GUIDANCE FOR LOVERS 

2008年01月29日(火) 12時35分

「ダンスミュージック=クラブミュージック=なんか軽そう」
スタンダードなロックとか、小難しい音楽を好む人の頭にはこんな構図が作られがちである。
斯く言う自分もその一人であったりした。

しかし、ただの不良とパンクスの違いが己の抱える虚無と刹那を自覚しているか否かであるように、クラブにたむろす騒ぎたいだけの輩と、良質なダンスミュージックを奏でるこのバンドにも、同じような差異を感じざるをえない。

このアルバムに収められている曲は総じてリズミカルで、体が自然に動きだすようなダンサブルなものが多い。
しかし、その根底に、誰もが抱える悩み、葛藤、感傷、虚無がしっかりと存在していることを否が応にも感じてしまう。

己の虚無を知りつつ、それでも踊る。
その自覚が高尚な意識なのだとは決して言い切らないが、その自覚ゆえに生まれる覚悟、これは紛れもなくリアルだと思うし、このバンドの名前が指す通り、聴く者の胸を必ず射抜くだろう。

チェリー 

2007年10月25日(木) 12時29分

僕が青春時代を過ごした1990年代中頃は、とにかくCDがバカ売れしていた。
一種のインフレにも似た音楽業界的状況の中で、今考えれば、名ばかりで実の伴っていないヒット曲が生まれたことも否定はできないが、一方で、名実ともに確かなアンセムが生まれていたこともまた事実である。
『チェリー』が後者なのはもはや言うまでもないことであろう。

『チェリー』は失恋の曲だ。
失恋をした少年が、終わってしまった淡い甘い恋の思い出を胸に、前へ進もうとする曲だ。
彼は「君を忘れない」「二度と戻れない くすぐり合って転げた日」と、かつての恋人への思いを巡らしつつ「想像した以上に騒がしい未来」へと向かうため、思い出に溢れた「この場所」を離れ「曲がりくねった道を行く」のである。

そして、恋愛経験のある人間ならば誰もが分かる“好きな人がいるだけで自分が何でもできるように感じてしまう気持ち”を「愛してるの響きだけで 強くなれる気がしたよ」「ズルしても真面目にも生きてゆける気がしたよ」と言い表わす。
「気がするよ」ではなく「気がしたよ」であることが「二度と戻れない」という事実をさらに強調し、また哀愁を誘うのだが、かつては確かに存在した、そんな「ささやかな喜びを つぶれるほど抱きしめ」た日々の思い出を胸に、いつか、また「君とめぐり会」えたらいいなぁ、というほのかな希望を抱きながら、彼は進んでいくのだ。

こう書くとただの楽観的な歌に聞こえるかもしれないが「どんなに歩いても たどりつけない 心の雪でぬれた頬」と、綺麗事では済まされない、心身を凍てつかせるような悲しみや不安をもしっかりと歌っている。
しかし、この曲はそんな「心の雪」を「春の風に舞う花びらに変え」るために存在するのである。

どんなに冷たい雪が降りしきる厳しい冬であろうと、いつかはきっと春が訪れる。
春になれば、木は花を咲かせ、風にその花びらが待った後、その木は実をならすのだろう。
だからこの曲のタイトルは『チェリー』(=桜の木の実)と名付けられたのかもしれない。

そこには初恋にも似た甘美さと、その終わりに伴うしみじみとした切なさと、まだ見ぬ未来へと向けたほのかな希望が奇跡的に共存しており、ポップかつ絶妙なメロディに乗せられたそれらの歌詞が、聴く者の胸を撫でる。
こう考えてみると、この曲が今も多くの人間に愛されていることも、僕には必然的なことに思えてしまうのだ。


※「」内は歌詞の引用

友情パワー 

2007年05月21日(月) 17時31分
リーンーグーにー

私的雑文 

2007年05月02日(水) 20時44分
五月独特の春と夏の雰囲気が入り交じった夜風にあたっていると、ぼんやりと記憶の断片が甦り、心の中でフラッシュバック再生される事がある。


あれは高一か高二の文化祭の時だった。
文化祭と言っても僕の所属していたラグビー部の本大会である花園予選は秋に開催されるのが定式なので、文化祭に関わる事は三年間でほとんどなかった。
しかし、後夜祭ともなると、グラウンドで行う催しも多々あり、それらがキャッキャ、キャッキャと行われている真横で楕円のボールを持ち泥まみれになっている僕らには、なかなか孤高の雰囲気が漂っていたりしたものだった(勝手に自分達で感じていただけなのかもしれないが)

練習が一段落し、体育館の前にある水道で泥を落としていると、体育館の中からアコースティックギターの音が聞こえてきた。
後夜祭にはバンド演奏の時間もあり、それに伴う練習や、マイクやスピーカーのチェックがそこで行われているようだった。
バンドのボーカルらしき男子があれこれ動き回って細かい指示を出した後、時間が余ったのか、ギターで弾き語りの真似事ような事をしていた。
それは、それなりに上手く、確かミスチルだったように記憶しているが「あー、いいなー、俺もラグビーやってなかったらバンドやりたかったなー」と思わせるには十分な光景であった。

そして、そのバンドの演奏が始まった。
しかし、体育館には観客が10人程度しかおらず、それらの学生たちも、後ろのほうで所在無げに立ったり座ったりしながら、ぼんやりと演奏を眺めているだけだった。
「もっと前の方においでよー」というボーカルの声が、体育館に虚しく響いた。
それを見て僕は「ああ、バンドやって急に弾けようとして技術ばっかり先行しても、やっぱ人柄とか普段の学生生活が充実してないと、空回っちゃうんだよな、こうやってさ」と思い、自分の事でもないのに、非常に遣る瀬ない気分になった。

もう七年も前の話になる。

オチはない。

メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬 

2007年04月22日(日) 19時46分

(ネタバレ要素が多々有るため、映画本編を未見の方は読まない事をお薦めします)


僕は「正義」或いは「正しい行い」という概念に、昔から縛られているフシがある。
ここで僕なんかの行いを例に出さなくても、かの夏目漱石の著作『坊っちゃん』なんかを読めば分かる事であろう。
つまり、自分が正しいと思ってした行いなんてものは、たとえそれが他人のためを思って行ったものだとしても、往々にして空回るものなのである。

トミー・リー・ジョーンズ演じるこの映画の主人公ピートもそんな正義感に燃える人間の一人である。
彼は殺された友人メルキアデスとの生前の約束を果たすため、メルキアデスの遺体と彼を殺した犯人を連れ、メルキアデスの故郷へと長く危険な旅に出る。
ただ、結果から言ってしまうと、この旅は報われず、結局のところ、徒労に終わってしまう。
しかし、彼は何も言わずに友人との約束を果たし、犯人を解放し、黙ってそこを立ち去る。

おそらく、この映画の主題は「正義」や「正しい行いを貫く」といったものではないのだろう。
それらの概念とは真逆にある概念だと言ってもいい。
つまり「許せ」という事なのではないか。

人は生きている限り必ずミスや間違いをおかしたり、嘘をついたりしてしまうものだ。
それを許さずに、それぞれが徹底的に自己の行いを貫いたところで、未来は無いだろう。
ピートはメルキアデスを殺した犯人も、そして、もしかすると自分との友情を裏切っていたのかもしれないメルキアデスをも許し、自分の感情を押し殺しながら、約束の地ヒメネスを去る。
その姿は悲哀に満ちており、しかし、やたらとハードボイルドであった。

ザ・ハンド 

2007年04月21日(土) 18時39分

ゴゴゴゴゴゴゴ

ある子供 

2007年04月17日(火) 2時27分

僕は今年で25歳になるが「自分はいつ大人になるんだろう」といまだに思う事がある。
実際、価値観が多様化した現代において「大人」という概念と「子供」という概念における線引が非常に難しくなっているのはもはや周知であろうし、それらは単なる年齢的な尺度だけでなく、精神的、経済的、身体的、性的、あらゆる次元において複雑かつ難解な問題を生み出している。

さて、この映画の主人公は若い一組の男女である。
物語は彼らに子供が生まれたところから始まる。
ここで見る側は「あ、この映画のタイトルはこの赤ん坊の事を言っているんだ」と一瞬思うかもしれないが、これはおそらく違う。

この映画の主人公はあくまでこの若い一組の夫婦である。
彼らは貧しく、夫となった青年は盗みやギャングまがいの事をして生計を立て、なんとか生活している。

子供が産まれれば人は必然的に親にならなければならない。
しかし、冒頭で書いたように、大人と子供の線引が非常に困難な現代において、子供の誕生が即ち親の誕生とは必ずしもならない現実がある。
この父親となった青年も、子供が産まれた後でも、それ以前と変わらない生活を送り続け、妻となった少女からも三行半を突き付けられ、浮遊し続ける。
その姿は「子供」以外の何者でもない。
そう、この映画のタイトルはまさしくそんな彼らの姿を形容して付けられたものなのだろう。

しかし、ラストではそんな浮き沈みの日々に僅かではあるが、光明が差す。
それは決して幸福なものではないのかもしれないが、しかし、人は自分自身に対して責任を負った上で、認め合い、許し合うことを通じ、成長していくのだろう。
彼らの未来に「大人」や「親」といった概念で括られる未来が待っているのか、それともそれらとは全く違う未来が待っているのかは僕には分からない。
ただ、彼らの間に僅かに垣間見えた光を信じたい、そんな気分にさせる映画であった。

松ヶ根乱射事件 

2007年03月10日(土) 17時18分

のんびりしている。
しかし確実にどこかが狂っている。
そんな、ありそうでなさそうで、でも実際にあったとされる日常を描いた映画である。
有りがちな日常をただ切り取っただけなのに、監督はそれをアート気取りで公開し、観客も分かったんだか分からないんだかよく分からないオシャレ気取りの顔をして見るようなつまらん映画が多い中で、この映画はそれらのカウンターになりうる存在であると考える。

まず「のんびりしている」といっても、決して間延びしているわけではない。
えてして日常というものは当人にとってはスピーディーに感じられても、俯瞰して見ると結構のんびりしているものなのだと思う。
それらを独特のテンポで描き、のんびりしているのに飽きさせず、観客を惹き付けていく演出には感服した。

で、この映画のどこが「狂っている」のかというと、これまた明確には指摘できない。
狂っているといえば全部が狂っているような気もするし、逆に全部がまともな気もするのだ。
舞台は日本のどこにでもありそうな片田舎であるし、一人一人の登場人物にどこかしら少しずつ欠けた部分はあるが、それは自分や周りの人間たちもそうであるし、特別におかしい人間が出てくるわけではない。
むしろ魅力的な登場人物に溢れており、そこには社会の縮図すら見え隠れする。

そう、要はこの映画は「社会の縮図」なのである。
僕達の「日常」なのである。
その当たり前で、のんびりとして、でも狂っている日常から僕たちは抜け出せないでいて、でもそれはそれなりに幸せだったりもして、もう良い意味でも悪い意味でも「どうしようもない」のである。
だから、ラスト間際の光太郎の暴走っぷりは見ていて可笑しくて、愛しくて、たまらなかった。

それでも、俺たちネズミは生き続けるしかないんだよな、光太郎。

朝日、読売記事を盗用し謝罪 

2007年02月02日(金) 13時30分
 朝日新聞の1月30日夕刊に掲載された記事が、読売新聞の同月27日のホームページなどに掲載された記事と酷似していたことが、1日わかった。
 朝日新聞社は「記事の大半が読売新聞の記事と重複していた」として盗用の事実を認め、同日、読売新聞社に謝罪した。2日の朝日新聞朝刊に、経過説明と読者に対するおわびの記事を掲載する。
 朝日新聞社は1日、三浦昭彦・上席役員待遇編集担当らが記者会見。「ジャーナリストとして許されない行為で、関係者を厳正に処分する。読者の信頼を裏切ったことにおわび申し上げる」とした。
 盗用されたのは、「YOMIURI ONLINE」と富山県版に27日に掲載された、県特産の「かんもち」作りを写真で紹介した記事。「黄、赤、緑など色とりどりの」という書き出しに対し、30日の朝日新聞夕刊社会面に掲載の記事は、「赤、黄、緑」と順番を入れ替え、それ以降も表現を一部簡略化しただけで、ほぼ全文が一致していた。(読売新聞 - 02月02日 00:01)


「私たちは言葉の力を信じている」ってCMで言ってたのって、どこの新聞社だったっけ?(皮肉たっぷり)

ダーウィンの悪夢 

2007年01月25日(木) 23時35分

解説: 数百種の固有種のすみかで、“ダーウィンの箱庭”と呼ばれていたヴィクトリア湖に放たれた外来魚が巻き起こす悪夢を追ったドキュメンタリー。カメラはナイルパーチ景気に湧く魚輸出業者と、新しい経済が生み出した貧困の光と影を映し出す。そして、魚を運ぶためにアフリカにやってくる飛行機が積んでいるものの正体が、徐々に明らかになっていく。世界規模で行われている搾取の実態が描き出されている衝撃作だ。(シネマトゥデイ)

この映画はアフリカ、タンザニアのビクトリア湖周辺における貧困の抜け出せないスパイラルを描いたものである。
生態系豊かなビクトリア湖に放されたバケツ一杯の外来魚ナイルパーチが、ビクトリア湖の生態系を崩しつつ大繁殖→ナイルパーチは外国に高く売れる為駆除するわけには行かない→さらに壊れる生態系、といった図式が徐々に映し出されていく。
しかし問題はそんな単純なものではなく、監督は更なる様々な弊害を暴いていく。
ナイルパーチを外国へ輸出する→輸出し外貨を得るのは一部の人間のみ→飢餓・貧困→生活の為に売春をする女たち→エイズの蔓延→親を早くに亡くしたストリートチルドレンが町に溢れる→現実逃避の為にドラッグに逃避する子供たち→成長しても働く場所は漁業関連か安い賃金の仕事のみ→ナイルパーチの輸出と貧困は止まらない。
また、ナイルパーチを輸出する為に欧米とタンザニアを行き来する飛行機の積荷の一部に武器や弾薬が積まれていた事実も分かってきて、その経済的なスパイラルが一筋縄ではいかない深刻なものに陥ってしまっている事が判明していき、外来種ナイルパーチによって滅茶苦茶にされてしまったビクトリア湖同様、欧米や日本といった先進国の食い物にされていくアフリカの姿の断片を垣間見る事が出来る。

さて、ここで私見を述べさせてもらうとすれば、ドキュメンタリー映画という媒体は中々タチが悪い。
何故ならば「ドキュメンタリー」と名が付く媒体は全て現実と地続きという前提で作られており、しかも、これに「映画」という要素が加わると、テレビ等と違って、観客は無意識ではなく意識的にそれらを見るわけであって、下手をすると民衆を扇動するプロパガンダになりやすいのだ。
さらに見る側にリテラシーがないと、これはより厄介な代物となる。

これを見た一部の欧米人がとった行動が又笑わせてくれる。
「ナイルパーチの不買運動」である。
「あー、脳みそ腐ってんなぁ、こいつら」と思わざるを得ない行動だ。
今更ナイルパーチの不買運動を行ったところで、タンザニアの貧困は止まらないし、それどころか職にあぶれた人々が今以上に増え、貧困はさらに増すだけだ。
それに、ビクトリア湖の生態系を破戒したナイルパーチ同様、アフリカの経済体系を破戒した欧米人が、いわば自分たちのメタファーであるナイルパーチの存在を自分たちで否定しようとは、なんとも皮肉で笑えてしまう話ではないか。

まさか日本人はそんな風に考えないだろう、と思って映画館を出たら、たまたまエレベーターで一緒になった老夫婦がこんな会話をしていた。
「すごかったねぇ」「あんなの見たら、もうあの魚食べられないよ」
・・・・・・・。
ナイルパーチが問題になっている→ナイルパーチは食べない→問題解決
どうやったらこの図式がその人の頭の中で形成されるのか、僕には全く分からないし、問題はそんなに単純なものではないはずなのだ。
この作品に描かれたものが、事実であるにしろ、監督の悪意にまみれた虚構であるにしろ、観客のリテラシーが問われる作品であることは間違いない。
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