春ドラマ半分スタートしました(2015年4月期@)

April 17 [Fri], 2015, 0:00
やっぱり観る連ドラのある生活は楽しいなぁ・・・・。

1月期のドラマ(『ウロボロス』と『デート』中心)終了後、少し間が空きました。
それが若干「餓え」をもたらしたのか、なぜか今季はスタートするドラマ、今のところなかなか楽しんで観てます。
アレですね。コーヒーと同じで、飲みたさが高まった時に飲むと、美味しいのかな。

テレビ誌というものがありますが、今は三カ月に一度しか買ってません。つまり、「新ドラマ相関図」の載ってる号です。
スタートしたドラマは、まだ全体の半分くらいしか見てませんがですが・・・以下四本は面白く見ました。

【心がポキッとね】

これ、私は面白かった。
『最後から二番目の恋』で力を見せつけた岡田恵和脚本。
セリフが良くて、じわじわ効いてくる感じ。

『最後から・・・』のキャスト陣に比べるとちょっと弱い感じもしたけれど、阿部サダヲ大好きですから・・・特に第一話は、阿部サダあってのドラマと思った。
映像的に花はないけれど、それをしっかりネタにされてる(「顔は趣味じゃなかったの」と元妻にいわれる)し。
いろいろ残念な博愛主義の大雑把なカミサマ役の藤木直人と好対照。また藤木も似合ってるわ・・・。
山口智子演じる45女の自分探し、幸福探しの痛さが、最初ウンザリ、あとで愛しくなってくる。
水原希子も、キレキレのキックの連発が、なかなか楽しい。

ただテレビ的には、阿部サダ中心で真裏の『Dr.倫太郎』と戦うのはかなり大変でしょう。
もう少し、彼と相性の良い俳優を出しておいてほしかった(染谷君とか大人計画系とか)
こっちも録画して両方見るのが大変だけど、ちゃんと見届けるから頑張れ阿部サダ!
うまさとかわいげと哀愁だけじゃなく、もうちょっと輝いてくれ!(失礼)

【アルジャーノンに花束を】

楽しみにしてました。
野島伸司のオールドファンでもあり、また再放送された『未成年』にどっぷりハマって見てたから・・・。
改めて『未成年』は名作。女の子の使い方とかに非常に時代性を感じたけど、それも楽しかった。
香取君、いしだ壱成、反町隆史、河合我聞(+1)の男子5人組は私の好物だし、悲劇に至る流れもうまくて泣かされるんですよね・・・・。
今回配役を見た時点でびっくり。いしだ壱成が、主演山P演じる咲人の父親役、河合我聞が石丸幹二の部下の研究員として登場するんだもん。

期待を裏切らない第1回でした。
まあ・・・主演の山Pの演技は、ちょっと不満が・・・。月9の相葉君にも文句書いてますが、けしてジャニーズに恨みがあるわけじゃないです。なまじ役者一本の俳優より素晴らしい仕事を残している人もたくさんたくさんいるし。
山Pも、激愛する『野ブタを、プロデュース』の彰を見てしまってからは、(亀とともに)たいていのことでは好感はは消えません。
しかしながら、かつての山Pの透明感はだいぶ濁ってしまった・・・・。なおかつツラいのは泣く時の演技がわざとらしいこと。目を細めて力を入れるような。
でも、元々は適役だと思うし、ネズミのアルジャーノンとの演技とか、「ばかなこきらいです」「おりこうになりたいです」などのセリフ感は決して悪くないので頑張ってほしい。
《4/17追記》とか言っていたものの今見た第二回では、山Pの演技にどんどんなじんでしまい、窪田君とのやり取りのところでしたたか泣かされてしまった。

いしだ壱成は、再放送を見ていてあの目に改めて魅力を感じた。事件がなければどれだけの仕事ができたかと惜しまれる人。髪が寂しくなったね。河合我聞や萩原聖人とともにファン心をくすぐる。・・・。そう言えば、オープニングで咲人が高い煙突に上ってしまうのも、『ひとつ屋根』。

『半沢直樹』以来どこでもひっぱりだこの石丸幹二。パーマヘアの天才研究者も似合う。
栗山千明が惚れるのもよくわかる。

すっごくいいと思うのは、職場仲間(寮もいっしょ)の窪田正孝と工藤阿須加。
窪田君の実力は周知のことだけれど、今回はやさしさもずるさもある普通の青年。お調子者ぶったセリフも似合う。彼がこのドラマの中にいることでどれだけドラマが深まっていることか。
工藤阿須加いいねえ!!『八重の桜』の三郎役も、『ルーズヴェルト』のピッチャーも良かったけど、今回もまたいい。「弱いものがいじめられているのを見ると黙っていられない」優しくて激しい性格の青年だが、出所したてで凶暴性を秘めた役ということで、ドキッとするような色気も初めて感じられた。
今の若手で「大物感」のある役者と言うと、東出昌を思うが(身長だけでなく、キングオブ棒演技なのになぜか魅力があるから・・・)、阿須加君もいい。スポーツマンだし、目がいいし。もしかして、高倉健みたいな感じじゃないの?
彼らの織りなす。ピュアで悲劇の匂いのする青春ドラマに、期待大です。

ひさびさ「新選組」ネタ三題

April 16 [Thu], 2015, 13:37
なんと、というか、またまた、というか・・・・。
気づけば非常に長いご無沙汰でした。
家庭内のことでちょっとありまして、ブログのことはすっかり失念してしまっていました。

久々の休みがありがたい。
たいてい、久々だと書きたいことがてんこ盛りにたまっているものなのだけれど、今アタマが真っ白になってるのが不思議。

そうだ、先日12日日曜日はたまたま『新選組!』っぽいネタが多かったので、ちょっと書いとこう。
4月12日、近藤局長の命日で、流山では「勇忌」が行われている。
偶然なのか、どうか・・・・。

【ネタ1:『波瀾爆笑』に耕史君】

日曜日、何気なくリビングにつけっぱなしのテレビを眺めたら、見たことのあるかわいい赤ちゃんが・・・。
やや、耕史君じゃないですか!!なんと『波瀾爆笑』に出演??セーフ!

『嵐が丘』でヒースクリフをやるので、その関連ですな。
まあ、耕史君についてはたいていのことはわかってしまっているので、さして新しい情報はなかったけれど・・・(どうしても手品・モノマネ・ギター・DBのイラストが出るし。香取君のメルアドを盗んだ話は出るし・・・)、『ウサニ』で共演していた溝端淳平君とのコンビネーションが良かったです。
一番気になっている結婚についての話を注意して聞いてたんですが、ニューハーフが家に来たりしている位で、ここずっと浮いた話はないらしい・・・いや、本当はあるのかもしれない。あって欲しい!

堺さんがVで登場して、何かしら歯に衣着せぬことを言ってました。
(耕史君も堺さんを「何を言っても演技してるように見える」とか言ってましたが・・・)。
やはり『新選組!』の香取愛について、あまりにもずっと「好きだ」と言い続けてるので、だんだん尊敬とか通り越して「おかしいんじゃないの?」とか思ったそう。
「直してほしいところは?」と聞かれて、あまりに自分と真逆すぎて、直すとかそう言う共感性を感じられないのだとか。
「(耕史君は)もてるし歌もうまいしギターも弾けるし演技もうまいし、腹立ってきちゃう。上手いのは歌だけにしてほしいですよ」。
でもこっちから見ると、器用貧乏を絵に描いたような耕史君に対し、ヘタレ感をさらし出しつつ、役者としてここまでブレイクしてしまった堺さん(サラッと結婚もしたし)。どっちが器用なんでしょうか・・・。
ある意味、今でもダブル副長、ライバルなのかもしれませぬ。

【ネタ2:『新選組グラフィティ』トークイベント】

で、『波瀾爆笑』を見ながら身支度をして、今日は某所で堀口茉純さん(アイドルで歴史研究家で、お江戸ルほーりーという愛称もある方。メディアでも活躍中)のトークイベントがあったので参加してきました。

この本『新選組グラフィティ1834-1868幕末を駆け抜けた近藤勇と仲間たち』は、ちょっと一風不思議な新選組本。とにかく愛情がこもっている。
独特な隊士の絵(あえて同人誌風イケメン類型を外している)に「おっ?」と思う。
年表や隊士の資料、事件の瓦版、土方さんや沖田さんへのインタビューなどもあって面白い構成。研究書にしたら物足りないかもしれないけれど、ポップな口語調ながら、細かい史実にこだわっているのが面白い。小説ではないのにどんどん前から読めちゃう。

作者堀口さんは、かわいらしい若い女性。着物がよく似あっていてあさぎ色の隊服を羽織っていらっしゃいました。小学四年の時『燃えよ剣』で沖田総司に恋して以来、歴女のさきがけを続けているらしいです。(でも、浮世絵の本なんかも出してます)
総司推しっぽいですが、この本は近藤勇中心で書きたかったそう。
この日は4月12日「勇忌」のため、そちらに近藤ファンは流れたかも・・・と言って笑わせてくれました。

『ソロモンの偽証』 原作+映画前編

March 23 [Mon], 2015, 7:53

【原作が先か、映画が先か】

小説を先に読むか、映画を先に観るかは悩ましい。
もちろん、オリジナルである小説を先に読むのがベストだと思っている。ミステリはもちろんのこと、他の作品でも。作品がどこに着地するのかワクワクドキドキ想像しながら読むのは。ミステリと同じだから・・・。

時々、監督や役者が大好きだった場合、あえて原作を読まず初体験を映画にしたい、と思う作品もある。
どうせ読まなくとも、キャストを知ってしまった段階で「脳内映像化」してしまうので、予備知識なしで読むのが難しい。まっさらで原作を読むのとだいぶ違ってしまう。
変則的には、長い作品の最終巻をあえて読まずに映画を観たりすることもある。これは映画館における盛り上がりを一番優先した場合。
ミステリ原作映画などでは、既読者にそっぽを向かれないためか、「オリジナルとは違う驚愕のラスト!」とかやっているのも見かけるが、原作者とどのように折り合いをつけてるんだろう。

まら雑談に入ってしまった。
宮部みゆき『ソロモンの偽証』は、絶対に小説を先に読みたいと思っていた作品。

【宮部みゆきの天才性を再認識】

分厚い文庫本6冊のボリュームを見て、「映画まで読み切れるかなあ・・値段も張るし古本屋にもないしどうしようかなぁ・・・」と思っていた。けれど、読んでみれば宮部みゆきの天才を再認識することになった。(昔よく読んでいたが、ここしばらく新作を読んでいなかったので)。読み始めたらあっという間。
確かに一巻の半分くらい、登場人物がどんどん増えてくるのでそのあたりは行きつ戻りつしたが(年のせいで記銘力が落ちているから)、あとはもうジェットコースター並み。とても忙しい頃で、通勤とスキマ時間中心の読書だったのに、次の巻が切れると飢餓感が凄いので、休日前には一冊多く買ったりした。

『ソロモンの偽証』にこの手の体験談は多い。さほど読書力があるわけでもない私も友人も、これだけの長大作を一気読みできた自分に感心してしまう。それは自分ではなく宮部の力。感服つかまつりました。彼女はミステリの第一人者でありながら、優れた時代小説も書くし、ファンタジーやジュブナイルも書く。筆力にいささかの衰えもみられない。日本の宝です!
宮部みゆきはエグくない。大風呂敷でもない。どちらかといえば刺激の少ないゆったりした語り口だし、これでもかこれでもかという描写はない。シドニィ・シェルダンや韓流ドラマみたいなジェットコースターストーリーとは逆だ。
この物語も、場所は学校内と生徒たちの生活圏内に限定されている。次々に人が死ぬわけでもない。だのに、あの「ページを繰らせる力」はものすごい。
登場人物の内面や人間関係や行動の描写が素晴らしく、非常にリアルでいちいち心に落ちてくるのだ。最後には膨大な登場人物がほとんど全員愛しくなってくるくらい。

【ジュブナイル法廷ミステリ】

この小説は、ジャンル的には社会派ミステリと言うべきかもしれないが、むしろジュブナイル小説的な魅力を強く感じた。
自分が中学生だった時の、鼻の奥がツンとするような思いを、引きずり出して味あわせてくれる。先生のいうことに時々疑いを感じ、大人の裏の思いもちょっとずつ見えているが、まだまだ依存したい気持ちも強い。恋愛とか友情とか、憧れるのになんだかさっぱりわからない。素敵なクラスメイトが、カッコいい先輩が、テレビのアイドルよりもはるかに輝いていた。青春真っ只中だと持ち上げられても、実際の毎日は冴えないことばかりだし、日々がどんどん過ぎていくのがなんだか怖い・・・みたいな。
人にはそれぞれデフォルトのような年代があるんじゃないか。私はどうも中学一年頃がそれで、その前の自分を振り離し一線を引こうとしていた。部活に夢中になることが、自分を少し変えた。今でもよく、自分の文章を読み返すと、中学校の頃考えていたことと、基本的には変わっていないなぁ・・・と思う。しかしその前までには行かない。
宮部みゆきのデフォルトも中学時代なのかもしれない・・・と、この作品を読みながら勝手に想像してしまった。
そして藤野涼子は、宮部みゆきの分身かどうかはわからないが、これまでのヒロインの中でも一番思いのこもったキャラクターだと思う。

また「法廷モノ」としてもすぐれている。それは校内の裁判モドキにすぎないはずなのだが、法廷モノの面白さが純粋な形で詰まっているから面白い。
「子供たちを甘く見てはいけない」というのは、後日談で強調されているがテーマのひとつなのかも。ひとつひとつ手探りで裁判の仕組みを勉強し、図書館で調べながら作り上げた彼らの法廷は、出来あがった法廷を借りた法廷モノに比べると、非常に新鮮で優れている。「そうか、陪審員制ってこうだったんだ!」と彼らに教わったことも多々ある。
この小説を読んで法廷ドラマをムラムラと見たくなり、ちょうどやっていたWOWOWの三上博史『贖罪の奏鳴曲(ソナタ)』と、田村正和の『復讐法廷』も観てしまった。(『贖罪の奏鳴曲』はとても良かった。)

結局のところ何が言いたいかといえば、『ソロモンの偽証』体験は、原作先をお勧めしたい!!
内容に触れず賛辞を先に書いたのはそのため。

このあと、映画『ソロモンの偽証』前編の感想を書きます。
映画全体の評価はあくまで、後半まで観てからでしょうけれど・・・あまりほめてません。

しかし、これは多分あの小説を体験をした方なら、誰でも思うことじゃないかな・・・。
それは如実に表れている。小説は店頭にこれでもかと積み上げられていて、ぞくぞくと売れ続けているのに、映画の入りはさほどでもないようだ・・・。平日の夜。観客の多くは、原作を夢中で読んだ方々かのように見えた。

ちなみに、つらつらとYahoo!の映画感想などを読むと、「面白かった」という感想の方が多い。
それはわかる。宮部みゆきのストーリーは、概略追いかけているだけでも面白い。
それを未熟ななりにも清新な魅力の新人たちが演じているのは、新鮮だろう。

さほど宮部に興味もなく、話題の作品を二時間程度であらかたつかむためには、もちろん映画は効率的。
映画前編→小説六冊→映画後編、というのもアリかも。

・・・ということで、ここまで読んで「うん、やっぱり小説を先に読もう!」と思った方は、この先のは読まずにまっすぐ書店へ行くことをお勧め。
読む暇なんてない・・・と思っても、一巻の半分くらいまで行けば、あとは宮部さんがグイグイ引っ張っていってくれるでしょう。

あと『名もなき毒』シリーズの好きな方には、藤野涼子が20年後、杉村三郎と一緒に事件を手掛けるというう短編のおまけつき(六巻)。


【映画『ソロモンの偽証 前編・事件』感想】

すでに映画を観ちゃった人向けの感想です。
重大なネタバレは配慮してありますが、先入イメージを与える恐れはあります。
小説を先に読みたい方は、これから先は読まない方が・・・(しつこくてゴメン)。







事件の舞台は1990年〜1991年。まさにバブル末期。
映画では、主人公の中学生だった藤野涼子が、教師として赴任して20年ぶりに桜満開の頃母校にやってきた・・・という設定(現代部分は尾野真知子)。保険医の余貴美子と事件の詳細を語る、という形で始まる。1991年の20年後の春、では2011年4月、東日本大震災で余震が続いていた頃・・・。いや、卒業後20年と考えれば、2012年の東京だから落ち着いていたのかな。

細かいことはともかく、この20(±a)年という時代感が効果的だったのだが、この距離感が映画でどう処理しているのか、ここは前編ではまだ見えない。
公衆電話の有無や、商店街の雰囲気は違えども、学校っていうのは今も昔もあまり変わらないなぁ・・・というのも実感。(今ならラインいじめが津々浦々に充満してるだろうが)

この物語を今の時代に設定しなかったのはなぜだろう。
藤野涼子みたいな中学生の存在はもはや無理なのか、それとも当時素晴らしき中学生だった彼らが30代半ばの今、今の時代にまだ希望が持てるということなのか・・・・。

実は私は、予備知識なしに原作を読み始めた時、彼らが中学生の時の事件が「現代」になって真実が顔を出し、過去をさかのぼって謎が解かれる話なのかなぁ・・・・とか思っていた。(『贖罪』とか『激流』みたいな。)

その辺は小説で描かれそこなった部分だと思う。映画では是非描いて欲しいものだ。
しかし今のところ、尾野真知子のナレーションも少なく(存在感がなく)、狙いはわからなかった。

20年前ならもう何らかの時代考証が必要なはずだが、その辺も疑問。
「大出のオヤジがバブルでめちゃくちゃ儲けた」なんてセリフ、1990年に中学生が使うセリフとしては絶対におかしい!「地上げ屋と組んで儲けたらしい」というセリフならまだしも・・・。
「バブル」というのは弾けてから流布した言葉で、1990年にはなかった。「バブルのさなかにいる」という認識だってなかったから。
また、このセリフは原作にはなかったように思う。(人に貸したから断言できないが、こういうことにはピッと来るので)。

駆け足2015春ドラマ最終コーナー(オリジナル脚本充実)

March 18 [Wed], 2015, 7:10
連続ドラマについて・・・。全然書けてませんが、見てます。
もはや続々最終回を迎える頃ですが、その前にちょっとまとめ。
(★は満足度。最高5個です)

やっぱり今季はブレなく、『デート』と『ウロボロス』が一番好き。

★★★★★『ウロボロス』は、萌えボロス。最終回に向けて盛り上がってますね!
小栗くんはもちろんいいし、樹里ちゃん、鋼太郎さん、滝藤さん、ムロ君、綾野君・・・みんなすごくいい。子役も、小栗タッちゃんと生田イクオにぴったりで可愛い。
けれどやはりあくまで斗真君が主役。
斗真君って正直、ドラマのまともな主演に恵まれなかったと思うんです。(『魔王』『遅咲きのヒマワリ』もパッとしなかった)映画で培った演技力、アクションは素晴らしいのに。

で、今回のドラマで爆発。
第六、七話の西武園ゆうえんちで撮った回が特に好きなんだけど、タッちゃんの窮地に自らも瀕死のまま現れた「ゾンビ」顔の演技、凄かった。観た瞬間ぶわっときて、やはり評判になってたね!瞬きをしない演技、驚愕の演技(ウラバラスで散々からかわれて可愛い)、タッちゃんに置いていかれた時の悲痛な顔、カッコいいアクション、人懐っこい笑顔・・・。
可愛くて愛しくてたまらないのに、狂気と人並みを超えた能力もある。『土竜の唄』と『脳男』のイイトコドリ?キャラ立ちまくり。

で、タッちゃん小栗は一歩引いていて、いつもイクオ生田を立ててるんですよね。信長も大好きだったけれど、脇に寄った時の小栗もいいんだなあ。斗真君もこの状況だからこそ、ようやく胸を張って「代表作ドラマ」と言えるものができたと思う。
そうかと思えば斗真君は最初から「(大好きな)ウロボロスをドラマ化したい。そしたら相手は絶対旬君」と決めたたそうで、ドラマでもリアルでも犬っコロ。もう萌え萌えなんですよ。イケパラの佐野君と中津君からずいぶん時がたったけれど、あの頃よりずっとオトコマエになったし、二人の愛も深まってる(!!!)
ストーリーも振り落とされそうなくらいスピーディー。最高のエンターティメントだと思うんだけど。視聴率はイマイチだけれど、録画率はずっとトップらしいですぞ。
その上、本編と『ウラバラス』と二度楽しめる。最初のウラバラスの時、間違っていつものように通常モードで録画したら、副音声が聞けなくて泣いた。(○tube)で聞いたけど、録画をとっときたかった。本編でも副音声でも、旬君斗真君の仲好しさにニヤニヤ。鋼太郎さんもムロさんもチーム感たっぷり。小栗君が鋼太郎と呼び捨てにするのが変だったけど、あれだけ仲良しならなぁ・・・。
毎回一時間たっぷり、画面を見ながら本人たちが語り倒してくれるので、嬉しくてたまらないんだけど、世間的評判はどうなのかな?こういうのこれから増えそうだけど、こんなに心から楽しいのはそうそうないような気がする。

★★★★★『デート』は古沢良太の大傑作。見たら元気になる、月曜日の魔法です。
第一回を見た時は、この内容で同最後まで持っていくのかちょっと心配になったけれど、恋愛ドラマというよりも、家族・恋愛・結婚が丸ごと入った非常に新しいホームドラマでした。
毎回楽しいけれど、特に、第二回の踊るプロポーズ編と、第六回の年始のあいさつ編(蛇が鍋でゆだっちゃうやつ)はたまらなくて、何回見てもたまらない。(第九回とかイマイチな回もあるけど・・・)
大好きな長谷川さんとスーパーサラブレッド杏の素晴らしさはもちろんだけど、脇もいいですよね。(ヒットは鷲尾くんの中島裕翔)。
母親が二人とも良く描けてる。特に幽霊(というより依子の幻想)として現れる和久井映見がいい。依子の頑なな性格が、どうも科学者としても女としても母親に勝てない(と思いこんでいる)ところにあるとわかってからは、依子がたまらなく愛しくなった。
依子の父親松重豊もたまらなくいい。けれど後の方で出てきた谷口の父親(平田満)と、不必要なくらいどす黒い友人(松尾諭)は、なんだか清潔感がなくていやなのである。(役者は悪くないが)

この古沢良太(リーガルハイ)の古沢良太を筆頭に、今シーズンは注目脚本家の競演という側面も見逃せない。
ということは原作付きがいつもより少なかったわけで、オリジナルが多く見られたという点では嬉しいシーズンだった。

店の名はクレマスター

March 14 [Sat], 2015, 7:20
【店の名はライフ】

店の名はライフ 自転車屋の隣
どんなに酔ってもたどりつける
最終電車を逃したと言っては 
たむろする一文無したち

店の名はライフ 三階は屋根裏
あやしげな運命論の行き止まり
二階では徹夜で続く恋愛論
抜け道は左 安梯子

店の名はライフ 今は純喫茶
頭の切れそな 二枚目マスター
壁の階段は塗りこめてしまった
まっすぐな足の娘 銀のお盆を抱えて「いらっしゃいませ・・・」

(中島みゆき『店の名はライフ』一部抜粋)

【ゴールデン街の哲学バー】

先月末、K先生にお会いできる集まりに行ってまいりました。
(こっそり教えてくださる方がいらっしゃって・・・感謝しております)

この方のおかげで7年前に先生に初めてお会いできました。それも2月末。
ちょうど娘の高校入試の日で、その日受けた第一志望を落ちたのでよく覚えてます。(母親がそんな夜外出した報い?)しかしその子も大学を卒業して家を出ましたから、時効でしょう。
なにしろ勝手にわが師としてお慕いしているK先生ももはや81歳。お会いできるとなったら(娘の受験日であろうと)馳せ参じます。

7年前は普通の飲み屋での会でしたが、今回の会場は、歌舞伎町花園ゴールデン街のカフェバー「CREMASTER(クレマスター)」で、先着15人限定。

これはいったいどういう場所なんだろう・・・怪しげで楽しみ。
調べるとクレマスターは、2003年に精神分析医であるF先生が設立し、「Fゼミ」が既に何百回も行われているという。K先生を呼んでの今回が564回。
すごい!超本格的「哲学バー」じゃありませんか!(違ったらゴメン)

歌舞伎町でもコマ劇場付近ならともかく、腸に例えられる複雑なゴールデン街などまともに行ったことはない。一昨年就職活動のため新宿区役所から花園神社付近へ抜けようとしただけで、白昼なのに路地に迷い込んで出られなくなり、非常に焦った時を思い出す。

外は冷たい雨。
「JR新宿駅の東口を出たら・・・♪」とご機嫌に唄いながら地図を片手にゴールデン街へ。
夜見ると、「これぞ!」というくらい独特。十代の頃から憧れを感じていた(なんで?)歌舞伎町は西武新宿前じゃなく、こっちだった。猥雑や魔窟イメージを通り越して、廃墟写真に魅かれるのに似た思いを抱いた。(失礼)
巨大資本立ち入り禁止的な、懐かしい文化的なエッセンスを感じた。(うるさいおもひで横丁よりはずっと。)

十分時間に余裕を持って出かけたはずなのに、路地を一本間違ったのが運の尽き、店を見つけられずにぐるぐるぐるぐるしてから到着。
雨の中開場までしばらく待っていると、定員15名のところなんと16人目で、入れないとのこと。
立ち見でもいいし、先生の顔を一目見るだけでもいいと思って時間まで待ってたら、私と最後の17番目の人まで入れてくれることになった(有難い)。

しかし、二人くらい入れるだろう、と思ったのも割と甘かった。
この界隈では通常サイズなのかもしれないが、小さくて細い店。一階のカウンターも5席くらいで、人がすり抜けるのがようやっとのスペース。

「Fゼミ」の会場は2階。ここも6畳間くらいのスペース。そこに2先生を入れて19人の男女が入るのだからすごい!!椅子も足りず、屋根裏(3階?)に続く奥の梯子階段に3人ほど腰かけている。私は逆の、入り口に近い階下への階段の最上段に立って参加させていただくことになった。
1日4時間立ち仕事してるから立っているのは平気だが、一番混んでいた時は階段の角に足裏を引っ掛け、傾いて落ちそうになる自分の身体を手すりにつかまって支えての状態。

トイレに立つ人も大変で、私が立っている階段の角を双方必死の思いですれ違う。補欠の身分でトイレへのすれ違いで苦労するのも嫌だから、ワンドリンクはウーロン茶にして夜更けとともに勧められたワインも失礼ながらお断りした。

K先生は2000年頃の文章で「2013年自宅の階段より落ちて死亡」なんて書いてる。(文藝春秋の企画の「私の死亡記事」)
それより2年は多く生きて今81歳になられたが、万一にも私の横をすれ違いざま狭くて急な階段から落ちては大変だ・・・と思って下り階段を先導したりしました。

【歌舞伎町に中島みゆき】

もちろん不満を言ってるのではなく、私はこの状況が楽しくてたまらないのである。

お洒落な内装でもなく、かき集めたような椅子とテーブル、壁の絵がかけられ、階段の壁の書棚には、哲学書や美術書が雑多に並んでいる(びっしり、ではないのが愛嬌)。かなり年代の建物で、入り口のガラスにも大きなひびが放置されている。
この狭さは、まるでアンネの屋根裏部屋みたいだ。または防空壕。そこに素性のバラバラな大人たちがぎゅうぎゅうに詰まっているのは、池田屋事件の計画を練る新選組みたいでもある。

ゴールデン街という場所がマイナスをプラスに転じるのか、狭い一階ののカウンターにもなんとなく風情があり、気怠いヴォーカルが非常に似つかわしい。音響もすごくいい…(ように感じる)。

これが歌舞伎町の「哲学カフェ」というものなのかもしれない。と一人で内心興奮しているが、これから哲学を語る方々にはしゃいでいるのを悟られませぬように・・・。

・・・と思っていると、だしぬけに耳から一撃。
会が始まる直前、私の一生涯の伴走曲である中島みゆきの初期の曲がかかり始めた。(『わかれうた』とか『海鳴り』とか、そのあたりだ)
ちょっちょっと・・・何百回も聞いている曲でも、このシチュエーションで聞くと、とんでもなく新鮮に響く。ただでさえ階下に近いような場所にいるから、嫌でも持っていかれる。

そう、この店は若い頃夢見たみゆきの『店の名はライフ』みたいだ(これはかからなかったが)。
「自転車屋の隣」ではないけれど、怪しげな「屋根裏部屋」に続く「二階では徹夜で続く○○論」・・・・。

もう、持ってかれて持ってかれて・・・・あ!もう会は始まってる!!
心の師、K先生が聞き取りにくい声で何か喋っている!

仕事が忙しかった件

March 13 [Fri], 2015, 9:15

半月のご無沙汰でした。
ひとりになって書ける量が増えると思いきや、ここのところ夜も休日も家で持ち帰り仕事。
ようやく今日は緊急の仕事がなく、半月ぶりにいろいろ書きたい意欲が高まってます。

ブログがなぜここまでアップできないかというと、エスカレートするばかりの「長文癖」も原因なんですよね。(プルートゥも谷内六郎も・・・)
長文でじっくりやるのが好きらしいのだけれど、日々浮かんだ書き止めておきたいことを、どんどん痕跡を残さず消えていくのが辛い。
書かないと、自分のアタマからも消えていく。(年だから)
短文でつらつら書くのを増やそう。(と何度も思っているのだよね)



死んだ母が昔言っていた。日記を書けと。
自分の歴史の残っていない人の人生は寂しいと。

・・・かと言って、母が存命中日記を書いていた気配は全くなかった。だから多分子供への教育上の言葉だったのだろう。
けどソレは真実だった。もしかすると、やはりロクに続けられなかった母自身への後悔を込めて、娘に「書くといいよ」と言ってたのかも。

ということを、この年になって思うわけだ。
記憶が、思い出が財産だと。
年を取ると、記憶は何度も思い出したり語ったりしているうちに変形して風化して形骸化する。きょうだいで同じ事を語ると全然違ったりすることもある。
私など妄想型のため、一番記憶の「改ざん」が多いだろう。もし古い日記が残っていたら考古学みたいに面白かっただろうなあ・・・。

改ざんされた記憶どころか、記憶そのものもどんどんなくなっていく。古いことは、その記憶の出来事があったのか、なかったのかすら疑わしくなる。新しいことはさらに覚えられない。

人生が形あるものだと仮定すると、自分が「過去の記憶」として「所有」していると思っている「人生」が、虫食いボロボロになって実質小さく貧弱なものになっている。
アルツハイマーの脳のように・・・?ううう・・・。

そんなことがしきりに思われるので、もっと書きたい。
アクセス数とかほとんど気にならず、もうただ自分のために、書き止めておきたい感じなんですね。ヤプログ!さんありがとう。痕跡を残させてくれて。

◆◆

持ち帰り仕事のために、一日三時間みたいな睡眠が続きました。
一人暮らしでいい年だから、怖い。
倒れちゃいけない。夜中倒れたら発見されないし。
過労や転倒なんかで、職場で倒れたら迷惑千万。労災だ。
この年で希望を入れて雇用してくれた会社に「やっぱり50代の採用はやめよう」と思われかねない。それは、世の同輩の就職活動の芽を摘む方向に一役買ってしまう。

谷内六郎作品に、「姉のような女の子」を探して

February 26 [Thu], 2015, 6:03
お願い:この文章は前章にあたる記事を読んでからお読みください。

先日の記事「谷内六郎のカレンダー」の続きです。
やはりあのままで終わってしまうのは無責任だし自分でも気持ちが落ち着かない。
作品をどう解釈しようと観る人の自由だと言っても、想像だけの「谷内六郎シスコン説」を書いて終わり・・・というわけにもいかない。
(だって、全部まるまる勘違いの思い込みという可能性もあるのですから!!)

訪問者さんからご指摘を受けて大赤面滝汗・・・というパターンも避けたいので、手近な範囲で調べてみることにしました。

探し物はもちろん、谷内六郎の画に出てくる「姉のような年上の女の子」です。

【シスコン説は赤っ恥の予感???】

谷内六郎の本は、書店では思うように見つからなかったが、図書館に行くと何冊か見つかった。
最初に見つけたのは、Art Days(アートデイズ)という出版社の『四季・谷内六郎』。



これは、美しい四季の画文集という趣。
かつての『谷内六郎展覧会』(春/夏/秋/冬・新年/夢)というシリーズが絶版になり、2009年に秀作を選び出して一冊にしたものらしい。(あとがきによる)

作品が縦長に揃っている上、画面の上の方に題字にちょうどいいスペースがあるので、多分彼のもっとも有名な作品群、「週刊新潮」の表紙だろう。

画の中に描かれるのは、ローカル線の駅。海辺の行商、理髪店の街頭、サイダー壜の中の幻影、ユカタを着て観に行く校庭映画。土蔵と柿の実・・・定番の谷内六郎の世界。もちろんどの画にも素朴で愛しい子供たち。

画も文章も美しく、タイトル通り季節感たっぷりなのだが、私の探る「謎」の答えは見つからなかった。(むしろ謎は深まった!)



やはり「姉のような女の子」の登場回数は非常に多いのだ。これは一番最初の『土の中の話』。
土の中の生命の息吹を、二人で感じている。あったかい土の感触が伝わってくるよう。
メインの(エッセイのついている)48枚の彩色画に限っても、そのうちの実に25枚の画に、「(作者の分身らしい)男の子と年上の女の子の組み合わせ」が見出される。何らかの形で「年上の女の子が存在する画」ならなんと37枚だ!

他のパターンも数えてみた。
「作者の分身らしい男の子が一人」・・・5枚。もっとあるように思ったが。
「年上の女の子が一人」・・・5枚。意外に多い。秀作も多い。
その他、「同い年くらいの男の子と女の子」「姉妹や友人のような女の子二人」「年齢性別雑多な子供の集団」など、3〜4枚づつ。

48枚の内一枚だけ、人物のいない絵がある。曇り空をバックに、大きな針葉樹が二本(一本はもう一本の半分くらい)と、空に放たれた赤い風船。風と空気を感じさせ、ゴッホの糸杉を思わせながら別な魅力がある。梢の上の風や湿度まで感じ取れそう。

とにかく・・・カレンダーと同じく圧倒的なほど「姉と弟」の組み合わせが多いのは、確認できた。

しかし!!
文章の中に、それと感じられることは、一切書かれていないのだ。
子供の頃の遊んだことや思い出を描いているし、画の中に「姉のような女の子」がこれだけ登場しているにもかかわらず、「姉がよく連れて行ってくれたものである」とか「近所に住んでいる年長の女の子が・・・」とか、そういう文言は一切ない。

自分の「家族」が出てくる文章はとにかく少ない。
まえがき部分に、「人形作家であった家内」と、「良い批評家」である我が子がちょっと登場するだけ。

「お母さんは遅い針」というタイトルにハッとしても、遅く感じることもある「時間の不思議」のことを言ってるだけで、自分の母のことには一切触れていない。



『かたつむりも東京へ行くつもり』という名のこの絵は、セットの文章を読むと「田舎のお婆ちゃんの家に行った帰り」だという。汽車の車窓にへばりついたかたつむりに感情移入している画。それでも、目の前で向き合って座っている黄色いワンピースの鮮やかな「姉のような女の子」については、一言も触れていない。
体の弱かった谷内と「田舎のお婆ちゃんの家」に行ったのは、本当は誰なんだろう?

気になったのは『ねえたのむよ』という毛糸巻きの画。傑作とは思えないが、これはいろいろ珍しい。
母に見える女性(顔は子供らしいが、髪の結い方が大人っぽい)に頼まれた毛糸巻きの仕事を、兄が妹に押し付けようとしている画。
母を描いたものは非常に少ない。(この画文でも、彼女が母か姉かにすら触れられていない)。
「兄妹」が登場するだけで谷内世界では珍しいが、その表情は奇妙。兄が卑屈に策略をめぐらしており、妹は聞こえているのに聞こえないふりという風情。リアルと言えば言えるが、あまり谷内世界のきょうだい関係には見えない。
おびただしい「姉弟」の画がしっとりと感動的なのとは非常に対照的だ。

大人が登場しないわけではない。トウフ屋さんや、クリーニング屋のおばちゃんや、電気飴(ワタあめ)作りのおじさんなどは、よく出てくるのである。

この本の文章は連載当時「表紙の言葉」として書かれたものであるらしい。
文章が歳時記のように「あっさりめ」であるのは、それゆえかもしれない。

う〜む。「姉のような女の子」が存在しない可能性は高まってしまった。
現実の存在ではなく、作者の理想化された幻想の結晶のような存在かも・・・。
「ねえたのむよ」みたいな「エゴイストなきょうだい」が現実で、美しい光景に登場する「姉のような女の子」は幻想の美しいマドンナなのかもしれない。黄色いワンピースの年上の少女などいなかった。ひとりぼっちでカタツムリを見ていた。という方が確かにありそうだ。

それにしても・・・・・まだ気になる。
想像の産物、理想化された少女の姿にしても、どこか手触りが生々しくはないだろうか。
こんなに丁寧に愛情を込めて、着物の柄まで丁寧に書き込まれて・・・。

【『遠い日の歌』に出てくる三つのふるさと】

その端緒をつかんだのは、『谷内六郎文庫』(マドラ出版全三冊・絶版)の中の(2)『遠い日の歌』である。
三冊の中で、タイトル的に一番幼年時代のことがかかれていそうな気がして最初に手に取った。

これは後から思うとつくづく素晴らしいシリーズで、絶版どころか出版社も今はないらしい。非常に惜しまれる。

ここの載せられた画は、『週刊新潮』 的な牧歌的な日本の画ばかりではない。
この表紙絵『終戦の秋』(1945)などすごいですね!かつてどこかで見たようにも思うけど、谷内の作品としては初めて知った。



焼け野原の日本の夜明けの道を、進駐軍の白いジープが走っていく。その地平線には鮮やかな「ラッキーストライク」の箱が斜めに突き刺さっている。明け方の空に星が二つ。
焼け跡・進駐軍のジープや煙草という道具立てが揃いながら、声高な主張はなく、不思議な明るさでどこか郷愁を誘う。ジープなど、絵本に出てくる言葉をしゃべる車のよう。朝日の代わりにアメリカ煙草が上ってくるのだから痛烈な風刺なのかもしれないけれど、ほのぼのしたユーモアさえ感じてしまう。不思議な絵だ。

この本はカラーページも充実。また巻末の付録「お山のおまつり」ではシャガールおじさんや梅原おじさん・ルオーおじさんたちが屋台をやっていて、彼らの似顔絵を、背景のタッチも真似て描いている。
四季を描いた叙情画だけではない。ユーモラスで発想豊かで色鮮やかでなかなか斬新。「これが良く知ってると思っていた谷内六郎の画か!」と思っただけでも価値がある。

※三冊とも、面白い巻末の付録がついてるので、古本をお求めの際はこれが切り取られていないことをご確認ください。
ちなみにこれは(1)『旅の絵本』の、漫画「真説桃太郎」。
しなびた桃から身体の弱い「ヒネた桃太郎」が出てきます。画も話もとっても楽しい。



そして文章の中にようやく、谷内自身の言葉で、父や母や兄たちが登場してくるのである。

父はなんと、文章部分のトップに登場する。
「カンカン帽でステテコをはいて、シャツの見える絽の着物」を着ている。(へえ〜〜)
暑い日、父は六郎を連れて九段下の食堂のようなところでビールを次々と空にし、隣の席の紳士と政治談議まで始める。六郎は父がグデグデに酔ってしまったら世田谷の家に帰れるのか心配で仕方がない。

谷内六郎(大正10年〜昭和56年)は、関東大震災の頃渋谷(恵比寿)のビール工場の側で生まれた。
作者が「ふるさと」と言ってる場所が三つある。(第一巻では生まれた渋谷も「ふるさと」として懐かしんでいるが)

ひとつは「山のふるさと」。宮城県のこけしの里、鳴子町。住んだわけではなく、心の「ふるさと」として愛したらしい。谷内六郎にあれだけ素晴らしい雪国の画があったのもうなずける。

ふたつめは「海のふるさと」。病弱だった谷内は、一時期転地療養も兼ねて外房の方で暮らしていた。その時の明るい海の光景も、画のモチーフとして良く取り上げられている。

三つめは、「町のふるさと」。世田谷。これが一家で住んでいたメインの場所だと思う。当時(昭和初期)は雑木林も小川も畑もあった武蔵野だったそう。
世田谷にいた頃ウサギやモルモットやヤギの子と遊んでいた話が出ている。

>ボクはあまりおとなしすぎて弱かったので兄たちも、ぜんぜんボクの存在をみとめないので、やはりボクは実験用の小動物たちと一日中小屋の陽だまりで遊んでいるだけ

・・・と、「姉のような女の子」とどんどん離れてしまったが、自分語りが増え、どこかでひょいと出てきそうな気配は感じられる。

【涙の『北風とぬり絵』】



次に読んだのは『谷内六郎文庫』(3)の『北風とぬり絵』。
これは、驚きの「自伝的小説」だった。

達子夫人が描いたあとがきを読むと、谷内さんが亡くなってだいぶ経ってから「原稿用紙の束とペン画がたくさん茶封筒に入っているのを書庫の片隅で見つけた」のだそう。タイトルもつけられ、彩色も完成していたという。谷内さんと親交のあった天野祐吉さんの尽力で、死後20年も経って出版されたという経緯も不思議な本だ。

画と文章の量や構成は他の二冊と変わらない。
しかし特別なのは、少年の名前が六郎ならぬ「虫郎」で統一されていることだ。
これはフィクションだ、という断りでもあろうが、それだけに一層、自由に自分の子供の時代の哀歓が綴られていて胸に迫り、泣かずには読めない。

病弱で引っ込み思案な少年だというのは変わらない。しかし家族との関わりが描かれている。気管支炎でお祭りに行けない虫郎に、兄が枕元に汽車のおもちゃを置いてくれたり、それを壊れて情けない気持ちになったり、小人の職工さんが憐れんで直してくれたり・・・リアルと空想が、画と同じように入り混じっていて面白い。

世田谷に住んだのは、父が牧畜関係の学校の寄宿舎の管理人をやっていたためだった。虫郎は体は弱くとも、ここで自然や小動物を相手に豊かな子供時代を過ごした。
しかしのちに父は寄宿舎の職を追われ、父は「それきり何をするでもないただ終日家の中」にいるようになってしまった。それが悲劇の始まりのようだ。

娘の引っ越しとぬいぐるみ

February 19 [Thu], 2015, 9:42
昨日、娘が家を出ていきました。
友人の運転するワゴン一台で、布団や衣類や身の回りのものだけ積んで。

卒業を待たず都心で生活をするとのこと。
敷金礼金初期費用は、親に借金。生活家電がないからその分も割増しで貸してって。
(ホントに返してくれるのかなあ?)
ほんの半月くらい前までも、物件選びすらろくにしない娘を見て「ホントに引っ越す気あんのか?」と思ってた。
なのに見事に引っ越したのだから、意外とやる時はやるのかもしれない。
正直、心配して世話焼きすぎました・・・。

いろんな生活の残骸は、半分くらいそのまま放置してある。
置き去りになったモノは、やはり子供の頃のものが多い。
子供の頃のオモチャの中で特に捨てきれなかったモノとか。中学校時代の部活の道具とか。

昨日までの雨が上がり、今朝の明るい日差しの中。
連れて行ってもらえなかったモノたちとガランとした部屋に立つと、・・・やはり思い出すことが多い。
ちょっとだけ悲しくなるのは、それだけ幸福すぎたからだろう。

谷内六郎のカレンダー

February 13 [Fri], 2015, 11:00
もう二月なんですが、正月に書きたかったネタを。


《図1》

これ、ご存知ですか?
新潮社で毎年出してる、谷内六郎のカレンダーです。

「週刊新潮」でずいぶん長いこと表紙を書いていらっしゃった画家さんなので、絵柄を見れば誰でも思い出すことでしょう。
カレンダーは来たものを使っている、という無粋な私ですが、このカレンダーだけ3年買い続け、今後も買う予定でいます。

実は、実家の父がだいぶ前からかずっと使っているもの。
それも、最新版だけではなく、近年五年分もカレンダー部分を折り込んで並べ、六年分を貼っているのです。

場所はいつもトイレのドアの壁。こんな風に。


《図2》

六年間買っているのではなく、いつの頃からかずっと六年分貼ってあるのだから、十年以上は買っているんじゃないだろうか。

写真は、正月分なのでたっぷりした雪景色が多い。
大正10年生まれの谷内六郎の子供時代だったら、昭和初期かな。
でも私の心の中に残る、幼い日の記憶とも重なり合うイメージである。
舗装されていない道路を、長くつの泥はねを気にしながら歩いた雪どけの道。獅子舞や武者凧など、縁日の光景もある。そして坊ちゃん刈りやおかっぱの子供たち。

今年は全国的にたびたび大雪の被害に見舞われていますが、それでも基本雪が好きです。
子供の頃、東北でも日本海側の山形県に住んでいたので、大雪が珍しくなかった。冬晴れの日は少ない気候のはずだけれど、雪の白さのおかげで、思い出す光景は明るい。
(てっきり谷内六郎は雪国出身に違いない、と思ってさきほどWikiを見たら、東京の恵比寿出身なんですね)。

◆◆◆

谷内六郎と言えば26年間続いたという「週刊新潮」の表紙。
実は若い頃、ずっとこの表紙絵が苦手だった。
男の子と女の子が登場して、毎年同じような季節の絵・・・正月なら凧揚げ、夏なら虫捕り・・・というありきたり(に思えた)パターンに情感を刺激されるのが嫌だったのかもしれない。なんとなく貧乏くさいというか悲しくなるというか、そんな気持ちになってしまう・・・。

なんでだろう。今見ると、こんなに特別な絵はないのに。
かつて平凡に思えた(←当時も平凡ではなかったのに)谷内六郎の絵は、時代が隔たるにつれ、すべてが「失われたもの」ばかりになった。胸が締め付けられるほどの。

年齢とともに、また帰省のたびに見ているうちに、だんだん好きになった。
またふと「絵の中の秘密」みたいなものに気づいて、強く興味を抱くようになった(・・・ような気がするだけかもしれないが)。
それが三年前なんだろう。

帰省するのはたいていGWとお盆と年末年始だから、毎年同じような絵を見ていることになる。秋など通常帰省しない時節に帰ると「おお!」と新鮮な気分になる。
(下は昨年11月に行った時のもの)


《図3》
知らない町に迷い込んだ孤独や不安感、(下中)
日常の片隅に、小さな世界を見つけた幻想的なものも多い。(下左)
キラキラしたデパートで手を引かれ、戸惑う様子。(上中)
その時代に新しかったテーマもちゃんと登場する。

郷愁をそそる景色に男の子女の子を配した、「単なる表紙用の画」として見過ごしていたのがもったいない。

後に谷内六郎の特徴といわれる、「幻想」がそちこちに見られる。それも「幻想ジャンル」として別世界のジャンル分けされているわけではなく、日常風景と変わらぬ筆致で、空にゼンマイが浮かび、御社で狐が酒盛りをしたり、庭の片隅にコオロギが鉄道を走らせていたり、松林の中空に海があって魚が浮かんでいたりする。

◆◆◆

それよりももっともっと、気になるようになった原因は、「シスコン」の要素を絵の中に発見するようになったからである。

作者の分身である「少年」はほぼ95%以上の絵に登場する。
小学校低学年くらいの、引っ込み思案で、感受性豊かな少年。
谷内六郎自身喘息もちで病弱だったというから、やはり作者の投影なのだと思われる。

大して興味も持てなかったころは、(学年誌のように)お約束的に男の子と女の子が登場しているんだろうくらいに思っていた。孤独がちだった病弱な少年だけの画では表紙として寂しすぎるし。

ちゃんと見たら、違う。同年代の女の子も出てくるが、もっと圧倒的な回数と存在感で登場するのは、年上の女の子・・・多分姉だ。
多くは12,3歳くらいに見える。初潮が始まったかどうか、という頃の、昔で言えばもう子供から大人に変わり始めている少女。

こんなことは、研究者ならずとも普通のファンであれば「基本知識」なのかもしれないけれど、「自分がある日突然気づいた」という実体験に即して語らせて下さいませ。
今思うと、なんて漫然と見てたのか、自分の鈍感さに驚くくらいなんですが・・・・。


《図4「ぼくのも上がった」》

「姉のような女の子」は、お正月の和服をちゃんと着て、男の子に優しく付き添っている。
母親でも、乳母でも、子守っ子でもない(そこまで古い時代ではない)。やっぱり実の姉なんだろう。(と仮定して話を進めるのでご了承ください)

他の男の子達(少し年上か)は離れたところにいて、見事に凧を上げている。
男の子の凧は、上がるどころか橋の手すりからダランと落っこちてしまった。
でも、川面に、他の男の子が挙げているたこと一緒に写っているから「ぼくのも上がった」と自分を慰めている。または、「一緒に空に上がってるよ」と姉に慰めてもらっているのか。

女の子はしっかりしているようだが、凧揚げもなんでもござれ、と言う男まさりなタイプじゃないのだ。家の中の遊びやお手伝いとかは割合得意だが、弟の面倒を見ても、男の子っぽい遊びをこなしてきたわけじゃない。

カレンダーゆえか、正月の凧揚げのモチーフは多い。
《図1》の左上の画も。
こちらでは男の子と一緒にいるが、関係性はこの絵だけではわからない。丁寧に描かれているのはどう見ても、座って見ている和服の大きな女の子のほう。彼女に見守って欲しい、あわよくば一人前に凧上げができるところを見てほしい・・けどやっぱりダメだった。

凧がうまく上げられなかった情けなさは、一生忘れられないものかもしれない。
「正月のせつない思い出」は私にもあり、子供の頃はそのために正月が来ることが嫌だったくらいである。
以前谷内の絵が苦手だったのは、こういう共通するコンプレックス(「そんなことわかってるよ!と言いたくなるほど常に嘗めているもの)を刺激されるということもあるのかも。

背景の美しい山は富士山に見えるから、やはり東北じゃないのかな。
すっぽりとした雪国を舞台にした作品が多いのは、憧れやフィクションもあるのだろう。


《図5「やっと取れた粉雪」》

雪にもいろいろあり、すごく服にねばってくる雪、ありますよね。お姉さんと犬が玄関に入り、ようやく自分の衣服の雪が取れたところ。男の子は雪をねばりつかせたまま、少し離れて姉と犬がせっせと雪を払ってるところを見ている。
年上の女の子を「ただ見てる」という絵も多い。

週刊誌の表紙絵に限って言えば、必要条件は「季節と子供たち」の叙情画だろう。
だから、同年代の女の子が登場する絵も決して少なくはない。
ただ、それらはどうも思い入れというか、情念に乏しいのか、あまり面白くない。
また、子供の集団を描いても、個々のキャラクターや関係性はよくわからず、あまり興味は感じない。作者が多くの子供たちに交わって遊ぶのが苦手だった感じがあるからかも。(《図3》の右下など)

漫画『PLUTO』感想(2) 突っ込み編

February 05 [Thu], 2015, 15:44
この記事は、必ず前記事
『PLUTO』感想(1)ウォーム&ウェット編
を読んでからお読みください。(特にファンの方は・・・・)

前の記事は、漫画『PLUTO』をじっくり読んで、そのストーリーの緻密さや深さに感嘆し、8割がた賛辞を送った感じになってる・・・と思います。

今度はごくフラットに、初読時からこの作品に感じた、率直な疑問というか、「えっなんで?」だったことを、書いていきます。(あまりに真面目な入魂作品ゆえに、最初から突っ込み感想を書くのはためらわれた、という心理的事情もアリです。)
※予定では「クール&ドライ編」と考えてましたが、クールでもドライでもないので、「突っ込み」にしました。

まず、登場ロボットの「外観」についてです。

【大好きなロボットたちのビジュアルは・・・?】

手塚版アトムの『地上最大のロボットの巻』で、私の愛した各ロボットたち。
(ノース2号と、エプシロンが特に好きだったんですよ。なんかわかる〜?)

舞台版ではアトムとゲジヒト以外メインで登場することもなかったけれど、浦沢版はちゃんとたくさん登場してます!!
世界最高水準の七体のロボットたち、リスペクト+リメイクの浦沢版『PLUTO』では、どう描かれてるんでしょう??ワクワク。

だいぶ前ですが、単行本の序盤で浦沢版ノース2号を見た時は、「うわ〜目が死んでる」「なぜ長マント?「かぶりものになってるよ〜〜」と驚いたのですが、エピは良かった。
「ピアノを弾けるようになりたいのです・・・」というロボットが現れた。音楽の美しさを解し、憧れや意欲を持つロボットが現れた。素晴らしいエピ。
手塚版で10ページもなかったノース2号のエピが、実に78ページ分のボリュームになってるのは嬉しいけれど、若干くどいし暗いし劇画的だし「泣かせ」だし・・・という感じはあり。それは全編のトーンを予感させるものでした。

悲劇的、劇画的、情念たっぷり、陰々滅々・・・。
迷いのないクリッとした線で勢いのよいロボット同士の戦いを描く、ぼんやりしたところのない手塚さんの絵を思うと、ちょっと驚いてしまう。このままいくの?
このまま行ったんです。

お気に入りのエプシロンは、イケメンロン毛青年の姿。ハイネックの黒いシャツに、スレンダーなボディ。デザイン意図はよくわからない(もしかしたら当時のキムタク風?)けれど、「イケメン着ぐるみ」じゃなくてホントによかった!
ボラーとアドラーの影に脅え続ける少年ワシリーを救うために、ちぎれた手の部分だけで子供を守ったシーン・・・・感動的だった。舞台でも浦沢版でも、手塚版の「エプシロンの手」エピをみごと蘇らせてくれて、「おお!」と思った。

でも、手塚版の中で特に心に残ったエピソード、二人でアトムを救出に行き、エプシロンがふとプルートを策略で海底に沈めようとして迷うシーン・・・これが浦沢版になかったのが残念。

エプシロンはそう、手塚版ではアトム以外では唯一、「迷う」ロボットだったんですよ!
それまでの5人が、自分の使命を疑うことなく潔すぎる死に方をした後だけに、6番目に死ぬエプシロンの「迷い」がとても心に響いた。

『PLUTO』では、ロボットが「迷う」なんて珍しくもない。
「疑う」「悲しむ」「悩む」「拒否する」「憎む」「愛する」・・・さらに、「嘘をつく」「夢を見る」ロボットまで登場する。
その辺はもちろんゲジヒトの超得意技。
全編通じて「ゲジヒトの魂の彷徨」みたいなものなのだ。
手塚版では「特殊合金製の刑事ロボット」ということだけが特徴で、それゆえ油断してあっけなく死んでしまうゲジヒト。彼を堂々主役に据えたのは『PLUTO』の最大のアイデアと言える。

その着想は素晴らしい!けれどゲジヒトの暗い性格付けとヴィジュアルとミステリ仕立てのゲジヒトの内省は、物語からテンポと明るさとワクワク感を著しく奪ったようにも思う。(厳しい?)

それから、ヘラクレスとブランドが、セットで「格闘型ロボット」扱いなのがちょっと気になる。
ロボット・ファイトは『アトム』の他の巻にはあったし、最近の『ベイマックス』にもあるネタ。
けれど、世界最高水準の、人間では及びもつかないような尊い仕事をしているロボットたちが、なにも興行的なファイトをやらなくても・・・。
「大物プロモーター」がヘラクレスに「お前が出場しなくなってから客が激減している」と文句を言ってるから、規模は世界的でも見世物興行なのは確か。アトムが天馬博士に愛されず、サーカス(見世物だよね)に売り飛ばされたことを「暗い過去」みたいに書いてるくせになあ。

ブランドは子だくさんの家族思いはいいとしても、「あんた!サラダもちゃんと食べな!」と妻に叱られてるのはせめてギャグにしてもらいたい・・・。大真面目に「家族のすばらしさ」をゲジヒトに説明するシーンにはなんだかモヤモヤする。

手塚版におけるヘラクレスのすさまじい誇り高さや、ブランドがプルートゥをはじめて瀕死に陥れたこととかは、盛り込んで欲しかったなあ・・・。

ただ、オリジナルキャラ、特にブラウ1589や、戦災孤児の花売りロボット、花を愛するサハド等はとても良かったし、ボラーやプルートゥの禍々しい描き方(肝心な時ぼんやりしている)も、手塚版とは違った抽象的脅威があって悪くなかった。

【かぶりものスーツ(ボディ)に疑問】

ノース2号もブランドもヘラクレスもモンブランも、「かぶり型のモビルスーツ(表現まずくてゴメン)」を採用してることがずっと気になっていた。
手塚当時のデザインに近い「戦闘用スーツ」ながら、開口部から目だの口だのが見えてるんですよ(初めて見た時「ゲゲゲッ!」と思った)
それも、見えている口元にはご丁寧に、中年以降のリアルな「しわ」が描かれていると来たもんだ。(画力って、時に邪魔なのかも・・・)

人間が着ぐるみを着たのと同じ発想で作っている(ゆるキャラか?)。
な〜んか、気持ち悪い。
開口部から呼吸せねばならないわけではなく、視聴覚器官もどこにでも取り付けられるのに、なぜ着ぐるみ型?

ノース2号なんか、軍隊出身とはいえ今は「執事」の仕事をしているだけなのにリアル人間の姿を隠して原作に近いロボットっぽいスーツをかぶっている。意味ないでしょ・・・。「ピアノが弾きたいのです」のセリフを愛しく思わせるため?

日常生活に戻る(そもそもそんな必要があるのか?)時には、より人間に近い「日常生活用スーツ」にするロボットも多い。ブランドやヘラクレスもそう。(逆に闘技場での外観は「パンクラチオンスーツ」と言ってる)

3巻に出てくる土木作業用ロボットは、「100時間労働が終わって帰ろうと思ったら一般生活用ボディがなくなっていた」なんて言う(サハドが盗んでいた)。現場の近くに、日常に戻るためにそのスーツを終業時まで入れておくロッカーみたいなのがあるのかしら。なんという非効率的な。それも、どうも「日常生活用スーツ」は人間の身体だけで、その上に衣服を着てる。ボタン一つじゃできない身支度。お疲れ様。

ロボットなんだから作業が終わったら「スイッチオフ」でメンテナンスモード。それでいいじゃないの?それがロボットの権利侵害なの?だったら100時間労働もやめれば?オフ生活でストレス溜めるのが人間らしいの?

ゲジヒトはアトムと同じく単一ボディ(かぶりものなし)のようだが、なんか広くて瀟洒なマンションに夫婦(妻はロボットのヘレナ)で暮らしてる。朝はタブレットの文字情報でニュースを読み取り、妻に淹れてもらったコーヒー(またはエネルギー触媒)をカップで飲んでいる。都会のビジネスマンの朝の光景。・・・必要ないのに。

まあ、ゲジヒトやアトムみたいな世界最高水準のロボットなら、オフの交際もあるし疲れも複雑で人間並みな部分もあるだろうから、特例として(実験的にも)ロボットに人間並みの生活をさせる意味もあるのかもしれない。

しかし、工事作業みたいなロボットにまで「日常生活用」を認めているのでは、住宅問題や人口爆発問題はどうなってるの?

でもロボットが原因で仕事を失った人々が、自分たちよりはるかにいい生活(←必要ないのに!)を送るロボットを見たら、アドルフ兄弟みたいにロボットを憎みたくなるのもわかるよ・・・。

SFとしてそう描きたいのなら、是非是非その辺の事情を描いてほしいところだなあ。(あの逆転『大奥』だって、逆転したことへのSF的説明はあるんだからさ)
人間の失業が増えて消費能力が衰えて景気が悪くなったから、ロボットにも消費してもらって景気を支えてるとかね。
どうも、給料(とかファイトマネーとか)をもらってるらしい。レストランに行ったり旅行したり子供(・・・)にオモチャを買って帰ったりして、自分の意思で金の使い道を考えている。
面白いよね!どうしてそうなったんだろう?
むしろ、「稼いだ金を自分で考えて使う」経験の方が、「第39次中央アジア紛争」体験よりも、ロボットに人間的感情を植え付けるのに役立ってるんじゃないのかなあ。
服を選んで買って、褒められた、けなされた、嬉しかった、恥ずかしかった。・・・・みたいな。
そういう、『鉄腕アトム』では描けなかった「生臭さ」みたいなのを、しっかり描いて頂ければとっても楽しかったのに・・・。

【「人間そっくり」はこわい】

舞台版の感想から、ゲジヒトの外観に散々文句を言ってしまったが、つまり「あれほど人間に酷似させる必要があるのか?」ということだ。
なんでわざわざくたびれたリアル中年なの?なんで禿げかかってて表情が暗いの?あの記憶を消去しても顔の苦渋は消去できないの?毎年ちょっとずつボディを老けさせてるの? なんで?(まあ、あの頭髪の寂しさも老け方も、映画俳優のように哀愁があってセクシーではありますが・・・)。

それが「人間らしい」から?もしかして「ロボット」だってバレないほうがロボットにとって「いいこと」だと考えているの?
ロボットだってわかると差別される可能性があるから?それこそ差別心の証明じゃないですか。
まあ、大きすぎてレストランに入れない、飛行機に乗れないというのは理由になるけど、そも、姿を変えて人間用レストランに入る必要もわからない。(「権利」は認めるべきかもしれないけど)。
あんな誇り高いロボットたちまで、「ありのままの姿」(・・・というか用途に最適で無駄を省いた機能的な姿)を隠したり、戦闘用着ぐるみを採用するなんて、どうもよくわからない。

これは、平等に権利を認めるか、ということとは少し別な問題だ。
ロボットに「日常」を与え、「人間そっくりな姿」与えてやってるつもりだとしたら、それが「平等な権利」だと思ってるんなら、この考えには、人間の「奢り」が混ざり込んでいると思う。

天馬博士やエプシロンが言うように、
「これ以上ロボットを人間に近づけてはいけない。恐ろしいことが起こる」には激しく同感。

メンテナンスは必要だけど「休息が必要だから家庭を持つ」必要ないじゃん。
ロボットの妻を持ったり子供を持ったりして疑似家族愛を体験することより、家族を失った人間の親代わり(子代わり)ロボットとして働いた方がいいじゃないの?

細かく言うと、ロボット同士の友情や兄弟的な感情、というのは生まれていいと思うんですよね。ゲジヒトやアトムやプルートゥみたいに。
同じ職場で働いたとか、同じロットで生産されたとか、ライバル転じて、みたいな形で・・・。

でも疑似両親とかは何だかピンと来ない。
手塚版アトムでも両親の存在がどうにも腑に落ちなかったでしょう?(アトムより後に生まれてるから年下だし、性能低いのに説教はするから・・・)

人間が自分たちを万物の霊長で、最高の存在だと考える。それはそれでいい(人間の命と、ネズミやハエの命の重さに差別をつけることは、一部の仏教徒でない限り罪ではない)。
もちろん同じ人間同士で、人種の違いで差別することとは違う。

(付記)外観に関しては、別な推察もできる。手塚治虫の子息手塚眞さんが、浦沢直樹がリメイクを申し込んできたとき、最初に提示したロボットのデザインが不満で、「そんな似顔絵のようなものじゃなく」浦沢自身のキャラクターデザインにしてほしい、と言ったそうだ。だからゲジヒトが『MONSTER』の登場人物みたいな顔にならざるを得なかったのか?(この手塚眞の指摘が正しかったかどうかは疑問だが深入りは避けたい)。
なおかつ4巻のあとがきで大胆にも西原さんが書いてるように、実は「浦沢さんはロボットが下手」なの??確かに人間そっくりでも「ロボットと分かる」ような描き方はできてない・・・。(ここも深入りは避けさせてください)。


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