あなのわなにはまる

December 01 [Sat], 2007, 0:00
ドーナツの穴を空白として捉えるか、あるいは存在として捉えるかはあくまで形而上的な問題であって、それでドーナツの味が少しなりとも変わるわけではないのだ。
(『羊をめぐる冒険』村上春樹)




出張中に、持参の本を読み終わってしまって、慌てて借りた初めての本。

ドーナツの記述にすっかりやられ、ミスドへ走る走る。かわいいサランラップをいただきました。

蒲団とFUTON

September 10 [Thu], 2009, 0:00
これはつらい、けれどつらいのが人生(ライフ)だ!
(『蒲団』本文より)


田山花袋の『蒲団』、おそらく大部分の人が、高校の国語の授業で名前だけは聞かされている作品だと思う。



妻子のある中年の小説家時雄が若い女弟子芳子に恋をして、自分の家に住まわせたり文学的な指導をしたりと何くれと世話をやくのだけれど、別に恋人のできた芳子は結局時雄の元を去っていったため、時雄は芳子の使っていた蒲団に顔をうずめて泣く、というような、なんともいえない物語である。

このお蒲団を、現代で打ち直したのが、中島京子の『FUTON』。小説家の奥さんの方から『蒲団』の世界を見るという試みがなされている。

誰の視点で物を見るかで、物語は全然違う。同じ空間で、同じ体験をしたはずなのに、思うのは全く別のことなのだ。それは日常生活でも当たり前のことで、日々妥協点やら一致点やらを見つけながら、物事を進めていくのである。

花袋版蒲団では、名前すらなかった奥さんに「美穂」と名付け、作中で「蒲団の打ち直し」という作品を書くのはアメリカ人の花袋研究者デイブ。

デイブの恋人エミは日本人の艶っぽい(デイブにはちょっとおバカさんに見えている)大学生で、この子が新しくできたミュージシャン志望の彼氏を追って日本に行くのを追いかけ、デイブも来日する。

ああ、まるでどこかで聞いたようなお話。

しかし、デイブは日本でたくさんの人に出会い、変化し、変化させていく。第二次世界大戦や関東大震災といった100年とも言える月日の記憶を行きつ戻りつしながら生きる老人ウメキチ。老人からその100年を受け取ろうとし、行き詰まりながら必死で生きる画家イズミ。イズミを愛する同性の介護士ハナエ。

そして、美穂も時雄もウメキチもイズミも、皆が生きた東京という街。

妥協点も一致点も見つけようとしない夫と共に生きる美穂に言葉を与えるのも、ウメキチに内蔵された東京という街の記憶を描けずにいるイズミを解放するのも、まるで現代の時雄役であったかのようなデイブだった。それは、デイブが東京に属さないアメリカ人であるからだろうか。

何重にも入り組んだこの物語、引っ張り込まれずにはいられなかった。

他にもいろいろ仕掛けがあります。どうぞ現物を手にとって、お読みください。



女の人はね、男次第で如何様にも変わる。この別の顔を女が見せた時に、これは俺の知っている女じゃないと、びくつくようじゃあ、だめなんだ。女の掌の上でころころ転がされていたいなんてのは、実に幼稚な欲望です。ころころころころと転がしてやってこそ男なんだ。女にいくつの顔を持たせてやれるかで、男の度量がわかるってもんなんだが、そういうことをわかってる男はなかなかいないね。
(『FUTON』本文より)

企画勝ち

February 08 [Sun], 2009, 15:34
源氏物語から1000年、の昨年出版された『ナイン・ストーリーズ・オブ・ゲンジ』を読む。



面白かった。

作品と作者の組み合わせは次の通りで、とにかく企画がいい。
 帚木    松浦理英子
 夕顔    江國香織
 若紫    角田光代
 末摘花   町田康
 葵   金原ひとみ
 須磨    島田雅彦
 蛍      日和聡子
 柏木  桐野夏生
 浮舟   小池昌代

どうやって決めたのか、心底知りたい。編集さんなのか、ご本人の希望なのか。これ以外というのはちょっと考えられない気がする。

好きなのは、江國さんの「夕顔」。

そうだろうか。彼女は自問する。私はやさしいのだろうか。いまこの人に、やさしくしただろうか。そして、違うと結論づける。違う。私はわけがわからなくなって、この人が気の毒になっただけだ。苦しそうにするから。男が苦しそうにするのを見ると、悲しくなった。

夕顔の段は、凄まじい様子の御息所の怨霊に引っ張られて、どうしても夕顔の内面に目が向きにくい。愛らしさ、はかなげさだけが印象として残る。

でも、江國さんの「夕顔」では、夕顔の愛らしさやはかなさを作っているその欠落が描かれていて、とてもよかった。原作のちょっとどろっとした雰囲気も残されて、こんなうまく「夕顔」を書ける人はいないのではないかと思う。

きれいなのは、桐野さんの「柏木」。晩年の女三の宮の語り物という形が、まずよかった。女三の宮と言えば、美人で身分は高いけれど子どもっぽいぼーっとした人、という書かれ方をすることが多い。でも、源氏とは年の差もあることだし、お嬢さんだからしょうがないのでは、くらいに思っていた。

それが。ああ、そうだ、こう思うこともあっただろう、とストンと落ちるものがあったのだ。

何もかもが嫌になっていました。唯一の希望だった柏木様との恋は、若い男も地位や名誉を欲しがっているのだ、という失望する結果に終わりましたし、紫の上様を正妻にされない癖に、お気持ちだけは囚われて、頼っていらっしゃる六条院様が憎かったのです。

古典作品をこんなふうに読み込んで、こんな世界を作ることができるなんて、ほんとうにすごい。

勢いがあるのは町田さんの「末摘花」。

それから宮中にあがって、もちろん、今晩、姫君のところに行く気はなく、せめて朝のうちに手紙だけでも書こう、と思うのだけれども、なにかと忙しく、手紙を書けない。誰に聞かせる訳でもないが、「こう忙しくっちゃあ、手紙も書けやしねぇ」と言ってみたところ、その台詞に弁解・弁疎の調子が多分にあった。

自動車の製造ラインで働く、なんてことをしない限り、短い手紙を一本書く時間がないほど忙しいということはありえないからで、「ずっとバタバタしており、メールの返事がかけませんでした」なんてのも嘘だからである。ただ、面倒くさくて放置していただけなのだ。


こんな源氏見たことない。面白かった。男の人ならでは、という気がする。

そのほか、角田×「若紫」・金原×「葵」は、原作から離れた世界で源氏を展開する形。でも、その「世界」はいかにも角田風・金原風で、安心して読める。

源氏になじみがない向きは、『あさきゆめみし』などで、ある程度原作のストーリーを押さえてから読む方がいいかもしれない。

おススメです。

凄腕の設計士

December 14 [Sun], 2008, 19:22
だが逆に、ある出来事は最大数の偶然に依存するからこそ、いっそう貴重なものに、深意に満ちたものになるのではないだろうか?

ただ偶然だけがひとつの伝言として解釈されうる。必然によって生じるもの、予期され、日常的に繰りかえされるものは無言である。偶然だけがものを言うのだ。ジプシー女がカップの底にコーヒーの滓が描いた形象の意味を読みとろうとするように、ひとは偶然の意味を読みとろうとするからである。




ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』は、「プラハの春後の悲劇を背景とした20世紀を代表する作家の最高傑作」であるらしい(帯より)。

恥ずかしながら、プラハの春はことばしか知らない私だったけれど、最高傑作というのはうなずける。政治・歴史・哲学・心理、さまざまな要素が組み込まれた小説であり、最初の数ページで、よくできているなあ、とその作り込み具合に感服させられた。

もちろん、様々な女性の間で揺れるトマーシュや、トマーシュを愛するテレザなど登場人物の心理描写にも長けている。普段あまり意識しないような痛いところをついてくるし、テレザと老犬のカレーニンのやりとりにはぐっときた。

迷い、選び、また迷う。その可能性も、つらさも、幸せも、全て書かれている。

けれど彼らは、クンデラが言いたいことのために作られたのだという空気が濃厚で、作品の影にいつも作者の顔が見えている気がする。それが決して嫌味ではないし、むしろ気持ちいい。

文章を組み立てるのが、うまい人なのだと思う。その技術に、クラクラした。

傑作という看板に偽りのない本である。

ちなみに、この本を薦めてくれた友人は「すごく暗い話」と言っていた。私は意外と暗さを感じず、むしろパキッとした抽象画のような話だと思う。

でも江國香織の『号泣する準備はできていた 』については、私の方が怖い怖いと言っていて、彼女はその怖さが好きだと笑っていた。人の感じ方って面白いですね。

だれかの国

November 08 [Sat], 2008, 19:38
「ただ見るだけ、ということは不可能です。一つひとつのものが何らかのかたちであなたに属しているのであり、あなたの内で展開される物語の一部なのです。たぶん、自分の殻をとことん硬くして、何を見てもまったく心を動かされないようにすればよいのでしょう。


けれどそうなれば本当に独りぼっちです。ほかの誰からも完璧に隔絶され、生きることはおよそ不可能になってしまうでしょう。たしかにここでは、それをやってのける人もいます。でもその数は以外にわずかです。

あるいは、こうも言えるでしょう。私たちはみな怪物になり果ててしまったけれど、自分のなかに、かつてあった人生の痕跡をまったくとどめていない者はほとんどいないのだ、と。(中略)

私の言おうとしていることがわかりますか? 生きるためには、自分を殺さねばならないのです。だからこそこれだけ多くの人が戦いを放棄してしまうのです。どれだけ懸命にあがこうと、結局は負けてしまうことを彼らは知っています。そしてひとたび負けてしまえば、あがくことなどまったく無意味になってしまうのです。」(ポール・オースター『最後の物たちの国で』


行方不明になった新聞記者の兄を探し出すため、この国にやってきたアンナ。そこでは人々は、住む場所をなくして街をさまよい、騙し合い、奪い合い、殺し合う。蔓延する疲れ、寒さ、餓え。目の前にあった物も、目を逸らした瞬間誰かに持ち去られ、二度と戻ってこない。物だけでなく、記憶も言葉も消えて行く。全てが急速に崩壊しつつある世界。

アンナは、1日1日を必死で生き延びながら「これらは最後の物たちです」ということばで元いた世界の「あなた」へ向けて、手紙を書き始める。

元の世界でのアンナは、裕福な家庭で育った、美人の、そしておそらくちょっとワガママなお嬢さんだった。お嬢さんゆえの気の強さ(それはまた弱さとも言える)は、随所に見られる。屈辱には負けずに抵抗し、ボランティアは偽善ではないかと疑う。自分がボランティアをする側にまわっても、時には自分の感情を手助けしようとする人にぶつけてしまう。

それでも、マジメな家族思いで心優しいだけの女の子ではないアンナだったからこそ、見つけられたものがあるように思う。この国で物事を選択する――何かを捨てる――ことができなければ、すなわちそれは死につながるからだ。

「私は一階の台所に一人で座って、これから先に何が待っているかを想像しようとしています。でも何も想像できません。外の世界に出て、私たちの身に何が起きるのか、まったく何の見当もつきません。何だって起こりえます。

ということはつまり、何もわからないというのとほとんど変わりません。かつて存在したことのない世界に生れ落ちるというのとほとんど変わりません。」


好きな人と出会い、別れ、また出会う。ある人を殺しかけることがあれば、自分が誰かに追われる。救うことも救われることもある。無彩色の世界で、「とにかくもう一日生き延びるチャンス」を望んで生き延びていくアンナを、私はとても好きだと思う。

全てのものが消え去っていく最後の物たちの国。記憶までもが消えてゆくのだから、それを記した言葉は本当に最後の物となる。

その人は、どんな言葉を紡ぐのか。その人にとって言葉はどういうものなのか。自分の中から湧き出てくる言葉がその人を支配していく。

ここをどんな世界にするのか、それは自分次第という気もしなくはない。『最後の物たちの国で』はそう思わせる、暗いのに、力強く明るい物語である。

閉じ込められる

April 01 [Sun], 2007, 0:00
トマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』を読む。


カバーはぜひとってみてくださいませ。装丁、凝ってます。
亡くなった元恋人の資産家から遺言執行人に指名された主人公のエディパが、遺された切手コレクションについて調べるうちに、闇の郵便組織「トライステロ」と遭遇する。エディパは、トライステロの謎を解こうと奮闘するが、触れるものすべてが、トライステロにつながっていくようになる。

それが、元恋人の仕掛けたいたずらなのか、偶然なのか、妄想なのか・・・・エディパの迷いが読んでいるうちにぐっと重くのしかかってくる。

登場人物同士の会話も、見えている景色も、手にとるものも、全てがほんのちょっとずつずれている世界。ずるずる、ずるずるっと、何かにひっぱりこむような文章は、かなり怖い。

さて、この作品の重要なモチーフとなっているのが、レメディオス・バロの「大地のマントを織りつむぐ」という絵だ。

バロは、私の大好きな画家。この大地のマントの絵は、ナンバー49の本の口絵になっているのでご覧いただきたい(下図)。



高い塔の中で女の子たち(何かの術か魔法にかけられていると思われる)が、布に木や街の刺繍をしている。その絵は塔から外へあふれ、地に着く頃には立体化している。遠くに見えるのは、帆船。この船に乗っているのは・・・?

誰もが自分の中に、守りたい自我を入れた塔を持っているとすれば、誰か、何かと出会ったとき、塔から出るのは自由であるはずだろう。

でも、塔に閉じ込められ、出られなくなってしまったとしたら、どうだろう。塔が壊れてしまったら?

エディパは、今塔に閉じ込められそうになっている。世界は、自分が見たようにしか見えない。奇妙に歪んだ世界にいるエディパの塔は、どんなものなのだろう。

■ピンチョンの施した様々な謎については、訳者志村正雄さんの解説に詳しい。読みながらむむっと思っていたことが少し腑に落ちる。でも、原文で読めたらもっと楽しいに違いないとも思うわけです。

■ナンバー49には、音楽も多く出てきます。菊地成孔と大谷能生対談が面白かったです。→2007年音楽と文学を巡る新春放談

■バロについては、明治学院大学社会学部の稲葉振一郎先生のHPがおススメ。ギャラリーもあります。
→ http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/varo/index2.htm

私に似た人

July 26 [Sat], 2008, 23:50
○○ってまいちゃんに似てるよね、というのは結構ドキドキする情報だ。その人の目に、自分がどう写っているのかが分かってしまうから。

なぜか、同時期に別の人から私に似た人を紹介され、またしてもハラハラわくわくしながら本を読むことになった。

一冊目は森見登美彦夜は短し歩けよ乙女』。会社の先輩が目をキラキラさせながら「すごーく似てるの。私をモデルに書きましたかってお手紙書いてみて」と言う。



先輩は、社内どころか得意先中にファンを増やし続ける美女で、うっかりすると私はみとれてしまったりする。そんなお方に勧められればガマンはできず、翌日、大荷物を抱えた出張先で購入してしまった。

私に似ているらしいのは、「黒髪の乙女」。もったいなくも、ヒロインである。しかし、本の帯の人物紹介を見てくらり。

「天然キャラの女子大生。魅惑の大人世界に憧れて、夜の木屋町に繰り出すほどの好奇心の持ち主。他人には優しいけれど、とことんマイペース」

この子と私、似ているのね・・・。

本をバッグにしまい、待ち合わせ場所へ。待ち合わせの相手は、本ならたいてい読んでいる人なので、会うなり顛末を話す。

途端、その人は大爆笑。なんとなく恥ずかしくなりムッとして、そんなに似ているのかとつめよる。「失礼、失礼。でも、その人の言わんとすることはよく分かります」

「どんな人なの、乙女は」と怒る私を、その人は横目で見た。「なんていうか、地上30cmを歩いているような人やったような」

地上30cm! 先輩には私はそんな風に見えているのね。

髪が黒いからだと思ったよーとうなってしまう。「そういうことかもしれませんよ。うん、そういうことにしておきましょう」今度はちゃんと、フォローが降ってきた。バッグの中の乙女が恨めしい。

ところがである。実際読んでみたら、似ているなんて口にするのが憚られるくらい、黒髪の乙女はとても愛らしい良い子だった。

そしてこの物語、森見作品の中ではかなりのお気に入り。ふんわりしていて、かわいい。友人は「意味分かんなくて途中でやめた」と言っていたけれど、そんなことはあり得ない(はず)。おすすめです。

さてもう一冊は、おなじみ梨木香歩さんの、『ぐるりのこと』。

大好きな梨木さんに考え方が似ていると言ってもらえるなんて、幸福のきわみである。

目に止まったのは次のくだり。

しょうがない、と肩を落とすことと、しょうがないなあ、とため息をつくことは、まったくニュアンスが違う。こういうことは日本語の使い手でない人には説明しにくいところだ。しょうがない、というのは、ほかに選択肢がないことを不承不承認識した、落胆を含んだことばだが、しょうがないなあ、の方は、あきれた感じと、本来つきあいきれないものだけれど、つきあってゆくよ、という、相手の存在を許して丸ごと受け入れる感じが」ある、ということ。

以前、同じことを言ったことがあったのだ。ふぅわりとうれしい気持ちになる。

淡々と落ち着いた雰囲気。あたたかく、且つ鋭い視線。しょうがないなあと思えること(私はまだカリカリしてしまうことばかりだ)。憧れる。

この二冊、何がなくともよい本だった。でも、似ている人がいるよと教えてもらったおかげで、思い入れのある本に格上げされた。

教えてくれて、ありがとう。

スタバの女

April 29 [Tue], 2008, 18:37
「あの店にいる女って、なんかお高くとまってる感じがしねぇか?『日本にもスタバ増えたよねぇ。私がロスにいたころには一軒もなかったのに』なんて横で話されると、その口をつまみ上げてやろうかと思うよ」



私はコーヒーよりも紅茶が好きなので、スターバックスにはあまり行ったことがない。自分ではまず行かないし、誰かのお供として入るくらい。

でも、私の先輩はスターバックスを愛している。近くにスタバがないので、コンビニで売っているスタバメイドのコーヒーを買っている。

「皆高いって言うけど、他の味で我慢できる人は安いのを飲めばいいの。私はあの味がいいんだから、いいの。高くてもスタバなの。スタバが好きなの」と力説してくれた。

ちょっと飲んでみようかなとしみじみ思ったという話を友人にしたら、「おお、スタバの女だね」と返ってきた。

スタバの女!? 友人によれば、それは「違いの分かる女」ということらしい。なるほどー。

さて、冒頭引用した吉田修一著『パーク・ライフ』の舞台は日比谷公園。主人公は、日比谷公園でいろいろな人と出会う。出会った人との時間は、ほぼ公園内だけでしか重ならない。

それでも、何年か過ぎても思い出すような残り方をすることがあるのだろう。こういうのもいいな、と思った。

その、主人公が出会った「いろいろな人」の中にスタバの女がいる。

「相手との距離をすっと縮めるような」話し方をする、明るい、おおらかな女性だ。スタバのカフェモカを愛飲している。

主人公とその女性は、スターバックスにいる女の人について、こんな会話をする。

「でも、なんか触れられたくない秘密でも隠し持ってるように見えたんですよ。別に悪い意味じゃなくて。かっこよく見えたんですから」
「なんにも隠してることなんてないわよ。逆に、自分には隠すものもないってことを、必死になって隠してるんじゃないのかな」


ほーっとため息が出た。これは絶対、スタバでなければと思った。ドトールでもタリーズでもだめ。絶対スタバ。

「スタバの女」について、私はこの本で学んでしまった。

『パーク・ライフ』に限らず、吉田修一さんの小説を読むと、なんだか複雑な気持ちになる。場面設定がリアルで、その場所との自分の思い出が重なってしまうせいかもしれないし、普段は気にならない、他人のことばや行動の裏面が見えてしまうかもしれない。

妙にひんやりした気持ちと、じーんとうれしい気持ちが混ざり合う。複雑な気持ちというのは、そういうことだ。

そして、この本を読むと間違いなく公園とコーヒーが恋しくなります。ご注意を。

ちなみに、『パーク・ライフ』は2002年の芥川賞受賞作。

「何か伝えようと思って小説を書いているわけではないですし、喜ぶものも話すことも、以前と何も変わらない」(2008年4月5日夕刊読売新聞)

○『春、バーニーズで 』もよし。仕事にも行かず突然行方知れずになった夫が日光金谷ホテルで見つかったら、あなたはどうしますか?

デルフィニアからの帰国

January 01 [Sun], 2006, 0:00

デルフィニアって、どこでしょう。詳しく知りたい方は、『デルフィニア戦記』をお読みくださいね。地図もちゃーんと載っています。私はスーシャに行ってみたい。

ちなみに私はその『デルフィニア戦記』第一部4冊を、3日で読了。電車で読んでいたのだけれど、会社に着くのがあっという間で、通勤も楽ちんでした。

それくらいはまってしまったということです。

まずはなんてと言っても登場人物。「戦記」というくらいだから、ものの運びは国という大きな単位となる。それに関わる人物ということで、良しにつけ悪しきにつけそれなりにみんな輪郭がくっきりしているのだ。

「さっきのは嘘。馬鹿も石頭も鈍いのも嫌いじゃないよ。りこうすぎたり切れすぎて自滅したりするより、よっぽどいい」

異世界からやってきた美しく賢く力強く口の悪い少女あり、筋の通った将軍に山賊、穏やかで聡明且つ腕のたつ騎士あり、の、もうこのメンバーだけで幸せ! 事件なんて起こらなくても彼らの日常を見ていられればいいの!!というライトノベルならではのお楽しみ(特に馬鹿で石頭な王様のウォルに至っては、素敵すぎて涙が出そうでございます)。

今のところ展開は目新しいものではなかったけれど、その展開を支える描写が泣けて笑えて、結果、元気になってしまう。

昔から、物語は人を癒すと言われてきた。ページをめくることで、全く異なる世界に触れることができる。

たとえば仕事をしていても体のどこかがデルフィニアを覚えている、ふわふわした感じ。そういう意味で『デルフィニア戦記』は、良質のファンタジーだと思う。

さて、ユモトさん。本を貸してくれてどうもありがとう。カレーの会は楽しゅうございました。

デルフィニアの物語は、ユモトさんのイメージにとても近くて驚きました。この中に何の違和感もなくいそうです。実はデルフィニア人だったりしませんか?

人生迷子

November 15 [Thu], 2007, 23:20

「ふとした拍子に、なんだって私は生きてるんだろうとつい考える。もう生きるのは面倒くさいと思う。かといって、焦燥や不安や孤独感や倦怠だけでは死ぬ衝動だって起こらない。だから、なんとか生きていかなくちゃいけないのだ、という思いでしか生きられない。」

25歳になったとき、「30歳になるまではキツいよ」と周りから散々脅かされた。

今、三十路に突入するまでもう一息なわけだけれど、確かに揺れることが多い。もちろん20代後半だからなのではなくて、30代になっても40代になっても、揺れるときは揺れるのだろう。

でも、20代後半から30代前半というのは、学校や職場で同じように進んできた友人たちのペースが変化する時期だ。結婚、離婚、出産、転職、昇進、ほんとうに、バラバラだ。

大きな変化に、もしくは変化のなさにぶつかって、ゆらゆらゆらゆら、多かれ少なかれ皆揺れている。

恋愛迷子』は、そんな時の流れを傍観者として眺めてしまう女の子(といっても31歳ですが)・綾乃の物語だ。

それから、離婚を経験したアキ、夫と死別した多恵、合コンに精を出す幸子、子どもをもてあまし気味の晴香など、同世代の女性が多く登場する。

読みながら、なんだか息苦しくて溜め息が出た。でも、目が離せずに一気に読み進める。

「自分の存在そのものをなくしてしまったような、今どうしてこんなふうに呼吸を続けているのかも分からないほどの不安」。「失う前から、失うことばかりを考えてしまう」こと。

多少なりとも経験を積んでしまったことによる恐れ。途方にくれたような気持ち。

リアリティーがあるのだ、とても。あの人がこんな話をしていたな、この子が言っていたのと同じだな、そんな描写が数々出てくる。小さなセリフ、ちょっとした心の動きが、友人たちに、そして自分にも、重なっていく。

あるとき、歳上の友人に頼まれたことがあった。行儀が悪かったら叱ってほしい、ワガママを言っていたら注意してほしいと。

40歳目前ともなると、仕事では管理者、気軽に遊べる独身の女友達の中でも年長となる。一人暮しを始めてから、20年がたっていた。

「誰も私のことを怒ってくれない。皆が私の言うことを聞いてくれる。それで、誰にも気を遣わないから、ガサツになってきた気がするの。

今の私では、この先誰かを好きになっても、一緒に暮らすことなんてできないと思う。他人と暮らすのは面倒くさいし煩わしい。相手だって、寄り添う気持ちのないこんな女嫌だと思う」

そう思い至った友人は、もう1度他人との関係を見直そうとし始めた。まずは、自分のことばかり主張せず、人の話をきちんと聞くこと。普通のことなのに、できていなかった。頑ななところを柔らかく保てるよう、心がけることにしたのだった。

「考えられない。私には人との生活なんてありえないんです」
「ありえるわよ。人を求める心がある限り、ありうるものだと思うよ」


がんばれ、がんばれ。

友人にも自分にも届くように、一生懸命祈る。

「怖くない。怖くない。きっと妄りに膨らんだ想像よりも現実は怖くない。やっていけるはずなのだ」

著者小川内初枝さんは、女性が日常のなかで抱く孤独や揺らぎの描写に定評のある方とのこと(著者紹介より)。

全編を満たす閉塞感は、確かにお見事。

でも、ただの暗ーい話ではない。

お日さまを吸収したドライフルーツに、絨毯・タオルの色の鮮やかさ。川の流れの気持ちよさ。体に訴えるものが効果的に使われている。綾乃の住むマンションの近くからかかる橋は、明るい方へと彼女を導く。

「あなたのこと、ずっと見てるわ。もし住むところが離れたって、ずっとあなたの幸せを願ってる。あなたが笑って暮らせるように祈ってるわ。そして時々、会ったりしましょう」

恋愛迷子だけでなく、ありとあらゆる迷子の人に読んでいただきたい。揺れたって、きっと大丈夫。