こいつ 

December 16 [Sun], 2012, 7:14
 総務庁は国務総理大臣に属し、国政に関する事項を審議する機関にすぎなかったが実際には満州国の人・物・金を集中的に管理する統治機構の中枢で、他国に例を見ない満州国独自の組織でもあった。その最高責任者である総務庁長には必ず日本人が就任していた。このことからもわかるように満州国の実権を日本人が握り日本国のいいように運営されていたことがわかる。

満州国の産業についてであるが主に鉄鋼、石炭、電力、車輌、兵器、自動車、飛行機などの重工業を重点的に育成し、対ソ戦に耐えられる国力をつけ、合わせて日本への資源・資材供給基地を目指し、産業五ヵ年計画というものがスタートした。実際にわずか数年でこの重工業部門は大きく発展した。もちろんこれは戦争をするにあたって非常にウェートを占める重要なものであるがために力を入れられたのであって、現実に日中戦争、太平洋戦争での資源・資材供給基地として重要な役割を担った。

満州国では五族協和を唱え、在満諸民族に対して満州国民としての自覚を持つことを要求している。

太平洋戦争末期の8月9日、ヤルタの密約どおりソ連が日本との日ソ中立条約を無視し突如満州国内に侵攻してきた。
当時の関東軍は戦局の悪化から兵力の大部分を南方戦線に投入されており満州の防衛能力は著しく低下していた。このこともありソ連軍は瞬く間に満州を占領していった。
8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏を決定し、16日に大本営から「即時戦闘行動停止」の命令が下り17日から18日にかけてあらかたの部隊に停戦命令を出しこれでソ連との戦闘は終わった。
18日午前1時、張景恵総理ら政府首脳は、満州国の解体と皇帝の退位を決定した。退位式は簡素ながら厳粛に行なわれ、ここに13年間続いた満州国は滅亡するに至った。
 

けんこく 

December 16 [Sun], 2012, 7:14
<満州国建国までの流れ>
1932年に満州国は建国されたが、それ以前から満州にたいして日本は影響力を持っていた。
日露戦争後のポーツマス条約で日本は遼東半島南端の関東州と東清鉄道の一部(長春−旅順間)を手に入れ、このときから日本の満州経営が始まった。
鉄道、炭鉱、土木、教育、ホテルから病院、学校にいたるまでの経営を半官半民の国策会社である南満州鉄道株式会社、いわゆる「満鉄」を設立して一手に行なわせた。
やがて1931年に柳条湖事件を端に発する満州事変が起きた。これは関東軍による謀略であり満州全土を占領しここに親日的な新国家をつくろうとしたのである。
ソ連からの日本本土と当時支配下だった朝鮮半島の防衛と、大陸の権益確保のために実行された。
関東軍は新国家が実現するまでの間、列国の注意を他に向けさせるための最後の謀略、上海事変を起こし、このごたごたのうちに1932年3月1日、溥儀を執政とする満州国の建国宣言が行なわれたのである。


<満州国建国>
満州国は建国時に王道楽土、五族協和をスローガンとして唱え盛んに宣伝された。しかしながら決して全ての民族が平等などではなく日本人優位であった。     
政府の重要な役職はほとんどが日本人で占められており、漢人等日本人以外の官僚にはなんの決定権も有していなかったし、満州国は国の重要な政策を決める際には関東軍に許可をもらう必要があり、五族協和とは名ばかりで日本人、とりわけ関東軍の都合のいいように国づくりは行なわれた。       

満州国は1934年に帝政を初め、満州国から満州帝国となり溥儀も執政から皇帝になった。
しかしこれを期に溥儀の発言力が増すということはなく逆に漢人官僚が日本人の政策に対し異を唱えたときには「皇帝閣下の意向だから‥。」
と言いいのけてしまうことになりますます日本の傀儡色が強くなったのである。
 
 満州国の統治機構は立法院・国務院・法院・監察院の四権分立制であり、政府機構のなかで最も規模が大きかったのは、行政機関の国務院であった。
 満州国の統治機構は国務院の頂点に立つ国務総理大臣が最も権力を持っていたかというとそうではなく、実際には総務庁であった。

あそう 

December 16 [Sun], 2012, 7:13
一九三七年から治外法権が撤廃されるのに伴って在満朝鮮人の教育権も一部を除いて満洲国側に委譲されることになった(注一〇)。また時を同じくして新学制が始まることとなった。この新学制での満洲国の教育方針は「建国精神」と「日満一体」というイデオロギーを強く前面に押し出したものであった(注一一)。そのためこの新学制では日本語が始めて満州国での国語と規定され、なおかつ第一国語、または共通語、公用語としての地位に付けられていた(注一二)。在満朝鮮人に対する教育内容についてはなお朝鮮総督府の「朝鮮教育令」が適用されていたが、日本語教育に関しては在満朝鮮人に対しても例外ではなく、今まで教えられていた朝鮮語、中国語は一つの科目にされ、日本語の授業時間数は大幅に増やされた(注一三)。
 このように在満朝鮮人教育というのは他の在満諸民族とは大きく趣が異なっていた。言ってみれば日本の朝鮮支配の延長線上に在満朝鮮人教育は位置づけられていたといっても過言ではないのである。


 (注一)当時の満洲は清により封禁の地とされて移住することを禁じていたが、十九世紀末にはすでに多くの朝鮮人が住んでおり立ち退かせるのが不可能であった。清は彼らを仕方なく領民と認めたためさらに多くの朝鮮人が移住することとなった。〈参考〉『満州国 民族協和の実像』
(注二)豆満江以北の中朝国境の地。現在の吉林省延辺朝鮮族自治州。
(注三)『満洲年鑑 昭和一二年版』四〇頁
(注四)『現代史資料』一一、九五六頁  
(注五)『満洲日日新聞』一九四三年七月二六日
(注六)『満洲日日新聞』一九四三年八月十五日
(注七)満洲国建国直後の在満朝鮮人達が、彼らの村での会合において今後の教育問題が話し合われ、朝鮮人は日本の臣民なので朝鮮総督府学制に依るか、或は満洲国の臣民として満洲国の教育を受けるべきか、或は朝鮮民族として朝鮮語を中心とする教育を受けるべきか、と論争しているが大多数の人は朝鮮総督府の教育制にある程度の満洲知識を加味すべし、と言っており、このことから当事者である在満朝鮮人も「大日本帝国臣民」という立場をとっていると分かる内容が『満洲教育史』P四五九頁には記述されているが、日本の植民地支配に強い抵抗反応を見せていた被支配者である朝鮮人の大多数がこのような意見を言うことには疑問が残るので注に参考までに載せた。
(注八)『満洲教育史』四三三頁
(注九)『満洲教育史』四五八頁

ゆおう 

December 16 [Sun], 2012, 7:12
 さて、このような複雑な立場にあった在満朝鮮人ではあったが彼らに対する教育政策はどのようなものであったか見ていきたい。
 一九三七年以前の在満朝鮮人に対する学校教育は主に日本側に委ねられていた。というのは、満洲に住んでいる日本人・朝鮮人は満洲国に住んでいながら治外法権を有していたためである。このため在満朝鮮人は在満日本人と同様に満洲国の教育とは別に行なわれていた。在満朝鮮人教育については朝鮮半島と同じく朝鮮総督府によって行なわれている状態であった。つまり在満朝鮮人に対する学校教育は朝鮮半島のそれとほぼ同様に行なわれていたと思われる。実際に満鉄が在満朝鮮人教育を行う場合には、「一.朝鮮総督府の朝鮮人教育方針並之に関する規定に準ずること。二.教科書、朝鮮総督府の編纂に係るものを使用すること、但し朝鮮総督府において編纂なきものは此の限りに非ず。三.教員採用の場合は可成朝鮮に於いて相当長期間教育に従事したる有資格者を任用すること。」(注八)、また「学校教育も期せずして全満一様に朝鮮総督府学制に準じて教科書も其の編纂を使用して居る」(注九)とあり、ここに満洲国での朝鮮人教育は朝鮮半島とほぼ同じように行なわれていたことが分かる。

ううn 

December 16 [Sun], 2012, 7:12
満洲国が建国されたのは一九三二年だが、それ以前にも多くの朝鮮人が満洲の地に移り住んでいた。朝鮮人は一九世紀末以降、豆満江を越えて満洲に流入しており(注一)、主に、鴨緑江近く(東辺道)と間島(注二)多く移住した。建国時にはすでに約六三万人(注三)が居住していたとされる。
 満洲国に住んでいる他の諸民族に比べて在満朝鮮人の立場は難しいものであった。一九一〇年の韓国併合から朝鮮人は日本人として扱われることになる。いわゆる「内鮮一体」といわれるものが朝鮮半島において積極的に行われていた。一方、満洲国は国のスローガンとして、全ての民族は平等であり満洲国に住んでいる人達で協力しあって平和な国作りをしようという「五族協和」を掲げていた。満州国では朝鮮人は「満洲国の臣民」としての自覚を求められている(注四)。しかし朝鮮総督府は朝鮮人を「大日本帝国の臣民」として位置づけている(注五)。在満朝鮮人は「内鮮一体」と「五族協和」の間をさまよっていたのである。
 とはいえ、在満朝鮮人は「満洲国臣民」としてではなく、「大日本帝国臣民」としての位置づけが優先されたようである。それは、満洲国での徴兵制の施行をめぐる対応に見ることができる。満洲国には国兵法という徴兵制があったが朝鮮人に対しては朝鮮半島で実施されている徴兵制が適用された(注六)。つまり在満朝鮮人は朝鮮人とみなされ、「満洲国臣民」の立場より「大日本帝国臣民」の立場を優先させていた、ということである(注七)。

満州 

December 16 [Sun], 2012, 7:11
三章 協和会による教育・宣撫政策
 第一節 協和会とは

〈協和会の発足と理念〉
協和会は一九三二年七月に結成された。もともとは新国家建設への尽力を掲げた協和党(一九三二年四月成立)という団体を母体に発足した。この協和党は満洲青年連盟に所属した山口重次や小沢開策らを中心に結成された団体で、「王道楽土」「五族協和」の実現を主張していた。しかしながらこうした主張を声高に叫ぶ彼らに関東軍に懸念を抱かせ、協和会という名称に改めて再出発した。
協和会は「王道楽土」、「五族協和」という建国理念を啓蒙、宣撫し国家観念に乏しい民衆に対して様々な方法をもってこれを教育するための特別な組織であった。
協和会は「王道の実践を目的とする」「礼教を重んじ天命の安定化を楽しむ」「民族の協和と国際の敦睦とを図る」などを綱領としており、儒教的理念を用いて満洲社会の安定化を企図していた。

〈協和会と満洲国政府との関係〉
名誉総裁は溥儀、名誉顧問には関東軍司令官が就任し理事には政府の高級官吏が名をつらねていた。
協和会自身は協和会を政治団体ではないと否定していた。満洲国の統治機構とは制度上関係のない、民衆教化団体ともいえる存在であったといえるだろう。しかし協和会と満洲国政府との関係は密接な関係であった。一九三六年七月に決められた新綱領には、「満洲帝国協和会は唯一永久、挙国一致の実践組織体として政府と表裏一体となり」とあることからそのことが分かる。特に太平洋戦争が始まると戦争勝利が最大の課題となり協和会の当初の理念は置き去りにされ、戦争貫徹のための政府からの要求に答えるための運動となっていった。特に太平洋戦争が始まると戦争勝利が最大の課題となり協和会の当初の理念は置き去りにされ、戦争貫徹のための政府からの要求に答えるための運動となっていった。

おうい 

December 16 [Sun], 2012, 7:09
また「民芸」という言葉は柳による造語である。1928年に柳は日本における最初の本格的な工芸論を出した。従来の支配的な美、つまりルネッサンス以来の個性美(芸術)の理解について反省している。柳は用と美の結合について、無学無名の大衆、つまり無心の美の労作の中に美が実現するとし、工芸の道は美の宗教における他力道としていて無作為から「自然の恩けい」が実現するといっていて、これが労働と美の結合であり社会とのつながりの中での労働の反復でそこから熟練、つまり技術を超えた領域へたどり着けるとしている。また用いること、つまり器への帰依、自然への帰依ということは仕えることであるとしている。また社会の美について、彼は工芸は社会を映す鏡で協団による相互補助であるとし、相互補助とは秩序の美、信用の美のことである。柳は茶道論について美の宗教としての茶道としてみている。初期の茶人達に村田珠光、武野紹鴎、千利休などがいて平凡なものの中に非凡なものを発見し、彼らの用いた「大名物」はかつては(とりわけ朝鮮の)「下手物」であった。また見方、用い方を「法」や「型」にまで徹底しそれは用いることによって法になり切るということをいっている。また「道」、「礼」の形成というものがあり「型」を通して「型」を離れる、つまり自由になるということである。しかし型が定まるからこそ型に滞る危険性があり、柳は制度化した茶道を批判した。

おいおい 

December 16 [Sun], 2012, 7:09
柳宗悦の研究の第一期は西洋芸術と宗教哲学(神秘主義)、および東洋の造形美であった。西洋芸術は人格(個性)の表現(反映)で、また実在の経験と赤裸々な自然、自然の奥底を表現した。宗教哲学について“心は自ずから無限を求める”と言っている。また東洋の造形美について、西洋近代芸術の個性美とは異なる美の世界であり陶磁器のような焼き物といった日常の美にあると言っている。第二期は木喰研究である。木喰とは肉類、魚類、五穀を断ち、木実や草根などを食して行脚する修行僧のことである。1924年、6月から集中的な木喰調査が行われており、山梨の山村を中心に、仏像数体、直筆の文書を発見し木喰五行という人物を確定した。また、全国調査を通して多数の資料を発見し、仏射、和歌、写真をもとに分布図を作成することによって木喰上人の足跡が明らかになったのである。柳自身にとっての木喰研究の意義は埋もれた歴史の発掘への情熱、信(親しさ、単純さ、自然さ)と美の結合が民衆生活レベルで実現していることの実感、日本の民衆仏教としての念仏宗への関心、日本各地の工芸との接触であった。1924年、柳が京都に移住した時に下手物と出会った。下手物とは、「並の品。高価で精巧な一品作りの品に対し、日常用いる大衆的・郷土的で質朴な雑器」(広辞苑)とある。彼は民芸運動の中でこの「下手物の美」を発表した。「下手物の美」とは「雑器の美」であり日常の器具に新しい美の世界、つまり用(実用、日用)の世界というものを見出した。

いやさ 

December 16 [Sun], 2012, 7:08
宮座の成立であるが、平安時代以来の仏神事祭礼の頭役の制度が、荘園・公領の支配・経営の中で、頭役を名に負わせる形で採り入れられ、それが地頭など在地領主の所領支配のなかにもうけつがれて、地方に広く行われていたが、惣荘・惣村の発展と結びついて、そこに宮座が成立してきた。
成立の時期は、惣荘・惣村の成立時期の早い近畿地方とその周辺では、一三世紀以降、鎌倉時代から南北朝時代にかけてで、その時期のおくれる中国地方や北九州などでは、一五世紀以降、室町時代後期からであり、その後、江戸時代にかけて村の成立にともなって各地に広汎に成立してきた。また、惣荘・惣村とか村というような地縁的で政治的な村落共同体や、用水・入会林野などを共同利用する惣村の連合や村々の連合の村落共同体と結びついて成立してきた。その構成員は惣荘・惣村・村の構成員と同じで、中世では名主でもある武士や地侍、農民の名主・百姓、兵農分離後の近世では本百姓であり、本百姓のなかでも家格の高い上層の家筋だけに限られる場合も多く、したがって身分的な特権的なものであった。
その身分的・特権的な秩序の動揺・打破の動向が、江戸時代の中期から後期にかけて現われると、宮座は次第に変貌への道をたどり、宮座は単なる祭祀の組織ではなく、村の秩序の柱になっていき、明治初年の維新政府の諸政策によって多く崩壊していった。しかもなお、変容しながら戦前まで続いているところも多くみられた。
宮座は封建社会のなかで成立し展開していたが、どの地方でもあまねく成立していたわけではなく、宮座を中世のものとか、近世のものとか、そのいずれかに限定することもできないし、また、氏人制から宮座制への移行というような、具体的な歴史的推移と切り離した見方をとることもできない。

そんざい 

December 16 [Sun], 2012, 7:07
 江戸時代までは、神仏習合の時代であったから、宮座は仏事神事など数多く営み、招福攘災の儀礼・五穀豊穣の予祝儀礼、謝穀の儀礼、春秋の祭礼などを行っていた。ことに正月に重要な行事が多く、射礼・結鎮・荘厳・修正会・おこない・しゅうしなどという仏神時が行われた。
宮座の行事であるが、春の祭礼に五穀豊穣を祈り、秋の祭礼に収穫の感謝を行なった。宮座のなかには、正月の行事に重点をおき、この二季の祭礼を必ずしも行事の中心としないところもあったが、祭礼を盛大に行なうところでは、華やかな神幸(渡御)・流鏑馬・相撲・競馬・舞・能・猿楽などがあり、若衆が大きな役割を果たしたり、子供が、稚児として参加したりしている。宮座のなかに祭礼の分担によるいくつかの座(村ともいう)のあるところもあった。
宮座の行事の経費は、神田(座田・講田)・宮山からの収益、烏帽子着・おとな成りなどの直しのとき納められる米銭などから出され、また頭・当屋が負担した。神田は頭、当屋が耕作したり(頭田・当田)、小作に出されたりしていた。座衆の経済力が充分でないと、ことに江戸時代後期には、座外から寄進をつのり座衆に加えたりもしている。
宮座の行事の折、座衆は仮屋・庁屋・拝殿・庭などに、座順にしたがって着座して参加した。この座順が大きな問題で、よく紛争がおきている。一定の座順が座衆の家によって決まっている場合や、藤次順によって座席が移っていく場合もあった。いずれにしても、宮座は一座して仏神事祭礼を営み、直会を行なうことで、その構成員としての結束を固めていたのである。
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