仏法とは何か2 

2012年05月17日(木) 5時38分
【仏の説かれた法と仏教諸宗】

釈尊によって説かれた仏法は、今日において無数の宗派に分派乱立しております。

そしてそれぞれの宗派が、釈尊の説いた教典を依り処とし、それを基に自宗の宗旨を立てているといった現状です。


同じ釈尊の説いた教典を基としていながら、何故、無数の宗派に分かれてしまったのでしょうか。

実は釈尊は一代50年間にわたって、8万4千法蔵といわれる無量の経々を説かれました。

その膨大なお経の中から、各宗の祖師達が、それぞれ思い思いの経を選んで宗旨を立ててしまった為に、仏教は無数の分派を招いてしまったのです。

そしてそれぞれの祖師達が異なる経典を依り処としてしまった為に、自ずから立てる教義・本尊も異なったものとなり、互いにまったく相容れない、異質な宗旨となってしまったのが現状なのです。

では、これらの諸宗は本当に仏法(仏が説かれた法)を伝える宗旨と呼べるのでしょうか。

もし呼べるというのでしたら、まったく異なる宗旨を立てていながら、いずれも同じ一人の仏の説であることになってしまいます。

もしそうであるならば、このように仏教を無数の宗派に分立せしめることが、釈尊の本意だったと言えるのでしょうか?

この点を明確に解明するために、仏教の経典を紐といてみたいと思います。

まず、『無量義経』という経典には

「阿のく多羅三みゃく三菩提を成ずることを得たり。
佛眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。
所以は何ん。
諸の衆生の性欲不同なることを知れり。
性欲不同なれば種種に法を説きき。
種種に法を説くこと、方便力を以ってす。
四十余年には未だ眞實を顕さず」

“仏は未だ誰人も知りえなかった宇宙の真理を覚知せられたが、その法をそのまま衆生に説くことはなされなかった。
それは、衆生の素養がまちまちであったために、甚深の法を説いても、一同に信解できる状態ではなかったからである。
ゆえに仏は、それぞれの衆生の素養に応じて、真理の分々を、一時的な方便として説いてきたのであり、(説法を始めてから今に至る)四十余年間には、いまだ真実の法を顕わしていない”

と説かれております。

更に『無量義経』に続いて説かれた『法華経』という経典には

「未だ嘗て説かざる所以は、説時未だ至らざる故なり。
今正しく是れ其の時なり」

「正直に方便を捨てて、但(ただ)無上道を説く」

と説かれており、この法華経において真実を説き明かすことを宣言せられているのです。

これらを踏まえて考えますと、まさに仏の真意とは

“釈尊の一代50年に及ぶ説法のうち、40余年間には方便の教えを説き、それによって衆生の素養を整えたうえで、その後に真実の法を明かした法華経を説いたのである。
また、40余年の諸経が真理の分々を説くのに対し、法華経は真理の全体を説いているのである”

ということが明白となるのであります。

もし、こうした筋道を弁えずに、一代50年の経々はすべて仏の説であると勝手に判断して、思い思いの経典を選択したのであれば、仏の真実の法を誤る結果となるのです。

したがって、40余年の経々をもって宗旨を立てている諸宗は、仏の説いた法を依り処としているように見えて、実は仏の説いた法に迷っているのだけなのであります。

まさに『法華経』の

「余経の一げをも受けざれ」

との戒めに背く非仏教と断ぜざるをえません。

仏が説かれた法は、法華経という一経に極まるのであるということを知らなければならないのです。



法華経に説かれている真理とはいかなるものなのでしょうか。

それは一念三千の法門であります。

一念三千とは、仏が自ら覚知された宇宙と生命の真理であり、仏自身もこの法を修行することによって、仏の絶対的幸福境涯を証得されたとお示しであります。

それは、同じ原因を作れば同じ結果が生ずるという道理でもあり、これを衆生がそのまま修行すれば、衆生も仏と成ることができるという法でもあります。

ゆえに数多の経典はありますが、一切衆生が等しく仏に成れることを明かしているのは法華経のみに限られており、それ以外の余経には見られないのであります。


このことから日蓮大聖人様は

「夫(それ)法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり」

と仰せられて、仏に成るための法は法華経だけであるとお示されているのであります。


ところで『法華経方便品』には

「一切の衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」

と説かれており、仏は宇宙と生命の真理に迷って苦悩の中に沈んでいる衆生を憐愍(れんみん)して、自らの証得した仏の境涯を等しく一切衆生にも授けんと願われ、世に出生して法を説かれたのだということが示されております。

まさに仏が世に出現した目的は、仏に成るための法、すなわち法華経を説くためであり、法華経こそが釈尊出世の本懐の経であるといえるのであります。

また法華経には、釈尊の入滅後の未来のことも予証されており、釈尊滅後二千年をすぎた時代(末法時代)には、まったく仏法に対する素養のない生命の濁った衆生が充満し、そのために釈尊の説いた仏法は法滅(法の利益、効力を失う)の様相を呈することが示されております。

そしてこの時に、日月の光明のごとき大人格者が出現して、種々の大難に遭われながらも、法華経の中に秘められていた肝心・要の法を説き弘め、末法の衆生を成仏へと導くこと等が示されております。


このことは

「病によりて薬あり。軽病には凡薬をほどこし、重病には仙薬をあたうべし」

の道理であります。

法華経は仏に成るための法ではありますが、末法の衆生の悪業には全く効果が無く、法華経に秘められた肝心・要の法のみが、末法の衆生の為の唯一の仏に成るための法となるのです。

そしてこの法華経における末法についての予証は、日蓮大聖人の御出現によって実証され、末法の一切衆生を成仏へと導く肝心の要法(南無妙法蓮華経)が日本に建立されたのであります。

ゆえに日蓮大聖人様は

「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」

と仰せられているのです。

この日蓮大聖人様の仏法である南無妙法蓮華経こそ、一念三千法門の肝要の実体であり、末法の法華経ともいうべき、唯一の正法(正しい仏法)なのであります。


以上、仏法とは何かということについて簡単に述べて参りましたが、真実の仏法とは法華経であり、法華経といっても、その中に秘められた南無妙法蓮華経こそ「仏が覚知された法」の実体であり、「法が説かれた法」の究極の一法であり、また末法のための唯一の「仏に成るための法」であるのです。

これを説き明かされた日蓮大聖人様の仏法は、今現在、日蓮正宗富士大石寺に連綿と伝わっており、これ以外の仏教諸宗は、悉く仏の真意に背く非仏教・邪宗教に他ならないのであります。

ゆえに、真に仏法を求めようとするならば、こうした筋道をよく弁えて、非仏教の諸宗を捨てて、日蓮正宗に帰伏するべきなのであります。


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