結果

May 08 [Fri], 2015, 22:19
「最初に言っておくと、別れた、ってこと自体に関しては、あんまり気にしていないの。どっちかといえば、またか、っていう落胆が先にあるというか」

 藍は届いたばかりのビールを飲みもせずに、ジョッキの淵に指先を這わせながら、そう前置きした。その常日頃と変わらない表情の造作を見て、柚はこの発言が本心を素直に吐露したものなのか虚勢から出てくるものなのか、或いはその二つが混ざり合ったものなのか判断しかねる。しかし、聞き返したところで素直な答えをもらえるような問題ではないとも心得ていたので、一旦、その突っかかりを保留した。

「落胆、ですか」

「そう。また、しっくり来ない相手に当たってしまったな、っていう、それだけの話。とにかく、色々、噛み合わなかったのよ、結果的に」

 調子を変えずに話す藍は、愚痴を吐きながらも、平常通りだった。柚はその雰囲気から、ふとした拍子に笑い出しさえするのではないか、という予感のようなものを抱く。この先輩の微笑む姿など、一度として見たことがないにもかかわらず、その印象は消し難く頭の中に根付いていた。後輩である彼女が奇妙な所感を抱えて頭を捻りそうになる中で、藍は話を続ける。

「社会的な条件は申し分なかった。彼は働き盛りの銀行員で収入は私よりも上だったし、デートに遅刻したこともなければ、場所選びのセンスも私に合わせてくれた。ちょっとぶっきらぼうなところもあったけど、その奥には優しさのようなものがあったわ」

「聞いている限りだと、無難にいい人そうですね」

 柚は女性にしてはそういう未来的視点に乏しいということを自覚しているため、いまいちピンとは来ないが、恋人が比較的現実的な考え方をしているのもあって、結婚相手に求める条件の梗概のようなものは頭に入っている。そういう観点で見れば、藍が口にする交際相手は、充分にそれらの条件を満たしていたといえる。数年後を考えれば不確定ではあるものの、今すぐに破綻することはない、というのは重要だろう。

「ええ、実際にその通りよ。貯金の積み立ても計画的にしているみたいで、あくまでも順調にいけばではあるけど、十五〜二十年後にはマイホームが建てられるなんて言っていた。そのせいか、財布の紐は少しだけ堅めだったけど、その分は安くて楽しめる場所や気遣いで補って、飽きさせなかった。あと、家事はなんでもできた。料理なんて、私よりも上手かったかもしれない」

「なんか、いいこと尽くめですね。それで、今浮かんだ素朴な疑問なんですけど、そもそも、彼氏さんとはどこで知り合ったんですか」

 尋ねながらも、柚は勝手な印象で、合コンという選択肢に赤の二重消し線を引いていた。たしかに人間としては、堅実そうな藍であるが、人との付き合いにどこか一線を引いているところからして、そういった社交場に出て行くという絵が、上手い具合に浮かんでこない。そういった人柄からすれば、結婚相談所による斡旋や親戚が持ちかけたお見合いあたりの線の方がありそうだが、前者に関してはわざわざ自分から足を運びそうな人柄ではなさそうだし、後者に関しても人から勧められたものはするすると躱してしまいそうで、やはりしっくりこない。だとすれば、学生時代からの交際なのかと、柚は勘ぐる。

「ええっと、仕事場の帰り道に見かけたから、お茶でもしませんかって、誘ったのが最初だったはず」

 藍から返ってきたのは斜め上から槍が降ってきたような反応だった。心情的に仰け反りそうになりながら、柚は気になったところをそのまま口に出す。

「誘ったって、先輩がですか」

「そういう風に取れるように話したつもりだったけど」

 間髪入れずに口にされた言葉に、柚は戸惑いを隠せなかった。元々、柚自身、この先輩をわかっているとは言い難かったが、それを差し引いても、藍の口にした事柄が付き合っていくなかで固められていった藍像からはかけ離れていくのを抑えられなかった。

「そもそも、初対面だったんですよね。それで見ただけで、誘うって決めたんですか」

「ええ。横顔を見た時点で、ちょっといいな、って思って、引き留めたの。半分くらいはダメ元だったんだけど、最初に話した通り、とてもいい人だったから、こんな怪しい女の話も聞いてくれたというわけ」

 流暢に事情を語っていく藍の姿を見て、柚は手元にあったスクリュードライバーの入ったグラスを持ち上げ舐めはじめる。そうしながら、この先輩が道端で男を引き留めて誘っている姿というのをなんとかして思い浮かべようとしてみる。しかし、最低限の付き合いしかしない先輩の姿を見ている柚には、なかなかその絵を作れない。

「意外です。藍先輩って、自分から男を捕まえようとするタイプなんですね」

「うーん、一概にそうとは言い切れないけど。ただ、これだ、っていう人がいたら、一応は話しかけてみることにしてるかな。そもそも、相手からその手の誘いが来たことなんて、ほとんどないし」

 自嘲するような口ぶり語られる藍の人間性の一端を、柚は感心するように受け止めながら、その気持ちは共感にまではいたらない。先輩が自分から行かなければ相手をみつけられないのとは対照的に、柚はどちらかといえば人が寄ってくるタイプだった。更にいえば、人と別れたという話を聞いている柚自身は、一度も恋人との別れを経験していないというのも、話す事柄が実感できない遠因と言えた。それに拍車をかけるのは、固めかけていた印象とは違う、先輩の女の新たな一面だった。

 とにかく、今は話を聞くと決めたのだから。柚は自分が話し相手程度にしかなれないのだな、という思いが深まっていくのを覚えながらも、役目を果たそうとする。それに頭の中の藍と現実の藍のずれが大きくなっていくにつれ、興味が増していくのも確かだった。

「とりあえず、先輩から話しかけたというのはわかりました。それで、その出会いからつい最近まで関係が続いていたというのも」

「ええ。付き合い始めから関係も比較的良好だった。喧嘩とかも、特にはなかったと思う」

 そこまで聞いたところで、柚はグラスを傾けて甘味を飲み下していったあと、もっとも、気になっていところを尋ねるべく口を開いた。

「それじゃあ、なんで、別れたんですか。あたしが今まで聞いた限りだと、理由がみつからないんですけど」

 藍の証言を信じる限りでは、両者の関係に特に不満がなかったように思える。とりわけ、柚は一連の会話から滲み出てきた雰囲気や性格から、この先輩は愚痴る際に、はっきりと不満点を上げることはあっても、それをわざわざ虚飾で彩って大きく盛りはしないだろうと判断した。加えて、恋人に対する人間観察も、的外れな発言はしていないと考えていた。現に彼氏に対する評価は経歴から性格まで優良物件である、というのを語るための言葉が大半を占めていた。ここまでの様子からすれば、これからわざわざ貶めようという意図も見受けられない。

 しかし、現に二人は別れてしまっている。それは、なぜなのか。

 この問いに対して、藍は口元を緩めた。自らを嘲るような意図こそあったものの、それは、柚が先程、想像しかけていた微笑みに酷似していた。

 こんな顔を浮かべられるのか、という想いが柚の中に満ちていく。藍は中身を飲むでもなく、ただただジョッキの淵をちろちろと舐めていた。しばらくその動作を続けたあと、先輩の女は静かに顔を上げて、寂しげに目を瞬かせた。

「合わなかった、っていうのが全てかな」

 口にされたのは、愚痴の初めの方にでてきた、しっくりこなかった、という台詞を強めるものだった。しかし、事情を細かいところまで把握しきれていない柚には、いったい、なにが合わなかったのか、いまだに判断しかねている。

「合わなかった、って何がですか」

 そのまま思ったことを言ってはみたものの、これだけではきっとわからないだろう、という予感じみたものが柚の中に芽生えていた。

「こういう言い方をするとあれなのだけど、最初に思い浮かべた彼と、付き合ってみた彼が違ったからかな。そんなの、最初に見ただけで全部わかるはずないっていうのはわかっているのにね」

 藍の返答の最後の方は歯切れが悪かった。弱い灯りの下には、ぼんやりとした笑顔だけが浮かんでいるように思えて、柚は再び、これ以上は追及しない方がいいのではないのか、という想念が浮かび上がってくるのを感じる。頭の中には、同じような憂い顔をする、自らの恋人の姿が映りこむ。何年も付き合っているゆえに、距離感に関しては、それなりに適正なものを保っているだろうと自負している。しかし、精巧な硝子の小物のような彫を恋人の表情の中に発見した際に、時折恋人に触れるか触れないかという観点で戸惑ってしまうことがあった。柚自身、好き好んでそう振舞っているつもりはないものの、自然と顔色と空気に従って話す術ができあがっている。そして、そうなる度に絶妙な距離感をみつけようとしてみつけられない状況を歯痒く思い始めてるのだ。

 結局、柚の選択の背中を押したのは、気を遣うな、という藍自身の言葉だった。そんなの先輩相手なのだから無理に決まっている。そう考えながらも、できる限り、先輩の提言に従うという口実を武器にする。

「いくつか確認させてください。別れを持ちかけたのは、先輩ですか、彼氏さんですか」

「私の方。かなり、勝手に別れさせてもらった。だから、振った方がいつまでもうじうじとしているのは、情けないと思うんだけど」

「先輩の方に、寄りを戻す気はありますか」

「ない、かな。うじうじしているっていうのも、どちらかといえば、悪いことをしたな、っていう一方的な罪悪感から来る気持ちだから、彼に対して未練があるっていう話じゃない。あちらがどう思っているか知らないけど」

 そこまで聞いてから柚は手元のグラスを持ち上げる。他人事であると割り切っても酷い話であると感じた。もちろん、柚の耳にしてない範囲で、簡略化された二者間のドラマなどがいくつもあったのだろう。現時点では、付き合う際に見てきた仕種の統計と話し振りから、藍は嘘を吐いていないという前提で話を進めてこそいるものの、この先輩の語りという判断材料しかない以上、後輩である彼女の主観も多分に偏見に満ち溢れたものになっているに違いない。それらを勘案して、この件に関しては藍の自業自得であるという結論が出かけている。しかし、それでも柚はこの先輩を責められはしなかった。

 藍の表情のところどころから滲みだすやりきれなさが、口から語られる物以上のなにかを醸しだしていた。そして、それがおそるおそるという気持ちではあったものの、柚の中の先輩の女への興味を刺激した。

「じゃあ、これがもっとも重要なんですけど。先輩は、恋人に対してなにを求めているんですか」

 口の外にそれらの言の葉が出てきた瞬間、柚の中に、やってしまった、という思いや、いい顔をされないかもしれない、という考えが浮かんだ。

 藍はジョッキ内の黒ビールに目線を落としながら、少しの間、なにも答えなかった。表情は寂しそうに緩んだままで、大きな変化はない。いったい、どのように思われているのか。今日、何度も頭の中に浮かんだ問いかけの答えを出すこともできずに、柚は観察し続けることしかできない。

 やがて、藍はその細長い首を捻ってみせた。

「考えてみたけど、具体的な条件っていうのは、あんまり出てこないかもしれない。ただ、ピンと来た相手と目が合った瞬間に向かっていったっていう以外の共通点は見つからないかな」

 尚も先輩の女の答えはぼやけたままだった。かといって、柚には、藍がわざと持って回った言い方をしているという風には感じられなかった。どちらかといえば、言おうとしているのに上手くまとまってない、といった方が的確であると思える。しかし、その結果として事の本質から益々離れていってしまっているようだった。

「先輩って、もしかして、割と惚れっぽいんですか」

「どうかな。私自身としてはけっこう選り好みが激しいと思っているんだけど。ただ、こういう風に付き合った回数だけで言えば多いのかな。長続きはしないけど」

 たいしたことでもない、という風に告げたあと、藍は黒ビールを一口含む。表情が軟らかいのを除けば、普段と大して変わらない。藍が常に持ち合わせている、陰りのようなものはいまだにつき纏っている。柚個人の感性としては、なにも知らない状態ならば、お近付きになりたくない相手だった。

 本人の口から出たことであっても、藍が男に言い寄るという構図を思い浮かべられない。しかし、乏しい想像力とは対照的に、この先輩が嘘を吐いていないという確信は揺らがない。二つの印象が違う色の絵具を混ぜ始めた時のグロテスクな色合いを連想させるのとともに、益々、柚の中にある先輩像は謎めいていく。

「なにか、ないんですか。ぴんと来た、という以外の共通点は」

「うん。私も今、考えてみてるんだけど、具体的な像は思い浮かばないかな。中肉中背も痩せ形も肥満体の相手もいたし、趣味が合う人もいれば合わない人もいたし、優しい人もいれば厳しい人もいた。生活能力が少しもない紐のような人もいれば、逆になんでもテキパキできる人もいた。まあ、みんな、例外なく別れているから、私のピンと来た、なんて台詞は少しもあてにならないのかもしれないけど。だから、敢えて言うなら」

 そこで藍は一息吐くと、黒ビールの泡部分だけを一舐めしてから、ジョッキを置く。

「たぶん、私は飽きっぽいんじゃないかな」

 柚はそれを聞いて、何度も繰り返される藍の主張を聞いて、詳しいこと知るのは難しいのだと、ようやく自らに言い聞かせる。そもそも、人の心の奥までわからないというのは、何年も付き合っている恋人のことがいまだに全てわかっていない、というところからしても、明らかだった。しかし、それでも柚は野次馬なりのお節介で、お世話になっているこの先輩の役に少しでも立てればと考えていた。

「なんか、手がかりとかないんですか。理想の恋人の、残像とかでもいいですから」

「うぅん。そう言われてもね。ずっと説明しているけど、ある日、突然、これだって思うのが全てだから。どういう相手、っていうのは、あんまりないの。それで結局、日にちに違いはあれど、同じようにこれは違うって気が付くの。付き合ってくれた人には悪いんだけど、例外なく別れている」

 藍はそこで顔を伏せる。そうしながら、半分より少し下くらいまで残ったギネスのジョッキの淵を中指で弾く。コップの中の海が波打つ。その間、天井付近で回る扇風機型の空調の音が厭というほど耳に入ってくるのを聞き、柚は伏せられた先輩の横顔を強い視線で見つめる。

 元からこの先輩は、愚痴を口にするかもしれない、とは言っていたものの、それをどうにかして欲しい、という要求をしていたわけではなかった。あくまでも、恥を晒してしまうかもしれないという可能性のために、それなりに親しい後輩である柚の存在を求めたに過ぎない。ならば、こうして口を閉ざしてしまった以上、柚の役目はいったん終わったとも言えるし、いつ始まってもおかしくない。少なくとも、伏せられた横顔だけで判断するに、依然として小さな寂しさが滲み出てこそいたものの、表情自体は優しい雰囲気を保っている。

 それなら、あたしはもうちょっと、欲を出さずにぐだぐだと話でもしていればいい。柚はそう考え始めていた。

「こうして聞いてると、先輩って随分と気紛れな人なんですね。あたしは惚れた腫れたの経験が少ないから、あんまり踏み入ったことは言えないんですけど、理想がけっこう高かったりするんですか」

「こう言うと、また誤解を招きそうなんだけど、一般的な理想が高い人達みたいな玉の輿にも似た好条件を求めているわけじゃないのよ。ただ、基準が、合う合わないの二択だけしかなくて、たまたま、長々と合う人が現れないっていうだけで」

 グラスを軽く掴みながら、あくまでも茶化すような口ぶりで告げる柚に、藍は顔を伏せたまま静かに答える。応える声に力がなく、僅かに窺える横顔からは、内心は読めない。それを少しだけ歯痒く思いつつも、口を動かしていく。

「それはそれで、狭き門って意味ではさほど違いがないような。まあ、振られる相手の身になってみたら、たまらないといえばたまらないですけどね」

「そうね。でも、この人は違う、っていうのが、わかってから、ずるずると付き合い続けるのは付き合い続けるので不誠実だと思うのよ。もちろん、結婚してしまったりしたら、それは社会契約上、落ち度がない限り我慢する必要があるかもしれない。何の不満もない人間生活なんてどこにもないんだから。けれど、婚前交渉の時点で、一緒に行けない、と思ったのなら、それはそれでしっかりと告げるべきだと思うのよ。まあ、柚の言うように、振られる側はたまったものではないでしょうし、あくまでも私側の事情でしかないんだけど」

 柚の見立て通り、藍の声は次第に小さくなっているようだった。それでいて、芯はしっかり通っているので、アルコールが回っていたり眠気ゆえに顔を伏せているというわけではなさそうだった。

 やはり、これ以上、この話題を追及してはいけないのかもしれない。柚はその思いを強くするのとともに、グラスを持ち上げてスクリュードライバーを飲み干していく。いままでも何杯かカクテルの中身を変えてお代わりをしていたが、半分以上残っていたものを一気に喉へと流しこんだせいもあって、ゆっくりとではあるが、身体中温度が上がっていくのを感じる。

 ここからは適度に砕けた話題でも振っていこう。それで、先輩が愚痴りたくなったら、惜しみなく聞こう。

 柚は緩慢になり始めた頭で大雑把に考えをまとめると、横目で藍が眠っていないのを確認してから、話しかけようとする。

「お客様。少し、よろしいでしょうか」

 それを遮るようにして、男の低い声が店内に響き渡る。発生源の方を向くと、バーテンダーがにこやかな表情をしながら、二人を見ていた。

「ええっと、なんですか」

 柚が尋ねるのに反応して、バーテンダーは先程まで自身がグラスを拭いていた方に平手を向けた。律儀に視線をそちらにやれば、皿やグラス、ボトルなど並べられている棚が目に見える。なにかわからずに、今一度何を差しているのかを見てみれば男の差している場所は、厨房側ではなく、客側の方に傾いている風だった。そして、あらためて手の差している方向を忠実になぞってみれば、大きなピアノが一台置かれているのが見えた。

「今さっき、時計が午後九時五十分を差しました。この店では、十時から、私が何曲か、手遊びのピアノを弾かせていただいているのですが。今からしばらくの間、弾かせていただいてもよろしいですか」

 低くがらがらとした声音とは対照的な柔らかい物腰からは、それでいて男の子のような冒険心と男性的な自信のようなものが感じられた。柚本人としては取り立てて異存はなかったものの、自分一人の意見で決めてはいけないと考え、窺おうと真横で顔を伏せている先輩に伺いを立てようとした。

 そこで柚は見慣れないものを発見する。

 藍はいつの間にか背筋をしっかりと伸ばしていた。顔もしっかりと上げられている。目は大きく見開かれ、柚の真横を通り抜けていっていた。

「はい。是非とも、よろしくお願いします」

 藍は何の頓着もなしに、はっきりとそう告げる。同時に、柚の横を通り抜ける視線にも尋常ではない力が込められているのが窺えた。

「ははは、そんな風に言っていただけると、とても嬉しいですね。私の拙い演奏で応えられるかはわかりませんが、精一杯、頑張らせていただきたいと思います」

 男の返答とともに、藍の口元が自然に緩んでいく。彼女の目の中にあった憂いと寂しさも薄らぎ始めており、その反面、戸惑いのようなものがあった。

「私の顔になにか付いていますか」

「いいえ、なんでもありません」

 中年の男と二十絡みの女の他愛ない台詞が通り過ぎていく。重低音とやや軽めな低い音の二つを両方の耳にしながら、柚はどこか浮ついた気持ちで目の前の空っぽなグラスを眺めた。その間も、バーテンダーからピアノを弾きはじめる前にオーダーをお願いしますという注意事項と、どこか浮ついた調子で答える藍の交し合う言葉の数々が耳に入ってくる。二者間で奏でられる音楽のようなものを聞きながら、しばらく黙っていたが、徐に口を開いた。

「すいません。思い切り強いウイスキー、お願いできますか」
P R
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