ウズベキスタンの旅 

2018年04月30日(月) 20時19分
ウズベキスタンの旅
           2018年4月13日〜4月20日


ブハラ ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ正面アーチ

 2010年の西ドイツの旅で知り合い、その後2014年にドイツのクリスマスマーケットの旅に一緒に出かけるなど交流のあるKさんとはお互いの旅の記録のやりとりをしています。そのKさんが2017年10月に一人で出かけられたウズベキスタンの旅の写真をDVDにまとめられたものを2017年末に送っていただきました。1976年にイタリア・スイス・フランスを周遊する最初の海外の旅に出掛けられてから42年の間に80回を超える海外への旅をされているKさんは、ウズベキスタンには2008年9月から10月にかけて一度旅されているので9年ぶり2度目の旅になります。次の旅をどこにしようかといくつかのプランを検討していたところでしたので、Kさんの行かれたウズベキスタンとはどんなところだろうという興味からその歴史などを調べてみました。

 ウズベキスタンは1991年に独立するまで旧ソヴィエト連邦に属していた中央アジアの国です。中国の新疆ウイグル自治区から出てパミール高原を越えたところにある東西文明の出会う場所になります。
 私は古代中国と地中海という2つの文明圏をつないでいたシルクロードには以前から興味があり、1991年7月に西安(長安)に旅しています。その後、1994年8月にタクラマカン砂漠を取り囲むオアシス都市、ウルムチ、トルファン、カシュガルに。2010年5月に中国の西域、河西回廊を蘭州から張掖、酒泉、嘉峪関を経由して中国3大石窟の一つ莫高窟のある敦煌(瓜州)まで旅しています。2011年10月には古代中国の中心であった大同、洛陽などの中原を旅して、中国3大石窟の残り二つ、雲崗石窟と龍門石窟を訪れています。見残しはまだあるにしても中国側のシルクロードはほぼたどることができたと思っています。
 それとは別にシルクロードの終着地とされるイスタンブールまでは旅していますが、カシュガルより西のパミール高原越えの西トルキスタンと呼ばれる地域に伸びるシルクロードには興味があっても自分が旅することはないだろうと思っていました。



シルクロードルート

 Kさんはシルクロードのさらに西に延びるルート、イランには2006年、ヨルダン、シリアには2008年、イスラエルには2011年に旅されています。2008年の最初のウズベキスタンへの旅には友人と二人の旅でしたが、それ以外はツアーでの一人旅になります。
 私は次の旅はウズベキスタンかスリランカかのどちらかを考えていて、スリランカについても旅の準備を進めていた。今回で同行するのが最後になるかもしれないTさんに「どちらがいいですか?」と希望をお聞きしたところ「ウズベキスタンがいい」という答えがあったので、今回はパミール高原を越えて中央アジアに延びる東トルキスタンの中心、ウズベキスタンに直行便で行くことができる「感動のウズベキスタン周遊8日間」というツアーに参加することにしました。

 ウズベキスタンと言っても多くの人にはその国がどこにあるのかイメージすることが難しいかもしれません。私も13世紀にティムールが都したサマルカンドがある国という認識はあってもこれまではウズベキスタンを中央アジア史という枠組みの中でしかとらえていませんでした。旅を始める前に知らないところが多くあるウズベキスタンという国について考えてみました。

中央アジア

★アラル海
 ウズベキスタンとその周辺国の地図を見ていると、北と東に国境を接しているカザフスタンとその水面を共有するアラル海に目が行きます。アラル海の西にはカスピ海があり、2つの海の間にはトゥラン低地やウスチュルト台地があります。アラル海の南東にはキジルクム砂漠があり、南はカラクム砂漠、北はカザフステップに囲まれています。



アラル海の大きさの変遷

 アラル海は1960年代までは世界第4位の大きさの湖でしたが、半世紀でその面積は10分の1にまで縮小し、かつては1つの湖だったものが、小アラル海(北アラル海)と大アラル海(南アラル海)の2つに分かれています。現在では大アラル海がさらにバルサ・ケルメス湖、東アラル海、西アラル海の4湖に分かれて5つの湖になっています。
 小アラル海と大アラル海の間は、現在はコカラル堤防で仕切られて、干上がった部分はアラルクム砂漠と呼ばれています。
 アラル海は砂漠の中にあり降水量は年間200ミリ未満。水源はパミール高原や天山山脈などの融雪水に由来し、河川を伝って2000キロメートル以上流れてアラル海に到達します。小アラル海の主な水源は現在でもシルダリヤ川ですが、大アラル海の主な水源だったアムダリヤ川は現在ではアラル海まで到達しておらず、水源を湧き水に頼っています。
 アラル海の水位は、1960年に53.4メートルあったものが、半世紀後の2011年には大アラル海が約半分の水位になり、小アラル海は11メートル下がっています。それに伴い大半の水が蒸発してしまっています。
アラル海が形成されたのは1〜2万年前とも、200万年以上前とも言われています。歴史家ヘロドトスはその著書「歴史」の中で、
「アムダリヤ川はカスピ海に注いでいる」と記述しています。それが正しければ当時のアラル海は現在と同じようにシルダリヤ川のみが流入する湖だったようです。
 1960年頃までのアラル海の塩分濃度は海水の約3分の1であり、この塩分濃度の低さは「さまよえる湖」として知られる中国新疆にあるロプノールと同じ様に、発生と消滅を繰り返す不安定な湖の歴史の証明となっていました。
もともとアラル海周辺は漁業でなりたっている地域であり、最盛期には多くの漁民が船団を組んで漁業を行い、労働者が魚肉加工に従事し、キャビアや缶詰を製造していました。
 湖にはいくつもの島がありますが、バルサ・ケルメス島にはバルサ・ケルメス自然保護区ができました。シルダリヤ川やアムダリヤ川の河口の湿地帯にはヨシや河畔林が広がり、ペリカンやフラミンゴなどの渡り鳥が飛来していました。水が豊かにあったアラル海はシルクロードのオアシス地帯であり、ソヴィエト連邦時代は保養地とされていました。
 1940年代にソヴィエト連邦はこの地域に「自然改造計画」を実行し、綿花栽培のために大規模な灌漑を始めました。1950年代にはアムダリヤ川の中流域に運河を建設し、アムダリヤ川の水を南のトルクメニスタンのほうに流すようにしました。その結果1960年を境にしてアラル海の面積は急激に縮小し、1970年代末には塩分濃度の上昇により魚が取れなくなり、アラル海の行く末が世界的に危惧されるようになりました。1980年代を通じてアラル海の塩分濃度は海水に近づいていきましたが、塩分に強いカレイを導入する事で漁業は何とか続いていました。
 アラル海は1989年に小アラル海と大アラル海に分断されました。アムダリヤ川の河口部の湿地帯は干上がり、植生が砂漠の植物に変わり、渡り鳥が飛来しなくなりました。大アラル海の塩分濃度は1993年に海水を越えて、2000年には海水の2倍に達し、塩分に強いはずのカレイですら死滅して漁業が不可能になりました。湖の中にあったバルサ・ケルメス島などは地続きになりました。
 こうしてアラル海周辺の多くの生物が死滅し、漁業や魚肉加工業や毛皮産業が衰退していきました。大多数の漁民は他地域に移住・転廃業して、いくつもの村が廃村になっていきました。干上がった湖底からは砂嵐が舞い上がり、塩害により住民の健康被害や植生の破壊を引き起こしていきました。
 現在では小アラル海はコカラル堤防の建設により回復しつつありますが、これらの人的要因による湖の縮小とそれにともなう周辺環境の急変は、「20世紀最大の環境破壊」と言われています。
 この地域で綿花栽培が最初に行なわれたのは、18世紀のことでした。19世紀に中央アジアに進出した帝政ロシアは第一次産業革命の最中にあり、原材料として綿花を必要としていました。当時はアムダリヤ川水系を利用した運河網を建設してインドと交易する案もありましたが、綿花価格が高騰したことや大英帝国との争いなどを理由に、中央アジアで綿花を生産する方が良いという結論に達しました。またアラル海は農業用水としては価値の低い塩湖であり、貴重な淡水を蒸発させるよりもアラル海に達する前に使いきってしまった方が良いという考え方もあり、当時からアラル海の縮小・消滅は織り込み済みだったようです。これらの考え方はロシア革命後も形を変えて引き継がれ、東西冷戦時代には経済的・軍事的な理由の他に、政治的・イデオロギー的な側面も加わり、進化する人知と科学により自然を凌駕すること、共産主義は西洋社会や遊牧社会に勝ることを示そうとしました。
 ソヴィエト連邦は領主や地主、イスラム寺院などから土地を取り上げ、灌漑によって草原を農業用地に変えていきました。更に遊牧民を定住させ、沿海州から朝鮮系住民を強制移住させて新たな労働者階級を作り出し、それらの人々をコルホーズやソホーズで集団的な農畜産業に従事させました。
 シルダリヤ川流域はもともと大量の水を必要とする綿花や稲科の栽培には向かない風土でしたが、アムダリヤ川流域の高温が4ヶ月続く水の多い低地は稲作に適していて、高温を必要とする綿花は乾燥と塩分土壌にも耐性があるので、アムダリヤ川流域に稲作や綿花のモノカルチュアが導入されました。
 第二次世界大戦後は大区画農地と大型農業機械による農業も始まり、ウズベキスタンの綿花生産量は150万トン弱から500万トンに増大し、「社会主義の勝利」として華々しく喧伝されました。
この地域は現在は内陸地帯になっていますが、もともと海底であったことから、土壌には塩分が多量に含まれています。毛細管現象は水はけが良ければ発生しませんが、アラル海の下流域では地下水位が高く1メートルも掘れば塩分を含んだ地下水が湧き出し、しかも粘土土壌であるために水分含有率が非常に高く、さらにこの地域では水位の高い水路から、低地の農地に水を引いて灌漑する方式が取られています。つまり煮えたぎる鍋に海水をどんどん注げば、やがて塩が析出する原理と同じように地表からの蒸発散作用で塩分が土壌表面近く50センチメートル内に析出し、やがて地表は雪で覆われたように真っ白になるほどの塩類集積が発生します。このようにして、最初は強制的な灌漑により耕作できた土地も、塩害の進行とともに放棄せざるを得なくなりました。
 アムダリヤ・シルダリヤ両河川を水源として灌漑用水路を建設しましたが、これらは原始的な手掘りで河床対策が施行されなかったため、大半の水が無駄に砂漠に吸収され土壌の塩類集積・沼地化を促進させてしまいました。しかも灌漑農地から染み出した排水や地表の塩分を洗い流す排水は、灌漑用水の水質が低下しないように農地より低い位置にある砂漠に棄てられるか、排水路末端の池に注ぐことになり、アムダリヤ川やシルダリヤ川に戻ることはありませんでした。このようなずさんな灌漑設備および灌漑・排水方式により流量が激減した両河川は、アラル海の面積を大きく減少させました。
 当時のソヴィエト連邦の科学者の中には将来を予想しこうした開発に反対を唱えた人もいましたが、政府指導者たちは漁業利潤と灌漑利潤試算を盾に「アラル海で捕れるチョウザメのキャビアがどれほどの利益になろうか。それが社会主義の勝利にどれほど貢献するというのか。それよりも砂漠の地を緑に変え、そこで栽培される綿花がどれだけの利益を生み出すだろう。なるほど、灌漑によってアラル海は干上がるかもしれない。しかし社会主義の勝利のためにはアラル海はむしろ美しく死ぬべきである」と言って退けてきました。
 計画推進の結果、1960年代には年平均20センチメートル、1970年代には年平均60センチメートルと猛烈なペースで水面が低下し、急激に縮小をはじめました。一晩で数十メートルも湖岸線が遠のいていくため、退避しそこなってその場に打ち捨てられた船の数々が後に「船の墓場」として有名になりました。
 もともとアラル海は中央アジアの中のオアシス的存在でした。湖の存在により気温・湿度が一定の過ごしやすい環境に保たれ、動植物が多様に存在していました。しかし湖が干上がることにより雨は降らなくなり、気温も年較差が激しくなりました。そのことにより周辺の緑が枯れ、風食作用により表層土も失われ、湖ともども砂漠化の進行を加速化しています。アラル海の塩分濃度は、ナトリウム以外の塩基成分が湖底に沈殿し、数百年もの間一定の濃度を保っていた大地からは砂漠化が進むとともに塩分や有害物質を大量に含む砂嵐が頻発するようになりました
 1980年代のソヴィエト連邦ではペレストロイカが進み、アラル海の惨状が議題に上っています。1989年、ソ連最高ソヴィエトは「国の環境健全化の緊急措置について」を発表し、海外の専門家に「アラル海復興構想」を募集することにしましたが、タジキスタン内戦などが起こり、対策は遅々として進みませんでした。
 こうした中、カザフスタン政府はシルダリヤ川の水が大アラル海に流出しないように、堤防を建設しました。しかしこの1992年に作られた堤防は土砂を積んだだけの物だったために、1998年に完全に決壊しました。そこでカザフスタン政府は世界銀行から融資を受けて本格的な堤防を建設することにし、2005年8月にはコカラル堤防(全長13キロメートル)が完成しました。この堤防は成功を収め、小アラル海の水位が上昇し、表面積は1.5倍となり塩分濃度は半減しました。シルダリヤ川の河口には現在でもチョウザメが生息し、秋にはカイツブリやセシギなどが営巣する貴重な自然が残っています。これらの地域はラムサール条約に登録されています。
 一方、大アラル海はこのままでは2020年には干上がるという説があります。ウズベキスタン政府は上流のダムの放水量の増加を期待していますが、冬季の水力発電が必要な上流に位置する国と夏季の農業用水を必要とする下流に位置する国では利害が一致しない為、キルギス政府やタジキスタン政府は消極的だといいます。中央アジアではキルギスのダムの過剰放水による洪水やウズベキスタン政府とタジキスタン政府の対立など課題が山積しており、大アラル海の救済まで手が回らないのが実情です。またウズベキスタン政府は石油開発のために大アラル海の砂漠化を歓迎しているという意見もあります。せめて塩害だけでも防ごうと、干上がった湖底に植物を植える草の根の活動がありますが、貧困に苦しむ住民が冬場の燃料として刈り取ってしまい、なかなか上手く行きません。2004年以降、ウズベキスタン政府は漁業・農業・放牧、洪水対策、塩分飛散軽減のために、アムダリヤ河口デルタに複数の人口湖を作っています。また水源の塩分濃度の低下を目指して、湿原に葦原を構築する草の根運動も行われています。

 ウズベキスタン共和国は、中央アジアに位置する旧ソヴィエト連邦の共和国。首都はタシュケント。人口は約3200万人。面積は44万7400uで日本の約1.2倍になります。

ウズベキスタン国章

 北と西にカザフスタン、南にトルクメニスタンとアフガニスタン、東でタジキスタン、キルギスと接しています。国土の西部はカラカルパクスタン共和国として自治を行っており、東部のフェルガナ盆地はタジキスタン、キルギスと国境が入り組んでいます。

ウズベキスタン地図

 ウズベキスタンはスイスとオーストリアに囲まれたリヒテンシュタインとともに国境を最低2回越えないと海に達することができない、「二重内陸国」の一つです。
 ウズベキスタンもその構成国の一つである独立国家共同体(略称CIS)は、ソヴィエト連邦が崩壊した時に、ソヴィエト連邦を構成していた15か国のうちその時すでにソヴィエト連邦を離脱していたバルト三国を除く12か国によって結成されたゆるやかな国家連合体です。この組織はソヴィエト連邦が保有していた核兵器や宇宙開発技術、軍隊の基地などが連邦内各地にあったためにそれの分散を防ぐ目的で結成されたもので、西ヨーロッパで組織されていたEU型の組織を目指していましたが、独自の憲法や議会は持たない緩やかな連合体でした。
 2001年のアメリカ同時多発テロが発生した時には、ウズベキスタンでは国内のテロ対策も踏まえ、対テロ戦争に同意してアフガニスタン戦争のため、アメリカ群駐留を受け入れていましたが、その後アメリカによる国内の独裁政権打倒の市民運動への加担に反発して、米軍を撤収させています。

★ウズベキスタンの歴史
 中央アジアを最初に支配したのは紀元前1000年ころに侵入してきた北部の草原出身のイラン系の遊牧民と考えられています。彼らはイラン方言を話し、地域の川沿いに広範囲に渡る灌漑システムを構築し始めました。この時代に、ブハラやサマルカンドといった都市が政治や文化の中心地として出現し始めました。
 紀元前5世紀までに、バクトリア人、ソグディアナ人、トハラ人たちがこの地域を支配しました。中国が西方地域との絹の交易を発達させ始めるにつれて、現在のウズベキスタンは都市や集落の広範囲なネットワークで、シルクロードとして知られる交易により、ブハラやサマルカンドは豊かな都市へと成長していきました。
 こうして蓄えられていった富は北部ステップや中国からの侵攻を惹きつけるものとなっていきました。数多くの地域間抗争がソグディアナ人国家とその他の国家の間で起こり、ペルシアと中国はこの地方をめぐって延々と続く対立関係にありました。


 アレクサンドロス大王は紀元前328年にこの地方を征服し、一帯をマケドニア王国の支配下におきました。


 また、この地方は学問や宗教の重要な中心地でもありました。紀元後1世紀までこの地方における主な宗教はゾロアスター教でしたが、仏教やマニ教、キリスト教もまた信仰の対象となっていました。


 アラブ人による中央アジア征服は紀元後8世紀に完了し、この地方に支配的な宗教として浸透することとなる新たな宗教を持ち込みました。アラブ人により持ち込まれた新しい宗教―イスラム教は次第にこの地域に広まっていきました。アラブ人以前にペルシアの影響を受けて変化していた土着宗教のアイデンティティは続く数世紀で完全に塗り替えられることとなりました。中央アジアのイスラム王朝は750年にタラス川で起きた戦いにおける、中国に対するアラブの勝利により堅固なものとして建国されました。
 アラブ人による支配の期間は短かったが、中央アジアはペルシア文化の特徴を維持することに成功していて、イスラム教が受け入れられた後の数世紀に渡り文化や貿易の重要な中心地となっていきました。
 ウズベキスタン地方はペルシア王朝のもとにあって政治的に重要な役割を果たしつづけました。
 8−9世紀のアッバース朝の最盛期に、この地方の黄金期が訪れます。ブハラはイスラム世界における学問、文化、芸術の中心地の1つとなり、イスラム文化を代表する多くの偉大な歴史家、科学者、地理学者を輩出しています。


 アッバース朝のカリフの権力が弱体化し、他方でペルシアのイスラム教国が中央アジアの支配権を握ったことにより、ペルシア語がこの地方における文学や行政において支配的な言語となります。
 9世紀、北部ステップからの遊牧民の流入は中央アジアに新たな部族集団をもたらしました。これらの人々は東はモンゴルから西はカスピ海まで広がる緑の草原に住むテュルク人でした。最初テュルク人はこの地方の国家に軍人として仕えました。10世紀後半には、これらの軍人の中から権力を持つものが現れ、最終的には高度にペルシア化された自分たちの国家を建国していきました。


 この地方における最初のテュルク人国家はガズナ朝です。ガズナ朝はアムダリヤ川南部を支配していたサーマーン朝を滅ぼしてできた国家で、イラン、アフガニスタン、インド北部に及ぶ広い版図を実現しました。
 ガズナ朝はその後すぐにカラハン朝取って代わられました。カラハン朝は999年にサーマーン朝の首都を陥落させ、この地方を2世紀にわたって支配しました。その後カラハン朝は東西に分裂し、サマルカンドは西カラハン朝の首都に定められます。


 ペルシアのセルジューク朝が進出してくると、ガズナ朝の領地はセルジューク朝に奪われ、ガズナ朝の支配領域は減少していきました。セルジューク朝はカラハン朝も破りましたが、カラハン朝の領土を直接統治下に置かず、属国としました。10世紀末にはセルジューク朝は小アジアからイラン、イラクに渡る広大な領域を支配しましたが、いくつかの地方政権が独立します。そして、こうした混乱に乗じて北方に居住するテュルク部族が、この地方へ進出してきます。
 1141年にカラ・キタイ(西遼)との争いに敗れた、セルジューク朝の勢力は衰退していきます。


 12世紀後半、アラル海南部地方のホラズム朝は最盛期を迎えます。1210年ごろにホラズム朝は西カラハン朝を滅ぼしてこの地方を支配下に収め、サマルカンドを都に定めました。
 しかし、北部からの新たな遊牧民の侵入によって状況は一変します。今回の侵略者はチンギス・ハン率いるモンゴル帝国軍でした。
 中央アジアに対するモンゴル帝国の侵攻はこの地方の歴史のターニングポイントの一つとなります。モンゴル帝国はあらゆる中央アジアの正統な支配者にはチンギス・ハンの血族のみがなる事ができるとする伝統を築いていたため、この地域に長く続く影響を与えました。
 モンゴル帝国の中央アジアへの侵入は1219年から1225年まで続きました。チンギス・ハンの軍隊はモンゴル人の将校に率いられていたものの、配下の兵士の多くはモンゴル軍に取り込まれたテュルク系民族により構成されていたため、征服地のいくつかの部分に急速なテュルク化をもたらしました。モンゴル軍は逃亡しなかった現地の住民を自分たちの軍に取り込みました。
 モンゴル帝国の征服のもう一つの影響は、ブハラをはじめとする都市やホラズムのような地方に対し、モンゴル軍の破壊がもたらした深刻な被害でした。ホラズム内の灌漑網は何世代にも渡り修復できないほど破壊されました。そして、多くのペルシア系の知識人は迫害を逃れて逃亡を強いられました。
 1227年にチンギス・ハンが没した後、その帝国は一族により分割されました。帝国が瓦解する可能性もありましたが、モンゴル帝国における伝統的な法は何世代にも渡る秩序だった継承を維持しました。マー・ワラー・アンナフルの大部分は、チンギス・ハンの次男であるチャガタイの子孫に継承されました(チャガタイ・ハン国)。秩序だった王位継承や繁栄、国内平和がチャガタイ・ハン国にもたらされ、モンゴル帝国は強力な団結を保っていました。ホラズムは、南部をチャガタイ・ハン国に、北部をキプチャク・ハン国によって分割されます。


 14世紀前半からアジア各地のモンゴル国家で分裂が始まり、チャガタイ・ハン国もまた様々な部族集団がチャガタイ家の王子を擁立して争う混乱期に突入しました。1370年代に、こうした部族集団の中からティムールが支配権を確立し、内争を終結させました。ティムール朝は西トルキスタン、イラン、インド北部、小アジア、アラル海北部の草原地帯を征服しました。ティムールはロシアにも侵入し、1405年に中国への進軍の途上で陣没しました。


 ティムールはサマルカンドを首都に定め、数多くの芸術家や学者を征服した土地から連れてきました。これらの人々を支援することで、ティムールは自身の帝国に非常に豊かなペルシア・イスラム文化を吹き込みました。ティムール及び彼の直系子孫の治世においては、幅広い宗教的建築物や宮殿の造営がサマルカンドやその他の大都市地域において着工されました。ティムールは学者と芸術家のパトロンとしての役割も果たし、彼の孫ウルグ・ベクは世界有数の偉大な天文学者として名を遺しました。ティムール朝時代にはチャガタイ語の形式をとったテュルク語がこの地方において文語の地位を獲得していましたが、一方でティムール朝は本来ペルシア化された国家でした。
 15世紀半ばからティムール朝は二つに分裂します。そして、ティムール朝で継続する内部抗争はアラル海北部に生活する遊牧民であったウズベク族の注意を引きつけました。1501年、ウズベク人国家のシャイバーニー朝はこの地方に対する大規模な侵攻を開始しました。
 1510年までに、ウズベク人は今日のウズベキスタンの領土を含む中央アジアを征服しました。ウズベク人はスンナ派のムスリムであり、イラン人はシーア派であったことから、イランのサファヴィー朝との闘争は宗教戦争の側面も持っていました。1512年ごろには、ホラズム地方に、2つ目のウズベク人国家であるヒヴァ・ハン国が建国されます。
1561年にシャイバーニー朝はサマルカンドからブハラに遷都し、首都の名前を取ってブハラ・ハン国と呼ばれるようになります。ブハラ・ハン国はタシュケント地方を制御下に置き、フェルガナ盆地東部からアフガニスタン北部までをその勢力圏としていました。




 16世紀終わり頃には、ブハラやホラズムのウズベク人国家は互いの抗争やイランのサファヴィー朝の侵入、王位継承争いの激化などにより弱体化が始まります。
 この時代にウズベク・ハン国が弱体化したもう一つの要因としては統治していた地域にもたらされる貿易量の減少が挙げられます。この変化はシルクロードを迂回しヨーロッパからインドや中国への海上ルートが確立された前世紀に始まっています。ヨーロッパ人が支配した海上交通が拡大されたことでいくつかの貿易市場は閉鎖に追い込まれ、ブハラ・ハン国のブハラやサマルカンド、ホラズムのヒヴァといった都市は次第に弱体化していきました。
 サファヴィー朝との戦争は、ウズベク人の中央アジアの他のイスラム世界からの孤立を招きました。これらの問題に加えて、北部ステップ地域から侵入する遊牧民との闘争が続きました。17−18世紀、カザフ・ハン国とジュンガルが立て続けにウズベクの諸ハン国に侵入し、その後暫く続く被害と混乱の原因となりました。18世紀初めにブハラ・ハン国は肥沃なフェルガナ地域を失い、コーカンドに新たなウズベク国家(コーカンド・ハン国)が建国されました。
 続く時代、イランや北部地域から立て続けに侵攻を受けます。この時代、ロシア人が中央アジア地域に現れ始めます。ロシアが今日のカザフスタンの緑の大地へと活動地域を拡大し始めた時期、彼らはタシュケント、さらにはヒヴァの取引相手と強力な貿易関係を築きます。ロシア人にとってこの貿易は以前の大陸を横断する貿易に代わるほど十分な利益を挙げるものではありませんでしたが、貿易によりロシア人は中央アジアの潜在力を認識することとなりました。
 18世紀後半から19世紀前半にかけての期間においては、新しい王朝がハン国を打ちたて回復の時期へと向かいます。これらの新しい王朝は軍の設立と新たな灌漑事業を行う中央集権国家でした。しかし、これらの王朝の建国はカザフステップにおけるロシアの権力の勃興及びアフガニスタンにおけるイギリスの地位の確立と一致していました。19世紀初めには、この地方はこれら二つの強力な帝国の標的となり、双方が中央アジアを自身の帝国の支配下に置こうとする争いとなりました。当事者である中央アジアの人々は自身が置かれたこの危険な状況に気づいておらず、ハン国同士で覇を競う争いを繰り広げていきます。


 19世紀、中央アジア進出を企図するイギリスに対する関心とともに、ロシア人は中央アジア地域に対し大きな関心をもつこととなります。これは中央アジア地域の貿易を制御し、ロシアに対する綿花の安全な供給源を確立したいという欲望によるものでした。当時アメリカ南北戦争によって、ロシアの綿花供給源であったアメリカ合衆国南部からの綿花の供給が妨げられていた時期であり、中央アジアの綿花はロシアにとって極めて重要なものとみなされていました。
 ロシア帝国によるコーカサスの征服が1850年代後半に達成されると、すぐにロシア帝国は軍を中央アジアのハン国へと派遣し始めました。当時中央アジアに存在した3ハン国の主要都市であるタシュケント、ブハラ、サマルカンドはそれぞれ1865年、1867年、1868年に陥落しました。1868年にブハラ・ハン国はブハラをロシア帝国の保護国とする条約に調印し、ヒヴァは1873年にロシアの保護国となります。コーカンド・ハン国は1876年にロシア帝国に併合され、タシュケントとコーカンドはロシアの総督府の直轄化に入りました。1876年までに現代のウズベキスタンを構成する領土全体がロシア帝国の直轄地、もしくは間接統治下に置かれている保護国となりました。ブハラとヒヴァを保護国とする条約は、ロシアにこれらの国の外交関係を統制し、貿易におけるロシアの商人への大幅な譲歩を約束するものとなりました。保護国のハンは自国の内政においてはある程度の自治が与えられていました。
 ロシアの支配開始後数十年間は中央アジアの人々の日常生活にさほど大きな変化はありませんでした。ロシアによる支配により綿花の生産量は実質的に増加しましたが、その他の分野において中央アジア現地の人々との相互干渉はほとんどありませんでした。いくつかのロシア人の集落がタシュケントやサマルカンドなどの都市の付近に設立されましたが、ロシア人は現地の人々と交わろうとはしませんでした。ロシア帝国時代は新たな中流階級の発生、農業において綿花栽培に重点が置かれるといった社会・経済的に重要な変化をウズベク人にもたらしました。
 19世紀の最後の10年間、新たなロシアの鉄道が多数のロシア人をウズベキスタンへと運んできたことで状況は変化し始めます。1890年代、いくつかの反乱が起きましたがすぐに鎮圧されますが、これはロシアの警戒を強める結果となりました。ロシア人は次第にハンの内政にも干渉するようになります。ロシア帝国に対するウズベク人の唯一の大規模な抵抗と呼べるものはジャディード運動です。この運動は1860年代、中央アジア土着のイスラム教文化をロシアの侵略から保護することを求める知識層の間で起こりました。1900年までにジャディード運動は中央アジア地域における政治的抵抗運動で最も大規模な運動へと発展していきました。1917年にロシアで10月革命が勃発するまで、ジャディード運動の近代的で世俗的な思想は異なる理由で抵抗運動を恐れるロシア人とウズベク人のハンの双方に対する抵抗運動となっていきました。
 1917年の出来事に先立ち、ロシアによる支配は綿花に直接関連する分野における工業発展をもたらしました。鉄道や綿繰り機が発達する一方で、栽培された綿花は加工のためロシアへと運搬されたため中央アジアの紡績産業は発展が遅くれています。
 総督府が綿花栽培地域を増やしたことで、綿花と食料の生産の間のバランスが変化し、食料供給に関する問題が発生しました。もともと、革命以前の時代、中央アジアには食料を十分に自給自足できる環境が整っていました。しかしこの状況はモスクワの中央政府が綿花の自給に対する冷酷なまでの運用を始めたソヴィエト連邦時代に変化しました。この政策によりウズベキスタンのほぼすべての農業経済が綿花栽培へと転換され、この一連の結果によりもたらされた負の影響は今日のウズベキスタンや他の中央アジアの共和国にもまだ残されています。
 20世紀に入るまで、ロシア帝国は中央アジアにおいて完全な支配権を確立していました。ウズベキスタンの領地は3つの政権にわかれていました。ブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国、そしてトルキスタン総督府です。トルキスタン総督府はロシア帝国軍事省の直轄下にありました。20世紀の最初の10年間では独立した主権を持つウズベキスタンの共和国のもとに統合された3つの地方が存在しました。その間の10年間は革命、弾圧、大規模な混乱、植民地支配の時代でした。
 1900年以後、二つのハン国は一定程度の自治権を与えられていました。しかし、究極的にはロシア皇帝の名のもとに統治を行なっていたタシケントの総督府に対して卑屈でした。ロシア帝国は中央アジアにおいて広大な領地に対して直接的な制御を行なっており、ハンに対し彼らの祖先代々の土地の大部分を統治することを許していました。
 この時代に温暖な気候や利用可能な土地に惹かれた多くのロシア人が中央アジアへと移り住みました。1900年以後、ロシア人が多く住むようになった大都市圏において中央アジア人の生活に影響を与え始ました。
 ロシアの影響は若い世代の知識層の間において特に強くなりました。ムスリムの学校で教育を受け、ロシアもしくはイスタンブールの大学に通ったこれらの人々はジャディード運動家として知られ、国の独立を再び獲得するための知識を使用するためロシアやイスタンブールの近代化運動、タタール人から学ぼうとしました。ジャディード運動家は彼らの社会、そして宗教さえも達成すべき目的のためには作り変え近代化しなければならないと考えていました。1905年、日露戦争において日本が新たなアジアの一極としてロシア帝国に対し勝利を収めたことで、ロシアにおける革命勃発はロシアの支配を転覆させ中央アジアにおいて近代化計画を推し進めるという改革派の希望となりました。しかし、革命運動で弱体化していたロシアが約束した民主主義改革はトルキスタン総督府が1905年に続く10年間で独裁支配を回復するにつれて次第に無いこととされました。一新された総督府の弾圧とブハラとヒヴァの統治者の反動的な政治により数多くの改革主義者が役職を解雇されるか、もしくは投獄されました。
 1916年夏、東ウズベキスタンの数多くの集落において第一次世界大戦における中央アジアの兵役免除を中止するロシアの新たな決定に対し暴動が起こります。増大する暴動に対する報復措置が続いたことで、暴動はウズベキスタンからキルギス人やカザフ人の領地へと広がっていきました。ここにいたり、ロシアが放牧地の接収を行ったことで、自分たちの既得権利を守ることにのみ主な関心を示していたウズベク人の間にこれまでにないほどの反感を買うこととなりました。
 ジャディード運動参加者の次の機会は1917年のロシアにおける革命の勃発により訪れました。2月にはロシアの首都ペテルスブルクで起きた革命運動がタシケントでも急速に広がり、トルキスタン総督府は転覆しました。タシュケントにおいて二つのシステムが設立され、地方政府をソヴィエト連邦政府の権限が直接及ぶものとし、土着のムスリムは公権力から完全に除外されました。複数のジャディード運動家を含む土着の指導者たちはコーカンドにおいて自治政府を設立しようと試みましたが、すぐに鎮圧されました。ジャディード運動家は1922年にソヴィエト連邦の支配に対する抵抗運動を起こし始めました。彼らは内戦に生き残り中央アジアの大部分において大きな勢力をもちました。10年以上に渡り中央アジアの各地域ではソヴィエト連邦の支配の設立に対し激しい抵抗運動が起きました。
 こうした中央アジアにおける抵抗運動は最終的に鎮圧され、共産主義者はソヴィエト連邦の指導者レーニンの新経済政策において地方の政治的自立や経済的自立の可能性を約束することで大部分の中央アジアの人々を彼らの土着の土地から引き離していきました。この状況下において、数多くの中央アジアの人々が共産党に加入し、その多くが1924年に建国された、現代のウズベキスタンとタジキスタンの一部を含むウズベク・ソヴィエト社会主義共和国の要職に就きました。共産党政府と密接に結びついた土着の指導者たちは地方の伝統社会の変更を意図した政策を実行していきます。
 1929年、タジク・ソヴィエト社会主義共和国とウズベク・ソヴィエト社会主義共和国が分裂しました。
スターリンはソヴィエト連邦内の非ロシア人共和国のすべての指導者の改革主義的な動機を疑い、指導者たちは1930年代後半までに粛清されました。
 愛国主義者の粛清後、ウズベキスタン国内の政府や政党の要職はモスクワ中央政府に対する忠誠を誓う人々で占められました。経済政策では農業の多様性は無視されソヴィエト連邦内の他の共和国に対する綿花供給が強調されました。第二次世界大戦中、ロシアから多くの工場がウズベキスタンや中央アジアの他の国々に疎開してきました。これに伴い、ロシアや他のヨーロッパの工場労働者が国内に流れこむこととなりました。土着のウズベク人は国内において農業の盛んな地方に居住していたため、移民が集中するタシュケントや他の大都市などの都市部は次第にロシア化されていきました。戦争中にウズベキスタンへ移入してきたロシア人に加え、モスクワ中央政府がロシアにおける危険分子と認識していたクリミアのタタール人やチェチェン人といった他の民族が共和国内に亡命してきました。
 1953年にスターリンが亡くなると、フルシチョフ主導により全体主義的統制の緩和が行われ、粛清されたウズベク人の愛国主義者の何人かは復帰を果たしました。より多くのウズベク人がウズベキスタン共産党に加入し始め、政府の役職に任命されました。しかし、ロシア語は国家の公用語であり、ロシア化は政府や政党における役職を得るための前提条件でした。ロシアの生活様式やロシア語を解さない人々もしくはウズベキスタンの生活様式やアイデンティティを捨てることができなかった者はウズベキスタンの社会において公的機関の指導的役割からは除外されていました。この伝統のため、ウズベキスタンはソヴィエト連邦内でも保守的な共和国の一つといわれることとなりました。
 ウズベク人が社会において指導者の地位を獲得するにつれ、彼らは地方や一族の連帯を基礎とする非公式のネットワークを再び設立、構築し始めました。これらのネットワークは一族内の援助を提供し、しばしば一族と国や政党を結びつける有益な役割を果たしました。
 1989年、フェルガナ盆地において大規模な民族間の対立が起き、土着のトルコ人がウズベク人により暴行を受ける事件が発生、キルギスの首都オシではウズベク人とキルギス人の若者が衝突しました。この民族間の対立に対するモスクワ中央政府の返答は粛清の緩和とカリモフの共産党第一書記への任命でした。地方の政党エリート出身ではないカリモフの任命には、粛清に関与していない外部の者を任命することにより緊張を緩和しようというモスクワ中央政府の狙いがありました。
 しかし、ペレストロイカやグラスノスチといったゴルバチョフ政権の自由解放的な政策以降もウズベク人の不満はくすぶっていました。不満が爆発した次の機会、ウズベク人は綿花スキャンダル、粛清、その他長く明言されて来なかった感情に対する苦しみを表現することとなりました。これらの不満の中には共和国内の環境問題も含まれており、重工業に対する長期間に渡る重点化や綿花に対する厳しい増産要求の結果環境問題として表面化してきていました。その他、ウズベク人はソヴィエト軍へのウズベク人従軍者が経験する差別や迫害、依然増加する人口に対し仕事の供給を行うための国内工業発展投資の不足なども訴えていました。
 1991年8月、ゴルバチョフ政権に不満をいだいた強硬派がクーデターを起こし、ソヴィエト連邦内で独立運動が起こるきっかけとなりました。ウズベキスタンは当初クーデターに対して静観の構えをとっていましたが、8月31日、ウズベキスタンはソヴィエト連邦からの独立を宣言しました。1991年12月、独立に対する国民投票の結果全人口の98.2%が賛成しました。同月、ウズベキスタン議会が開設され、カリモフが新たな国の大統領となりました。
 ウズベキスタンは独立を求めていたわけではなかったが、独立するに及んで、政府は新たな現実に適応するため迅速な行動を起こします。彼らはソヴィエト連邦の代わりとなる緩やかな国家の結びつきを目指す独立国家共同体の下においては、ウズベキスタン政府が過去70年間に渡り慣れ親しんできた補助金を出す中央政府はもはや存在しないことを認識しました。過去の経済的な連帯は見直しが行われ、新たな市場経済原理が打ち立てられました。ソヴィエト連邦時代に規定されたウズベキスタンは外国との独立した国際関係を一切持たず、他国との外交関係を一刻も早く樹立する必要がありました。投資や対外債権は政治的な異議を唱えることを制限する国家に対する西洋諸国の経済制裁に照らせば、魅力的であり一方で恐ろしい挑戦となりうるものでした。西洋諸国におけるウズベキスタンのイメージは続く数十年において、魅力的で安定した実験的投資を行える国という評価とソヴィエト連邦後の独裁政権により財政支援は薦められないとする相反する評価を行ったり来たりしています。
 独立後、カリモフは反ロシア的な愛国主義者の活動を推進し、ロシア系の人々の80% 、200万人以上がウズベキスタンを去っていきました。

4月13日(金)
 ウズベキスタンの旅1日目、出発地の大阪は晴れ。到着地サマルカンドも晴れ。
ウズベキスタン航空サマルカンド行き直行便HY−528便は午後1時の定刻を43分遅れて関西国際空港をテイクオフ。機材は300人定員のボーイング767。9時間後の午後6時15分(日本との時差は−4時間)にサマルカンド空港に到着する。

2017年10月の旅でKさんが飛行機から撮られた写真

 ウズベキスタンへの入国手続きで、ツアー募集時にはビザが必要ということになっていたが、それは今回から必要でなくなっている。また入国に際して外貨の持ち込みに厳しく、持ち込んだ外貨と出国時の外貨のチェックも直前になって必要がなくなったので入国時に提出する書類はなくなっている。
 空港を出ると歓迎の音楽を演奏する男性や民族衣装を着た女性が並んでいる。空港を出たところには同じ飛行機のツアー客を迎えるために10台のバスが並んでいる。今回は同じツアーに参加する55人を1号車が27人、2号車が28人と2つのグループに分かれて行動することになる。
 1号車の現地ガイドはSさん。車内でアメリカドル30ドルを210000スムに両替する。1ドル7000スムとガイドブックなどに掲載されている換算レートが2倍以上になっている。インフレが現在も進行中のようで1000スム以下の少額紙幣や硬貨はほとんど流通していないとのこと。
 今日明日との連泊になるグランド・サマルカンドホテルには19時50分に到着する。

グランド・サマルカンドホテル

 午後8時からホテル内のレストランで夕食。500ミリリットルの瓶ビール、アルコール度数が12%というのは驚かされる。1本20000スム(日本円で200円ほど)。

4月14日(土)
 ウズベキスタンの旅2日目、晴れ。
今日は終日サマルカンドの観光。
サマルカンドは、ウズベキスタンの古都。アムダリヤ川の支流であるザラフシャン川河岸にある人口約38万人の町。現在のサマルカンドは中世と近代が入り混じった不思議な町で、中央アジアで最も美しい町といわれている。東西の文化をつないだこの町は抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれている。
 NHKで放送された「シルクロード」という番組の中でシルクロードの南北ルートが交差する「文明の十字路」として紹介されていたのを記憶している。シルクロードを行きかう商人たちはこの町でそれぞれの国から持ち寄った商品を交換して自分の国に持ち帰っていた。
 旅の準備でサマルカンドの町を調べる中で、1986年に加藤和彦・安井かずみ夫妻がプロデュースして吉田拓郎がボーカルで歌った「サマルカンド・ブルー」というCDが出ていることを知った。ユーチューブで聞いてみたが、私がこれまで聞いたことのないものであった。10曲収録された楽曲のそれぞれが別パターンでのボーカルが試みられていて、なかなか興味深いものであった。表題曲「サマルカンド・ブルー」はその2曲目に収められている。
 シルクロードの終点にいる恋人に会うためにサマルカンドを目指すキャラバンを念頭に描いたドラマであり、
「拓郎、あなたは興味ないかもしれないけれど、これ以上の青はこの世にはないのよ」と作詞した安井かずみは語ったということです。
 旅の出発はその「青の都」サマルカンドから始まる。


空より青い サマルカンド・ブルー
そんな旅に
君を連れ出したい
突然街から 二人が消える
何処からか 聞こえる祈り
幻の時
サマルカンド・ブルー

二千年も違い サマルカンド・ブルー
そんな夢を
君と辿りたい
金色の砂に 体うずめて
目を閉じて そのまま 二度と
会えない悲しみ
サマルカンド・ブルー
サマルカンド・ブルー
サマルカンド・ブルー

軽いめまいの サマルカンド・ブルー
そんな愛に
君と溺れたい
遙かにゆらいだ セントエルモの灯
君を抱くと未来は決して
手に届かない
サマルカンド・ブルー
サマルカンド・ブルー
サマルカンド・ブルー
サマルカンド・ブルー
サマルカンド・ブルー

       
サマルカンドの市章






サマルカンド地図

 サマルカンドは紀元前10世紀ころからイラン系民族のオアシス都市として発展した。ギリシャ史料では紀元前4世紀にソグド人の都市「マラカンダ」は、アレクサンドロス大王率いるマケドニア王国遠征軍に最後まで抵抗したと記録されている。
 中国の史書『後漢書』では康国として表れ、王族は月氏の子孫とされている。玄奘三蔵や後世のアラビア語、ペルシア語の地理書によればソグディアナ、マー・ワラー・アンナフルの中心と呼ばれている。都市国家の連合体であったソグディアナではサマルカンドの支配者が、都市国家連合全体の盟主となることがあり、8世紀初頭にはサマルカンド王デーワーシュティーチュが「ソグドの王」を名乗っている。
 712年にウマイヤ朝に征服され、イスラム化が始まる。イスラム時代を通じてブハラと並びマーラワーアンナフルの中心都市として発展した。751年のタラス河畔の戦いで捕虜となった製紙職人によって、759年にイスラム世界で最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられている。
 中国の史書「新唐書西域伝」には「康国は又の名を薩末鞬、あるいは颯秣建」という記載がある。以後サーマーン朝の支配を受け、11世紀にカラハン朝に征服されてからはテュルク化も始まる。
 商才に長けたソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって繁栄を続けてきた。しかし、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年、モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の4分の3が殺されたと記録されている。その当時の旧サマルカンドは、ラフマト川に南面するアフラースィヤーブないしアフラシヤブ(の丘)と呼ばれ、現在の市街地の北側にある。
 後にティムール朝の王族たちの廟となったシャーヒ・ズィンダ廟はこのアフラシャブの丘の東南遇に位置する。その後モンゴル帝国の中央アジア総督府の管轄となり、カイドゥの乱が終結してからはドゥア家のチャガタイ・ウルスの所領として確定した。1333年、イブン・バットゥータは北方のジョチ・ウルスからホラズム、ブハラを経由してチャガタイ・ウルスを訪れている。イブン・バットゥータはサマルカンドにも滞在しているが、
「市街地にあった宗教施設、宮殿、城壁、城門のたぐいは跡形も無く消滅して大部分が廃墟になっていて、かつての町の内部はいくつも農園がある」と述べている。また、
「郊外にはアラブ征服時代の聖人廟があってサマルカンドの住民たちは頻繁に参詣に訪れている」とも述べている。
14世紀末から15世紀にかけてはティムール朝の首都として繁栄。市街地の内部にはティムールの墓廟であるグリ・アミール廟やビビ・ハヌム・モスクなどが、アフラシャブにはシャーヒ・ズィンダ廟群が築かれ、郊外にはティムール朝の王族やアミール、廷臣らが大小さまざまな庭園や牧場、宿営地などを設けられた。中国の史書『明史 西域番国志』によると、15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地を訪れている。
 ティムールの孫ウルグ・ベクの時代に天文台が築かれて、その当時の建物を含めて文化交差点として世界遺産になっている。
 ティムール朝後期は諸王家がサマルカンドを巡って争奪を繰り返すようになり、インドのムガル朝の始祖となったバーブルも故地のフェルガナから度々自ら遠征してこの争奪戦に加わり幾度か領有している。その後、1500年にジョチ・ウルス系のウズベク勢力であるシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハンによって征服された。その後はジャーン朝などテュルク系のウズベク人の国家ブハラ・ハン国に属し、首都の地位はブハラに奪われたが17世紀にはレギスタン広場が形成されるなど、中央アジアの主要都市のひとつとして機能した。
 しかし、18世紀中頃からはウズベク諸政権内部の対立や周辺の諸部族の抗争、さらにイランからアフシャール朝の侵攻を受けるなどしたために荒廃が激しくなった。19世紀にはブハラ・アミール国の発展によって復興されたが、ブハラからの支配が弱まると、1868年にはロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入された。サマルカンドはもともとブハラと同様イラン系であるペルシア語話者(タジク人)の多い都市であったが、ソヴィエト連邦時代の1924年、民族的境界画定によりウズベク・ソヴィエト社会主義共和国に区分され、1930年までその首都であった。

 午前8時にホテルを出発して観光を始める。最初の観光は中国に向かっての遠征中に亡くなったティムールの遺骸が収められた棺があるグリ・アミール廟。
 ティムールとその家族の棺が並べられている廟の天井および周囲の壁は金色の装飾。正面から見る建物を象徴する青いタイルが印象的。40分ほどの観光。観光で写真を撮るのは町全体で20000スムの撮影料が必要となる。
グリ・アミール廟は後代に建設されたインド、デリーのフマーユーン廟やアーグラのタージ・マハルのような素晴らしいムガル建築の礎を築くこととなった、テュルク・ペルシア建築史上の重要な建築物。

グリ・アミール廟正面

 グリ・アミールとはペルシア語で「王の墓」を意味する。青いドーム状のこの建築物の中にはティムールと彼の息子であるシャー・ルフやミーラーン・シャー、孫のウルグ・ベクとムハンマド・スルターンの墓がある。グリ・アミール廟にはティムールの師であったサイイド・バラカも眠っている。
 グリ・アミール廟において最初に建設された部分は14世紀末に建設された。現在ではメドレセ(神学校)とハーンカー(修道場)、入口部分と建物の周囲にあるミナレットのみが現存している。

グリ・アミール廟中庭

 グリ・アミール廟の建築自体は1403年にティムール最愛の孫であり、王位継承者であったムハンマド・スルターンが突然の死を迎えた後に始まった。ティムールはシャフリサブスにあったアク・サライ宮殿の付近に自身の小さな墓の建設を開始した。しかし、ティムールは1405年の中国への軍事遠征の途上で死亡した。シャフリサブスへの道は雪で閉ざされていたため、代わりに現在グリ・アミール廟のある位置に埋葬された。ティムールのもう一人の孫であり後継者となったウルグ・ベクがこの仕事を完遂した。ウルグ・ベクの治世において、グリ・アミール廟はティムール朝の一族の玄室となった。
 ムハンマド・スルターンの墓へと続く入口には彫刻が施されたレンガや様々なモザイク模様で豊かな装飾がなされている。その装飾は熟練された職人により作成された。廟正面の外側の壁が小さく設計されているため、ドームの高さが強調されている。17世紀には西側に新たな入口の建設が計画されたが、未完に終わった。
 グリ・アミール廟は外部から見ると1つのドーム状の建築物に見える。グリ・アミール廟はその構造の単純明快さと外観の荘厳さで有名な建物です。建物は青色のドームが建物の上部に付属したような構造となっている。壁の外装は青、淡青と碑文を記した幾何学模様の白のテラコッタ製のタイルからできている。八角形の母屋の上に、高さ約37メートルの椎の実型の二重ドームが建つ。ドーム部分に深い溝で凹凸を付けることにより、見事な表現を実現している。

グリ・アミール廟ドーム

 ドーム北側の方形の中庭の東西には、メドレセとハーンカーが向かい合う形で建っている。ウルグ・ベクの治世には、霊廟と中庭を繋ぐ東側の通路が作られた。
 グリ・アミール廟の内部には壁に多様な装飾が施された大広間がある。壁の地上に近い部分には切りだされた一枚岩のメノウが使用されている。各々のメノウも塗装で鮮やかに装飾されている。これらの一枚岩の上には大理石によるムカルナスの装飾がある。壁の大部分は塗装された石膏で装飾されている。アーチ型の部分とドーム内部はカルトゥーシュのような形式で深く文字が刻まれ、周りに装飾がなされている。
 
グリ・アミール廟の天井  

 廟内部の部屋にある凝った装飾の行われた墓石は地下室にある墓の位置を示しているのみで、実際の墓ではない。ウルグ・ベク統治下に、黒緑色のネフライトがティムールの墓石として安置された。ティムールの墓石は、ウルグ・ベクが1425年に実施したモグーリスタン遠征の帰途で持ち帰ったものだと伝えられている。13世紀末のチャガタイ・ハン国の君主ドゥアが石をカルシの宮殿に運び、モグーリスタン遠征の途上でカルシに立ち寄ったティムールが石を気に入ったがサマルカンドに持ち帰ることはできなかったという伝承が残っている。

廟内に並べられた墓石


壁面タイル


外壁タイル

 次に郊外に出て桑の木の枝の表皮から繊維を取り出して作るサマルカンド紙の紙すき工房の見学。楮を原料にして作られる日本の和紙の制作方法と似ている。日本でも正倉院に伝わっている文書から7世紀ころには紙の製法が伝わっていたと考えられているが、サマルカンドで世界最初の製紙工場ができたのは8世紀半ばのこととされている。少し茶色っぽいサマルカンド紙は印刷や筆記をしたものが読みやすく目に優しいということ、桑の木の繊維から作るということで虫よけ効果が続くということを説明していた。紙すき工房には約30分の滞在。

桑の木の表皮から繊維を取り出す作業

 再びサマルカンド市内中心部に戻りウルグ・ベグ天文台の観光。
 1420年にウルグ・ベクはサマルカンドにメドレセを建設し、ウルグ・ベグ・メドレセと名付けた。このメドレセは天文学研究の中心地としての役割を果たし、多くの天文学者が研究を行なっていた。1424年、ウルグ・ベクはメドレセにおける天文学研究をサポートするための天文台の建設を開始し、5年後の1429年に天文台が完成した。ウルグ・ベクは多くの学者たちとともに当時は「サマルカンド天文台」と呼ばれたこの施設で天体観測を行なっていた。
 しかし、天文台はウルグ・ベクが死去した1449年に保守的なイスラム教信者によって破壊された。
 イスラムの教えからすると異端であったウルグ・ベグの天文学者としての業績が再評価されたのは、サマルカンド出身のロシアの考古学者が天文台の正確な位置を記した文書を頼りにウルグ・ベク天文台の地下部分が約450年後の1908年に発見されてからのことである。
 サマルカンドの高台にあるこの天文台跡からは隣国タジキスタンまで40キロほど、また紛争の地アフガニスタンも前方の山脈を超えた向こうにあるということ。

天文台跡にあるウルグ・ベグの彫像


ウルグ・ベグ天文台


残された地下の構造物

 天文台の発掘作業を行う中で、天文台で使用されていた最も重要な天体観測施設である、太陽の南中を決定するための観測施設が発見された。幅2メートルの溝が子午線に沿って丘の地下に掘られており、溝は地中でアーチ状になっていた。今日では、天文台の位置には元の構造を示す円形の基礎部分と扉が有り、扉は六分儀の地下部分へとつながっており、この部分には屋根がついています。六分儀は全長11メートルであり、かつては周りの三層構造の一番上にまで達していたが、地震から保護するため地中に配置されていた。半径は40.4メートルであり、当時としては世界最大の象限儀(四分儀)であった。中世トルコの天文学者によれば子午線弧の半径は約50メートルであり、イスタンブールにあるハギア・ソフィアモスクのドーム部分と同じ高さであったとされている。建物の全高は21メートル、敷地は南北170メートル、東西85メートルに渡っていた。天文台では精密な天球儀やアストロラーベを用いた太陽、月及びその他の天体の観測が行われており、サマルカンドで働いていた天文学者は子午面上の太陽の高さと天頂と赤緯からの距離を用いて毎日の正午の正確な時刻を計算することができた。

 次にシャーヒズヒンダ廟群の観光。ここはジンギスハンの遠征時に破壊された古代に栄えたサマルカンドの町の遺跡、アフランアブ丘のスロープに沿って建造されている。預言者のいとこであった殉教者クサム・イブン・アッバスの伝説に基づいて、現在もこの地に彼が生き続けていると信じられている。廟の名前は「生きている王様」という意味。40段の階段を上ると廟の入り口に着く。ここは心霊スポットとして人気のあるところだという。多くの市民で混雑している。
 さらに奥に進むと色鮮やかな青色タイルの廟群がある。ここにはティムールの妃など一族の女性たちの廟とされている。

シャーヒズヒンダ廟群へ向かう階段




廟の内部


奥にある廟

 昼食のあと午後の観光は市民が生活に必要なものを求めて集まるジャブ・バザールの観光。シャブ・バザールはタシケント通りのビビハニムモスクの近くにあり、地元住民や観光客でにぎわっているが、最近では衛生面もあってウズベキスタンでもスーパーマーケットが住民の買い物先に変化しているというガイドさんの説明がある。

ジャブ・バザール

 トイレ休憩はビビハニムモスクの近くにある刺繍工房のある建物。
 ビビハニムモスクはティムールによって建造された中央アジア最大のモスク。
 このモスクの破風には、イラン、トルコ、アフガニスタン、コーカサス、インドを征服し、最大の帝国を築いたティムールを称賛し、「ティムールは地上における神の影である」と記されている。
 ビビハニムはティムールの妃の名前。ティムールはインドで見た建築の壮大さに感銘し,自らも壮大なモスク建設を決意した.そしてこの巨大なビビハニムモスク建設に,1399年着工し,亡くなる前年1404年に完成した。しかし,工期があまりにも短く、工事が雑で手抜きもあり竣工直後からレンガの崩壊が始まり、地震も追い討ちをかけ廃墟になってしまった。
 ソヴィエト連邦時代には綿花の集積場として利用されていたビビハニムモスクはウズベキスタンの独立後、ユネスコの援助で外観の復元はほぼ終わっているが内部の修復復元はまだ途中。

ビビハニムモスク




ビビハニムモスク内部

 次にレギスタン広場の観光。レギスタン広場は「砂の場所」という意味をもつ。かってこの地には運河が流れ、砂と沈泥が固まった地帯であった。モンゴル軍の襲来以後はシルクロードの本道が何本も交差することから、サマルカンドの中心地として発展を遂げていった。
 ドレセ神学校が三棟建っている。向かって左側にはウルグ・ベグ・メドレセ、右側にシル・ドル・メドレセ、さらに中央にティラカリ・メドレセが建つ。
 ンギス・ハンが今のアフラシャブの丘にあったサマルカンドの町を滅ぼした後、このレギスタン広場を中心にして復興が進められた。そして14世紀のティムールの時代には大きな屋根つきのバザールが造られ、ウルグ・ベクの時代に最初のウルグ・ベク・メドレセが建てられた。現在のように3つのメドレセが並んだ姿になったのは、17世紀にヤラングトシュ・バハドールによって建築された後になる。
 ギスタン広場は、他の土地から来た隊商が始めに到着する場所、謁見式・閲兵・催し物が行われる場所であった。

レギスタン広場

 広場の正面に建つのが「ティラカリ・メドレセ」、1660年に建造されている。「ティラカリ」とは金で覆われたという意味である。ドームの礼拝所は黄金色にきらめき、壁や祈りの場所に描かれた星や植物、アラビア文字、幾何学模様の文様などが美しい。

ティラカリ・メドレセ


礼拝所内部

 礼拝所の天井の黄金色の文様は細かい遠近法で描かれていて、丸く見える中に奥行きがあり、立体的に見えるが実は平面に描かれたものである。

礼拝所天井

 広場の向かって左側に建つのが「ウル・ベルク・メドレセ」。この建物はウル・ベルクが1417年〜1420年に建造したメドレセ(神学校)である。正面の巨大なアーチの上部に、青い星と細かいモザイク模様が整然と描かれていて美しい姿をみせている。当時は100名あまりの学生が、2階建てに50ほどある寄宿舎で生活しながら、イスラム神学や天文学、数学、哲学などを学んでいた。



ウル・ベルク・メドレセ

 広場の向かって右側に建つのは1636年に建造された「シル・ドル・メドレセ」。「シル」はタジク語で「ライオン」、「ドル」は「持つもの」を意味します。イスラム教では偶像崇拝を禁じているため、動物や人間の絵をマドラの正面に描いてあることは異例。
これを建造したヤラングトシュ・バハドールは、自分の権力を誇示しようとして、信者たちから批判された。非難をかわすために中央の「ティラカリ・メドレセ」を寄進した。



シル・ドル・メドレセ        

 シル・ドル・メドレセの中庭で午後5時半からチャーター機で日本から来た観光客を歓迎するセレモニー。約1時間、地元の歌、踊りなどが披露される。


 歓迎セレモニーのあとはジョージア料理の夕食。
 午後9時からのレギスタン広場で3Dマッピングをみたあとホテルに帰ってきたのは午後9時過ぎ。


4月15日(日)
 ウズベキスタンの旅3日目、くもり一時雨。
午前8時にホテルを出発してサマルカンドからティムールの出身地シャフリサブスに向かう。
 途中、道路を離れて地元のトイレ体験をする休憩をとったあと、午前10時45分にシャフリサバスの町に到着。移動には約3時間かかっているが、途中の道路や町中で多くの乗用車をみかける中で、日本車を見ることはほとんどない。大部分がアメリカの自動車会社GMとの合弁会社がウズベキスタン国内の工場で製造したシボレーブランドの自動車。輸入車には100%の関税が賦課されていて、庶民の手に届かないからこういう現況になっているとのこと。
 シャフリサブスはカシュカダリヤ州に属する、サマルカンドの南約80キロメートルに位置する人口約5万3000人の町。中央アジアにおける主要都市だった歴史を誇り、英雄ティムールが誕生した場所として知られている。町の名前は、ペルシア語で広がるオアシスが緑にあふれていた様子に由来するという説が有力である。
2000年に、15世紀のティムール朝時代に建築された建物の現存する地区が世界遺産に登録された。
かつてシャフリサブスの町は現在のキタブ付近に存在していたが、13世紀から14世紀の間に市域が現在の位置に移っている。
 もともとは「心休まる場所」という意味のキシュという名前で知られていた町であり、古代のシャフリサブスは、中央アジアの都市の中でも最古の歴史を持ち、アレクサンドロス大王の攻撃を受けたアケメネス朝は、この地で終焉を迎えた。アレクサンドロスは将軍プトレマイオスをバクトリア地方のサトラップ(太守・総督)に任じた。紀元前328年か327年の冬にかけて、アレクサンドロスはシャフリサブスに滞在して妻クロサナを娶っている。
 キシュは中央アジアのイスラム化以前からソグディアナの都市として知られており、隋唐代の中国の史書に書かれている史国は、この地に興った都市国家である。玄奘三蔵の『大唐西域記』には羯霜那国の名で登場している。イスラム化が進んだ9世紀、10世紀に至ってもキシュは中心都市の地位を保つが、サマルカンドとブハラの発展に伴って衰退が始まる。
 現在の町の名であるシャフリサブスの呼称が最初に確認されるのは、1351年にチャガタイ・ハン国で鋳造された銀貨である。そして14世紀末、ティムール朝の時代にシャフリサブスはティムールとともに歴史の表舞台に再び現れる。
 ティムール朝の建国者であるティムールは、1336年4月9日にシャフリサブス近郊の村で誕生した。1379年にティムールによってホラズム地方の学者、職人たちは家族ごとシャフリサブスに移住させられ、1381年にはクルト朝の首都ヘラートの住民と城門がシャフリサブスに移される。その後シャフリサブスは中央アジアの文化都市に発展し、「クッバトゥル・イリム・ワル・アダブ(学問と道徳のドーム)」の称号が冠せられた。
 1380年よりアク・サライ宮殿の建築が開始され、ティムール朝の貴族や高官たちによって、メドレセ、僧院、宿泊所、貯水槽が町の内部と周辺地域に建てられた。ティムールはシャフリサブスを自らの故郷と考え、ここに自らの墓を建設することを計画した。ティムールは当初シャフリサブスを首都に定めることを考えたが、立地と冬季の交通の便の悪さのため、サマルカンドを首都に据えた。
 16世紀にティムール朝に代わって成立したブハラ・ハン国のアブドゥッラーフ2世は、シャフリサブスの大部分を破壊した。
 当初ブハラ・ハン国ではシャイバーニー王家がシャフリサブスを統治していたが、17世紀末よりシャフリサブスの統治権はウズベクのケネゲス部に移る。ケネゲス部はシャフリサブスを拠点として同じウズベクのマンギト部と争った。1870年にシャフリサブスはロシア帝国によってロジア保護下のブハラに併合された。
ソヴィエト連邦崩壊後にウズベキスタン共和国が独立し、建国の英雄としてのティムールが再評価されるに伴って、ティムールの故郷として観光都市化が進められている。

シャフリサブス地図

 最初はティムールのアク・サライ宮殿の跡の観光。復元修復された城壁に設けられているサマルカンド門から入っていく。まず見えてくるのは巨大な宮殿跡の遺跡。
 中に入るとまずアク・サライ宮殿の2つのアーチが見えてくる。この宮殿は1380年にティムールが建設に着工し、1405年のティムールの死後にも建設は続けられた。夏の宮殿で屋上にはプールまで造られた壮大な建造物でしたが、今や建物の大部分が崩れ落ち、入口であるアーチ部分のみが残っている。
 16世紀の記録によると、宮殿全体が青と金色のタイルに覆われ、天井も精工な金細工で装飾された絢爛豪華な建物であったとされている。正面のアーチ部は巧妙なモザイク技術が使われ、ライオンと太陽の紋章が描かれ、また、3つの輪によるティムールのサイン模様がついていたという。現在のアーチ部の高さは38メートルであるが、建設当時は50メートル以上あり、左側のアーチの中柱には、アラビア語で「スルタン(ティムール)はアラーの陰である」と書かれているが、右側は「スルタンは陰である」と書かれてあり、「アラー(神)」が抜けていた。これに良かったティムールは職人をアーチの上から投げ落としたと伝えられている。
 16世紀後半にシェイバニ族がティムール王朝の跡を消滅させると命令したことから宮殿は破壊されたが2つのアーチのみが残された。
古代エジプトの遺跡は石造りであるがこちらはレンガを積み上げたもの。崩れているのは地震などの自然災害ではなく、その時の権力者が破壊したもの。現在は地元の人たちの公園となっている中心にはティムールの彫像がある。
公園内にはサマルカンドに葬られたため主が不在となった石棺が収められたモスクもある。





公園内のティムール像

 アク・サライ宮殿跡を30分ほど見学して、ドルティロヴァルト建築群に移動。
ドルッティロヴァット建築群にはティムールにまつわる建築群が建ち並び、「瞑想の館」とも呼ばれている。
 広い中庭に1435年にティムールの孫であるウルグ・ベクが金曜日のモスクとして建てたコク・グンバス・モスクが建つ。壮大な建造物で青緑の大きなドームがひときわ異彩を放っている。内部は青と白を基調にしたタイル張りで、上部にフレスコ画が描かれている。


 中庭を挟んで対面する2つの廟、グンバスィ・サイーダン廟とシャムスッディン・クラール廟がある。
グンバスィ・サイーダン廟はウルグ・ベイが1437年に自分の子孫のために建てたもので内部に4つの墓石が並べてある。シャムスッディン・クラール廟はティムールが1373年に父のために建てたものである。


 ドルッサオダット建築群のドルッサオダットとは「権力の座」を意味している。崩れかけた巨大な建物のジャハンギール廟が建築群の中心で、ティムールが22歳で戦死した長男のジャハンギールのために建造した。廟の正面アーチはアク・サライ宮殿のアーチとほぼ同じ大きさで、約20年の歳月を費やして建設が終わった。ティムールの次男ウマル・シェイヒの廟もここにある。廟の前は基底部の台座だけが残る大きな空地になっていて、ここにも廟群が並んでいた。
 この場所から1963年にティムールが自身で用意した墓室が発見され、地下室から棺が発掘された。大理石製の棺の側面にティムールの生涯を記した碑銘が刻まれている。ティムールは愛する息子たちとともにこの地で埋葬されることを望んでいたが、彼の願いはかなわず、彼はサマルカンドのグリ・アミール廟に埋葬されている。

ティムールの墓石

 観光を終えて昼食。午後1時50分に出発して一路ブハラの町に向かう。
 道路の整備が十分でないことについて、ガイドさんは中央アジアに属する隣国、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメンスタンの国々は中国からの援助を受けて整備をしてきているが。その代償として国内の土地を中国資本により買い占められている。ウズベキスタンは初代大統領が援助を断ったことにより、中国資本からの影響は逃れているが、安い製品、粗悪品が大量に流入してくることは避けられなかったということを話していた。このことの真偽は不明。
 バス移動で4時間30分後の午後6時20分にブハラの町に到着。今日明日連泊となるザルガロンプラザにチェックイン。ここのホテルはバスタブ付き。
 今回のツアー参加者には一人旅が多い。男性7名、女性8名の15名。そのほかは母、娘、孫2人の親子連れが1組、残りは夫婦4組。参加者の半ばを一人旅で占めるのは珍しいことだ。
 前回の旅は南アフリカのナミビアだったという人がいたり、マタピチュは当然のように観光していたり、ヨルダン、イスラエル、イラン、イラクなども旅した国に入っている。そういう人にとっては直行便で行けるウズベキスタンなど秘境でもなんでもないところだろう。
 今回同行の旅をしているTさんにとって、今回の旅はなかなかくたびれるものであるようで海外の旅もこれで最後ということになるのかもしれない。Tさんとは2010年からの8年で12回の同行の旅が楽しめたことは私にとってもいい思い出になっている。インド、ネパール、クロアチア、ロシア、中国黄山、武陵源などTさんの希望がなければ行かなかったところも多い。

4月16日(月)
 ウズベキスタンの旅4日目、晴れ。
 午後9時にブハラの観光に出発する。
ブハラは、ブハラ州の州都。ザラフシャン川下流域に古代より栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地が世界遺産に登録されている。人口は約24万人。



ブハラ地図

 中央アジアのオアシス都市であるブハラは、1220年にチンギス・ハン率いるモンゴル軍の侵攻で原型をとどめないほど壊滅させられた。14世紀に廃墟の上に再建された町は、今なお中世都市の面影を色濃く残している。砂漠のオアシスとしてシルクロードの中枢に位置し、「聖なるブハラ」と呼ばれ、中央アジアのイスラム教の中心地として栄えてきた。
 ブハラは古代からサマルカンドと並ぶソグディアナの中心都市であり、イスラム時代以降、特にサーマーン朝の首都となってからもイラン・中央アジアにおける最も重要な都市のひとつであった。また近代でも20世紀の初頭までブハラ・ハン国の首都が置かれ、西トルキスタンにおける政治・文化の中心都市であった。サーマーン朝にはじまる近世ペルシア語文学の発信源としてこの都市が残した足跡は大きい。また、シャイバーニー朝やジャーン朝においてはブハラの宮廷でペルシア語に加え、チャガタイ語文芸運動を隆盛させその中心都市としても発展した。このような歴史背景から、現在は住民の大多数がウズベク人とされているものの、住民の間ではペルシア語系のタジク語が広く話され、タジク人としてのアイデンティティを有する者も数多く存在する複雑な民族構成をもつている。
 ブハラは、ザラフシャン川下流域のオアシス地帯に位置し、その中心都市。約220キロ東にサマルカンド、450キロ北東にウズベキスタンの首都タシュケントが位置している。約85キロ南西がトルクメニスタンとの国境であり、テュルクメナバートは約100キロ南西にある。
 産業は天然ガスを産出するほか、繊維、絨毯などの生産でも知られている。旧市街地が世界遺産に登録されて以降は観光産業にも力を入れている。
 中央アジアの乾燥地帯の中に位置しながら水資源に恵まれたオアシスに位置するブハラに人々が集落を建築し始めたのはきわめて古く、考古学上の発見から紀元前5世紀には城壁を持つ要塞都市が成立していたことが明らかになっている。
 古代のこの地方ではペルシア帝国の影響を受けたイラン系の文明が発達し、紀元後のブハラではソグド人の都市国家が建設された。都市国家ブハラの商人たちは東西交易の仲介者として活躍し、隋唐時代の中国の史書には「安国」という名称で登場する。1060年に成立した中国の史書『新唐書西域伝』には「安国は又の名を布豁、あるいは捕喝建という」という記載がある。
 しかし8世紀初頭にはこの地方にイスラム帝国の勢力が及び、ブハラは709年にウマイヤ朝によって征服された。これ以後ブハラはイスラム教勢力の支配下に置かれ、次第にイスラム化が進む。
 9世紀後半、土着のイラン系貴族がアッバース朝から自立してサーマーン朝が成立し、ブハラは10世紀の末まで続いた王朝の首都となった。サーマーン朝の時代には東方の草原地帯からイスラム世界に向かって送り込まれるテュルク系のマムルーク(奴隷軍人)の交易が盛んに行われたことにより、マムルーク交易と結びついた商業都市として発展を遂げた。サーマーン朝時代に市域は大幅に拡張され、要塞と長大な市壁に囲まれた市街地、およびその周囲に発達した郊外地域からなる大都市となり、ブハラはサマルカンドにかわってマー・ワラー・アンナフルの中心都市に成長した。
 文化的には、サーマーン朝の君主の保護のもと、イスラムによるサーサーン朝の征服以来衰退していたペルシア語による文化活動が興隆し、アラビア語の語彙を取り入れアラビア文字で表記するようになった近世ペルシア語の文学活動の中心地となった。また君主の保護によってさまざまな施設が建設され、中でもイスマーイール・サーマーニー廟は、現在まで残されており貴重な文化遺産になっている。
 サーマーン朝の滅亡後はテュルク系のカラハン朝、ホラズム・シャー朝の支配下に入り、政治・経済・文化の中心ではなくなったが、依然として中央アジア屈指の大都市であった。しかし13世紀の前半にはモンゴルの征服を受け、市街が破壊されていったんは荒廃した。その後のモンゴル帝国支配下で徐々に人口が回復し、同世紀の後半までに都市は復興したが、15世紀のティムール朝まで政治的な中心はサマルカンドに奪われたこともあり、征服以前の繁栄には及ばなかった。『明史 西域番国志』に当時
のブハラの様子が記録されている。
 16世紀後半に至り、ウズベク人のシャイバーン朝がブハラを実質上の首都と定めるとともに、ブハラは再び拡大に転じた。アブドゥッラーフ2世(1583年―1598年)はブハラの再開発を推進し、モスク、メドレセ、公衆浴場、商店街が建設された。シャイバーン朝以来、この地方を支配した歴代の王朝はブハラを首都とし、このためこの政権はブハラ・ハン国と呼ばれている。ブハラは中央アジアにおけるイスラム教学の中心地としても重要な役割を果たし、「ブハーラーイ・シャリーフ(聖なるブハラ)」と呼ばれるようになったブハラは各地から多くのムスリムが巡礼や修学に訪れる宗教都市の性格も帯びている。
 19世紀後半にブハラは南下政策を推進するロシア帝国によって征服され、ブハラ・ハン国はロシアの保護国としてその植民地に組み込まれました。ロシア人たちはムスリムたちが住む旧市街を避け、その隣接地に新ブハラ(カガン)と呼ばれる近代都市を建設したため、ブハラは本来の都市構造と景観を維持できた。また、新ブハラを起点としてロシアの各地とブハラを結ぶ鉄道の敷設が進められ、ブハラはロシア帝国と緊密に結び付けられた。
 ロシアの支配下に入っても、旧市街に住むアミール(君主)をはじめとする支配者たちは一定の権限を残されて温存され、またブハラ人社会の指導的な階層は伝統的なイスラム教育を受けた宗教指導者たちが占めていた。20世紀初頭になると、ロシア帝国内のムスリムの間で起こっていた教育の西洋化改革を訴える啓蒙活動の影響がブハラにまで及び、「青年ブハラ人」と呼ばれる若い知識人たちの活動が起こった。1910年代に入ると青年ブハラ人の運動は急進化し、アミール専制を批判し、国内改革を盛んに訴えた。
 1917年のロシア革命の影響はブハラにも及び、1920年に赤軍の軍事介入でブハラで革命が成功、ブハラ・ハン国が滅んでブハラ人民ソヴィエト共和国が成立した。しかし旧支配層から国外の汎トルコ主義者まで巻き込んだ革命勢力に対する反抗や、ロシア共産党のソヴィエト政権による介入・粛清によって共和国の指導層は急速に瓦解した。最終的に1924年に、民族の分布を基準とする境界線による新しい共和国が編成されることになった。
 民族的境界策定にあたって旧来ブハラ・ハン国の領域に住んでいた住民は、テュルク語系のウズベク語を母語とする人々はウズベク人、ペルシア語系のタジク語を母語とする人々はタジク人とされたが、ブハラ市民の大多数はウズベク人と認定され、ブハラはウズベク・ソヴィエト社会主義共和国に編入された。しかし歴史的に中央アジアにおけるペルシア語文学の中心都市であったブハラではタジク語が日常的に話される割合も大きく、民族境界画定の恣意性が指摘されることもある。
 1991年にソヴィエト連邦が崩壊してウズベキスタン共和国が独立すると、ブハラは新しいウズベク独立国家の優れた文化遺産として再評価されるようになった。1993年の世界遺産登録を経て、観光都市としてのブハラの再開発が進んでいる。ユネスコの後援で開催された1997年のブハラ建設2500周年の祭典をきっかけにブハラの歴史的建造物の修復が行われた。
 一方ソヴィエト連邦の崩壊によってタジキスタンとの間の境界は独立主権国家間の国境となり、ブハラでは多くのタジク語を話す住民、タジク人住民が存在するという矛盾が固定化された。現在も、タジク人住民の中には、ウズベキスタンよりもむしろタジキスタン共和国への共感を抱く者もいる。

 ブハラの街の最初はカラーン・モスク。ここはカラーン・ミナレットを中心にして右側のカラーン・モスクと左には現在も神学校として使われているウルグ・ベグ・メドレセ。旧ソ連時代、イスラム教の教えは否定されていて、国内に24か所のモスクしか残されなかったそのうちの1つ。1991年の独立後はモスクの数が2000まで回復してきているというのはガイドさんの説明。
 カラーン・ミナレットのカラーンは「大きい、または素晴らしい」、ミナレットは「光塔」の意味で、指導者の権威の象徴として建造された。高さが46.5メートルあり、ブハラのどこからでも見える最も高い建造物である。円筒状の塔の基底部は直径が9.3メートル、上部が6メートルで、上にいくほど細くなっている。壁面は14層に分けられ、異なる装飾模様のレンガが積み上げられた。頭頂部の灯光窓の下の1層だけは青タイルが使用されている。内部に105段の階段がらせん状にあり、上からは16の灯光窓からブハラの市街や城壁が見渡せる。
 塔はシルクロードを行きかう隊商たちの目印となり、18〜19世紀には死刑囚を塔の上から袋に入れて投げ落とす「死刑塔」として用いられた。

             カラーン・モスク

 カラーン・ミナレットと同時期に造られたモスクは木造りで208本の柱が天井のドームを支えていた。長方形の中庭は周囲を回廊が囲み、青くきらめく大きなドームが美しい。
 ウルグ・ベグ・メドレセはウルグ・ベクが教育普及のために、ブハラ、サマルカンド、ギジュドゥヴァンの3都市に建てたメドレセ(神学校)の一つ。1420年にブハラで最初のメドレセが建てられている。現在も学校として使用されているので中に入ることは出来ない。
 星や植物、幾何学模様などがマジョリカ焼きタイルによって装飾され、正面入口の扉の上に「知識を得ることは、イスラム教の義務である」「アラーを信ずるものは、常に神の祝福を受ける」というウルグ・ベグの銘文が刻まれている。

ウルグ・ベグ・メドレセ

 ウルグ・ベグ・メドレセの前に建つウアドゥールアジス・ハーン・メドレセはウルグ・ベク・メドレセの正面に建ち、1653年に建てられた神学校。規模や豪華さではウルグ・ベグ・メドレセを凌ぐ。


 タキ・バザールでコウノトリ型のハサミを購入するが、こうした職人街、30年近く前にカシュガルでも出会っていて、その時にはきれいに装飾されたナイフを土産に買って帰ったことがある。


 旧市街の中心近くにあるリャビハウズ(池)、旧ユダヤ人街、キャラバンサライの跡などを見て昼食。
昼食後、予定コース外になるクルミの木細工の書見台の工房を見学して、シエスタ(昼休み休憩)でいったんホテルに帰る。1時間ほど部屋で休憩して午後3時30分に再び旧市街に向かう。
 チャシュマ・アイユブ廟から観光再開。チャシュマ・アイユブ廟は水不足で人々が苦しんでいた時に、予言者ヨブがここを杖で叩いたところ泉がわき出したという伝説が残る。泉の水は眼病に効くといわれたが、疾病の流行で使用されていない。現在も大勢の信者たちがこの廟を訪れ顔をこの水で洗い、お祈りをしている。

 次にイスマーイール・サーマーニー廟に向かう。この周辺は公園として整備されている。この廟は、ブハラにある中央アジア最古のイスラム建築である。ここに、9世紀末に中央アジアに成立したサーマーン朝の王族が眠っている。サーマーン朝の君主イスマーイール・サーマーニーの名前が付けられているが、イスマーイールの廟であるかは不明。
 13世紀のモンゴル帝国の襲来の際に廟は砂の中に埋もれており、モンゴル軍による破壊を免れている。1926年に発掘されている。
 イスマーイール・サーマーニー廟が建設されたのは892年から943年。建築に費やされた期間は約50年。イスマーイールが父のために建立したと伝えられている。砂に埋もれていたことから1000年以上の年月を経てもなお、廟の土台部分はしっかりと残っており、修復作業も完了している。
イスマーイール・サーマーニー廟は中央アジアにおける最古のイスラム建築であり、サーマーン朝以降の中央アジアにおける建築に大きな影響を残している。古代以来の日干しレンガ建築で建設されているものの、サーマーン廟以前のイスラム建築のいずれよりも高層になっている。
 一辺10メートルの正方形の箱の上に、内径8メートルのドームが載せられた形状になっている。廟の四隅には太い円柱が置かれ、箱の部分とドームは8のアーチと16本の簗で支えられている。廟には複数の入り口が設けられているが、どれが正面入り口かは判明していない。壁の材質には日干しレンガのみが使用され、レンガの凹凸のみを使用して複雑な陰影を表現している。レンガは一辺20−25センチメートルの正方形、厚さは3−5センチメートルの形状をしており、レンガに施された装飾はイスラム化以前の中央アジアの建築に見られる特徴が残っている。
 廟は外観と内装両方の美しさを評価されて宝石箱にも例えられており、月の光に照らして見た姿が最も美しいと言われている。
 建物の周りを3回、まわると願いが叶うといわれている。





イスマイール・サーマーニー廟

 次にアルク城の観光。アルクは「城」の意味で、約2500年前のこの周辺が古代ブハラの発祥の地であったとされている。
 アルク城は歴代のブハラ・ハンの居城。最新の発掘調査によると、少なくとも紀元前4世紀頃から存在していたことがわかっている。
 何度も外敵に破壊されては建て直され、現在の城は18世紀のもの。以前は木造の建築物もあったが、1920年ソヴィエト連邦軍による爆撃で焼け落ちてしまい、現在残っているのは石造りの部分のみ。壁面には狭い間隔で木材がとび出ているが、それは建設される際に足掛りとして使われたもの。


 内部にはアミールの部屋、拷問室、警備の詰め所、家畜用の小屋、モスクなど様々なものが並んでいる。堅固な城門をくぐると暗い通路になっており、両側には囚人の地下室跡がある。通路を抜け、道なりに進むと、左手にアミールがかつて謁見の玉座の間として用いた部屋があり、セレモニーやフェスティバルにも用いられた。
 博物館も併設されており、1階には古代のブハラ、2階には中世のブハラ、3階には貨幣などが展示されている。城壁の上からはブハラの街並みを楽しむことができる。
 午後5時30分に今日の観光を終わって夕食はモスクの中庭で民族ショーを見ながら。

民族舞踊

4月17日(火)
 ウズベキスタンの旅5日目、朝はくもっていて、気温も下がっていて上着がないと寒かったが観光地では暖かくなっていた。途中雨も降っていたが天気は回復していく。
 6時30分からの朝食、午前7時25分の出発となるので昨夜は午後11時すぎに就寝している。
 サマルカンドに2日、ブハラに2日連泊した後、今日はヒヴァへの移動の一日。途中ウズベキスタンの自治区であるカラカルパクスタンにある古代遺跡を観光していくことになるので走行距離が約400キロ、約7時間をかけることになる。
 ホテルを出発してからブハラの町を出るとすぐに砂漠となっていて、そこを通る道路の状態も良くなかったが、約2時間走ってトイレ休憩をとったところからはドイツと韓国の経済援助で整備された道路になり、振動がなくなる。
道路がアムダリヤ川に沿って走っているところでは対岸がトルクメニスタンであるという説明。
 ウズベキスタンの教育や生活習慣などについてガイドさんが説明している中で、ウズベキスタンでは16歳未満の子供の人口が40%を占めるということやまだまだ「家」という考え方が残っていて結婚は見合いの形をとり、「家」を継ぐというようなことなど一昔前の日本がそうであった考え方が根強く残っているとのこと。
 午後12時過ぎにバスの車内でサンドイッチの軽食が提供される。
 午後2時39分、7時間のバス移動でアヤズカラに到着。アヤズカラのあるカラカルパクスタンはウズベキスタン共和国の中にある自治共和国で、ウズベキスタン国土の37%を占めるが、その面積の80パーセントが沙漠。
 カラカルパクスタンはウズベキスタンの北西に位置し、その北部にアラル海を有する。国名の「カラ」が黒、「カラパク」が帽子という意味で、カラカルパクスタンは「黒い帽子をかぶる民族」ということになる。人口は約172万人で、公用語はカラカルパク語というテュルク系の言葉とウズベク語を話す。
 人口約26万人の首都ヌクスのほかにホジュリ、モイナクなどの町がある。民族構成はウズベク人が36%、カラカルパク人が32%、カザフ人が25%、ほかトルメク人、ロシア人、タタール人、朝鮮人などもいる。住民の大半はスンニ派のイスラム教を信仰し、ロシア人はロシア正教徒である。
 独自の憲法を制定していて、国旗や国歌を持っている。しかしウズベキスタン憲法の枠を超えることは出来なくて、外交権も持っていない。
 旧ソ連がこの地を支配したとき、それまでウズベク族かカザフ族の方言と考えられていたこの地の民族の言語を詳細に研究した旧ソ連の言語学者が、「この地の民族の言語は、ウズベク語とは異なりカザフ語と発祥を同じくする別の言語である」と認定したことにより、「カラカルパク族」が創出された。それ以前までは、ホレズム帝国を構成する部族であり、口承叙事詩を元に、ロシアのサラトフやカザフの麓から移動してきたという伝承のみがこの民族のアイデンティティを支えてきていた。本来、民族は文化や社会制度なども加味された上で分類されるべきであるが、言語によって民族を規定する方式は、旧ソ連の指導者スターリン自身が言語学者であったことに基づく。
 1924年の民族境界画定により、旧ヒヴァ・ハン国領の一部、およびロシア帝国領だったザカスピ州、 シルダリヤ州の領域の一部から、1925年にカラカルパク自治州が設置され、初めて世界地図に現れ、現在のカラカルパクスタン共和国の領域が成立した。カラカルパク自治州は、当初キルギス自治ソヴィエト社会主義共和国(現在のカザフスタン)の管轄下に置かれたが、1932年にはカラカルパク自治共和国に昇格した。1936年にウズベク・ソヴィエト社会主義共和国管轄下のカラカルパク自治ソヴィエト社会主義共和国に移管された。1991のウズベキスタンの独立後、1992年にカラカルパクスタン共和国に改組された。
 アヤズカラ遺跡の近くにユンタというモンゴルでいうパオのようなものがいくつか作ってあってそこで昼食。ここは宿泊することもできるということ。
 昼食のあと往復40分かけてアヤズカラ遺跡を観光。上からの眺望はまわりに何もないだけに素晴らしい。今の季節に咲くという「砂漠ろうそく」と名前の付いた黄色い花が印象的。




 アヤズカラはカラカルパクスタン共和国にある都城遺跡。キジルクム砂漠の縁に位置する都城の一つで、6世紀から7世紀頃の古代ホラズム王国のものとされる。


 旧ソ連時代の面影を、通り過ぎる風景の中で随所に感じることができる。灌漑施設を利用して栽培される綿花や米などの広大な農地がある一方、赤い砂漠といわれるキジルクム砂漠が広がる地域には羊・ヤギ・馬・ラクダなどの牧畜が行われており、その乾燥した砂漠に古代ホラズム王朝時代の遺跡群が点在している。
 古代からアムダリヤ川の流れに沿っていくつもの都市が繁栄そして衰退を繰り返してきた。トプラク・カラという有名な遺跡では王の間、黒い兵士の間、勝利の間といった宮殿部分や拝火教(ゾロアスター教)寺院跡を巡り、高台からは広大な景色を堪能でき古の華やかな時代を偲ばせてくれる。
 6世紀ごろのこの遺跡の付近にはアムダリヤ川が流れていたが、その川筋が変わってしまったことでこの都市への水の供給ができなくなり見捨てられてしまった。
 再びバスに乗りトプラカヤ遺跡。ここはそれほどきついのぼりではない。この地域ではこうして城が50近くあって領主が支配していたということ。
 トプラク・カラとは「土の宮殿」言う意味。紀元前1世紀から紀元後5世紀頃に栄えたアムダリヤ川右岸にあるホラズム王国の都城遺跡。干しレンガで造られた壁も当時のまま残っている。
 

 1938年に発見され,王宮,ゾロアスター教神殿,神殿内部からの美術品,文書などが発掘された。
 ここからヒヴァまではまた2時間のバス移動。途中、アムダリヤ川にかかる橋を渡っていくが水量が減っていることがわかる。

アムダリヤ川

 ウルゲンチの町を通ってヒヴァに着いたのは午後7時30分過ぎ。ホテルは内城近くにあるアジアヒヴァ。

4月18日(水)
 ウズベキスタンの旅6日目、晴れ。
 今日はヒヴァ旧市街の観光。ホテルが内城の南門の近くにあり終日徒歩での観光。
 ヒヴァは16世紀初頭から20世紀初頭まで存在したヒヴァ・ハン国の首都であった。ホラズム州に置かれ、ホラズム州の州都ウルゲンチの南西に位置している。ブハラと並ぶ中央アジアの宗教都市であり、「聖都」の名前で呼ばれる。綿工業と製陶が町の主産業となっている。


 ヒヴァの旧市街イチャン・カラは、1991年にウズベキスタンで初めて世界遺産に登録された。
メルブからクフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチ)に至る隊商路の間に存在していた泉を中心に町が発展した伝承が残り、現在も泉はイチャン・カラの中で湧き出ている。発掘調査の結果、1世紀にはすでに町の基礎ができていたことが判明している。ヒヴァの歴史が始まった際、ヒヴァの最初の住民はホラズム語と呼ばれる東方イラン語を話すアーリア人であったとされる。
 712年のアラブの征服以降にヒヴァはイスラム化する。10世紀に書かれたアラビア語の地理書に、初めてヒヴァの町の名前が現れる。
 17世紀前半にアムダリヤ川の河道が変化してウルゲンチ・ハン国の首都クフナ・ウルゲンチが衰退すると、ヒヴァがウルゲンチ・ハン国の首都に選定され、ハン国の名前は首都の名前を冠したヒヴァ・ハン国と呼ばれるようになる。一時ブハラのジャーン朝によって支配され、1740年にはイランのナーディル・シャーの攻撃を受けてヒヴァは破壊される。
 1873年、ロシアがヒヴァを攻撃し、その年の5月28には、ヒヴァを陥落させると同時に、ヒヴァ・ハン国を従属させることに成功した。
 十月革命の後、ボルシェヴィキの運動に賛同する形で、短命ながらもヒヴァ・ハン国の領域にホラズム人民ソヴィエト共和国が建国された。1920年4月から、ヒヴァはホラズム人民ソヴィエト共和国(ホラズム社会主義ソビエト共和国)の首都とされた。1920年当時のヒヴァには94のモスク(寺院)、63のメドレセ(神学校)のほかに多くのバザールや工房が存在していた。1924年の民族境界画定工作の結果、この国家は廃止・分割されウズベク・ソヴィエト社会主義共和国が成立したが、その際ヒヴァはウズベクに区画され、1938年にホラズム州に編入された。
 ヒヴァは2つの町に分かれる。城壁の外側はいわゆるディチャン・カラと呼ばれる地区であり、かつては11の門が街を守っていた地区である。城壁の内側は、世界遺産にも登録されているイチャン・カラ地区であり、10世紀には建設されたといわれている煉瓦の城壁に守られている。現在の城壁は17世紀にさかのぼることができ、その高さは10メートルに及ぶ。


 イチャン・カラ地区は18世紀から19世紀にかけて建設された50以上の歴史的建造物と250以上の古い民家が存在する。たとえば、イチャン・カラに残る金曜モスクは10世紀に建設されたと伝えられ、1788年から1789年にかけて再建された。
 ヒヴァ・ハン国の時代にはイチャン・カラには宮殿、モスク、メドレセ(神学校)、霊廟が建ち、ディチャン・カラには職種別に区画された地域に職人たちが居住していた。
 午後9時に徒歩での観光に出発する。今回宿泊のホテルがヒヴァの外城を入ったところにあるので内城の南門まで近い。まだ観光客も少なくて開店準備のところも多いなか、最初の観光は西門近くにあるカルタ・ミナール。


 カルタ・ミナールは1852年に着工したが完成することなく放置された高さ26メートルのミナレット。カルタとは「短い」という意味で、青を基調にした採釉で覆われ、日干し煉瓦造りの建築群にあって、美しくきらめいて見える。
もともと1階が教室、2階が寄宿舎と使用されていた建物が現在はホテルに改装されている。部屋の中を見せてもらったが広さはともかく、窓のない作りになっていて水回り設備もよくないということで日本からの観光客はあま利用しないところだということ。狭い階段を上って2階から中庭を見る。
2か所目の観光はイスラム・ホジャ・ミナレット。このミナレットはヒヴァで最も新しい建造物。ミナレットは基底部直径が9.6メートル、高さが44.5メートル。

イスラム・ホジャ・ミナレット

3か所目はジュマ・モスク。ここは中央アジアで最も古く、「金曜モスク」「中央大モスク」として最も有名なモスク。扉には1788〜1789年建設と刻まれているが、それよりも古い柱が何本も使われている。
世界でも特異なモスクといわれ、3つの天窓から差込む光だけの薄暗がりの中に、212本の柱が3.15メートル間隔で並んでいる。柱の彫刻はすべて異なっている。モスクの広さは55×46メートル。高さ5メートルで強固な壁に囲まれ、奥には大理石でできた礼拝所がある。この建物の傍らに高さ33メートルのジュマ・モスクのミナレットが建つ。このミナレットは上ることができる。
午前中はここまでで昼食、午後はクフナ・アルクの観光から。
クフナ・アルクとは「古い宮殿」を意味し、17世紀に西門のイタン・カラに建てられた。1838年に建てられた新宮殿タシュ・ハウリと区別するための呼び名である。
ここは17世紀に造られたハーンの宮殿。見晴らし台があって午前中のジュマ・モスクのミナレットには上らなかったが。こちらには10000スフを支払って昇る。上からのヒヴァの旧市街を見渡せる眺望がすばらしい。

見晴らし台からの眺望

内城の北門近くでアポイントもない一般の民家を訪問する。新婚の息子もいて歓迎してくれる。
北門近くから城壁に上って歩く。

城壁の上から

そのあとティータイム休憩をはさんでヒヴァ最後の観光はタシュ・ハウリ宮殿。この宮殿はアラクリ・ハーンが政治、貿易などを行う目的で建てたもので、同時に神学校や隊商宿、商店街なども創設し、この宮殿をタシュ・ハウリ(石の庭)と名付けられた。
 粘土を一切使わず、石造りの門や、銃眼のついた壁、塔など城砦と同じ建築構造。
 午後6時からハーンの新しい宮殿での夕食。

4月19日(木)
 ウズベキスタンの旅7日目、晴れ。
 旅の実質最後の一日。午前6時の朝食のあと午前6時55分にホテルを出発する。
午前9時40分にウズベキスタン航空国内便HY−052便でウズベキスタンの首都タジキスタンに向かう。タジキスタンには1時間後の午前10時41分に到着する。
 タシュケントは、ウズベキスタンの首都。ウズベキスタン北東部、シルダリヤ川の支流であるチルチク川の流域に位置する歴史的なオアシス都市。町の名はテュルク語で「石の町」という意味。

タシュケントの紋章


タシュケントの位置



 タシュケントはソグド語での古名をチャーチュ またはチャーチュカンドともいい、ペルシア語シャー・ナーメでもそのように記されている。チルチク川の形作るタシュケント・オアシスの主邑として、またカザフ草原・天山山脈北麓の遊牧地帯とマー・ワラー・アンナフルのオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄した。
 国際交易で中国にまで名を知られ、『後漢書』以来石国と呼ばれた。ソグド人が中国地域で用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を名乗った。750年には唐の将軍高仙芝が石国に侵攻したためにチャーチュはイスラム帝国に支援を求め、タラス河畔の戦いのきっかけをつくった。その後、さまざまなイスラム王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民のイスラム化・テュルク化が進展した。
 カラハン朝の10世紀末頃から「タシュケント」の名も現れる。1214年にはホラズム・シャー朝に、1219年にはチンギス・カンに、それぞれ破壊される。しかし、ティムール朝そしてシャイバーニー朝によって町は再建される。『明史 西域番国志』にも記録されている。
 モンゴル帝国時代にはペルシア語の「チャーチュ」やアラビア語の「シャーシュ」で呼ばれるのが一般的であったようだが、16世紀頃には既に「タシュケント」の方がティムール朝の王族たちなどではより一般化していたらしい。都市の名前が「チャーチュ(シャーシュ)」から「タシュケント」へ変化した原因は、恐らく「チャーチュ」の音写に由来する「石国」をウイグル地方などのテュルク語で直訳した形だと思われるが、これが現地でも使われるようになったのはウイグル地方とマー・ワラー・アンナフル双方を領有していたチャガタイ・ウルスの影響が考えられる。
 タシュケントは、1809年にはコーカンド・ハン国の支配下に入った。当時、人口は10万人を越えてロシアとの交易で栄える経済都市となった。
 1865年、帝政ロシア軍が侵攻。防御が堅固で激しい戦闘となったが制圧に成功、ロシアはタシュケントを直轄領に組み入れ、1867年にトルキスタン総督府が設置され、ロシアの中央アジア支配の拠点となった。旧市街の外側にロシア人の住む新市街ができ、ロシア人商人などが続々と移住してきた。また、中央アジアをめぐるロシアと英国の衝突で、スパイの暗躍する町となった。1874年のトルキスタン軍管区設置や1889年のカスピ海横断鉄道延伸などの新事業に従事する労働者階級のロシア人は、やがてロシア革命の中央アジアでの担い手となっていった。
 ロシア革命が起こると、トルキスタン自治ソヴィエト社会主義共和国の首都となり、再び中央アジアをめぐるロシアと英国が衝突し、スパイの暗躍する町となった。1924年にはウズベク・ソヴィエト社会主義共和国に編入され、1930年、サマルカンドに代わって首都となった。
 1966年4月26日、町は大地震に見舞われ、7万8000棟の家屋が倒壊した。地震後、計画的な都市作りが行われた。そのため非常にソ連的な町並みとなり、ソ連で4番目の人口を誇る大都市に成長した。ウズベキスタン独立後の今日でも大きなロシア人社会を抱えているが、町並みからロシア色は消えつつあり、イスラム原理主義の動きも出てきている。
 空港に着いてすぐに中華料理の昼食。昼食後市内のスーパーマーケットで土産用のチョコ、干しブドウ、チーズなどを購入。手持ちのウズベキスタン通貨スムを使い切る。
 観光は最初に工芸博物館、次にティムール広場、ナヴォイ劇場、日本人墓地。
ウズベキスタン国立工芸博物館は1907年に建てられたロシア公使の私邸が博物館になっていて建物自体がそっくり展示物となっている。壁面や天井の精巧で鮮やかな装飾が当時まま残されている。




 新市街中央部にあるティムール広場にはティムールの騎馬像が建っている。ティムールはウズベキスタンのシンボルとしてサマルカンドと生誕地のシャフリサブスにも建っている。

ティムール像

 第二次世界大戦終了間際に、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、ポッダム宣言を受諾して戦争状態を終えた日本軍に対して一方的に攻撃を仕掛け千島列島を占領し、北海道への侵略も目指していたソヴィエト連邦に対しては憤りを禁じえないが、こうした不可侵条約は外交上の手段として歴史上何度も結ばれてきていて、相手の弱みに付け込んで条約を無視して攻め込むということはナチス・ドイツとソ連との間で結ばれた独ソ不可侵条約がドイツ軍の攻撃により破られたことをみてもわかるように順守されるなどと考えるのは妄想に過ぎないことは明らかである。
 ソ連の捕虜となった約2万3000人の日本人がウズベキスタンに強制労働者として移送されてきた。ナヴォイ劇場はその日本人たちが2年間で完成させた劇場。1966年の大地震にもびくともしなかったこの劇場は日本人の建築技術のすばらしさを知り、親日感情が高くなったと言われている。


 ウズベキスタンの旅の最後の訪問地はヤッカサライ公営墓地の一角にある日本人墓地。
 第二次世界大戦敗戦終了後に中国東北地方(満洲)やサハリン(樺太)に駐留していた日本兵約58万人が、武装解除投降後、捕虜としてソヴィエト連邦により強制的にシベリアや中央アジア地域に連行され強制的に労働を強いられた。捕虜という言い方を嫌って抑留と言っているが捕虜であることに変わらない。国際法では戦争捕虜の取り扱いについて規定されているが、ウズベキスタンにも日本軍捕虜が移送され、ウズベキスタン各地で建設事業に従事する長期的な抑留生活を送ることになった。
 日ソ共同宣言で日ソ間の国交が回復され、帰国することができた1956年までの間にウズベキスタンでも884名が亡くなっている。
 ヤッカサライ公営墓地にある日本人墓地には、タシケント地区及びその周辺で亡くなった87名が葬られている。
地元の埋葬方式である土葬により葬られていたがウズベキスタン独立後の1995年にウズベキスタン政府の協力により再整備され、現在のような戦没者名と出身県を刻印した墓石が設けられた。また、敷地内奥にはウズベキスタン各地に点在する13か所の日本人抑留者墓地の合同慰霊碑が設営されている。
 シベリア抑留として歴史教科書にも記録されているこの戦争の負の遺産を歴史の教訓として忘れてはならないことは当然のこととして、ウズベキスタンの人達により今も墓守がおかれ暖かく見守られていることに感謝しなければならないと思う。
 今回のツアーでも参加者の中に墓前に捧げる花束や日本酒などを持ってこられた人がいます。それを捧げて手を合わせて合掌。




 シベリア抑留から無事に帰ってこられた方々は戦後83年を超えた今、生存されている人はすでに100歳を超えられておられる。今回のツアー参加者の中にも家族や関係者にシベリア抑留者がおられるようです。私は身近な身内には抑留経験者はいないが、ボランティア活動をしていた時に抑留経験者本人にお会いすることがあり、抑留時代の思い出をお聞きしたことがある。
 どんな理由があってもこうした不幸を生む戦争は二度と引き起こしてはならないという思いから制定された日本国憲法第9条が日本が国家としての意思で軍備を持ち、戦争に加わることを禁止している条項を持っていることは世界に誇っていいことだろうと思う。
 今回の旅の同行、Tさんとはこうした戦争にかかわる施設を訪問するのは初めてのことでした。現在81歳のTさんは1945年の敗戦の時には7歳の小学校1年生で学童疎開されていたので空襲の直接の記憶はないとのことですが、遠くの町でアメリカ軍の戦闘機から焼夷弾が落とされ、町が火の海になっているのは今も強烈な印象になって残っているとのことで、戦争は二度と起こしてはならないということを話されていた。普段はそうしたことを二人で話したことがなかったのでこのことも今回の旅での新鮮な驚きとなっているとともに、憲法9条に守られているという思いを共有することになった。
 現在安倍政権のもとで画策されている、憲法改正、特にその中で注目される憲法9条の改正については時の為政者の恣意による戦争への積極的なかかわりを容認することになるので認めてはならないことだと私は思っている。現在の自衛隊を軍隊として認めるかどうかということもその時々の政権で解釈改憲というなし崩しで進められてきた経過をどう考えたらいいのかということ、国を守りには武力が必要なことはスイスの永世中立にしても抑止力としての軍隊を持っていて実現できるということはわかるが、それをたとえそれがGHQの指示の下であっても国会で論議をした結果、憲法に明記していることのすばらしさをどう考えればいいのだろうか。私の尊敬する思想家・エッセイスト・作家である加藤周一さんも「9条の会」に積極的にかかわられていました。加藤さんの原体験は大切にしていた友人を学徒出陣で失ってしまったという思いがあったということですが、戦争を経験した世代が少なくなってきている現在、この運動を保守とか革新とかいう枠組みでなく若い世代で引き継いでいかなければならないと思う。

 ウズベキスタンでの観光をすべて終えて午後4時半過ぎから早めの夕食を町中のレストランでとってウルゲンツ飛行場に向かう。ほかのツアーがまだやってこないうちに出国手続きを済ませて出発時10グループあった今回のツアーの仲間の到着を待つ。
 ツアーを終えた人たちの間で今回の旅の情報を交換されていたが、その中で通貨交換レートがよくわからないということがあった。この旅の最初にも書いているが、出発前にウズベキスタン通貨スムとアメリカドルの交換レートを調べてみたところ1ドルが約8100スム。1円が80スムとなっていたが、到着して現地ガイドさんから、現在の公式レートは1ドルが7000スムですのでそれで両替しますと伝えられ、私は30ドルを両替している。そして追加でもう一度30ドルを両替しているので合計で60ドル。土産の支払いに直接アメリカドルを使ったものは別勘定になるが、このガイドさんを通しての換算レートが、他のツアーによれば1ドルが8000スムと公式レートに近いところがあったようで、この違いは何だろうということが話されていた。
 ウズベキスタンでは最初に到着したサマルカンド空港に両替所がなく、銀行あるいは町中の両替所で交換しても手数料が必要なので1ドル1000スムという差額はそんなものかなと思っている。
 午後9時33分発のウズベキスタン航空チャーター直行便HY−527便は行きと同じく日本からのツアー客で満席。

4月20日(金)
 ウズベキスタンの旅8日目、晴れ。
 関空には午前8時38分に到着、いつものようにあわただしい別れ。
 帰国後、メールで旅の報告をKさんにしました。旅の途中で隣国イランに旅された方が何名かおられて、その素晴らしいことを話されていたのに興味をもって、Kさんが以前旅された時の写真をDVDに編集したものが家にあることを思い出して、帰国後に見ました。イランもティムールによって再建されたところであるので残されている建物の雰囲気はまるでウズベキスタンと同じものです。しかしイランには古代ペルシア帝国の遺産も多く残されているのでそれにプラスされる魅力がありそうです。そのことを踏まえてメールを送っています。
「昨年、Kさんが旅されたウズベキスタンに13日からチャーター便のツアーに出かけてきました。先に送っていただいた写真のイメージ通りの旅ができました。Kさんの行かれたイランにも興味がありますが、時期的にはむつかしいかも知れません。」
 Kさんからは、
「ウズベキスタンに行かれたのですね、気候も良かったのでは!
イランも好きな国ですが、時期的には難しいかも・・・・。私は今スペインにはまっています。明日から、以前にも出かけたメスキュータ、カタルーニアの世界遺産建築をフリータイムを利用してみたくて行ってきます」
という返信メールがすぐに返ってきました。70代後半になっても旺盛な興味で旅を続けられる姿には敬意を表します。
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