人間の寿命

March 14 [Sat], 2009, 19:42

 

@人間の寿命  悟りクリック

人生五十年とは、よく聞く言葉ですが、
今では平均寿命は男女とも八十数年、
三十年も伸びている現在です。
もともと五十年とは、神様からいただいた寿命なのです。

大昔のことですが、神様の前に一匹の
ロバがきました、神は「おまえに二十年の
寿命を授けましょう」と言われましたが、
ロバは「とんでもありません、私は八年いただければ結構です。
このあと十二年も人間にこき使われたくありません、
お願いですから八年の寿命にしてください」と泣いて頼みました。 
神はロバの言う通りに八年を授けました。

次に猿がきました。神は同じように
「おまえにも二十年の寿命を授けましょう」
猿もまた「いえいえ、人間にいいように使われ
芸をさせられて二十年はとても生きられません、
十年にして下さい」 神は猿の言う通りにしました。

次に犬がきました、神は同じように二十年授けるように
言いましたが、犬は、やはり「人間のペットや留守番,
猟犬になって気を使いながら二十年は長すぎます、
どうぞ十二年にして下さい」 神は犬の言う通りにしました。

次に人間が来ました、同じように二十年の寿命を授けるように
言いましたが、人間は、血相を変えて「二十年とは、
余りにも無情ではありませんか、
私には百年下さるようお願いします」
神は大層お怒りになって、「愚か者めが!そんなに長生きして、
どうするのじゃ、長生きすると知恵を悪いことに使うことになる 
欲張り者! だめじゃ!」
人間は悲しみのあまり、おいおいと、七日間も泣きつづけました。
「泣けば何とかなる、と考えること自体、悪知恵なのじゃ」
神はしばらくの間、考えられてから
「おう、そうじゃ、それではロバの残した十二年、猿の残した
十年、犬の残した八年を加えて五十年をお前に授けよう、
それでどうじゃ!」
人間は百年には大分開きはあるものの渋々同意したのです。
このようにして人間の寿命は五十年と決められたのです。
人間が一生懸命に働き、子育てを終えるのが五十年、これで
十分であることを神はご存知だったのです。
ですから、それ以上長生きをするということは良くはない、
とお考えだったのです。

現在寿命は三十年近くも伸びていて、
このあと十五、六年は働かなくてはならない
のが現実だと思います。
懸命に働き子育てを終えるのが
六十二〜五歳頃ということになります。
せめて、残りの十五、六年 有意義で神様に
しかられることなく、悔いのない生活を送りたいものです。 
「少欲知足」のこころを理解して実践していきたいものです
  
般若心経クリック

一休さんのお話

March 15 [Sun], 2009, 14:42


A  一休さんのお話をしましょう
京都のある禅寺で、アメリカの青年が修行しまして、
ようやく名前を付けてもらうことになりました。
寺の住職が青年に尊敬している人を聞くと
「一休さんです」と答えたので
「一休じゃよろしくない、二休にしよう、お前は今日から二休だ」
青年は「サンキュー」(三休)と言って喜びました。
そのくらい一休さんは今でも有名なのですね。

ある村の庄屋で法要が行われることになりました。 
茶目っ気のある一休さんは、ぼろぼろの法衣を着て
庄屋の玄関に行きますと「お前には用はない、帰れ 帰れ!」
と追い返されました。
そこで一休さんは豪華な法衣をまとって再び行きますと
「お待ちしていました、どうぞ お入りください」
あきれた一休さんは「この法衣に法要をやってもらえ!」
といって法衣を玄関において寺に帰って来ました。

一休禅師のなかでは有名な逸話の一つですが
「人は見かけによらない」とか「見かけに騙されるな」
「見かけだけで人を判断するな」という教訓だと思います。
 ですが、私たちは、ずいぶん見かけだけで判断したり、
人に騙されているのではないでしょうか。
ですから私たちは「騙してはいけないという立場から時と
場所をわきまえて行動するように心がけるべきでしょう。
結婚式には結婚式の、葬式には葬式の、
パーティーにはパーティーの、それぞれ、それなりの衣装が
あるではありませんか。

それよりも私はロシアに「騙すな」日本の政府に
「騙されるな」と大きな声で言いたいのです。

あるとき殿様が一休さんに重ね餅を食べさせて、
上の餅と下の餅のどちらがうまかったか聞きました。
困った一休さんは、しばらく考えていましたが、
かわいい手で、かしわ手を打って、殿様にどちらの
手から良い音が出たか、たずねました。

*私たちは普段、また夫婦が喧嘩をした時、
子供達に「お父さんとお母さん、どっちが好き?」とか
「もし、お父さんとお母さんが離婚したら、どっちについてくる?」
などと言ってはいませんか。
子供たちは困ってしまいますよね、
何しろ夫婦で一つと思っているのですから。
最近いじめや人をあやめたりする事件が多いですが
統計的に診ても夫婦仲の悪い家庭の子供が多いそうです。
夫婦仲良く、家庭は円満、父親は強く、
母親はやさしくありたいものです。
他人のことなんかそっちのけ、自分さえ良ければ
我先に我先にと皆、夢中で突っ走る、
ものは、いっぱいありながら殺伐として心が満たされない、
こころの枯れきった世の中です。
こういうときだからこそ、
『色即是空 空即是色』のこころを養いたいものです。*

ほどほどが一番

March 16 [Mon], 2009, 14:56

B ほどほどが一番
 一匹の猿が馬のかいば桶から豆を失敬しました。
口一杯にほおばり両手にあふれんばかりにつかんで、
木の上に逃げゆっくりと食べていたのですがその途中で
一粒落としてしまったのです。
猿は両手に握っていた豆を放り投げあわてて落ちた一粒を
探しに行ったのです。けれども豆は見つかりません。  
馬鹿みたいと思うでしょうが、私たちはこれに似たことを
結構やっているのです。

中学生の息子がテストで九十七点取ってきました。
親は子供に『よくやったね、よかったね』と褒める前に、
『惜しかったね、あと三点なのに、もっと頑張って勉強しなさい』
と言っていませんか。
子供は九十七点も取ったのだから、親はきっと喜んで褒めて
くれるに違いないと思っていた気持ちも「もっと勉強しなさい」
の一言で萎えてしまいます。
上司と部下の関係でも同じです。ほんのちょっとのミスを
取り上げて文句を言う上司がいます。
『完全を求めるな』と言いたいですね。 
何事に関しても完全を求めてはいけないんです、
それを求めるとかえって大事なものを失うことになる
のではないでしょうか。

京都の浄土宗の総本山で知恩院というお寺がありますが、
このお寺の一番大きな大殿の屋根の上には二枚の瓦が
葺き残されています。
なぜ残したかと言えば、完成すればあとは衰退するばかり
なのでまだ未完成であるとのことで、
わざと葺き残してあるのだそうです。

私たちはこの知恩院を学ぶべきではないでしょうか。
 完全を求めていると、のびのび出来ません。
小中学生の自殺がやたら多いですが、
いじめの問題もありますが、「要求水準」が優秀な子供ほど
高くなっているのも一因ではないでしょうか。
たった一粒………どうでもいいじゃないですか。
その一粒のために百粒を犠牲にするのは、猿知恵です。
九十七点も取っていながら三点のためにくよくよ悩んでいたら
猿を笑えないでしょう。 
「もっとずぼらになりましょう」 と言えば徹底してずぼらになろう
とする人がいますがそれは逆方向に要求水準が高いのです。
中途半端のずぼらがいいですね、
人生ほどほどが一番いいのです。

仏教思想家・評論家
ひろ さちや  から

花嫁の三つの教え

March 17 [Tue], 2009, 12:24


C 花嫁の三つの教え
 結婚式に花嫁が白い着物を着るのは、
「私はあなたの家の色に染まります」という決意だと言います。  
だから花嫁は三日間を白無垢で過ごし、四日目に色物に
着替えるのです。 
ところが今では、披露宴の時にお色直しをするのが
当たり前になっています。
嫁いだ先の家風に染まるのはご免だという風にとれないことも
ありません。また、白無垢は死に装束だという説もあります。
死んだ気になって嫁ぐ、と言う意味だそうです。

インドの話ですが、結婚式を控えた前夜、
                 母親が娘に訓戒を与えます。
 第一に、結婚したら、毎日美しい着物を着ていなさい。
 第二に、毎日おいしい食事をしなさい。
 第三に、絶えず鏡を見なさい。  
この三つを訓戒として与えたのです。
実は、花婿の父親が偶然にこの会話を
立ち聞きしてしまったのです。
         父親はいささか心配になります。
毎日、美しい着物を着て、おいしい食事をして、
鏡ばかり見ているそんな贅沢な娘を嫁にもらったら、
     我が家はすぐに破産してしまいます。
でも、翌日が結婚式です。今更取り消しは出来ません。
結局、このまま結婚式が挙行されました。
 さて、その後父親は嫁を観察していましたが、
いっこうに贅沢をしません、むしろ質素なのです。
着物だって粗末なものを来ていますし、
食事もそんなに贅沢はしていないし、
  鏡を見ることもほとんどないのです。
父親は嫁を呼んで聞きます
「あなたは母親の言いつけをいっこうに守っていない 
どうしてなのか?」
「いいえ、私は一生懸命、母親の言いつけを守っています、
母が言ったのは、本当に美しい着物のことです。
本当に美しい着物は高価なものではありません、
洗濯がよくされている着物です、
           私は洗濯をよくするように心がけています。
おいしい食事というのは、贅沢な食事というのではありません、
一生懸命、仕事をし、働いた後でいただく
              食事は、おいしいものです。
鏡を見なさいと言うのも、
          いつも自己反省をしなさいと言うことです。」
 嫁の説明に、父親が喜んだのはもちろんです。
 あなたは三国一の嫁だと褒めちぎりました。                
何とも気持ちのいい話ですね。

うちの嫁さんに教えてやりたい、無駄だと思うけど。

初老のホームレスに思う

March 18 [Wed], 2009, 8:32
          

D 初老のホームレスに思う
 先日の夕方、散歩をしていたとき、初老
(そうゆう風に見えた)のホームレスの夫婦に会った。
背中に所帯道具のすべてを担ぎ妻女の方がその荷物を
担ぎなおし、夫が手助けして又とぼとぼと歩いていく様は
何とも言いようの無い気持ちにさせられた。
夫の怠け者のせいか、いやそれであればとうに離婚しているであろう。
小企業を営んでいて自己破産したか、
それであれば妻女を救う法はあったはずだ。
それとも、友人知人の借り入れに 連帯保証人になってそれに
対しての法的処置がなされたのか。
はたまた同居していた嫁さん夫婦にいびられ追い出されでもしたか。
それとも災害に遭ったのか、あれこれ想像を巡らしてはみたが本当の
ところは知る由もない。 いずれにしても気の毒な場面であった。 

しかしながら、ちょっと考えると我々も油断していると一瞬のうちに
同様なことにならないとも限らない。
ハイテク社会が進み、だます方も高レベルになっている。
油断も隙もあったものではない。
戦後の経済発展の狭間に自己中心的な生き方が根付いてしまい
他人のことをおもんばかることの薄れてきたことも一因ではないか。

知人の連帯保証人になったばかりに家屋敷を手放す羽目に
なってしまったなんてことは私の親戚にもいる。
かろうじてホームレスにはならなかったが千葉の山奥に
小さな土地を買いひっそりと暮らしている。
夫婦で成長の家の信者で相手のことを
恨んだり泣き言を聞いたことがない。だますよりだまされる方が
気が楽だというのだ。 実に出来た夫婦であると感心させられる。
息子の連帯保証人になって家屋敷を売り、
負債に当てたなんてことはいくらでもある。
 
最近の嫁は強い。
(いやこれは古代から言われ続けているのかも知れない)
戦後の女と靴下なんてものじゃないと思う。
自己中心的で他人の干渉を嫌う。
最近の少子化で親が子供を甘やかしており、
他人のことなど考えず教えるべき道徳の欠如は甚だしいと言える。
だから息子夫婦と同居生活していればトラブルが絶えない、そ
れを避けるのであれば親がじっと我慢しているしかないのだ。

先ほどの夫婦に戻そう、非常に仲のいい夫婦に見えたところを
考えると、共白髪また死ぬるまで一緒と誓い合った
仲なのであろう。そう考えると、気の毒にと思うとともにほほえましさを感じた。
これから先あの夫婦はどうなるのだろう、スーパーやコンビニの残飯を
あさり体調を壊して死んでいくのではあるまいか。  
いったい人間の幸せとは何なのか、人間の生き方とは何なのか考えさせられる。 

私の尊敬している奈良の薬師寺の元管長・故高田好胤師は、
片寄らない心、こだわらない心、とらわれない心を持って生きよ。
いわゆる般若心経の心で生きよと説いておられるが、
もし前述の夫婦がその境地でおられるのなら
「私らのことはほっといてくれ」と言うに違いない。

人間の一生なんか大宇宙から見れば一瞬の瞬きのごとくであり、
今の生き様を資本主義的価値で幸せの位置づけは出来ない。
金持ちでも貧乏でも必ず死ぬるのであり、
たかだか百年、生きながらえても無に等しいのである。
ではあるが憲法に国民は皆、生まれながらにして平等であり、
幸せな生活をする権利を有すると定めてある。
 どうにか救いの手だては無いものだろうか

人間の煩悩

March 19 [Thu], 2009, 16:36

E 人間の煩悩
四苦八苦って知っていますよね。
現実の社会のなかで大変苦労することです。
よく使う言葉は、四苦八苦して年を超えたなどと
言いますが大層苦労して金策に駆け回りようやく新年を
迎えることが出来たというように使います。  
大別して人間の苦しみは八種類あります。
「生(せい) 病(びょう) 老(ろう) 死(し)」の四苦
これは字の通りですから解りますよね。
生まれる苦しみ 病気になる苦しみ 老いていく苦しみ
 死ぬ苦しみのことです。
次に「求(く) 不(ふ) 得(とく) 苦(く)」
求めても得られない苦しみ 欲しいものが手に入らない苦しみ 欲求不満の苦しみですね。

「五(ご) 蘊(うん) 盛(じょう) 苦(く)」欲求不満の反対のことです。
あり余る苦しみ、持て余す苦しみのことです。
じつはこれが大変なんで、現在の人々のほとんどが、
この苦しみにもがいています。後ほど説明しましょう。

「愛(あい) 別(べつ) 離(り) 苦(く)」これも字の通り、
愛するものと別れる苦しみ、肉親、身内、恋人との別れ
などのことを言います。

「怨(おん) 憎(ぞう) 会(え) 苦(く)」愛別離苦の反対、
会いたくない人に会わなければならない苦しみをいいます。
学校に行っても、会社に行っても、どうも気が合わない、
顔を見るのもあまり好かない、でも会わなければならない、
そういう苦しみをいいます。
  
以上の四苦と生病老死の四苦を加えて八苦つまり
                    「四苦八苦」となるのです。
人間の煩悩は百八つあることは知っていますよね。 
四苦(四×九)=三十六
八苦(八×九)=七十二
三十六+七十二=百八(煩悩)と、こういうことになります。
大晦日の夜に除夜の鐘を百八つ打ち鳴らします。 
煩悩を一つずつ打ち消していって最後の一つは0時を過ぎた
直後に打つのです、そういう決まりだったそうですが、
今では、それにこだわっていないそうです。
つまり、多くの煩悩を全部消してしまっては人間じゃなくなってしまう
、一つや二つぐらいの煩悩を新年にもちこしてもいいんじゃないか、
というわけで新しい?気持ちで新年を迎えることになるのです。
 長い人生には、どんなに避けようとしても、どうしても、
避けられないさまざまな問題や苦難があります。それを、どう受け止め、
どう処理していくか、それは全て自分の問題です。
親でも代わってやることができないということ。
どんなに嫌なことでも、それをあるがままに受け止めてじっと耐えて
いかなければならぬことが沢山あるということ。  
どういう問題に出会っても、最終的な判断と決定は自分が出さねば
ならぬということ。これらのことを、キチンと、自分の意思と判断で、正しく処理で
きるように幼いときから、知恵と力を付けておいてやることが大切なのです。
 仏教の教えに「忍 辱」・・(にんにく) という言葉があります。
様々な苦難を耐え忍ぶことです。欲しいものが手に入らないとき、
他人から悪口を言われた時に、我慢することー忍辱です。
自分の思うようにならない人生を生きていくためには、
耐え忍ぶことー忍辱を身に付けておくことが必要です。
幼いときから日常生活の中で親が子に具体的に教えていくことが大切です。
一番いいことは親自身が、我慢強いことの手本になることではないでしょうか。
 小学生や中学生の自殺のニュースが最近多いですが、
その原因は複雑で簡単には判断できませんが、
忍辱を身に付けていたらいのちをたつまでには、ならなかったのではないか、
と胸が痛んでなりません。
いろいろなものが、いっぱいで、簡単に手に入る世の中、子
供達に最も欠けているもの、それは苦しみに耐えるこころなのです。
我慢するこころなのです。
 
さて五蘊盛苦のことですが、空しさは、
死や別れだけに感じるとは限りません。
現代の日本のように、経済的にハイレベルの生活が
続くと「満ち足りている」ことに空しさと不服を感じるのです。
いまどきの人たちは(私を含めて)空しさから何も学ぼうとせずに、
それを、ごまかすことに懸命です。無気力になったり、
レジャーへ逃げたりします。 
バイクの騒音をかきたてて、その中へもぐりこんだり、自殺したり、
様々の意味のない暴行なども、虚無感からくるものだといえます。
こうした行為は空しさから来るいらだちによるものが多いんです。
空しさから来る胸の痛みの自覚がないので、空しさに徹し切れない、
徹しきれないから救われない、救われないから安らぎがない、
安らぎがないから不安だ、不安だからイライラする、イライラするから
暴挙に逃げるという悪循環を続けていくのです。
 欲求不満は貧困生活だけに起こる現象ではないのです。
欲求と不満はどんなに充足されても解消することのない
不満と不服をエスカレートする性格のものです。
生活が豊かになるにつれ、幸せがいっぱいになるにつれ、
貧しいときとは違った不足を訴えます。
隣人や友人は自家用車を持っているが自分にはない、
隣人や友人は、しょっちゅう家族旅行をしているが、自分は出来ない。
ただそれだけのことで不満を爆発させたり、劣等感を起こします。
車が買えたり、旅行が出来ると、さらに、その上をと欲望を
自制できずにエスカレートしていきます。 

私の尺八仲間の知人に十数億の財産を持ちながら、
まだ足りない、足りないと言っていますが、これはもう餓鬼ですね。
井戸の中にドップリとつかりながらのどが渇いた、
渇いたといっているのと同じですね。 
このように物心の盛んなときに起こる悩み、すなわち、
「豊かさゆえの苦悩」のことを五蘊盛苦といいます。
般若心経は「現実の空しさ、うつろさを徹底して実感せよ
・・・色即是空・・・すると現実に生きる価値と意義が自覚できる・
・・「空即是色」と教えています。
 人間としての本当の充実感、本当の安らぎを求めたいと思うならば、
自分自身の生きる姿勢を変えればよいのです。
一言でいうと「外に求めない」ということです。
私たちが幸せと思っている対象は、お金であったり、名誉であったり、
住居であったり、子供であったりします。
これらは皆、無常・・・常にない・・・なのです。
いつかうつろい消えていくことは当然の道理、生が死に、愛が憎悪に、
若さが老醜に、山と積まれた財産が借金へと変わるのは、
無常だからこそです。
そういう、うたかたのようなもの、自分の外にあるものに幸せを
求めていくのは、改めなければならないということです。
それには、ここを、具体的に動くことです、具体的に行ずることです、
仕事は何でもいい縁あって与えられた仕事を具体的に果たしていくことです。
 
誰でも出来る三つの行を紹介しますと、
一日一回汗を流す。
一日一回何かに感動する。
一日一回たとえ五分でも静かに息を整え、姿勢を正して座る。

私ですか?
私は一日一回、夜に汗をかいていましたが、もうだめですので、
   夕方、お風呂で汗を流しています。
一日一回は街中、電車の中で美人を見ては、
         心をときめかせて感動していますし、
一日一回はトイレのなかで座って静かに息を整え力んでいます。 ハイ!

他人の子供を勇気を持って叱ろう

March 20 [Fri], 2009, 18:22
                               
F 他人の子供を勇気を持って叱ろう

「 おい!じいさんタバコ一本くんないか 」「タバコ吸わないから持ってないよ」
 「ちぇ!しけてやがんなー、このじじー」
この会話は何かのシナリオでも何でもない、
実際に私が飛鳥山を散歩してベンチで休んでいるときの会話である。
どう見ても二十歳前の青年であった。
我々はすぐ「今時の若い者は……」と嘆くが先年エジプトで古跡の文字を
考古学者が解読したところ、「今時の若い者はどうしようもない」
という落書きであったそうである。
文化も科学も発達した現代・・幾千年も前から若い者はそういい続けられてきている。
と同時に「しょうがないな!このごろの年寄りは」と言われてもいるわけである。
私がこの若者から受けたショックは社会道徳がここまで落ちたか 、
日本の将来をこれらの若者達が担っていけるのか、
儒教を重んじる韓国に先を越されるのじゃないか。心配だ。
 一昔前は公共の場で子供が迷惑行為や危ないことをしていたら、
たとえその子を知らなくても、大人のだれかが叱ったものだ。
が最近はそんな気骨のある大人もめっきり減った。
注意した方がよいと分かっていても、地域の交流が少なくなっている中で、
なかなか呼びかけずらいこともある。 
社会や大人への反発が強まる思春期の子供を他人が叱るのは簡単ではない。
 「子供の頃、町中でよく親以外の人に叱られましたよ」と話すのは俳優の大和田伸也さんだ。
子供がいたずらや危険な遊びをしていたら、周囲の大人が即座に注意する。
大和田さんはそんな口うるさいおじさんの役を今でも実践しているそうだ。
 九十八年の夏には路上で座り込んで喫煙し、通行の妨げになっていた十代の少年ら
三人を注意し、逆に暴行を受け、額を切るケガをした。
「悔しいのはその場にいた大人がだれひとり僕に加勢してくれなかったこと。
『子供のしつけが出来ていない』と嘆く前に、
大人がやるべきことがある」と強調している。
 近所に住む大人同士でさえも、挨拶を交わさない地域社会の崩壊の中で
子供を叱れるはずもないのではなかろうか。
前述した飛鳥山の一件、私はその青年を叱る勇気がなかった、
というより当たらずさわらずの態度をとったのである。
三軒茶屋駅で外資系銀行員が四人の若者に殴られて死亡した事件、
はたして自分は中に割って入り仲裁の行為が出来たであろうか、
いやおそらく大勢の他人と同じく無関心を装ったに違いない。
大和田さんと比較すると恥ずかしい限りだ。

東京都も次代を担う子供の育成を目的に「心の東京改革プラン」というものがあり、
その中で親や大人、社会が具体的に取り組むべき提案として、
「毎日きちんと挨拶させよう」「子供に手伝いをさせよう」などと並んで
「他人の子供でも叱ろう」を盛り込んでいるそうだ。
社会の基本的なルールが守れない子供が増えている状況で、
なんらかの手を打つ必要があるのだそうである。孫(憧真)の初めての自転車

 

頓知で命拾い

March 21 [Sat], 2009, 19:18

G 頓知で命拾い
昔、インドのガンジス川に、ワニの夫婦が住んでいました。
☆このガンジス川に住むワニを、サンスクリット語(梵語)で「クンピーラ」と言います。
この「クンピーラ」が漢訳仏典で『こんぴら』「金比羅」と訳されました。
そのワニの奥さんがある日、「私、猿の心臓を食べたくなったわ」
と夫に言います。     亭主は 猿の生け捕りに出かけます。
ガンジス川の岸辺に、一匹の猿が水を飲みに来ていました。
この猿がお釈迦様の前世における姿でした。
ワニは猿に言います。  「お猿さんよ!川の向こうにはおいしいマンゴーや
そのほかの果物がいっぱいあるよ、食べたいだろう」
「そりゃあ食べたいよ、でも泳げないし空を飛ぶことも出来ないから無理だよ」
「私の背中に乗りなさい、ボートになってあげるからさ」
「本当!ありがとう!ワニさん恩に着るよ」 と言った具合でしばらく行くと
ワニは猿を水に沈めようとします。
驚いて猿は言います。
「ワニさん、いったい何をするんだい」
「あんたの心臓を女房が食べたいというもんで、悪く思わないで死んでおくれ!」
「チョット待った!ワニさん 僕の心臓は今ここにないんだ。
川の岸辺のイチジクの木の枝にぶら下げたまま来たんだよ」
「それじゃあ困る、猿さん戻って取ってきてよ」
「ああいいよ、……」と猿は心臓をもってくることを約束して川辺まで来ます。
「あばよ……」猿は岸に飛び降りイチジクの木の上からワニに向かって言いました。
ワニは悲しそうな顔をして妻のところに帰っていきましたが
どれほど妻にしかられたか想像がつくというものです。
食い物のうらみは恐ろしいと言いますから。

日本の昔話では、この語りが猿とクラゲになっています。
竜宮城の龍神が猿の生き肝を食べたくなって、クラゲを使いにやります。
クラゲは途中で龍神のたくらみを話します。
そこで猿は頓知でうまく逃げるのです。
その結果、クラゲは龍神にしかられ、罰として骨を抜かれてしまう、
それでクラゲに骨がないのです。

☆ この猿とワニの寓話は何を言わんとしているのでしょう。
とっさの機転、それが頓知です。
それを生かして危険を逃れることが出来ました。

この話は、その機転を賞賛しているのです。
                           教え


白い像の話

March 23 [Mon], 2009, 19:07
   
H 白い像の話
インドのあるところに王様ガ白い象を飼っていました。
その象は大層獰猛で戦争に行けば活躍すること大であり
平和のときは犯罪人を踏み潰す死刑執行人の役を担っていました。
ところがあるとき、近くに火事があり象の小屋も全焼してしまったので
静かな寺院の隣に移ってきたのです。
朝から晩まで、その象はお経を聞かされるわけです。
「門前の小僧習わぬ経を読む」ということで
象はおとなしくなってしまったのです。
なにしろ、良いことをすれば極楽にいけるし、
悪いことをすれば地獄に落ちるという意味のお経を朝夕聞くとはになしに
聞かされていたので感化されたわけですね。
白い象は、いくら罪人が小屋に投げ込まれても、
もはや踏み殺すことはなくなりました。
王様は困ります。罪人を死刑にするのは、
象でなくてもいいのですが、問題は戦争です。
おとなしい象では、何の役にも立ちません。
今で云えばミサイルにも匹敵する象が、
ピストルの役割もしなくなったのですから。
王様は家臣たちを集めて、どうしようか相談しました。

その結果また飼育小屋の移転ということになったのですが、
小屋の隣では人間の食物として、毎日動物の命が奪われていたのです。
それを見ていた白い象は再び以前のような性格が戻ってきたのです。

「孟母三遷の教え」って知っていますよね。
孟子の家は始め墓場に近いところのにあったのですが幼い孟子は、
墓堀り人夫のまねをして遊びますので、母親は市場の近くに越しました。
すると孟子は今度は商人のまねをして遊びます。

そこで今度は学校のそばに越しました。
すると孟子は生徒の勉強を真似て遊びます。
母親は安心してそこに居を定めた、という話です。
三遷と呼ばれていますが、実際には二遷しかしていないのですが
三遷というのはどういうことなんでしょうか解りかねます。
このように、人間の性格はその人の育った環境によって大きく変わっていきます。
いい環境に育った人は幸せといっていいでしょう。
悪い環境に育つと、どうしても性格が凶暴になったり、ひねくれたりします。

この話はそんなことを私たちに教えてくれているのです。
ですが、現在の日本はどうでしょう、幼い時から競争、競争で
育ってきた日本人の心は荒みきっています。
政治家は私利私欲ばかり追及し自分が当選し
大臣になることばかりしか考えておらず、
事業家は利益の追求ばかりで、平気で手抜き工事をしたり、
欠陥商品を売り出しているのです。

般若心経の心について

March 25 [Wed], 2009, 19:58

I 般若心経の心について  再び般若心経クリック  

正確には、摩訶般若波羅密多心経と、いいます。
わづか二百六十六文字の中に、
数多くのありがたいお経が濃縮されています。
日本の仏教のほとんどの宗派がこのお経を読みます。
読まない宗派は、浄土真宗と日蓮宗だけです。
 私の尊敬している奈良、東大寺の故管長、清水公照さんは、
ある時ドイツの青年が「般若心経は、いったい、なにを
意味しているのか」と聞きました。
管長は「人間、腹が空いたときには、なにを食べてもうまいものです、
そういう意味です」さすがに、簡単明瞭に解りやすく説いていられますね。
青年は納得して帰ったそうです。
また、奈良の薬師寺の管長、故高田好胤さんは、
「片寄らない心、こだわらない心、とらわれない心、ひろく、ひろく、もっとひろく、
これが般若心経の心なり」。と言っておられます。
解ったような、解らないような、お話ですが実は、般若心経の中で
「色即是空「空即是色」の言葉が一番、難解なのです。  
私が十数年、百観音巡りをしてお寺の住職に問うたり、
いろいろな書物を読みまして、そのときは解ったような気がするのですが、
人に説明できないのです。
子供が教科書を二.三回読んで意味を聞くと答えられない、
それと同じで全然理解していないのです。

 単的にいいますと「およそ物質的現象というものは、
すべて実体のないことである、
およそ、実体がないということは、物質的現象なのである。」………
解りますか、これで解ったらあなたは天才です。
こまごまとした説明は、専門書の写しになりますので書きません。  
私の友人は「色事が終わった後は、空しい、だからまた色を追求する」
と言いましたが、ある和尚によると、全く間違っているとは
言い切れないのだそうです。 まあ、これならある程度解りますよね。

私はよく説明できないのですが、この地球なんて無限の宇宙から観ると、
ちっぽけな豆粒みたいなもの、その中の日本や、東京となると虫眼鏡で
ないと見えないでしょう、いわんや、人間においておや、ということです。
人間がいくら百年まで寿命があったとしても、それがなんだ、
宇宙から観たら瞬きにすぎないじゃないか、と思うのです。
そんな中で争いが絶えない、地球のどこかで戦争をしている。
人間でいえばあらゆる部門で競争をしている、子供の時から成績、成績、
サラリーマンになっても成績、成績、商人も技術者も成績、成績 
儲けた、損したの繰り返し、ちっぽけだと思いませんか。
宇宙的見地から観れば電子顕微鏡でも見えない、
無に等しいと言えるじゃないでしょうか。
すなわち、「色即是空」です。かたちがあっても、無いと同じようなもの、
すべてが空であるということだと私は解釈しています。
すべてが空であると悟るならば、すべては滅びる(空)、
しかしただ滅びるのではない、滅びにより新しい価値が発生する。
つまり世の中は無常であると悟ったとき、
私たちはまた生きる知恵が生まれる。(色)
すなわち「空即是色」です。

この世の物体「色」は、なにもない真空の「空」から生まれ、
この世に於いてはぐくまれ「色」、やがては元の大宇宙「空」へ
かえって消えてしまう、 たとえば一粒の米も田に蒔くと土と水と
太陽の恵みによって、やがては数十粒の米となり、
四方を回ってやがて土の中に消えていく、これが実体なのであり、
無常に他ならないのです。

書いているうちに、だんだん頭がこんがらがって、おかしくなってきました。
もう、この辺でやめにします。  ああ難しい。
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