ジャン・ブリクモン著(菊池昌美訳)『人道的帝国主義―民主国家アメリカの偽善と反戦平和運動の実像』 (新評論、 2011年、3200円プラス税)
読み終わってスッキリした気持ちになる本だ。それは、著者ジャン・ブリクモンが、「人権」や「独裁者による抑圧から住民を保護する」などを口実に戦争を正当化する「人道的介入」を、なんの迷いもなく徹底的に批判しているからだ。タイトルが示すように、「人道的介入」とは「人道的帝国主義」にほかならない、というのが筆者の立場なのである。
著者は、このような軍事行動を正当化する現代のイデオロギーは「人権・民主主義にかかわる独特の論議と、第二次世界大戦の特殊な残像との組み合わせ」であり、それに立ち向かうことによって現在と未来の戦争に徹底して反対することができる(六四ページ)と述べる。
数年前にハートとネグリの『帝国』が評判になった時には、「帝国」とは帝国主義とは別の概念であり、ましてそれを「帝国主義」という古い左翼の考えと結びつけようという試みはなかった。私などもそうなのだが、植民地主義という言葉をつかっても「帝国主義」という言葉を使うのは、どこかで避けているところがある。
著者もそのことを強く自覚しているようで、「(帝国主義という)ことばは大分すたれてしまったようだが、私には「帝国」よりもはるかにましだと思われる。少なくとも、ハート、ネグリとその弟子たちが用いているような『帝国』は、どの特定の国家の力にも基盤をもたない、あいまいな実体を指すように思われる」(六六ページ)と述べる。
この本で、著者が怒りをこめて批判するのは、何よりも「人権擁護」の名の下に戦争を進める米国とそれに同調するヨーロッパ諸国だ。だが、それだけなら、本書に長い緒言を書いているノーム・チョムスキーをはじめとして、すでに多くの著作がある。
本書が刺激的なのは、「人道」や「民主主義と人権の擁護」という名目で「南」における戦争を正当化する論理を受け入れてしまった欧米の平和運動やエコロジスト、NGO、左翼などに対しても厳しく批判しているからだ。おそらくレーニンの「帝国主義論」を意識して、筆者はNATOによるユーゴスラビア侵攻を支持したヨーロッパの緑の党を強く批判する。
著者は、自らを「人権左派」と位置づける。「世界人権宣言」などに含まれた人権の正当性を認めながら、「人権」という名の下によって他国の内政に干渉する権利や義務をもつという使われ方を告発するという立場である。この立場は、世界を根本的に変えた脱植民地化という現実を重視し、その成果である「世界人権宣言」などを実現していくべきであるという考えでもある。
しかし、西側の政府やメディア、知識人、一部のNGO,進歩的運動は、自分たちがもつ既成権力を正当化するために「人権」を使っていると著者は指摘する。
このような人権イデオロギーは、人権は国際法よりも根源的な価値であり、西欧で尊重されている人権と民主的権利を、他の地域に広げることが権利と義務だと考える。こうして、西欧の左翼を変質させ、知的左翼の多くが自分たちの使命は西欧政府の臆病と弱腰を批判し、他国(「南」)を助け、抑圧されている人びとを救うことだと考えるようになった、その結果、帝国主義戦争反対派の声が弱くなっていった、と筆者は強く批判する。
このイデオロギーが広がった理由の一つは、戦争反対派に「罪の意識」を持たせるやり方が成功したからだ。そのやり方とは、例えば、アフガニスタン戦争を正当化するためにタリバンが女性たちに行なった恐ろしい事実を強調すること、イラク戦争に反対することはサダム・フセインを「客観的に支援する」ことになると強調すること、である。
たしかに、イラク戦争に反対する運動が成功していたらフセインは権力の座に居座っていたかもしれない。だからといって、そんな責任の取りようのない仮定にとらわれて侵略戦争に反対の声をあげなくなっていいのか。
このイデオロギーに対して、反戦運動が採用したのは「・・でも・・でもなく」という支援レトリックだ。「ブッシュでもサダムでもなく」「ミロシェビッチでもNATOでもなく」など、日本の反戦運動でもよく使われたスローガンである。本誌も、特集に「テロにも戦争にも反対」というサブタイトルをつけたことがあるが、たしかに、戦争を進めようとするプロパガンダに対してはっきり「ノー」と言わない、あいまいなスローガンだ。
著者は、このレトリックの最大の問題は、それを使う人間たちが「(自分たちが「ダブルスタンダード」ではないことを証明しようとして、敵としてのサダム、ミロシュビッチ、イスラム原理主義者などを告発すべきだと考えている」ことだという。なぜなら、「戦時において、敵の犯罪を告発することは(中略)、結局、戦争歓迎へと向かわせる憎悪をかき立てる」(一八五〜六ページ)ものでしかないからだ。また、侵略者と被侵略者の違いを無視し、軍事力の違いなど、現実の条件も無視する。そのためサダムやミロシェビッチが捕らえられ処刑されても、もう一方の当事者であるブッシュや米国をどう扱うべきか、という問題も考えない。
では、米国などの帝国主義戦争に反対する論拠をどこに求めるか。著者は、その原理を、すでに存在する国際法に求める。国連憲章をはじめとする国際法は、「侵略」を認めていないのだから、その原理原則を守るしかない。この原則に代わる選択肢があるとすれば、世界の最強国=米国が好きなところに好きなように介入する可能性を認めることになる。現在の国際法や国連によって世界レベルでの民主主義の実現をめざすのは、それよりはまだましな手段である。
反戦・平和運動に求められているのが現実主義的対応である、というのも筆者が繰り返す主張である。例えばイラクの状況に対して「解決策を提案する」のではなく、「西欧社会の内部で闘うこと」であり、「南側諸国の要求に基づい」て、「平和的協力、不干渉、あるいは国家主権の尊重を通じて。国連の仲介による紛争解決を手に入れること」である(二一二〜一三ページ)。
本書をきっかけに日本の中でも平和運動やエコロジスト運動、NGO、左翼運動の内部に論争の口火を切ることができないだろうか(日本でも本書と同じような問題意識を持った著作として阿部浩己『国際法の暴力を超えて』(岩波書店、二〇一〇)が出ている)。
この一〇年ほどの間に、「人道的介入」や「平和構築」「積極的平和主義」などの名の下に、自衛隊が海外派兵され、日本政府と「連携」して「緊急人道支援」をするNGOが増えてきた。自衛隊とNGOの連携も進み始めている。自衛隊も「国際平和協力」を活動の柱とし、国連PKOに参加したり、災害時に米軍などと一緒に海外での「緊急人道支援」をするようになっている。
このような動きに対して、日本のNGOや学者(「平和学」研究者を含む)の多くは、国連による「人道的介入」やNATO軍がリビアに軍事介入する時の理由となった「保護する責任」を大枠で認めているようだ。
たしかに、多くの人が殺されている・拷問されている・飢えに苦しんでいるのを目や耳にした(映像であっても)ときに、何かできないか、何かしたいという気持ちをもつことを否定することはできない。しかし、著者が何ども強調するように、多くの植民地が解放されたことによってできあがっている現在の国際社会は「侵略戦争を認めない」という原則から成り立っている。
そして日本には、「一切の戦力(軍隊)はもたない、一切の戦争と武力行使はしない、政府の行為によって戦争や紛争の惨禍にまきこまれるようにしない」ことを定めた国家原則がある。したがって、軍隊や兵士を海外にだすことなどできるはずがない。筆者が批判するヨーロッパとの違いである。
「帝国主義」と同じように、日本の憲法前文や第九条を正面に掲げて、その実現を求めることは、マス・メディアや知識人などの間では流行らなくなった。米国が進める「平和モデル」を否定するからだろう。
著者は、ヨーロッパは平和と社会的平等の新しいモデルを提供できる、それは「自らの歴史が生んだ最良のもの、すなわち啓蒙思想、政教分離、入念に仕上げられた社会モデル」だ。この社会モデルを、戦後の世界が確立した「国際法」や「平和を守る伝統」と結びつけることが、長期的な「われわれの頭の中からアメリカを追い出さねばならない」闘いとなるだろう、という(二六七ページ)。
平和や平等、人権を原則とする社会モデルを広げるために、日本社会の歴史が生んだ最良のものとは何か。まず、そこから議論する必要があるのかもしれない。
多くの方に本書を読んでいただき、議論を始めたい。そんな気にさせてくれた一冊だ。