるのかわからないが、北海道では、他の新聞とは比べ物にならないほど巨大な読者数だろう。その全てを満足させること記事や論説を書いたりできる訳はない。にもかかわらず、多くの読者を満足させようとすれば、全体としては現状を肯定しながら、ほんの少しだけ現状批判をするという記事になる。
3・11以前の新聞は、ものすごく現状維持的だった。原発報道は、原子力発電そのものは必要であるとし、安全性をもっと高めてほしいというものがほとんどだった。原発輸出にしても、世界的な「原子力ルネッサンス」や民主党政権の「新経済成長戦略」を前提にして、韓国などとの受注競争だけを問題にするという報道が多かった。
とにかく新聞が政府や企業に対する批判をしなくなったことへの不満が強くあった。菅直人や小沢一郎、あるいはオリンパスや大王製紙のように、何らかの「非」があった政治家個人や企業に対してはマスコミが一斉に攻撃するが、毎日の企業活動や政治、行政の中で、どんな不正が重なっているのか、そこを新聞はなかなか伝えない。伝えようという努力がわかることもあるけれど、なかなか見えない。
しかし私が新聞(ニュース・新しい情報や事件)から知りたいのは、権力というものの実体・実態、その権力が隠そうとするもの、なのである。何とか、そこに挑んで欲しい。いま北海道新聞は「脱原発」を明確にし、意欲的な記事や突っ込んだ取材に基づく記事も増えてきた。それが紙面を全体に、活性化させているような気がする。
「新聞に望むこと」として、具体的な提案もある。没原稿を公開してほしいのだ。記者が書いても、紙面に載らない記事もかなりあるだろう。その全てを公開してほしいとは言わないが、そのうちのいくつかを選んで、なぜその記事が掲載されなかったのか、代わりにどの記事を選んだのか、を読者に公開してはどうだろうか。
あるいは、記者(たち)が「ボツ原稿記事」のような本を出してみるのもいいかもしれない。新聞というものが、社会に対してどんな機能を果たそうとしているのか、それが見えてくるかもしれない。
新聞評の他に、10月の新聞週間の時に「新聞に望む」ことを書いてほしい、と頼まれて書いたのが、以下の文章。これは字数が650字しかないので、言いたいことをストレート書くしかない。しかも新聞に望むことがほとんどないのだから、どうしてもきつい言い方になってしまった。
「正直に言うと、私は新聞に多くを望んでいない。期待とあきらめが、入り混じっているのだ。ただ、「3・11」以後の報道、とくに原子力発電をめぐる報道を読むと、新聞報道が少しずつ変わろうとしていることが感じられ、あきらめるのはまだ早いかなと気持ちになる。
私が新聞に強く望みたいのは、権力による犯罪や不正に正面から挑んでほしいということだ。ここでいう権力とは、政治だけでなく、巨大企業や官僚組織などが一体となった複合的なもののことだ。これまでの新聞報道は、首相や有力政治家など顔の見える「権力者」の批判は熱心に行なってきた。しかし、その背後にある官僚組織のような「顔の見えない権力」による不正に対する批判は弱かったような気がする。この『顔の見えない権力』の構造にもっと挑んでほしい。
先にふれたように原子力発電についての最近の報道は、地域の巨大独占企業である電力会社と経済産業省などの官僚組織、原子炉を製造する巨大企業、学者、政治家、マス・メディアなどが一体となって、原子力発電を進めてきた構造とそこでの不正を明らかにしている。このような取材と調査をもとにした報道がもっと増えてほしい。
またウィキリークスによる外交文書の公開も、これまで政府が一手に引き受けてきた「外交」なるものが、情報公開や議会の関与などを無視した非民主的なものであることを明らかにした。ウィキリークスが示したように、権力が隠している情報を何としても明らかにし、人びとに提供するという強い決意と新たな取材方法が、これからの新聞報道に求められているのではないか。」(北海道新聞 2011年10月13日)
北海道新聞の読者が何人いるのかわからないが、北海道では、他の新聞とは比べ物にならないほど巨大な読者数だろう。その全てを満足させること記事や論説を書いたりできる訳はない。にもかかわらず、多くの読者を満足させようとすれば、全体としては現状を肯定しながら、ほんの少しだけ現状批判をするという記事になる。
3・11以前の新聞は、ものすごく現状維持的だった。原発報道は、原子力発電そのものは必要であるとし、安全性をもっと高めてほしいというものがほとんどだった。原発輸出にしても、世界的な「原子力ルネッサンス」や民主党政権の「新経済成長戦略」を前提にして、韓国などとの受注競争だけを問題にするという報道が多かった。
とにかく新聞が政府や企業に対する批判をしなくなったことへの不満が強くあった。菅直人や小沢一郎、あるいはオリンパスや大王製紙のように、何らかの「非」があった政治家個人や企業に対してはマスコミが一斉に攻撃するが、毎日の企業活動や政治、行政の中で、どんな不正が重なっているのか、そこを新聞はなかなか伝えない。伝えようという努力がわかることもあるけれど、なかなか見えない。
しかし私が新聞(ニュース・新しい情報や事件)から知りたいのは、権力というものの実体・実態、その権力が隠そうとするもの、なのである。何とか、そこに挑んで欲しい。いま北海道新聞は「脱原発」を明確にし、意欲的な記事や突っ込んだ取材に基づく記事も増えてきた。それが紙面を全体に、活性化させているような気がする。
「新聞に望むこと」として、具体的な提案もある。没原稿を公開してほしいのだ。記者が書いても、紙面に載らない記事もかなりあるだろう。その全てを公開してほしいとは言わないが、そのうちのいくつかを選んで、なぜその記事が掲載されなかったのか、代わりにどの記事を選んだのか、を読者に公開してはどうだろうか。
あるいは、記者(たち)が「ボツ原稿記事」のような本を出してみるのもいいかもしれない。新聞というものが、社会に対してどんな機能を果たそうとしているのか、それが見えてくるかもしれない。
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