観妙院さまの御指導

September 17 [Wed], 2014, 14:45

 久しく更新をします。

 そんな状態でおいで下さる皆さんに感謝です。

 今日は、観妙院さまの御指導から引用します。
 昭和36年と、50年以上も経過してるのに、
 かなり、というか、そのまま深い御指導だと
 思い、 以下にご紹介させていただきます。




 ☆「御本尊様の光を社会に」 ㊶ 
   □ 昭和36年1月13日 口 御講  □『佐渡御書』                  

 宗祖日蓮大聖人、『佐渡御書』にのたまわく、
 日蓮御房は師匠にてはおはせども余りにこはし。我等はやはらかに法華経を弘むべしと云はんは、蛍火が日月をわらひ、蟻塚が華山を下し、井江が河海をあなづり、烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべし、わらふなるべし。 (新編五八三頁)
 ただいま拝読いたしました『佐渡御書』は、日蓮大聖人様が大難四ヶ度、小難数知れずと申されたご一生のご難のなかで、大難中の大難である佐渡流罪中にお示しあそばされたものであります。
 文永九年三月、大聖人様御年五十一歳、佐渡ヶ島から「人々御中」として、弟子檀那一同に与えられております。
 大聖人様はここで私どもに、末法の仏様としての尊いお姿を示され、どんな難があろうとも、どんなことがあろうとも幸せをつかみなさい、人間の本当の幸せである一天広布という世界を築きなさいと教えられております。
また慈悲と忍辱という仏としてのお振る舞いをお示しになると同時に、私ども末代の門下にも、御身をもってこの慈悲と忍辱の大切さを教えられております。
 末法という時代の人々は、本末有善、未だ善根を積まない人々であり、まことに荒れはてた人たちであります。
その人たちが、何だかんだと言って自分の頭で幸せを探そうとしている。本当に探してあればよいが、個人主義、利己主義で自分のことしか考えない。そういう人たちの集まりであるから幸せは探してもないのです。自分の世界だけで道徳だとか哲学だとかいってみても、最後にはわからなくなってしまう。これが今の社会の状態です。
 ところがありがたいことに、私たちがこの御本尊様にあい奉ったときに、心の窓が開いて偉大なる功徳の光を受けることができる。では心の窓を開くということはどんなことなのか。決して唯心的、観念的なことでなく、色心の二法という心の窓が開けてくるのです。これは物心一如の法華の哲学で、物と心がきちんと一つになっているのです。
 正しい信心をすれば、外では太陽が輝いているのに自分の家は戸締まりをして、家のなかでバタバタ騒いでいたんだということがわかる。仏様はわれわれの住む地球、社会、どの家も、どの社会も、どの国も、一切を照らしてくださる。ただ雨戸を開ければいい。折伏を受けて、とんとんと戸をたたかれて、起きなさい、もう太陽があがっていると言われて、素直にいうことを聞いて戸を開けた人が幸せなんです。その人たちが、折伏を受けて信心に入って、幸せな明るさをつかむ人です。
 この明るさをつかんだ人は、気の毒な闇の人をみて、今度は折伏をしなければいけません。正しいものはあくまで正しいと、前進していかなくてはいけません。正しくないもの、不幸せと妥協すれば、自分の身を滅ぼします。不幸せと妥協をすることはできません。
 折伏とは幸せと不幸せの対決です。正と邪との対決です。これは勇気がなければ、しっかりした信心がなければできません。あえていうなら折伏をしない人は信心のわからない人で、本当の信心がわいてくれば折伏せずにはいられません。この世の中をみて、ただ自分一人で拝んでいればいいなどと大聖人様は教えていません。信心がしっかりしていれば折伏せずにはいられない。これは当然のことです。

大聖人様のご指南のなかに、四悉檀を心にかけてというご指南がありますが、これは妥協するということではありません。この末法という悪い時代に、苦しんでいる多くの人たちを救うためには、不幸を一つひとつ叩きつぶしていく以外にないのです。結局は正しい功徳ある信心と邪教との勝負になります。
 このことを大聖人様がご自身でお示しになっているのがこの御書であります。
 大聖人様がおおせられまするに、大聖人様ご自身が牢に入れられそうになったり、頚を斬られようとしたり、また折伏して命をとられそうになるということがたびたびある。この大聖人のご苦労を見て、はて信心すれば幸せになるというのに、佐渡ヶ島に流罪になり、弟子は牢に入れられてしまう。これでは自分たちはたまらないと思う。
 けれどやはり法華経は良い。大聖人の言っていることはいいんだが、自分から大聖人の信者であると外にはっきり言いきれない。大聖人のおおせになることはいいんだが、何も折伏、折伏といって強くいうことはないんじゃないか。柔らかにやったっていいじゃないか。そうすれば法難にもあわないし、苦労はないし、柔らかく法を説いて根気よくやっていれば、大聖人様の法は正しいから信者ができるだろう。そして信心すれば幸せになるだろう、というような磨にふれたのがでてきた。佐渡流罪の当時、若干でてきたのです。
 これを大聖人は
日蓮御房は師匠にてはおはせども余りにこは(強)し。我等はやはら(和)かに法華経を弘むべし
というのが出てきたとおおせになっている。
 これは、螢火が月月を笑う、蟻塚が華山を笑う、井江が河海を笑う、烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)を笑うようなものである。末法はきびしい修行があるということを知らない人たちが、大聖人の御難にあわれるお姿をみて、恐れおののいてしまう。このような人は螢であり、蟻塚である。まことにかわいそうな人であり。哀れな人である、こうおおせになっているのです。この人たちが広布を妨げる大邪魔者であるということを、大聖人は弟子檀那に対してご指南されているのです。
 折伏は大事なことで、諸君の体験と尊い信心を私は信頼し、尊敬しています。
 この御書を拝読して、心肝にそめ、折伏行を忘れては大聖人の信者ではないと心得て、しっかり励んでまいりましょう。  (要旨)    (法之道 昭和36年2月7日号)            (『同指導集』 1巻151〜154n抜粋)   

日蓮正宗の先達に学ぶ。(御法主上人ー等々)

February 19 [Wed], 2014, 12:21
 今回は、いよいよ総本山大石寺の御法主上人猊下様
 の御指南から引用致します。
 平成23年度、夏期講習会の『富木尼御前御書』から、
 「病の原因について」という内容から、抜粋です。

 次に「よも業病(ごうびょう)にては候はじ。設(たと)ひ業病なりとも、法華経の御力たのもし」とあります。
尼御前の病気は、よもや業病とは思われないが、たとえ業病であったとしても、法華経の力によって必ず治癒できるという意味です。ここでは、信心によって病気を克服し、さらに強い確信が生まれることを述べておられるのです。
 ここで仰せの「業病」とは何かと言いますと、前世の悪業の因縁によってかかるとされる、治りくい病気、難病のことであります。
 そもそも病気について、大聖人様は『大田入道殿御返事』のなかで『摩詞止観』を引かれて、
 「病の起こる因縁を明かすに六有り。一には四大順(じゅん)ならざる故に病(や)む、二には飲食(おんじき)節せざる故に病む、三には坐禅調(ととの)はざる故に病む、四には鬼便(きたよ)りを得る、五には魔の所為、六には業(ごう)の起こるが故に病む」  (同911n)
と仰せになっております。
 一番目に「四大順ならざる故に病む」とありますが、四大というのは万物の構成要素とされる地水大風の四つを言います。これを人間の身体に当てはめますと、地とは骨や筋肉のことを言い、水とは血液のことです。火は熱、体温のことであり、風とは人間の呼吸を言うのであります。これら四大の調和が崩れることによって病気が起こると仰せなのです。
 例えば、寒い時期に薄着であれば、結局、風邪を引く原因を作るわけであり、四大不調ということになるのです。最近の方々はあまり使わないようですが、昔の方は身体の調子が悪いと「今日は四大不調につき、お休みさせていただきます」などと言ったようであります。つまり少し熱が出たときや、腰が痛いときなどには「四大不調なので休みます」という表現をしていたのであります。四大が順でない、不調であることによって病気が起こるということを言っているのであります。
 現代は夏でも冷房がよく効いていますから、汗をかいたまま、それをぬぐわずに涼しい部屋に入ってしまうと風邪を引いてしまうということもありますので、気をつけなければなりません。
 二番目に「飲食(おんじき)節せざる故に病む」とありますのは、飲食(いんしょく)が節でないということです。
節とは何かと言えば、ものの区切りのことで、つまり飲み食いに節制がないことを言うのであります。
 例えば、決まった時間に食事をしないこともそうであります。夜中に酒を飲んで、たくさんのごちそうを食べてしまう。そんな暴飲暴食を続けていれば、必ず病気になってしまいます。テレビなどで見聞するところでは、最近は朝御飯を食べない子供達が多いそうであります。子供が食べないのは、どうやら、そもそもお母さんか作らないようなのです。
こういったことも、子供の健康にとっては非常によくないことなのです。教育番組などを見ても「子供には必ず朝御飯を食べさせてください」と言っているのですが、どうもお母さんのほうが作ってくれない場合もあるようです。また、コンビニェンスストアで何かを買ってきて、それを食べさせて済ますというケースもあるようです。
 やはり、こういった飲食については節目節目に正していかなければなりません。健康を維持していくためには、まず飲食が節(せつ)でなければならないのであります。
 次に「三には坐禅調(ととの)はざる故に病む」と仰せです。「坐禅」というのは、よく禅宗などで行っている座り方と考える人もいるかも知れませんが、基本的には精神を統一して真理を徹見することを言います。つまり坐禅が調わないということは、身体の動作や精神状態が不安定で乱れていることを言うのであります。
 人間は朝起きて、夜は寝ることが自然の摂理であります。これが逆になって、昼に寝て、夜に起き出し、その上、夜中に暴飲暴食をしたら、身体を壊してしまうのは当たり前であります。もちろん、世間は広いですから、夜に働くことを仕事としている方もいらっしゃると思いますが、できるだけ、やはり自然の摂理に適った生活環境を作っていかなくてはならないと思います。
 そのような昼夜逆転の生活をしていると、生活の乱れから身心も乱れ、様々な病気を呼ぶことになってしまうのです。また、それによって精神的にも不安定になってしまいます。
夜いつまでも起きていて、朝起きられない。それで結局、朝の勤行もしないで朝寝ばかりしている。このような状態では身心怠慢となって、病魔を呼び寄せる原因を自らが作ってしまうことになるのです。
 先般、ある討論番組を見たなかで、女性の方がおっしゃっていたことがあります。この方はどんなことがあっても朝、毎日必ず同じ時刻に起きるそうであります。どうしても眠いときは、昼寝を十分か十五分間することにして、朝は決まった時刻に起さることに生活の基準を置いているそうであります。この方がおっしゃるとおり、やはり生活をしっかりと組み立てていくということは、とても大切なことです。まさに「坐禅調はざる」の逆で、きちんと調えていけばいいのです。我々もそれに気をつけて、朝の勤行をしっかりとしていくということが大切なのです。                       (『大日蓮』 h23年10月号19〜23n〜)

今回は、お医者の話です。

February 09 [Sun], 2014, 21:50
 
 就職活動や、日々の困った時に、
 少し、癒される記事です。 どうぞ。



心豊かに生きるには、と題して少し話をします。
  私たち「時の舟=限られた時間」に乗せられています。命は有限であり生まれたときから確実に死ぬということが約束されています。このことをハッキリと認識することが生きる上で大切なことです。つまり、あるのは「イマ・ココ」だけ。
 この一瞬一瞬の時をいかに過ごしていくかです。心が安らかに落ち着いて大らかに雲のように生きていくために心得ることを述べます。
 
 
  何事も自分の思い通りにならないのです。ココをしっかり押えていないと心がいつも揺れて不満や憎しみが起き、人間関係がうまくいきません。
 人生思い通りにはならない。だから神様は私達に考える力を、諦める力を愛する力を与えたのです。

 
  善きことも悪しきことも、私たち人間の側から見たもので、自分の都合です。神様は私たちに必要な出来事しかプレゼントしません。どんな出来事にも意味があるのです。その意味に気づくことができるか?上り坂もあれば下り坂もあります。上りも下りも楽しみながら歩きましょう。出来事に一喜一憂しないで、空を・月を・星を眺め、裸足で大地を踏みしめると心が不思議と落ち着いてきます。どんなこともウエルカムです。
 
 
 私たちは自然の一員です。人間が宇宙万物の頂点に立ち君臨しているのではありません。自然と仲良くなろう。謙虚になろう。空のように美しく、花のように静かで大らかにゆったりと生きていきましょう。そうすれば、怒りなき人生が送れます。怒りがないようにするには、生きる中心軸を利より信に置くことです。自己中心的な生き方ではなく、利他の心で人に接することです。そのために、動機の純粋性を考えましょう。自分の心が楽になるよ。動機の純粋性を得るには、少し損をする生き方を選ぶことです。チョッとだけ損をしよう。得をすることばかり考えていると、減った増えたで恐れと不安の中で生きていくことになります。チョッとだけ損する生き方をすると、対人関係のトラブルは消えていきます。

 
  私が嫌いと思えば、相手も私を嫌いになります。こちらが好きになれば相手も好きになってくれます。相手は私の鏡です。私がいやな顔をすれば、相手もいやな顔になります。笑えば相手も笑います。
 私を嫌いな人も私が嫌いな人も、幸せであれ、福あれ、恵みあれ、と祈りましょう。不思議と心が柔らかくなり顔が柔和になってきます。許しましょう。許されない自分の硬い心を解かしましょう。「許した。ゆるした。」は魔法の言葉です。
 嫌いな人を好きになるのは簡単なことではありません。そんなときは、嫌いな人に関心を寄せることです。関心を寄せると相手を理解できるようになり、相手や言葉を善意に解釈できるようになります。
 人は生まれたときから人を好きになる才能を与えられています。人間は人の間と書くように、一人では生きていけないからです。良好な人間関係を築くことができるように、人を好きになる才能が生まれたときから与えられています。好きになろう。好きにならなければ、心が豊かにならないよ。
  どんな人も好きになろう。人間丸ごと好きになろう。

 
   言葉を最初に聞くのは自分です。耳を塞いで喋ってみると分かります。
  否定的な言葉を使えば、否定的な生き方をします。ダメだ、いやだ、難しい苦しい、辛い等々。私たちは言葉によって環境が作られます。いろんな条件は私たちの言葉に引き寄せられます。条件に私たちが引き寄せられるのではなく、条件が私たちの思いや言葉に引き寄せられるのです。例えば無理だ、と言葉を発すれば、無理な条件が表れてきます。出来る、大丈夫と言葉を発すれば、出来る条件が整ってきます。
 言葉は自分も相手も元気になる、勇気や希望の持てる優しい言葉を多く使いましょう。
 言葉が自分を作り上げます。深層心理は主語を理解できません。どういうことかといえば、あの人は嫌い、あいつは馬鹿だ、などの言葉を使うと、深層心理では嫌い・馬鹿だけが残ります。その結果、自分が嫌い・馬鹿となります。
 
   自分の価値判断で許したり許さなかったりするのが普通の人間です。自分の価値判断は当てになりません。当てにならないモノサシで相手を許したり許さなかったりすると怒りだします。ゴムのモノサシではなく、鏡のモノサシをもちましょう。ゴムは伸び縮みします。自分の都合で伸び縮みします。
 鏡のモノサシは相手のモノサシを写します。争いがないのです。争っている暇が有るなら、一人静かに眼を閉じましょう。許さない人は顔が険しくなくな  り、味の濃いものを食べたり、アルコールを飲みます。肉や甘いものをたく  さん食べるようになり太ってきます。そして、病気になります。
 まぁ〜いっか!これは魔法の言葉です。許せないと思ったら、密かに心の 中で「まぁ〜いっか!」とつぶやいて下さい。不思議と心が軽くなります。

 
  当たり前のことに「ありがとう」と言いましょう。当たり前のこと、例えば、足や手が動く事、朝眼が覚めること、ご飯が食べられること等など。眼が覚めたら体全体に感謝の言葉をかけよう。
 感謝できるようになったら、次は感謝される人になろう。どんな小さなことでもいいのです。相手から「ありがとう」と言われる生き方をしましょう。例えば、大丈夫、お疲れ様、何か手伝おうか等の優しい言葉をかけたり、荷物を持ってあげたり、席を譲ってあげたりすると、心が温かくなる。ホッとする。  人には善意と好意を持って接することです。善意と好意はあげっ放しです。
 お礼を期待してはいけません。相手から感謝される自分が幸せになれるのですから。自分のために感謝し感謝される人になりましょう。
  善意と好意を持てば、よき出会いと、チャンスと、笑顔がやってくるよ。いつも笑顔になり、穏やかに生きていきます。周りに善意と好意に満ちた人が集まってきます。「笑う角に福来る」というではありませんか。佛の眼・佛の顔を目指しましょう。お店では笑顔の練習をしている人がいますが、本当の笑顔は自分の内面から出てくるものです。作り笑いは自分が得しようとする笑い  です。心からの笑顔は自分も相手も心を豊かにします。
 頂いた体、頂いた眼・鼻・耳・口・五臓六腑、みんな善きことに使いましょう。
 美しくモノを見よう。口はきれいな言葉を使うために、おいしく食べるために使おう。耳は言葉を善意に解釈し使いましょう。善きことに使わなければ、口や耳や鼻や眼や五臓六腑に申し訳ないね。
 私に出来ていないことばかりですが、少しでも出来るように工夫しています。貴方も私と一緒に心得ていきませんか。楽しい人生が過ごせます。
  二度とない人生です。心豊かに善意と好意の中で生活をして行きましょう。

日蓮正宗の先達に学ぶ。(柳沢委員長聞くー等々)

February 06 [Thu], 2014, 21:42
 ご覧いただき、有り難うございます。

 今回は、大白法の「御書解説」から引用します。
 では、よくお読みください。


 「転重軽受の御法門」
引 用(1):『開目紗』
「般泥桓経(はつないおんきょう)に云(のたまわ)く、善男子過去に曽(かっ)て無量の諸罪種々の悪業を作る。是(こ)の諸(もろもろ)の罪報は或(あるい)は軽易(きょうい)せられ、或は形状(ぎょうじょう)醜晒(しゅうる)にして衣服足らず、飲食(おんじき)典疎(そそ)にして財(たから)を求(もとむ)るに利あらず、貧賤(ひんせん)の家邪見の家に生れ、或は王難に遭(あ)ひ、及余の種々の人間の苦報あらん。現世に軽く受るは斯(こ)れ護法の功徳力に由(よ)るが故なり云云。」(新826 ・ 全232)

引 用(2):「転重軽受法門」
「涅槃経に転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)と申す法門あり。先業(せんごう)の重き今生(こんじょう)につきずして未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値(あい)候(そうら)へば、地獄の苦みはつときへて、死に候へば人・天・三乗・一乗の益(やく)をうる事の候。」   (新721 ● 全1000)

 解  説
 転重軽受の御法門とは、私達が過去の世に積んできた数々の重い罪によって、本来なら、現世において、重い罰を受けなければならないところを、仏法の力で、軽く受けるということであります。
 私達には、過去や未来のことは分かりません。しかし、仏法という鏡に照らし合わせてみることによって、過去・未来というものを知ることができるのであります。
 日蓮大聖人様は『開目紗』に、
  「過去の因を知らんと欲(ほっ)せば其(その)現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば其現在の因を見よ」 (新824 ● 全231)
と仰せであります。
 私達が、過去世において、どれだけの良いこと(善業)を行ったか、どれだけの悪いこと(悪業)を行ったかによって、現在が決まり、現世において、どれだけの善業・悪業を積むかによって、未来世が決まるのであります。
 悪業とは、殺生罪‐物の命を断つこと。兪盗罪一物を盗むこと。邪婬罪一みだらな男女関係を結ぶこと。妄語罪一嘘をついたり、お世辞を言ったり、二枚舌を使ったり、悪口を言ったりすること。飲酒罪−お酒に関することで、人に迷惑をかけたり、瑞したりすること。以上を五悪と申しまして、悪業の代表的なものです。
 しかし、最も大きな悪業は、五逆罪と諸法(ほうぼう)です。
五逆罪とは、父を殺す、母を殺す、阿羅漢(僧侶)を殺す、仏身(ぶっしん)より血を出す、和合僧を破す、の五つです。和合僧を破すとは、正法の教団を分裂・混乱・破壊することです。
 誇法とは、正しい仏法を誹誘(ひぼう)することであり、正しい仏法に背くということです。
 この他にも、ヽたくさんの悪業はあります。その悪業の積み重ねによって、罰を受けることは当然のことです。
 現世に起こる八つの大難は、親が悪いのではなく、社会が悪いのではなく、他人が悪いのではなく、全て自分の宿業(しゅくごう)なのであります。八つの大難とは、
1.軽易(きょうい)一周囲の人から軽蔑されたり、馬鹿にされたり、人から信用されないこと。2.形状醜階(ぎようじようしゅうる)一顔や体が醜く、不細工なこと。
3.衣服不足一着るものに不自由することで、お金が無くて服を買えない。お金があっても、他人と体型が異なるため、服が合わない。4.飲食魚疎(おんじきそそ)一食べ物に不自由する。食べても栄養が付かない。ものを食べて病気になること。5.求財不利(ぐざいふり)―働いても、働いても財産がたまらない。損ばかりする。仕事を度々失敗すること。6.生貧賤家(しょうひんせんけ)・生邪見家(しょうじゃけんけ) ―貧しい家、争い事の絶えない不幸な家に生まれること。7.遭王難(そうぉうなん)一国家権力による迫害をうけること。8.余の人間の苦報一以上の七つの災難の外の不慮の災難にあったり、苦しみを受けたりすること。
 これらのことは、全て自分の罪業であります。他人を恨んでも、決して問題の解決にはなりません。
 今世の苦しみ・災難は、正しい仏法を信仰することによって、それを軽く受け、脱却できるのであります。これが、転重軽受の御法門であります。
 智慧の力、修善の力、護法の功徳によって、転重軽受できるのでありますが、日蓮大聖人様は、特に三番目の護法の功徳が大事であると仰せになっておられます。
 その御手本が、大聖人様の御姿に外なりません。大聖人様は数々の法難・大難に遭われましたが、正法を護る功徳によって、それを全て乗り越えられてまいりました。
 私達も、いかなる災難に遭おうとも、仏法の力、信心の力、護法の功徳によって、それを乗り越えてまいりましょう。

日蓮正宗の先達に学ぶ。(柳沢委員長聞くー等々)

February 01 [Sat], 2014, 16:02
 いま読み返しても、何ら遜色なく、立派なお話をされております。
 何かのきっかけになれば……、などと思って引用させて頂きます。
                       塚本の若翁


法華講組織の目的は広宣流布 本質見据え 共に功徳積む @
               (前略― 立柱式のくだり等)  
 ―はい、全国のすべての講中を2つに分けて考えてみたらどうだろうということを思います。よい方向、折伏ができていく方向、明るくなる方向に向いている所と、そうでない所の二つです。
 そうですね、中間というのはあり得ないんですが、もしも中間があるようなイメージを持っているとしたら、「それは違う。どちらかしかない、肚を決めて変わっていかなければだめですよ」と申し上げたい。例えば、数だけで見ていて、少し折伏の成果が上がっているから、いい方向に向いているというような表面的な見方でなく、本質的にはどちらを向いているかを厳しく見る。もっとはっきり申し上げると、ごまかしや逃げ道を自ら排することが今、一番やらなければならないことだというふうに思いますね。
      
−なるほど、中間はないんですね。
 今の話をね、「生きている講中」と「死んでいる講中」としたら、もっと判りやすくなると思うのだが、どうだろう。
 どういうことかと言うと、中間があるような感覚の人は、本当の意味の組織を知らないんです。では、本当の意味の組織とは何かということですが、組織というのは、目的を持っています。そして、それを遂行しようとするときに、初めて組織という言葉が出てくる。そこに当然、組織は目的と結びついているんです。もし、それが結びついていないとしたら、組織を知らないということです。ただ集まって、みんなの意見を出し合っていけば自然と物事が出来上がってくるように考えているのが、一番危険な形です。
 組織を論議するポイントは、その組織は生きているのか、死んでいるのかということ。そして、現れている姿をもって、生きている組織と死んでいる組織とに、はっきり二分されるんですね。
生きている組織は、新たな指令を得れば、そのたびに新しく編成し直して、その目的を達成する方向に向かっていきます。時に前進を阻害するようないろいろな問題、それは人間関係だとか価値観の違いとか様々でしょうが、そういったものにぶつかることがあっでも、「これは全部、枝葉の問題だ」として、打ち払って前に進んでいきます。
ところがこの枝葉であるいろいろな意見に引っかかってしまうと、ごたごたが始まるんです。そして、目的がどっかに行ってしまう。これを称して、死んでいる組織と言います。死んでいる組織の、枝葉のほうに行ってしまって本質を忘れてしまうことを、綺麗な言葉で言うならば、「理を好む集団になってダメになってしまう」ということですね。
 生きている組織のほうだって、そういうことには当然ぶつかるんですよ。しかし、いろいろな意見が出ることは出ても、そういうことは枝葉の問題として払われてしまう。そして、あくまでも主眼とする目的、本質を見失わずに前進していく。それは今は、平成27年までに50l増になることであり、この問題を万難を排して成し遂げるということ。だから、最初はいろいろ言ったりしていた者も、自分の考え方を引っ込めて、全体の進む方向に則った中での、自分がやらなければならないポジションが掴めてくるんです。それを掴めたら、今度は全身全霊でそれに向かって進んでいく。
この本質が崩れていなければ、講中の誓願が破れることはありません。この本質が崩れていなければ、講中の誓願が破れることはありません。

―意見や批判を持ったり言ったりすることを間違いとは言わないが、それが大きな動きを止めてしまうような愚癡になってはいけないということでしょうか?
 組織ということで言えば、今年より48布教区・地方部となりました。そのすべての講中が、目的を一にしていくことですね。
 法華講組織の目的は、源をずっと遡っていくと、戒壇の大御本尊様までいきます。7百50年の間には、戦国時代もくぐらなければなりませんでした。天変地夭もくぐってきています。そのたびに、その対策もしなければならないのですが、その方向にばかり進んでしまうと、広宣流布という主眼を忘れてしまいます。放っておくと、いつの間にやら「今は折伏より育成が大事だ」とか、「信の一字が大事だから信じていれば(折伏しなくても)いい」などといろいろな理屈がどこからともなく出てくるようになる。そのときに、このささやく声を取り入れないで、「お前の言うことは間違っているよ。進む方向は広宣流布!」と言う、そのお方が出てこない限りは、法華講組織は生きてこないんです。そこに代々、時の御法主上人猊下がおわしまして、その方向へと御教導くださるんです。  (続く)  (大白法 792号 平成22年7月1日号 3面〜抜粋す)

日蓮正宗の先達に学ぶ。(柳沢委員長聞くー等々)

January 31 [Fri], 2014, 11:28
総講頭・柳沢委員長に聞く 事を事に行じる信心の自覚と御命題実現 C
  (前略)
 行と言うと「自行と化他」を連想しますが、その言葉ではイメージが違います。私の言う行は振る舞いなんです。ところが今、社会に蔓延(まんえん)しているのは、「やった代償として何をくれるの?何もくれないんじゃつまらない」「うるさく言われて仕方ないけど、他に行く所もないからやっているんだ」と、そういう中でやる行が多いのではないですか。
私が言うのはそうではなくて、毎日の生活の中における情(なさ)け深い振る舞い、納得しながらやる行です。我々の子供の頃、まだ小学校へ上がらない時分から、親と一緒に畑へ連れて行かれ子供のできる草取りをしたものです。学校に行くようになってからは、学校から帰ると家の拭き掃除だとか細かいことをやって母親を助けていく。母親もまた野良仕事を懸命にやっているから、留守の間に風呂も沸かしておくけれど、「お前は火を使っちゃだめだよ、お兄ちゃんがやるからね」と火の用心をやかましく言われる。そういうふうにして大きくなっていくんです。そういう中においても、持って生まれた性分、賢い子と鈍な子とがいて、賢い子供は、親の振る舞い、また家に出入りする親族、ご近所の人々を通じて、年寄りの会話、壮者の会話、子供たち同士の世界、口喧嘩が争いになったりする修羅場の問題とか、すべてそういうものを目で見、耳で聞き、肌で感じて勉強し成長していくものです。
今の例は一つの家庭の話ですが、講中も同様です。社会の価値観が違っていく、その中で掴んでいく人間が出てきて、また次の者に教えなければだめなんですよ。それが伝わって行くか行かないかが問題なんです。
在家の場合は職業を持っている中でやるんですから、信行学が揃って、しかも大事な時に巡り合うなんて、これはもう素晴らしい因縁です。ある時期に自覚するというのは本人の問題ですからね。言われたって自覚できない者はその任ではないんです。
大事な話なので理と事ということに触れておきますが、日寛上人様は『文底秘沈抄』で、妙楽大師の御言葉を引かれて「本久遠なりと雖(いえど)も観に望むれば事に属す」と。日寛上人様の場合は大聖人様の本因妙の直達正観を御存知だから、そこに「本久遠なりと雖も観に望むれば理に属す」。十界久遠の事の一念三千であると言っても、文底直達の正観から見れば、これは理の一念三千となるのです。
大聖人様の仏法は事を事で行わない限りはだめです。では本当の事とは何かと言ったら直達正観。それは御本尊を固く信じて実際に生活の中で信心をやっていく。その中で一つ判ることによって、次々と生活のこと全般にわたって、また過去からその地域で生活してきた人たちのことも判ってくる。そういう捉え方が因縁であり、大事だというのが事の一念三千なんですね。
今年の1月から総監様のお伴で全国を歩きながら、歳をとってきましたから若いときとは違い体に堪(こた)えますが、そういう旅をする中だからこそ、掴めることがあるのです。
大聖人様が我々に言われてることを事で行うんだよということが、旅をして判るのです。
それを格好良くしゃべろうと「境界が開く」とか何とか言いますが、これでは相手に通じないでしょうね。今のような話でないと、理と事は判らないんです。
私は六十代の後半に入って、事の一念三千について真剣に考えてきました。答えを御本尊様から教えて戴き、その有り難かった感激は今でも忘れていません。納得できた喜びの上に立つとき、自らが固く信じて、両親の信心に薫発され、仕事をして家族を養いながら、厳しい指導教師の信行に導かれ、「講中に何か心配事があったら、お前の身体のどこか一分が痛いと思え」との御指導を忘れずみんなを引き連れて題目を唱えて折伏に励み今日、八十代半ばを過ぎてきたのでありますから。このことは、心ある者のため、また後から出てくる真の信心を求めていく者のために、このことはこういうことだよと残しておきたい思いです。
信心の信って何だというのは、肝心なことなんです。みんなそれぞれに信に対しイメージを持っていることでしょうが、生活の上に、また一生という年数の上に大きく差は出てきます。
(編集)はい、自ら行ずる中で掴んでいくことですね。
(柳沢)大聖人様の御滅後に何が始まったかと言うと、二祖日興上人様以外の五老僧のほうでは、先ほどお話した煩悩の、迷悟の立て分けがすぐに崩れてしまって、迷いの煩悩と悟りの煩悩のごちゃ混ぜが始まるんです。
一方、人聖人様の正嫡の門下は、二祖日興上人様、三祖日目上人様、さらに日道上人様と今日、前御法主日顕上人猊下、御当代御法主日如上人猊下まで続いて正統を維持し、さらに今、世界に向かって『立正安国』の正義を弘めようとしているのです。
我々の現実生活とかけ離れたものであったら、これは大聖人様の教えではありません。生活は教えの体現であり、教えと自らの生活が一致し、歓びあふれた生活ができるよう、信を改めてまいろうと思いました。
そうです、私たちは大事な時に巡り合う因縁があったのですから。そこに御法主日如上人猊下の御もとに本年は、50万総登山の達成、7万5千名大結集総会で広布へ出陣し、全講員が勤行・唱題と折伏の実践を励み、大利益を戴いてまいろうではありませんか。           (大白法 760号・平成21年3月1日号〜抜粋)

日蓮正宗の先達に学ぶ。(柳沢委員長聞くー等々)

January 30 [Thu], 2014, 16:53
総講頭・柳沢委員長に聞く
事を事に行じる信心の自覚と御命題実現 B
(大白法 760号・平成21年3月1日号〜抜粋)
生活に即して迷悟を弁え事を事に行じる
(編集)どこに信を置かなければいけないのかが、よく判りました。その上で、これからの法華講の長い歴史の上で、何に注意していけばよいのでしょうか。
(柳沢)今はほとんどの人が現代の教育を受けて大きくなってきています。殊に日本は一時代前、1986年頃に始まるバブルで、我々もその社会環境をくぐっていますね。もちろんその中でも南無妙法蓮華経を唱えてきましたが、重大な関係があるのは煩悩ということです。
今、煩悩について迷悟に分けて話せば、バブル時代の生活は、世界中が欲望を主体とする迷いの煩悩中心の生活でした。その煩悩はイコール貪瞋癡(とんじんち)に違いはありませんけれど、貪瞋癡三毒がだんだん展開されていくと、それぞれの分野に、それぞれの因果がありますから、貪欲も因果関係によって日常生活の中に現れています――これではちょっと抽象的ですね。具体的に言うと、医者の世界にもやはり因果があり貪瞋癡の煩悩が働いている。また、地方議員、国会議員の生活の中にも貪瞋癡の煩悩が出てきて、意見の食い違いや争いがある。同じように教育者であろうと製造業者であろうと財界人であろうと、どこに行ったってみんな貪瞋癡の煩悩で、その世界の生活は因果で動いている。怨嫉もまたそこに出てくるということです。
たとえば、自分が今住んでいる土地で、春夏秋冬を通じて生活していますね。生活はこの国土が主体になって、その国土の上に生老病死をどこまでも展開していく。「国土が主体」ということは、信心の行によって判ってきます。理ではこれは絶対に判らないんですね。それは親の恩との関わり合いだからです。親がその国土に生ずる何を食べて育ててくれたかということです。
行と言うと「自行と化他」を連想しますが、その言葉ではイメージが違います。私の言う行は振る舞いなんです。ところが今、社会に蔓延(まんえん)しているのは、「やった代償として何をくれるの?何もくれないんじゃつまらない」「うるさく言われて仕方ないけど、他に行く所もないからやっているんだ」と、そういう中でやる行が多いのではないですか。
私が言うのはそうではなくて、毎日の生活の中における情(なさ)け深い振る舞い、納得しながらやる行です。我々の子供の頃、まだ小学校へ上がらない時分から、親と一緒に畑へ連れて行かれ子供のできる草取りをしたものです。学校に行くようになってからは、学校から帰ると家の拭き掃除だとか細かいことをやって母親を助けていく。母親もまた野良仕事を懸命にやっているから、留守の間に風呂も沸かしておくけれど、「お前は火を使っちゃだめだよ、お兄ちゃんがやるからね」と火の用心をやかましく言われる。そういうふうにして大きくなっていくんです。そういう中においても、持って生まれた性分、賢い子と鈍な子とがいて、賢い子供は、親の振る舞い、また家に出入りする親族、ご近所の人々を通じて、年寄りの会話、壮者の会話、子供たち同士の世界、口喧嘩が争いになったりする修羅場の問題とか、すべてそういうものを目で見、耳で聞き、肌で感じて勉強し成長していくものです。  (続く)

日蓮正宗の先達に学ぶ。(柳沢委員長聞くー等々)

January 29 [Wed], 2014, 14:25
総講頭・柳沢委員長に聞く
事を事に行じる信心の自覚と御命題実現  (2)

 また、私は御題目の助行として『方便品』と『寿量品』を読んでいるんだと判った時は嬉しかったけれども、それまでは何となく御経のほうが有り難く感じていて、御題目の有り難みが薄かった。それは、この辺りのことが曖昧だったからですね。誰もが必ず一生の間に、正行と助行について正しく判っている人に巡り会って聞けるぞという上に、助行を疎(おろそ)かにしてはいけませんね。あるいは、『方便品』の十如是の所は三回繰り返すんだよと言われることについて、私は月例登山会で何回も一念三千と十界互具の話をしてきました。見ているとみんな、ある段階で気がついてくるんでしょうね。私も去年までは今のような境界で話していません。記念局の命により、地方を旅する中で、自分なりに整頓されてきたことなんですから。私自身の一生を通じてきて、晩年にきて、この問題をお話していることなんです。

だから、信心の立脚点をどこに置くかと言ったら、信だよと。大聖人様は、必ず地涌の菩薩とその流類が出て、南無妙法蓮華経と大御本尊様に向かって唱えていく者が全世界に出てくると大確信されていたということですね。


(編集)大聖人様の信心を我が身に当てはめるかどうかで、折伏も違ってきます。何年か経ったから信心も次第にということではなく、今言われる信に立ったときが本当のスタートだということですね。

(柳沢)それが化儀の上において、やがて先に行って気がつくことなんだけど、『方便品』と『寿量品』だけは助行だから唱えておきなさいと。そこに大石寺の化儀があるんです。雄大ですね。ただしね、そういうことは判らなくても御題目を唱えていくことは尊いことなんです。法華経は悉皆成仏なんです。しかも今生で。退転したって、下種されているんだから、未来に生まれて善縁に巡り会えばすぐに蘇ってくる。そこに、執着がなくなって気分も落ち着いてきますよ。

わずかな一生の、そのまたわずかな間で我見を振り回したい人には、「あんたは勉強が足りないよ」と言ってやればいいのです。そういうことに振り回されて苦しみ、一生を棒に振ってはなりません。納得する人が周りにいないからと、いくら求めよう求めようとしても、いなければ仕方ない。自分で掴むか、掴んでいる人のほうへと自分から近づいていく以外にない。そうでないと、せっかくの信心が愚癡になってしまいます。

我々の信心の原点というか基本は、自分中心でなく血脈嗣法の日興上人様の信心が中心です。そこに末法の本因妙の仏・日蓮大聖人様の抜群に有り難いところは、凡夫として我ら衆生と一緒に末法の時代に出てこられて、尊い御身をもって我ら衆生に本因妙の信心の御振る舞いを見せてくださり、そうして御自身が歩かれた、妙法蓮華経の御本仏様に南無する信心の御振る舞いを後代の人々のために記録に残してくださっていることです。

そこで、大聖人様が比叡山に登られたとき、どのような思いで東海道を下られて行ったのだろうか、箱根はどうやって越したんだろうか、途中富士山をどんな思いで御覧になっただろうかと。そうすると自分も一緒に旅しているような感じになってきます。大聖人様は、御遊学先の比叡山で、疑問の結果をきんと掴んで帰って来られるんだから、何とも言えない喜びだったと私は拝します。


しかしながら、この下種仏法の南無妙法蓮華経を一言でも言えば、怨嫉(おんしつ)は必ず起こり、親兄弟に類が及ぶということ。言わなければ、御仏に責められる。そこに大聖人様と地頭の東条景信とのぶつかりは、一切衆生に南無妙法蓮華経と唱えさせんとする立宗宣言の説法の第一声から怒り狂う現証が出てきたことがすごいと思うと同時に、またそれが末法という時代なんですね。

大聖人様の時代にああいう天変地夭が現れてくる形は、仏の出てくるのを待っていたかのようですね。もしも仏が現れなければ、ああいう災害・困難がきたら終わりです。しかしまた、大聖人様の御出現によって皆が「よし、判った」と納得するかと言ったら、納得しないんですからね。そういう中で書かれた『立正安国論』なんですから、これはすごいことですよ。そうやって正論を世に訴え続けて今日まで、750年以上も経ってきたのが、我が御宗門です。これがさらに全世界に向かって広がっていくんですから、凡夫のくだらない考えは頭から吹き飛んでしまいますよね。   (続く)          (大白法 平成21年3月1日号〜抜粋)

日蓮正宗の先達に学ぶ。(柳沢委員長聞くー等々)

January 29 [Wed], 2014, 12:23

総講頭・柳沢委員長に聞く
事を事に行じる信心の自覚と御命題実現 (1)

大聖人様の信心を我が身に当てはめて末法に弘教する自覚
(編集)今年は、御命題達成の年。待ちに待った本年を一日たりとも無駄にしないそと真剣に励んでいる方がいる一方で、何となく緊張感・緊迫感が足りないと自分で感じている方もいると思います。信心について足りないものがないか、あるとしたならばどこかと、疑問を持ったまま励めずにいる。今日はそういう方のためにお話いただきたいと思います。

(柳沢)我々の、信心の在り方が偏っているとか、また、はっきりしていないというのは、自分を中心にして信を考えているからだと、私はこの頃感じてきましたね。私も真(まこと)の信心を判りたいと、努力して今日まできました。そこで言えることは、自分中心の信は、結果的には自分なりの納得で終わってしまうということですね。表現を変えれば信と言っても十人十色で、それを「あなたのは違うよ」と言われても、言う人も自分が主体で、自分では判ったつもりでいるんですね。そこで、大聖人様は何と仰せられているか、このことを深く考えなければだめですね。

そこで何故、大聖人様は清澄寺をお発ちになり、比叡山に向かわれたのかということです。それは、「日本には今、いっぱい仏教の宗派があるけれども、お釈迦様の教えは何が本当か」という疑問が出てきて、兄弟子たちに聞くけれど判らない。師匠の道善房に聞いても答えがない。そこで次に大聖人様が何をなさったか。この辺が抜けてしまってはだめでしょうね。御自分が虚空蔵菩薩に「日本第一の智者になりたい」と願をかけたと『善無畏三蔵抄』(御書443ページ)にありますね。比叡山御遊学中に、既に結論である「仏の心は法華経」ということは了解あそばされている。

我々の信心は、そこから入っていかなければだめでしょう。他門の法華経を読んでいる人たちは大勢いますが、本質が判らない。文字は読めても中身は判らない。こういうことを大聖人様は『土籠御書』に、「法華経の余人の読み候は、口ばかりは読めども心は読まず。心は読めども身に読まず」(御書483ページ)と仰せられるんです。つまり、なぜ判らないかと言うと、発想が違うのです。大聖人様は一切衆生を救うということなんですが、他門の学者や人々はそういう考えはないから、もう一歩突っ込んだ捉え方ができない。それは信仰に対する根本からの違いです。法を理の上に悟っていこうとする者と、衆生の苦しみを法の力によって救っていく御化導との違いですね。

大聖人様はそれを一歩突っ込んでいくから、教えには方便の教えと実教の教えのあることを見逃さないと私は拝しております。しかし他門の人々は気がつかない。無量義経には、「仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん。諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種々に法を説きき。種々に法を説くこと、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経23ページ)とありますが、この「未顕真実」の文に必ずぶつかり、そこでけじめがつくはずですが、他門の人は法華経だけを見ていて、教えには権実の二教のあることを知らないのですね。

そして法華経にも、本門と迹門とに分かれてくるんです。比叡山は迹門。権実の問題は本命だから、みんな叡山で学ぶ。しかしながら次の行動が出てこないのはなぜか。それは末法における付嘱がないからです。この付嘱は大事なことです。最初の教えが、代が替わって時代が百年、千年経とうが、万古不動でなければならない。尊い教えであればあるほど正しく伝えなければ後代の人々は救われないのですから、付嘱の問題は重大なことなのです。

では、大聖人様はどう捉えたかと拝すると、釈尊は滅後に対してきちんと道筋をつけているはずだとの見方をなされていたものと拝します。私は御遊学のため清澄山を御出発なされていく大聖人様を思ったときに感じました。それは、一体何宗が本物かと調べに行って得た結論は、末法においては“どれもだめだ”と。この大きな答えを得て、御自身の念願が叶ったということ。そのことを思うと、どんなにお喜びになられたかと、目頭が熱くなります。

大聖人様の御信心は、この付嘱の問題にきたときに、地涌の菩薩が末法に出てくるか出てこないかが結する。そこに、必ず出現すると信じるか信じないかが重要な鍵を握っている。我々の信心もまた、広宣流布が来ることを信じていくか否か、大聖人様の信心をそのまま我が身に当てはめて、末法に弘教していける我が身の自覚です。

そこに、一切衆生、悪人も女人も、二乗も全部救われていくという悉皆成仏について、その感激は、自分の信心の上に持っていなければだめでしょうね。それはどういうことかというと、入信してからの体験と年功によって信心に対する気持ちは強くなるのですが、最初に、今話した信に立たなければだめです。信心すると決めたら、この信の上に立つことです、判っても判らなくても。この信が最も大事なことなのです。
   (続く)

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December 30 [Sun], 2012, 21:40
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