谷内六郎作品に、「姉のような女の子」を探して

February 26 [Thu], 2015, 6:03
お願い:この文章は前章にあたる記事を読んでからお読みください。

先日の記事「谷内六郎のカレンダー」の続きです。
やはりあのままで終わってしまうのは無責任だし自分でも気持ちが落ち着かない。
作品をどう解釈しようと観る人の自由だと言っても、想像だけの「谷内六郎シスコン説」を書いて終わり・・・というわけにもいかない。
(だって、全部まるまる勘違いの思い込みという可能性もあるのですから!!)

訪問者さんからご指摘を受けて大赤面滝汗・・・というパターンも避けたいので、手近な範囲で調べてみることにしました。

探し物はもちろん、谷内六郎の画に出てくる「姉のような年上の女の子」です。

【シスコン説は赤っ恥の予感???】

谷内六郎の本は、書店では思うように見つからなかったが、図書館に行くと何冊か見つかった。
最初に見つけたのは、Art Days(アートデイズ)という出版社の『四季・谷内六郎』。



これは、美しい四季の画文集という趣。
かつての『谷内六郎展覧会』(春/夏/秋/冬・新年/夢)というシリーズが絶版になり、2009年に秀作を選び出して一冊にしたものらしい。(あとがきによる)

作品が縦長に揃っている上、画面の上の方に題字にちょうどいいスペースがあるので、多分彼のもっとも有名な作品群、「週刊新潮」の表紙だろう。

画の中に描かれるのは、ローカル線の駅。海辺の行商、理髪店の街頭、サイダー壜の中の幻影、ユカタを着て観に行く校庭映画。土蔵と柿の実・・・定番の谷内六郎の世界。もちろんどの画にも素朴で愛しい子供たち。

画も文章も美しく、タイトル通り季節感たっぷりなのだが、私の探る「謎」の答えは見つからなかった。(むしろ謎は深まった!)



やはり「姉のような女の子」の登場回数は非常に多いのだ。これは一番最初の『土の中の話』。
土の中の生命の息吹を、二人で感じている。あったかい土の感触が伝わってくるよう。
メインの(エッセイのついている)48枚の彩色画に限っても、そのうちの実に25枚の画に、「(作者の分身らしい)男の子と年上の女の子の組み合わせ」が見出される。何らかの形で「年上の女の子が存在する画」ならなんと37枚だ!

他のパターンも数えてみた。
「作者の分身らしい男の子が一人」・・・5枚。もっとあるように思ったが。
「年上の女の子が一人」・・・5枚。意外に多い。秀作も多い。
その他、「同い年くらいの男の子と女の子」「姉妹や友人のような女の子二人」「年齢性別雑多な子供の集団」など、3〜4枚づつ。

48枚の内一枚だけ、人物のいない絵がある。曇り空をバックに、大きな針葉樹が二本(一本はもう一本の半分くらい)と、空に放たれた赤い風船。風と空気を感じさせ、ゴッホの糸杉を思わせながら別な魅力がある。梢の上の風や湿度まで感じ取れそう。

とにかく・・・カレンダーと同じく圧倒的なほど「姉と弟」の組み合わせが多いのは、確認できた。

しかし!!
文章の中に、それと感じられることは、一切書かれていないのだ。
子供の頃の遊んだことや思い出を描いているし、画の中に「姉のような女の子」がこれだけ登場しているにもかかわらず、「姉がよく連れて行ってくれたものである」とか「近所に住んでいる年長の女の子が・・・」とか、そういう文言は一切ない。

自分の「家族」が出てくる文章はとにかく少ない。
まえがき部分に、「人形作家であった家内」と、「良い批評家」である我が子がちょっと登場するだけ。

「お母さんは遅い針」というタイトルにハッとしても、遅く感じることもある「時間の不思議」のことを言ってるだけで、自分の母のことには一切触れていない。



『かたつむりも東京へ行くつもり』という名のこの絵は、セットの文章を読むと「田舎のお婆ちゃんの家に行った帰り」だという。汽車の車窓にへばりついたかたつむりに感情移入している画。それでも、目の前で向き合って座っている黄色いワンピースの鮮やかな「姉のような女の子」については、一言も触れていない。
体の弱かった谷内と「田舎のお婆ちゃんの家」に行ったのは、本当は誰なんだろう?

気になったのは『ねえたのむよ』という毛糸巻きの画。傑作とは思えないが、これはいろいろ珍しい。
母に見える女性(顔は子供らしいが、髪の結い方が大人っぽい)に頼まれた毛糸巻きの仕事を、兄が妹に押し付けようとしている画。
母を描いたものは非常に少ない。(この画文でも、彼女が母か姉かにすら触れられていない)。
「兄妹」が登場するだけで谷内世界では珍しいが、その表情は奇妙。兄が卑屈に策略をめぐらしており、妹は聞こえているのに聞こえないふりという風情。リアルと言えば言えるが、あまり谷内世界のきょうだい関係には見えない。
おびただしい「姉弟」の画がしっとりと感動的なのとは非常に対照的だ。

大人が登場しないわけではない。トウフ屋さんや、クリーニング屋のおばちゃんや、電気飴(ワタあめ)作りのおじさんなどは、よく出てくるのである。

この本の文章は連載当時「表紙の言葉」として書かれたものであるらしい。
文章が歳時記のように「あっさりめ」であるのは、それゆえかもしれない。

う〜む。「姉のような女の子」が存在しない可能性は高まってしまった。
現実の存在ではなく、作者の理想化された幻想の結晶のような存在かも・・・。
「ねえたのむよ」みたいな「エゴイストなきょうだい」が現実で、美しい光景に登場する「姉のような女の子」は幻想の美しいマドンナなのかもしれない。黄色いワンピースの年上の少女などいなかった。ひとりぼっちでカタツムリを見ていた。という方が確かにありそうだ。

それにしても・・・・・まだ気になる。
想像の産物、理想化された少女の姿にしても、どこか手触りが生々しくはないだろうか。
こんなに丁寧に愛情を込めて、着物の柄まで丁寧に書き込まれて・・・。

【『遠い日の歌』に出てくる三つのふるさと】

その端緒をつかんだのは、『谷内六郎文庫』(マドラ出版全三冊・絶版)の中の(2)『遠い日の歌』である。
三冊の中で、タイトル的に一番幼年時代のことがかかれていそうな気がして最初に手に取った。

これは後から思うとつくづく素晴らしいシリーズで、絶版どころか出版社も今はないらしい。非常に惜しまれる。

ここの載せられた画は、『週刊新潮』 的な牧歌的な日本の画ばかりではない。
この表紙絵『終戦の秋』(1945)などすごいですね!かつてどこかで見たようにも思うけど、谷内の作品としては初めて知った。



焼け野原の日本の夜明けの道を、進駐軍の白いジープが走っていく。その地平線には鮮やかな「ラッキーストライク」の箱が斜めに突き刺さっている。明け方の空に星が二つ。
焼け跡・進駐軍のジープや煙草という道具立てが揃いながら、声高な主張はなく、不思議な明るさでどこか郷愁を誘う。ジープなど、絵本に出てくる言葉をしゃべる車のよう。朝日の代わりにアメリカ煙草が上ってくるのだから痛烈な風刺なのかもしれないけれど、ほのぼのしたユーモアさえ感じてしまう。不思議な絵だ。

この本はカラーページも充実。また巻末の付録「お山のおまつり」ではシャガールおじさんや梅原おじさん・ルオーおじさんたちが屋台をやっていて、彼らの似顔絵を、背景のタッチも真似て描いている。
四季を描いた叙情画だけではない。ユーモラスで発想豊かで色鮮やかでなかなか斬新。「これが良く知ってると思っていた谷内六郎の画か!」と思っただけでも価値がある。

※三冊とも、面白い巻末の付録がついてるので、古本をお求めの際はこれが切り取られていないことをご確認ください。
ちなみにこれは(1)『旅の絵本』の、漫画「真説桃太郎」。
しなびた桃から身体の弱い「ヒネた桃太郎」が出てきます。画も話もとっても楽しい。



そして文章の中にようやく、谷内自身の言葉で、父や母や兄たちが登場してくるのである。

父はなんと、文章部分のトップに登場する。
「カンカン帽でステテコをはいて、シャツの見える絽の着物」を着ている。(へえ〜〜)
暑い日、父は六郎を連れて九段下の食堂のようなところでビールを次々と空にし、隣の席の紳士と政治談議まで始める。六郎は父がグデグデに酔ってしまったら世田谷の家に帰れるのか心配で仕方がない。

谷内六郎(大正10年〜昭和56年)は、関東大震災の頃渋谷(恵比寿)のビール工場の側で生まれた。
作者が「ふるさと」と言ってる場所が三つある。(第一巻では生まれた渋谷も「ふるさと」として懐かしんでいるが)

ひとつは「山のふるさと」。宮城県のこけしの里、鳴子町。住んだわけではなく、心の「ふるさと」として愛したらしい。谷内六郎にあれだけ素晴らしい雪国の画があったのもうなずける。

ふたつめは「海のふるさと」。病弱だった谷内は、一時期転地療養も兼ねて外房の方で暮らしていた。その時の明るい海の光景も、画のモチーフとして良く取り上げられている。

三つめは、「町のふるさと」。世田谷。これが一家で住んでいたメインの場所だと思う。当時(昭和初期)は雑木林も小川も畑もあった武蔵野だったそう。
世田谷にいた頃ウサギやモルモットやヤギの子と遊んでいた話が出ている。

>ボクはあまりおとなしすぎて弱かったので兄たちも、ぜんぜんボクの存在をみとめないので、やはりボクは実験用の小動物たちと一日中小屋の陽だまりで遊んでいるだけ

・・・と、「姉のような女の子」とどんどん離れてしまったが、自分語りが増え、どこかでひょいと出てきそうな気配は感じられる。

【涙の『北風とぬり絵』】



次に読んだのは『谷内六郎文庫』(3)の『北風とぬり絵』。
これは、驚きの「自伝的小説」だった。

達子夫人が描いたあとがきを読むと、谷内さんが亡くなってだいぶ経ってから「原稿用紙の束とペン画がたくさん茶封筒に入っているのを書庫の片隅で見つけた」のだそう。タイトルもつけられ、彩色も完成していたという。谷内さんと親交のあった天野祐吉さんの尽力で、死後20年も経って出版されたという経緯も不思議な本だ。

画と文章の量や構成は他の二冊と変わらない。
しかし特別なのは、少年の名前が六郎ならぬ「虫郎」で統一されていることだ。
これはフィクションだ、という断りでもあろうが、それだけに一層、自由に自分の子供の時代の哀歓が綴られていて胸に迫り、泣かずには読めない。

病弱で引っ込み思案な少年だというのは変わらない。しかし家族との関わりが描かれている。気管支炎でお祭りに行けない虫郎に、兄が枕元に汽車のおもちゃを置いてくれたり、それを壊れて情けない気持ちになったり、小人の職工さんが憐れんで直してくれたり・・・リアルと空想が、画と同じように入り混じっていて面白い。

世田谷に住んだのは、父が牧畜関係の学校の寄宿舎の管理人をやっていたためだった。虫郎は体は弱くとも、ここで自然や小動物を相手に豊かな子供時代を過ごした。
しかしのちに父は寄宿舎の職を追われ、父は「それきり何をするでもないただ終日家の中」にいるようになってしまった。それが悲劇の始まりのようだ。

娘の引っ越しとぬいぐるみ

February 19 [Thu], 2015, 9:42
昨日、娘が家を出ていきました。
友人の運転するワゴン一台で、布団や衣類や身の回りのものだけ積んで。

卒業を待たず都心で生活をするとのこと。
敷金礼金初期費用は、親に借金。生活家電がないからその分も割増しで貸してって。
(ホントに返してくれるのかなあ?)
ほんの半月くらい前までも、物件選びすらろくにしない娘を見て「ホントに引っ越す気あんのか?」と思ってた。
なのに見事に引っ越したのだから、意外とやる時はやるのかもしれない。
正直、心配して世話焼きすぎました・・・。

いろんな生活の残骸は、半分くらいそのまま放置してある。
置き去りになったモノは、やはり子供の頃のものが多い。
子供の頃のオモチャの中で特に捨てきれなかったモノとか。中学校時代の部活の道具とか。

昨日までの雨が上がり、今朝の明るい日差しの中。
連れて行ってもらえなかったモノたちとガランとした部屋に立つと、・・・やはり思い出すことが多い。
ちょっとだけ悲しくなるのは、それだけ幸福すぎたからだろう。

谷内六郎のカレンダー

February 13 [Fri], 2015, 11:00
もう二月なんですが、正月に書きたかったネタを。


《図1》

これ、ご存知ですか?
新潮社で毎年出してる、谷内六郎のカレンダーです。

「週刊新潮」でずいぶん長いこと表紙を書いていらっしゃった画家さんなので、絵柄を見れば誰でも思い出すことでしょう。
カレンダーは来たものを使っている、という無粋な私ですが、このカレンダーだけ3年買い続け、今後も買う予定でいます。

実は、実家の父がだいぶ前からかずっと使っているもの。
それも、最新版だけではなく、近年五年分もカレンダー部分を折り込んで並べ、六年分を貼っているのです。

場所はいつもトイレのドアの壁。こんな風に。


《図2》

六年間買っているのではなく、いつの頃からかずっと六年分貼ってあるのだから、十年以上は買っているんじゃないだろうか。

写真は、正月分なのでたっぷりした雪景色が多い。
大正10年生まれの谷内六郎の子供時代だったら、昭和初期かな。
でも私の心の中に残る、幼い日の記憶とも重なり合うイメージである。
舗装されていない道路を、長くつの泥はねを気にしながら歩いた雪どけの道。獅子舞や武者凧など、縁日の光景もある。そして坊ちゃん刈りやおかっぱの子供たち。

今年は全国的にたびたび大雪の被害に見舞われていますが、それでも基本雪が好きです。
子供の頃、東北でも日本海側の山形県に住んでいたので、大雪が珍しくなかった。冬晴れの日は少ない気候のはずだけれど、雪の白さのおかげで、思い出す光景は明るい。
(てっきり谷内六郎は雪国出身に違いない、と思ってさきほどWikiを見たら、東京の恵比寿出身なんですね)。

◆◆◆

谷内六郎と言えば26年間続いたという「週刊新潮」の表紙。
実は若い頃、ずっとこの表紙絵が苦手だった。
男の子と女の子が登場して、毎年同じような季節の絵・・・正月なら凧揚げ、夏なら虫捕り・・・というありきたり(に思えた)パターンに情感を刺激されるのが嫌だったのかもしれない。なんとなく貧乏くさいというか悲しくなるというか、そんな気持ちになってしまう・・・。

なんでだろう。今見ると、こんなに特別な絵はないのに。
かつて平凡に思えた(←当時も平凡ではなかったのに)谷内六郎の絵は、時代が隔たるにつれ、すべてが「失われたもの」ばかりになった。胸が締め付けられるほどの。

年齢とともに、また帰省のたびに見ているうちに、だんだん好きになった。
またふと「絵の中の秘密」みたいなものに気づいて、強く興味を抱くようになった(・・・ような気がするだけかもしれないが)。
それが三年前なんだろう。

帰省するのはたいていGWとお盆と年末年始だから、毎年同じような絵を見ていることになる。秋など通常帰省しない時節に帰ると「おお!」と新鮮な気分になる。
(下は昨年11月に行った時のもの)


《図3》
知らない町に迷い込んだ孤独や不安感、(下中)
日常の片隅に、小さな世界を見つけた幻想的なものも多い。(下左)
キラキラしたデパートで手を引かれ、戸惑う様子。(上中)
その時代に新しかったテーマもちゃんと登場する。

郷愁をそそる景色に男の子女の子を配した、「単なる表紙用の画」として見過ごしていたのがもったいない。

後に谷内六郎の特徴といわれる、「幻想」がそちこちに見られる。それも「幻想ジャンル」として別世界のジャンル分けされているわけではなく、日常風景と変わらぬ筆致で、空にゼンマイが浮かび、御社で狐が酒盛りをしたり、庭の片隅にコオロギが鉄道を走らせていたり、松林の中空に海があって魚が浮かんでいたりする。

◆◆◆

それよりももっともっと、気になるようになった原因は、「シスコン」の要素を絵の中に発見するようになったからである。

作者の分身である「少年」はほぼ95%以上の絵に登場する。
小学校低学年くらいの、引っ込み思案で、感受性豊かな少年。
谷内六郎自身喘息もちで病弱だったというから、やはり作者の投影なのだと思われる。

大して興味も持てなかったころは、(学年誌のように)お約束的に男の子と女の子が登場しているんだろうくらいに思っていた。孤独がちだった病弱な少年だけの画では表紙として寂しすぎるし。

ちゃんと見たら、違う。同年代の女の子も出てくるが、もっと圧倒的な回数と存在感で登場するのは、年上の女の子・・・多分姉だ。
多くは12,3歳くらいに見える。初潮が始まったかどうか、という頃の、昔で言えばもう子供から大人に変わり始めている少女。

こんなことは、研究者ならずとも普通のファンであれば「基本知識」なのかもしれないけれど、「自分がある日突然気づいた」という実体験に即して語らせて下さいませ。
今思うと、なんて漫然と見てたのか、自分の鈍感さに驚くくらいなんですが・・・・。


《図4「ぼくのも上がった」》

「姉のような女の子」は、お正月の和服をちゃんと着て、男の子に優しく付き添っている。
母親でも、乳母でも、子守っ子でもない(そこまで古い時代ではない)。やっぱり実の姉なんだろう。(と仮定して話を進めるのでご了承ください)

他の男の子達(少し年上か)は離れたところにいて、見事に凧を上げている。
男の子の凧は、上がるどころか橋の手すりからダランと落っこちてしまった。
でも、川面に、他の男の子が挙げているたこと一緒に写っているから「ぼくのも上がった」と自分を慰めている。または、「一緒に空に上がってるよ」と姉に慰めてもらっているのか。

女の子はしっかりしているようだが、凧揚げもなんでもござれ、と言う男まさりなタイプじゃないのだ。家の中の遊びやお手伝いとかは割合得意だが、弟の面倒を見ても、男の子っぽい遊びをこなしてきたわけじゃない。

カレンダーゆえか、正月の凧揚げのモチーフは多い。
《図1》の左上の画も。
こちらでは男の子と一緒にいるが、関係性はこの絵だけではわからない。丁寧に描かれているのはどう見ても、座って見ている和服の大きな女の子のほう。彼女に見守って欲しい、あわよくば一人前に凧上げができるところを見てほしい・・けどやっぱりダメだった。

凧がうまく上げられなかった情けなさは、一生忘れられないものかもしれない。
「正月のせつない思い出」は私にもあり、子供の頃はそのために正月が来ることが嫌だったくらいである。
以前谷内の絵が苦手だったのは、こういう共通するコンプレックス(「そんなことわかってるよ!と言いたくなるほど常に嘗めているもの)を刺激されるということもあるのかも。

背景の美しい山は富士山に見えるから、やはり東北じゃないのかな。
すっぽりとした雪国を舞台にした作品が多いのは、憧れやフィクションもあるのだろう。


《図5「やっと取れた粉雪」》

雪にもいろいろあり、すごく服にねばってくる雪、ありますよね。お姉さんと犬が玄関に入り、ようやく自分の衣服の雪が取れたところ。男の子は雪をねばりつかせたまま、少し離れて姉と犬がせっせと雪を払ってるところを見ている。
年上の女の子を「ただ見てる」という絵も多い。

週刊誌の表紙絵に限って言えば、必要条件は「季節と子供たち」の叙情画だろう。
だから、同年代の女の子が登場する絵も決して少なくはない。
ただ、それらはどうも思い入れというか、情念に乏しいのか、あまり面白くない。
また、子供の集団を描いても、個々のキャラクターや関係性はよくわからず、あまり興味は感じない。作者が多くの子供たちに交わって遊ぶのが苦手だった感じがあるからかも。(《図3》の右下など)

漫画『PLUTO』感想(2) 突っ込み編

February 05 [Thu], 2015, 15:44
この記事は、必ず前記事
『PLUTO』感想(1)ウォーム&ウェット編
を読んでからお読みください。(特にファンの方は・・・・)

前の記事は、漫画『PLUTO』をじっくり読んで、そのストーリーの緻密さや深さに感嘆し、8割がた賛辞を送った感じになってる・・・と思います。

今度はごくフラットに、初読時からこの作品に感じた、率直な疑問というか、「えっなんで?」だったことを、書いていきます。(あまりに真面目な入魂作品ゆえに、最初から突っ込み感想を書くのはためらわれた、という心理的事情もアリです。)
※予定では「クール&ドライ編」と考えてましたが、クールでもドライでもないので、「突っ込み」にしました。

まず、登場ロボットの「外観」についてです。

【大好きなロボットたちのビジュアルは・・・?】

手塚版アトムの『地上最大のロボットの巻』で、私の愛した各ロボットたち。
(ノース2号と、エプシロンが特に好きだったんですよ。なんかわかる〜?)

舞台版ではアトムとゲジヒト以外メインで登場することもなかったけれど、浦沢版はちゃんとたくさん登場してます!!
世界最高水準の七体のロボットたち、リスペクト+リメイクの浦沢版『PLUTO』では、どう描かれてるんでしょう??ワクワク。

だいぶ前ですが、単行本の序盤で浦沢版ノース2号を見た時は、「うわ〜目が死んでる」「なぜ長マント?「かぶりものになってるよ〜〜」と驚いたのですが、エピは良かった。
「ピアノを弾けるようになりたいのです・・・」というロボットが現れた。音楽の美しさを解し、憧れや意欲を持つロボットが現れた。素晴らしいエピ。
手塚版で10ページもなかったノース2号のエピが、実に78ページ分のボリュームになってるのは嬉しいけれど、若干くどいし暗いし劇画的だし「泣かせ」だし・・・という感じはあり。それは全編のトーンを予感させるものでした。

悲劇的、劇画的、情念たっぷり、陰々滅々・・・。
迷いのないクリッとした線で勢いのよいロボット同士の戦いを描く、ぼんやりしたところのない手塚さんの絵を思うと、ちょっと驚いてしまう。このままいくの?
このまま行ったんです。

お気に入りのエプシロンは、イケメンロン毛青年の姿。ハイネックの黒いシャツに、スレンダーなボディ。デザイン意図はよくわからない(もしかしたら当時のキムタク風?)けれど、「イケメン着ぐるみ」じゃなくてホントによかった!
ボラーとアドラーの影に脅え続ける少年ワシリーを救うために、ちぎれた手の部分だけで子供を守ったシーン・・・・感動的だった。舞台でも浦沢版でも、手塚版の「エプシロンの手」エピをみごと蘇らせてくれて、「おお!」と思った。

でも、手塚版の中で特に心に残ったエピソード、二人でアトムを救出に行き、エプシロンがふとプルートを策略で海底に沈めようとして迷うシーン・・・これが浦沢版になかったのが残念。

エプシロンはそう、手塚版ではアトム以外では唯一、「迷う」ロボットだったんですよ!
それまでの5人が、自分の使命を疑うことなく潔すぎる死に方をした後だけに、6番目に死ぬエプシロンの「迷い」がとても心に響いた。

『PLUTO』では、ロボットが「迷う」なんて珍しくもない。
「疑う」「悲しむ」「悩む」「拒否する」「憎む」「愛する」・・・さらに、「嘘をつく」「夢を見る」ロボットまで登場する。
その辺はもちろんゲジヒトの超得意技。
全編通じて「ゲジヒトの魂の彷徨」みたいなものなのだ。
手塚版では「特殊合金製の刑事ロボット」ということだけが特徴で、それゆえ油断してあっけなく死んでしまうゲジヒト。彼を堂々主役に据えたのは『PLUTO』の最大のアイデアと言える。

その着想は素晴らしい!けれどゲジヒトの暗い性格付けとヴィジュアルとミステリ仕立てのゲジヒトの内省は、物語からテンポと明るさとワクワク感を著しく奪ったようにも思う。(厳しい?)

それから、ヘラクレスとブランドが、セットで「格闘型ロボット」扱いなのがちょっと気になる。
ロボット・ファイトは『アトム』の他の巻にはあったし、最近の『ベイマックス』にもあるネタ。
けれど、世界最高水準の、人間では及びもつかないような尊い仕事をしているロボットたちが、なにも興行的なファイトをやらなくても・・・。
「大物プロモーター」がヘラクレスに「お前が出場しなくなってから客が激減している」と文句を言ってるから、規模は世界的でも見世物興行なのは確か。アトムが天馬博士に愛されず、サーカス(見世物だよね)に売り飛ばされたことを「暗い過去」みたいに書いてるくせになあ。

ブランドは子だくさんの家族思いはいいとしても、「あんた!サラダもちゃんと食べな!」と妻に叱られてるのはせめてギャグにしてもらいたい・・・。大真面目に「家族のすばらしさ」をゲジヒトに説明するシーンにはなんだかモヤモヤする。

手塚版におけるヘラクレスのすさまじい誇り高さや、ブランドがプルートゥをはじめて瀕死に陥れたこととかは、盛り込んで欲しかったなあ・・・。

ただ、オリジナルキャラ、特にブラウ1589や、戦災孤児の花売りロボット、花を愛するサハド等はとても良かったし、ボラーやプルートゥの禍々しい描き方(肝心な時ぼんやりしている)も、手塚版とは違った抽象的脅威があって悪くなかった。

【かぶりものスーツ(ボディ)に疑問】

ノース2号もブランドもヘラクレスもモンブランも、「かぶり型のモビルスーツ(表現まずくてゴメン)」を採用してることがずっと気になっていた。
手塚当時のデザインに近い「戦闘用スーツ」ながら、開口部から目だの口だのが見えてるんですよ(初めて見た時「ゲゲゲッ!」と思った)
それも、見えている口元にはご丁寧に、中年以降のリアルな「しわ」が描かれていると来たもんだ。(画力って、時に邪魔なのかも・・・)

人間が着ぐるみを着たのと同じ発想で作っている(ゆるキャラか?)。
な〜んか、気持ち悪い。
開口部から呼吸せねばならないわけではなく、視聴覚器官もどこにでも取り付けられるのに、なぜ着ぐるみ型?

ノース2号なんか、軍隊出身とはいえ今は「執事」の仕事をしているだけなのにリアル人間の姿を隠して原作に近いロボットっぽいスーツをかぶっている。意味ないでしょ・・・。「ピアノが弾きたいのです」のセリフを愛しく思わせるため?

日常生活に戻る(そもそもそんな必要があるのか?)時には、より人間に近い「日常生活用スーツ」にするロボットも多い。ブランドやヘラクレスもそう。(逆に闘技場での外観は「パンクラチオンスーツ」と言ってる)

3巻に出てくる土木作業用ロボットは、「100時間労働が終わって帰ろうと思ったら一般生活用ボディがなくなっていた」なんて言う(サハドが盗んでいた)。現場の近くに、日常に戻るためにそのスーツを終業時まで入れておくロッカーみたいなのがあるのかしら。なんという非効率的な。それも、どうも「日常生活用スーツ」は人間の身体だけで、その上に衣服を着てる。ボタン一つじゃできない身支度。お疲れ様。

ロボットなんだから作業が終わったら「スイッチオフ」でメンテナンスモード。それでいいじゃないの?それがロボットの権利侵害なの?だったら100時間労働もやめれば?オフ生活でストレス溜めるのが人間らしいの?

ゲジヒトはアトムと同じく単一ボディ(かぶりものなし)のようだが、なんか広くて瀟洒なマンションに夫婦(妻はロボットのヘレナ)で暮らしてる。朝はタブレットの文字情報でニュースを読み取り、妻に淹れてもらったコーヒー(またはエネルギー触媒)をカップで飲んでいる。都会のビジネスマンの朝の光景。・・・必要ないのに。

まあ、ゲジヒトやアトムみたいな世界最高水準のロボットなら、オフの交際もあるし疲れも複雑で人間並みな部分もあるだろうから、特例として(実験的にも)ロボットに人間並みの生活をさせる意味もあるのかもしれない。

しかし、工事作業みたいなロボットにまで「日常生活用」を認めているのでは、住宅問題や人口爆発問題はどうなってるの?

でもロボットが原因で仕事を失った人々が、自分たちよりはるかにいい生活(←必要ないのに!)を送るロボットを見たら、アドルフ兄弟みたいにロボットを憎みたくなるのもわかるよ・・・。

SFとしてそう描きたいのなら、是非是非その辺の事情を描いてほしいところだなあ。(あの逆転『大奥』だって、逆転したことへのSF的説明はあるんだからさ)
人間の失業が増えて消費能力が衰えて景気が悪くなったから、ロボットにも消費してもらって景気を支えてるとかね。
どうも、給料(とかファイトマネーとか)をもらってるらしい。レストランに行ったり旅行したり子供(・・・)にオモチャを買って帰ったりして、自分の意思で金の使い道を考えている。
面白いよね!どうしてそうなったんだろう?
むしろ、「稼いだ金を自分で考えて使う」経験の方が、「第39次中央アジア紛争」体験よりも、ロボットに人間的感情を植え付けるのに役立ってるんじゃないのかなあ。
服を選んで買って、褒められた、けなされた、嬉しかった、恥ずかしかった。・・・・みたいな。
そういう、『鉄腕アトム』では描けなかった「生臭さ」みたいなのを、しっかり描いて頂ければとっても楽しかったのに・・・。

【「人間そっくり」はこわい】

舞台版の感想から、ゲジヒトの外観に散々文句を言ってしまったが、つまり「あれほど人間に酷似させる必要があるのか?」ということだ。
なんでわざわざくたびれたリアル中年なの?なんで禿げかかってて表情が暗いの?あの記憶を消去しても顔の苦渋は消去できないの?毎年ちょっとずつボディを老けさせてるの? なんで?(まあ、あの頭髪の寂しさも老け方も、映画俳優のように哀愁があってセクシーではありますが・・・)。

それが「人間らしい」から?もしかして「ロボット」だってバレないほうがロボットにとって「いいこと」だと考えているの?
ロボットだってわかると差別される可能性があるから?それこそ差別心の証明じゃないですか。
まあ、大きすぎてレストランに入れない、飛行機に乗れないというのは理由になるけど、そも、姿を変えて人間用レストランに入る必要もわからない。(「権利」は認めるべきかもしれないけど)。
あんな誇り高いロボットたちまで、「ありのままの姿」(・・・というか用途に最適で無駄を省いた機能的な姿)を隠したり、戦闘用着ぐるみを採用するなんて、どうもよくわからない。

これは、平等に権利を認めるか、ということとは少し別な問題だ。
ロボットに「日常」を与え、「人間そっくりな姿」与えてやってるつもりだとしたら、それが「平等な権利」だと思ってるんなら、この考えには、人間の「奢り」が混ざり込んでいると思う。

天馬博士やエプシロンが言うように、
「これ以上ロボットを人間に近づけてはいけない。恐ろしいことが起こる」には激しく同感。

メンテナンスは必要だけど「休息が必要だから家庭を持つ」必要ないじゃん。
ロボットの妻を持ったり子供を持ったりして疑似家族愛を体験することより、家族を失った人間の親代わり(子代わり)ロボットとして働いた方がいいじゃないの?

細かく言うと、ロボット同士の友情や兄弟的な感情、というのは生まれていいと思うんですよね。ゲジヒトやアトムやプルートゥみたいに。
同じ職場で働いたとか、同じロットで生産されたとか、ライバル転じて、みたいな形で・・・。

でも疑似両親とかは何だかピンと来ない。
手塚版アトムでも両親の存在がどうにも腑に落ちなかったでしょう?(アトムより後に生まれてるから年下だし、性能低いのに説教はするから・・・)

人間が自分たちを万物の霊長で、最高の存在だと考える。それはそれでいい(人間の命と、ネズミやハエの命の重さに差別をつけることは、一部の仏教徒でない限り罪ではない)。
もちろん同じ人間同士で、人種の違いで差別することとは違う。

(付記)外観に関しては、別な推察もできる。手塚治虫の子息手塚眞さんが、浦沢直樹がリメイクを申し込んできたとき、最初に提示したロボットのデザインが不満で、「そんな似顔絵のようなものじゃなく」浦沢自身のキャラクターデザインにしてほしい、と言ったそうだ。だからゲジヒトが『MONSTER』の登場人物みたいな顔にならざるを得なかったのか?(この手塚眞の指摘が正しかったかどうかは疑問だが深入りは避けたい)。
なおかつ4巻のあとがきで大胆にも西原さんが書いてるように、実は「浦沢さんはロボットが下手」なの??確かに人間そっくりでも「ロボットと分かる」ような描き方はできてない・・・。(ここも深入りは避けさせてください)。


漫画『PLUTO』感想(1)ウォーム&ウェット編

February 05 [Thu], 2015, 11:29

さて、恐れも知らず書くことにしましょう。
浦沢直樹『PLUTO』と、そのリメイク元である手塚治虫『鉄腕アトム・地上最大のロボットの巻』について・・・。

舞台『PLUTO』の感想を書いていて、私の感じた疑問や興味のほとんどが、浦沢版アトムの内容に関するものらしい、と思ったからです。

ちなみに、舞台『PLUTO』はそのタイトル通り、ほぼ全部が漫画『PLUTO』の舞台化。無論全8巻を3時間程度の舞台に収めるため各ロボットのエピを端折りまくってはいますが・・・。
手塚版は「原作の原作」に過ぎませんでした。舞台の要素の中で、浦沢版より手塚版寄りだった部分、私は見つけられなかった・・・(あったら教えてください)。

子供の頃から『鉄腕アトム』は大好きだったし、中でも『地上最大のロボットの巻』が一番ワクワクした。
しかし、『PLUTO』は読み始めて2〜3巻ほどで中断した、ということを書きました。
「まあ、完結してから読めがいいか」という感じで、「先が読みたくてたまらない」とはならなかった。

なんでノレなかったのか。単純に言えば、ゲジヒトのマイナスオーラ出まくりの顔と、陰々滅々としたミステリー仕立てのストーリー展開について行けなくなり、往年の手塚版のカタルシスには程遠かったからなんじゃないかな・・・。
「お前に理解力がなかったからだ!という批判も素直に受けますが・・・。

今回、舞台を見てのモヤモヤがきっかけになって、『PLUTO』全八巻を通読しました。
やはり一気読みとはいきませんでしたが、面白く読みました。読んでよかった!

最初は割合醒めていて、面白さの半分くらいは、小さい頃愛読した手塚版や、観たばかりの舞台との違いを楽しむ、という感じだった。
けれど5巻以降は、ようやく浦沢がこの物語に盛り込んだ本意みたいなものがわかってきて、いろいろ感じ入ったし驚いた。
「この物語、どう着地させるんだ??」という興味で最終巻では手を汗握った。また初読より、再読、再再読するほどに面白くなってきた。

読んだことのある方ならわかると思うが、手塚版の方がストレートにエンターティメント。浦沢版は構成や人間関係や心理が複雑で、「手塚版の陰画」のような感じすらした。少年漫画的だった表現やストーリーに、暗く内省的な往年の青年劇画の表現とストーリーがかぶさっているようにも思える。
登場人物たち(ロボットも)は悩みや迷いを抱え、深層心理に自分でもわからない秘密を抱えている。

読み終わってしばらくたって、つらつら考えると、次の結論がピッタリくる。
「憎しみ」「愛」に引き裂かれるロボット(+人間)たちの物語であった。
「憎しみ」と「愛」に世界の運命が飲み込まれていく物語でもあった。
舞台の批評でストーリーが「黙示録的」と言われたのもわかる。

そのテーマに向かって、重層的に各キャラクターが設定され配置された、漫画的というより小説を読むような話。浦沢の『MONSTER』にもそんな感じがしたのだけれど。
ストーリーメーカーとしての浦沢直樹の力は認める。しかしストーリーテリングとしては、『20世紀少年』ほどには、グイグイ引き付けて離さないような感じはなかった。
リメイクということで、既存イメージが読み手に存在していたのも一因。

しかしじっくり読むと、浦沢さんのこの作品に賭ける思いがビンビンと伝わってくる。
深くて重い、「魂の彷徨」みたいな作品。
しかし、不満や疑問もいろいろ生じた。主に「表現」的なことが不満のメインだが、内容的にも若干疑問を感じた。

感想は、二回に分かれ、「アゲ→サゲ」進行になってしまいましたが、お付き合いいただければ幸甚です。

なお、ネタバレを含みますので、ご了承の上お読みください。







【憎しみは、なぜ生まれるのか(メインテーマ?)】

いまさらだが、『PLUTO』の最大特徴は、主演をアトムではなくドイツのロボット刑事ゲジヒトにしたことである。
世界最高最強のロボット七体のうちの一人だが、手塚版のゲジヒトの登場場面はごく短い。超合金性であることに油断し、三番目か四番目にあっさりとPLUTOにやられてしまう役なのだが・・・それゆえオリジナルに膨らませやすかったのかな。
また、子供(姿の)のアトムより、中年刑事のゲジヒトを主役にすることで少年漫画から大人向け漫画にシフトし、複雑な精神性を『アトム』の世界に持ち込むことに成功した。(往年のファンには少し苦い部分もあるが)。

物語は、緻密で重厚なミステリーとして進む(初見時とても意外だった)。
連続殺人(死体に角をつけた見立て殺人)の謎を追ううちに、自分の中に「消えた記憶」に気付き、忘れていた過去の罪を探り当ててしまうゲジヒトの物語。

実はミステリーとしては珍しくもない話。探偵が実は犯人だったの「かも」…というミスリードを誘いつつ進む展開も既視感がある。でもアトムを下敷きにしていると思うと興味は尽きない。
さらに、内容的にも深みがあり、対立概念が複雑に絡み合う。。
「憎しみと愛情」「罪と罰」「信じることと疑うこと」・・・対立した価値観がぶつかりあい、登場人物は引き裂かれ続ける。

『PLUTO』全巻で一番強く貫かれていたテーマは、
――人間を殺すロボットが、なぜ完全な電子頭脳から現れたのか――。
だろう。
序盤で早々に問題提起があり、見事なまでにこのテーマは追い続けられ、しっかり結論まで持っていっている。

これは、『地上最大のロボットの巻』ではあまりスポットが当たっていないテーマだが、手塚『アトム』全体ではあちこちにちりばめられていたと思う。(人間への憎悪をテーマとした『青騎士の巻』とか)。
『鉄腕アトム』では「ロボット法」で「ロボットは人間を殺してはならない」と厳密に規定されており、またプログラム的にも殺せないように作られていると思われているが、『PLUTO』は「その先」の可能性を扱っている。

人間に命じられて仕方なく・・・というのではない。(このパターンでは主人に背いてもロボットは断ることになっている)
「全体的な被害を少なくするため」とかいう合理的判断ですらない。
『PLUTO』が追求しているのは、憎悪に駆られた衝動的な殺人も含む。

進化したロボットが「人間の憎悪」を理解し、真似から本気で憎悪を抱くようになり、最終的に「殺人」に至る。
「えええ〜〜っ??ロボットなのに〜〜〜??」
と思うけれど、そのあたりも克明に描いている。

人間の真似をして何度も飲んでいるうちに、コーヒーの味もわかるような気がしてくる。
真似事で涙を流しているうちに、本気で悲しくて泣いているみたいになる。(アトム・ヘレナ)。
人間の我が子に対する愛情を見ていて、拾ってきた子供ロボットに愛情を感じる(ゲジヒト)。

愛も憎悪も、そのパターンで「学習」し、自分のものになっていくらしい・・・。
(「ん?」と思っても、これが『PLUTO』の世界観だからまずは受け入れてください)・。

このテーマは「初めて人間を殺害したロボット・ブラウ1589」の形を取って全巻を貫いていて、とても緊張感がある。
故障だったら、人間は安心するのだが、ブラウ1589の電子頭脳にはどこにも欠陥がなかった。それを恐れて、殺すこともできずに人間はブラウを「人工知能矯正キャンプ」に隔離し、大きな槍を刺して自由を奪っている。(『エヴァンゲリオン』の「ロンギヌスの槍」を想起する人が多いはず)

そして、ゲジヒトは調べるうちに、自分の消された記憶の中に「人を殺した」可能性があると知る。自分は本当に人を殺したのか。なぜ殺したのか。なぜその記憶は消去されたのか(と、純文学的なまでに苦しむのだ・・)
KKKみたいな反ロボット組織KR団というのが、自分たちの主張を正当化する材料としてゲジヒトをつけ狙う。
上層部では、トラキア合衆国(アメリカを模してる)の首脳コンピューターDr.ルーズベルト(テディベアの姿で現れる面白い)とペルシア国王ダリウス14世の主張の違いも面白い。

この辺の寸刻みのストーリー展開はみごとで、サスペンス・ミステリという面では、『PLUTO』は成功していると思う。

【魅力的なロボットたち】

他の5体のロボットも、このテーマを追うことに寄与している。世界最高水準のロボットだけに、プログラム以上の、予期しなかった精神性を持ち始める。

舞台版『PLUTO』では時間的空間的制約が多く、アトム、ゲジヒト以外の七大ロボットはほとんど扱われなかったが、浦沢版ではたっぷり愛情を持って描いてくれている。

プルートゥの最初の犠牲者は手塚版と同じく、スイスのモンブラン。気のいい山岳ロボットだが、浦沢版では「詩や歌を愛していた」とされる。

スコットランドのノース2号は、戦争にも参加した軍隊出身でありながら、音楽に惹かれ、「ピアノを弾けるようになりたいのです」と言う。主人の求めたメロディーを理解している。(手塚のノース2号が結構好きだったんだけど、こんなセンチメントで感涙をそそる話に変わってるとは驚き・・・)

美しさを理解するロボットとしては、(7体以外だが)サハド(≒プルートゥ)も。彼の場合は絵がうまいだけではなく、砂漠を花畑で埋めたいという環境保全ロボットとしての情熱がベースにある。

格闘型ロボットブラントは、自らを「ラッキーマン」と呼び、旧市街にロボットの妻と子供たちと暮らしている「理想のオヤジ」的ロボット。本作ではうるさいくらい「家族愛」の象徴として登場。

登場人物たちに共通して暗い影を落としている「第39次中央アジア戦争」だ。(今の緊迫したイスラム情勢を思うと、全然変わっていないことに驚く)
実際に参加したのが、ノース2号、モンブラン、ブラント、ヘラクレス、ゲジヒト。
参加を拒否して世界から指弾され、戦後処理に当たったのがエプシロン。
停戦調停時に「アトム大使」として働いたのがアトム。(「アトムはイイな」とか言われてたりする)
五巻以降、この戦争が彼らに与えた影響が語られる。手塚治虫がこっちをしっかり扱っていたら面白かったのに・・・と思ったくらい、「戦後」っぽいのだ。戦災孤児(孤児ロボット)たちに寄せる同情的な視線も、あちこちに感じられる。

ヘラクレスは、あの戦争の記憶から「殺意」を学んだ。しかしあれ以来、対戦相手を破壊できなくなった。「なあ、俺たちは進化してると思わないか?」
「憎しみ」と「愛」はセットなのだ。

エプシロン戦争に参加せず批判を浴びたが、戦災孤児たちを引き取って暮らすことで「愛情っていうやつ」(ヘラクレス談)を手に入れた。ヘラクレス自身は「憎しみっていうやつ」を手に入れた。

そしてエプシロンは「人間とロボットが近づき過ぎると良くないことがおこる」と言っていた。
ここは非常に共感した。(エプシロンが大好きだからもあるけど・・・)

だのになぜか、『PLUTO』の主要ロボットは、異常なまでに人間に近づきすぎている。

最終的に物語は「憎しみの連鎖を断ち切らなければならない」と言うあたりに着地したのだが、ロボットが愛情と共に憎しみを手に入れることの是非については、触れられることがなかった。(不満点のひとつ)

舞台版『PLUTO』感想

January 23 [Fri], 2015, 12:13
舞台版『PLUTO(プルートゥ)』観てきました。
「原作 浦沢直樹×手塚治虫」とあります。

手塚治虫『鉄腕アトム』の中でもっとも有名な『地上最大のロボットの巻』を浦沢直樹が大胆に自分の作品としてリメイクしたもの。
今回はその作品をベルギーのシディ・ラルビ・シェルカウイが演出・振付した。この方の舞台は観たことがないが、自身もダンサーであり、今回と同じく森山君を使った『テヅカ(手塚)』という作品もあり、その上に立った新作であるらしい。

私はアトムで育った世代。連載当時は読んでいないものの、白黒アニメとカッパコミクス(シールのついた大きな単行本で、父がいつも買ってきてくれた)をボロボロになるまで読んで手塚作品に親しんだ。

アトムの中で一番愛読したのはやっぱりこのエピソードだったので、浦沢さんの『PLUTO』の連載が始舞った時は感慨があった。実際に読んだのは単行本になってからで、それもあまりハマれず2巻で中断していたのだが・・・(ゴメン)

配役を紹介させて頂きます。
手塚原作にはなく、浦沢オリジナルの登場人物に※をつけときます

森山未來・・・アトム。(主演だが、浦沢原作通り、ゲジヒトの方が登場率もセリフも多い)
永作博美・・・ウランと、ゲジヒトの妻ヘレナ(※)の二役。
柄本明・・・・天馬博士(アトムの生みの親)と、ブラウ1589(※初めて人間を殺したとされるロボット)
吉井一豊・・・お茶の水博士とDr.ルーズベルト((※世界最高の人工知能。テディベアの姿で登場する)
松重豊・・・・アブラ―博士(手塚原作にも出てきますが、浦沢作品ではキーとなる悪役)
寺脇康文・・・ロボット刑事ゲジヒト

主要人物はこの六人。そのほかに8人のダンサーが登場し、役もダンスも黒子的な仕事も、いろいろ多彩にこなしてます。

会場はBunkamuraシアターコクーン。申し込み遅かったんですが、一階前席の脇にしつらえられたS席。舞台が近くて役者の表情も見えて遮るものもない、とってもいい席でした。(音響バランスが悪いのは仕方ないけど)。

ということで、あとは感想。
若干ネタバレありますので、これから舞台を見る方は、その後で読むことをお勧めします。













面白かった。
けれど不思議な舞台作品だった。
非常に多彩な要素が、何かバラバラに入っているように感じる。

いくつかの要素は、ため息が出るほど素晴らしく、満足感が高かった。
いくつかの要素は、私の思う「演劇」のあり方を軽々と凌駕し、アップデートを迫られた。
しかしながら、あるいくつかの要素に関しては、現代から見ると古臭かったり、失笑を招くのではと懸念した部分もあった。

【舞台装置が最・先・端!!】

凄かったのは、舞台装置。
一見シンプルなアート風の舞台装置でありながら、開演後は変幻自在。

開演前、舞台の前部は、機械やロボットの残骸にびっしりと覆われて廃墟のよう。森山君が演じた『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の《震災版》を思い出した。
舞台の上には、漫画のコマ割を思わせるような枠線で幾何学的に分割された、大きなボードが載っている。白くてシンプルでアートっぽい。しかし開演後は、この超高機能な「装置」が千変万化の様相を見せる。

前景に使えば漫画のコマ割から背景のドラマが見えるようでもあり、モンドリアンの絵のようでもあったり、日本の場面では日本家屋っぽく見えたりもした。
それがバラバラになると、ユニット住宅のように、ツーバイフォー(高さ2×幅3)のパーツがが自在に舞台構成を変える。ゲジヒトの瀟洒な二階建ての住宅になったり、スラム街になったり、地下牢とパース画面のようなルーズベルトの部屋を上下に配したり、全部で何十通りを観たのかわからない。
またはボードを分割・連結させて空港の通路になったり長い壁になったり、墓地に変わったり・・・・

それをスムーズに動かすのは、8人の黒子(とはいっても超絶ダンスをこなしながら複雑に舞台構成を変え続ける、白いダンサーたち)

白い装置は、スクリーンとしても優秀。
最新のプロジェクション・マッピングかと思うくらいの精巧なCGが多用される。
アトムとゲジヒトが出会うシーンでは、浦沢原作通り沛然たる暗い雨を降りしきらせたり(あのウェットさと暗さが浦沢っぽい)、頭の中のお花畑を舞台全体に広げたり。
白い立方体オブジェの面にそれぞれ違う映像を映して立体感や質感を出す技法はなんというんだろう・・・。サハドやアトムが描いた絵や数式がたちまち動き出して舞台中を踊りまわったり・・・もう見ているだけでうっとりするし目もまわる。

これは舞台ではあるんだけど、かなり「映像作品」な部分もあるわけで・・・。
「舞台の後ろにスライド上映する」次元とは、ずいぶんかけ離れたところに来たものだ。

ラストの、プルートゥやボラーと、アトムとの戦いのシーンは、なんだかわけがわからないほど凄かった。
映像でのボラーの表現は、浦沢原作のボワ〜〜っとしたあの感じに近いと思う。「あのぶよぶよした球体(ボラー?)に巻き込まれ、埋没しながら戦う森山アトムのシーンは、この世ならぬ感じ。これからの舞台美術の可能性を見た気がした。

でも、CGがみごと過ぎて、実際の舞台部分がちょっと・・・。
生身の人間が舞台で巨大ロボットの戦闘シーンを演じるのは、やはり無理があるのでは・・・。巨大なはずのプルートゥのサイズ感はどうしても小さいし、アトムがダンサーたちに担ぎ上げられて「あれでアトムが飛んでるってことになるのね」と気づいたときはちょっと笑ってしまった。あれだけCGが使えるんだから、もうちょっと何かできたように思うのだが・・・。
・・・。『PLUTO』はそのうち映画化されそうな感じがするが、その方がこの作品の媒体としては向いているようには思う。

またもう一点。
漫画の原画(浦沢版)そのままを、固定映像として非常に多用している(オブジェに投影する形で)。
ブレが全くなくきれいに収まるテクニックが素晴らしいのだが、やや多過ぎるし、浦沢の世界観を表すためとはいえ、別ジャンルの表現作品として、原画にこれだけ頼るのはどうなのかなあ・・・と思った。世にたくさんある「漫画原作実写映画」だって、通常エンディングでしか使わないのだが。
特に最後、ラストの見開き画面の絵(アトムとお茶の水博士が空を見上げてテーマを口にする場面です)をそのまま(もちろん止め絵で)ラストシーンで映しちゃうのはどうなのかなぁ・・・位置的にも「紙芝居っぽい」と一瞬思ってしまった。

【森山君のダンスに惚れ惚れ】

さて、こちらを先に書くべきだったかもしれないが、ダンス。
ダンスと振り付けは、シェルカウイの本職でもあるし。

森山君のダンスを一番楽しみにしてました。
イスラエルでの1年間の文化交流使を終え、帰国後第1弾ということ。
素晴らしかったです。なんて軽くてしなやかなんだろう。身体を半分に折りたたむようなことも平気でできる。プルートゥに初めにやられた時の頭頂部倒立とかおみごと過ぎてちょっと笑ってしまった。(拍手するべきか一瞬迷ったが、誰もしてなかったのでスルー)

森山君が少年ロボットアトムを演じることについて。どうなのかな・・・と思ったけれど、全く問題なし。
少年に見える。アトムに見える。動きも、セリフも、表情もちょっとしたしぐさも。
しかし(ここが森山君だが)「子役っぽい演技」は一切していない。
もちろんアトムを演じるのと普通の少年を演じるのとは違うのだけれど、そのあたりも演じ分けていたのか、または内面からアトムにシンクロしたのか。違和感がないのはすごい。

2015年1月期ドラマスタート後半戦(『ウロボロス』他)

January 22 [Thu], 2015, 11:12
前半戦に続きまして、スタート後半戦

月9・フジ『デート』★★★(今後も観る)
日9・TBS『流星ワゴン』★★(検討中)
月8・TBS『警部補・杉山真太郎』★★
木22・フジ『問題のあるレストラン』★★
金22・TBS『ウロボロス』★★★


【『デート』は大人可愛い物語】

♪ふりむかな〜ハハ〜イイイで〜〜〜〜〜イェイイェイイェイイェイ
♪おねがいだ〜ハハ〜カアアら〜〜〜〜〜イェイイェイイェイイェイ

オープニングの杏と長谷川博美さんのダンス、最高!
次の日、ふと鼻歌で「ふりむかないで」が何度も出てしまって困った。
あのPOPな歌詞とメロディと、「ザ・ピーナッツ」のハリがあって粘りつくような強烈な歌声、恐るべし。
「中田ヤスタカが『なんでリメイクしてPerfumeに歌わせなかったのか!』」と悔しがってるんじゃないか、とかマジメに考えてしまった。くらい、POP。
こちらで観られますよ!
http://blog.fujitv.co.jp/date/index.html

月9『デート〜恋とはどんなものかしら〜』
内容も、明るいね!楽しいね!面白いね!
さすが『リーガル・ハイ』の古沢良太。
ああいう男も女も、珍しいけれど絶対「いる」感じがするし、「デートが全く楽しくない、むしろ苦痛でたまらない」というのも、わかるわかる。

東大卒リケジョの杏の「理屈」が面白い。アヒル口もファッションも雑誌を読んで勉強した結果なんですね。
杏、何をやってもなんかいい。DNAなのか本人の努力なのか。
「高等遊民」とか言っちゃう気取ったニートの長谷川さんも可愛い。長谷川さんやっぱり、コメディも行けるね。「こ・こいつは・・・あれだ、そうだ、イタイ女だ・・・」と尻もちをついて脅える姿が、たまりません!」
ヨコハマ、また行きたくなりました・・・。

流星ワゴン

重松清原作。一時重松さんをよく読んでて、これも既読。
TBSが力を入れてるようだし、『MOZU』に続いて西島×香川のタッグ。第一話は観ようと思いました。
話はともかく・・・・・。
う〜ん、もしかしたら、これを観たことでお二人へ思いがまた下がっちゃったかも。

冒頭の悲惨極まりない西島さんの家庭状況。身につまされて引き込まれるのですが、コンビニ前のベンチで目の中を赤くして座り込む西島さんの顔は、「家庭に絶望している平凡な父親の顔」というより「冤罪で追い詰められて命からがら逃亡している男」に見える。はじめて西島さんの演技に「引き出しの案外な少なさ」を感じてしまったのでした。(魂はすごくこもってるんだけど、込める魂がいつも似てたような・・・)。
ゴメンナサイ。この印象には、昨年末の「20歳以上年下のプロ彼女」との報道が関係ないとは言えません。役者へのフワッとした思いは、無責任な幻想バブルにすぎないのです。『八重の桜』の現場にいつも素敵なスイーツを差し入れていた、という惚れエピも、「プロ彼女」がプロ視点で選んできたのかと思ってしまい(根拠はないです)・・・。

香川さんの演技は、上手いんだけど、『龍馬伝』『坂の上の雲』を頂点に、私の好みは下降線。本人があえて嫌な役をやってる、という部分もあるけど。今回、うるさくて粗暴で、それも前ならチャーミングさを感じたのだけれど、うるさくしか感じなかった。二時間長かったし。

2015年1月期ドラマスタート(前半戦)

January 15 [Thu], 2015, 13:56
さて、『ウロボロス』は明日から〜〜〜!

今夜から小栗君と斗真君の、TBS番宣祭りが始まります。くわしくはこちら。
http://www.tbs.co.jp/OUROBOROS/info/

今ここの下の方にある「GUEST」バナーをクリックしてみたんですが、中村蒼さん達が紹介されているゲストページのタイトル画像に、なんとモリリン(森下能幸さん)らしき人が!!居るじゃないですか!キャスト表にもゲスト欄にもまだ載っていないのに・・・刑事の一人かな?なんかすごくうれしい。

1月期のドラマの一番の楽しみはコレなので、ゆったり萌えられるよう、その前にここまでのスタートドラマ状況を、マーク付きでちょこっと書いておきます。

★★★(今後も観る)
★★(検討中)
★(多分もう見ないかも)
もちろん、今の気持ちなので、変わるかも。

『山田孝之の東京都北区赤羽』★★★(今後も観る)

テレ東快進撃はまだ続く。
どーゆードラマかわからないまま見始めたら、面白かった!!
『東京都北区赤羽』『ウヒョッ!東京都北区赤羽』という漫画があるのは知ってたけど、それを普通にドラマ化するわけではなかった。

第一回の冒頭、山田孝之が山下敦弘監督と映画を撮っている。
『己斬り』という映画で、武士(浪人?)が立ち回りの後、自分の刀で自分の首を切って自殺するクライマックス、何度もトライした後、「できない」と演技が止まってしまう。「役になりきっていて、自分を(模擬刀でも)斬ることができない」のだそう。
それをきっかけに、「赤羽に引っ越すことにした」という経緯。そのドラマを山下敦弘監督が手持ちカメラで撮る、というドラマだ。

撮影のシーンがあまりにリアルなので、『己斬り』という映画の企画が本当にあったのかどうか調べてみたけどわからない。でも、あったのかも。山田が自分を斬れない、というのは、本当に自分を殺す気概でなければ、演技として切り離して斬ることはできない。ということか。本当なら怖い役者。でもウソだったら寒すぎる話だから、部分的には本当なんだろう。
赤羽の風景は漫画の通りでとても楽しい。役場の人もとても不思議。作者の清野とおるさんが大きなマスクをかけて登場し、山田を歓迎する(なぜかポニーを連れて)のもわけがわからず面白かった。
これは先が読めない。「新しいドラマ」を観たい方は、是非。

『怪奇恋愛大作戦』★(もう見ないかも)
赤羽と同日、直前の時間帯。眠いから逆にしてくれないかなあ。ケラリーノ・サンドロヴィッチが脚本・演出を手掛けるというので、これも録画。
麻生久美子、坂井真紀らアラフォー女子三人組のラブ&ホラー&コメディなんだって。あまり趣味ではないけれど、面白い。ハマる人はハマる。

『学校のカイダン』(日テレ)★★★

既視感いっぱいなんだけど、結構面白い。
ヒロインの高校生役、16歳の新鋭広瀬すず。カワイイし度胸もありそう。
金持ちの子女が集まる有名私立校で、プラチナ8と呼ばれる男女4人ずつがスクールカーストの頂点にいて、転校してきた特待生(一般生徒受け入れ枠)のツバメ(広瀬)は底辺に落ち、見せしめのように生徒会長にされ、苛めを受ける。
ツバメの様子を謎の男・神木隆之介演じる雫井彗が見つめていて、スピーチによって学校に革命を起こせと働きかけてくる。

どう見ても『花より男子』設定なんだけど、隠しもしないところが興味を引く。制服も似てるよね。
しかし『花男』は最下層の女の子つくしが、F4の道明寺に惚れられて上に上がっていく古典的なシンデレラストーリー。カーストをひっくり返すことはない。
花男と見せかけて、「アンチ花男」を目指したら面白いけど、どうなるかは不明。
神木君の語りは『リーガル・ハイ』の古美門さんを想起させるような毒舌長台詞。しかしスピードが半分くらいなのは、堺さんの超絶技巧もあるけど、スピードまで同じにしたらモノマネになっちゃうからかも。
杉咲花、浅野温子、須賀健太などもいい。教頭の生瀬さん、また似たような役が続きますね。

『ゴーストライター』(フジ)★★★

「第一回」くらい見ようとタラタラ見てましたが、思わず引き込まれたのが『ゴーストライター』。
予告で見たとおり、売れっ子小説家中谷美紀とゴーストライター水川あさみとの確執を描く作品なんだけど、演技やストーリーが濃密で面白い。出版界の裏話も聞けて、興味津々。

特筆すべきは、文芸誌の編集長田中哲司。『SPEC』や『ATARU』ででのコミカル演技もとても面白いけど、野心家で悪くてエロい、こちらがストライクかもですよ。中谷美紀との絡みはエロ過ぎる。悪いけど、『ファーストクラス』の青柳君とは演技の桁が2つくらい違います。
キムラ緑子さんも、三浦翔平君も好きだわあ。スタンダードに面白いドラマが一本あるのは嬉しい。

妄想:「12人のオリエント急行忠臣蔵」(←ウソです)

January 14 [Wed], 2015, 23:05
フジテレビ開局55周年特別企画『オリエント急行殺人事件』感想

【寝落ち・・・】

三谷さん脚本の二夜連続スペシャルドラマ、『オリエント急行殺人事件』観ました。
すごく楽しみにしていたので、1月11(日)、12日(祝)の2夜、9時から3時間ずつ、わざわざ時間を空けて、リアルタイム視聴。

わくわくして観たし、いろいろと面白かったです。
しかし長い。
一夜目も二夜目も、10時半あたりからどうにもこうにも頭と瞼が重たくなり、11時頃から断続的に記憶がなくなり、最終的にはTVの前で「寝落ち」状態になったのでした。(夫も)

いかに「面白い」と言いたくても、この事実は受け止めざるを得ない。
もちろん録画もしていたので、翌日寝ていたところを見直して・・・計何時間このドラマに時間をつぎ込んだのか。

《寝落ち余談》
関係ないけど元旦の『相棒13スペシャル ストレイシープ』も眠かった・・・。
帰省中「今夜は絶対『相棒』スペシャル観ようね!」と、きょうだい甥姪に焚きつけた責任があるのに、みんな(五人)次々に眠ってしまい、私も相当コックリコックリで・・・。(そればかり覚えてるってアンタ・・・!)
昨年の『ボマー』や『ピエロ』『聖戦』はどれも良かったけれど、時々今回や『アリス』みたいな眠いのもありましたな・・・。

帰省から帰って、暇な夫が「何を観てもあんまり面白くない」というので、去年観なかったらしい『影武者徳川家康』の録画をつけてあげた。関ヶ原の冒頭部からいきなり引き込まれずるずる最後まで見た。「これ、去年の正月時代劇だから」と言ったら、絶句してました。・・・いや、もう一回見てもとっても面白かったです。長いのに。

・・・眠気は正直です。

【野村萬斎さんは最高】

探偵ドラマ界のニューヒーロー誕生!!
ポアロ役、野村萬斎さんの「勝呂武尊(すぐろたける)」最高でしたね。

まあ「喪黒福造」かと誰でも感じたのではと思いますが(特に目をつぶってるとまさに喪黒福造)・・・あの怪演は、癖になるほど楽しい。
『古畑任三郎』や、『刑事コロンボ』の流れにも確実に乗っている探偵。

『任三郎』の大ファンでしたが、年齢的に若返った萬斎さんは、パワーもテンポも素晴らしい。
またあの声。慣れないと奇妙な発声に聞こえるかもしれないけれど、広い音域すべてが小気味よいほど張りがあって響く。早めのスピードも気持ちいい。(もちろん古美門研介ほどのスピードではないが、速さだけを競うわけではないから)
性格は、「正確には名探偵の勝呂です」と自分で言っちゃうような変人型だけれど、粘っこすぎないので鬱陶しくない。あの微妙に厭らしくちょっと神経質な部分も、絶妙なバランス。よくできました!!!(結末の「判断」は気に入らないけど、別な問題)

勝呂さんで続編下さい!!
「昨日までの小倉の事件」とか言ってたから、連続を見越してるのかな。
昭和10年前後っていうのも、いい時代設定ですね。
是非、是非、年一回くらいシリーズ化を!!!

【最近の三谷作品は・・・】

けど、褒めたいのは萬斎さんくらいで、あとはあんまり・・・。
やはり、脚本です。
三谷さんの最近の作品には、衰えと言っては失礼だけれど、なんだか切れ味が悪いというか、あんなに好きだった以前のように私のハートにヒットしてこない。

昨年の『大空港』は、『オリエント』より眠かった。地方の空港を舞台に、一族がうろうろしてるだけで、カタルシスとか何も感じなかった。オダギリさんのニセパイロットしか鮮やかな記憶がないかも・・・。

『清須会議』は、ずっとイマイチだった最近の三谷映画の中でも一番つまらなかった。ギャグははじけず、音楽や効果音もいかにも古色蒼然の歴史ドラマ風。『12人の優しい日本人』みたいな「会議」中心のディスカッション劇を期待してたのに、外れた。
あれなら、この前の『信長協奏曲』のぶっ飛んだ設定、音楽、衣装の方が、賛否はあってもずっとワクワクした。

なんかね、2011年の「三谷生誕50周年祭」(だったかな?)の中盤くらいからガックリきたような気がしている。
舞台では『ろくでなし啄木』『国民の映画』が個人的に大好きで「これぞ三谷劇!」と思った。しかしその後、ぬるくなったように思う。「震災後、暗いものを書きたくなくなった」ような発言があり気になっていた。何かを封印したように感じるのだが、私だけだろうか。

2011年「三谷感謝祭」では、舞台四本すべてに感想を書いたので宜しければ。
『ろくでなし啄木(BS感想)』http://yaplog.jp/kinoko2006kun/archive/1008
大震災下に『国民の映画』を観て感じたことhttp://yaplog.jp/kinoko2006kun/archive/1005
『ペッジ・パードン』ちょい辛感想http://yaplog.jp/kinoko2006kun/archive/1034
『90ミニッツ』辛口感想http://yaplog.jp/kinoko2006kun/archive/1093
この年は映画『ステキな金縛り』http://yaplog.jp/kinoko2006kun/archive/1073もあったが、ドラマでは『short cut』
http://yaplog.jp/kinoko2006kun/archive/1074
が出色だったと思う。これはいろんな意味で面白かった。
その後自分の三谷熱がやや落ち着き、舞台は『おのれナポレオン』(これは大好き)しか見ていない。けれどドラマや映画で何かやる、といえば観ずにはいられない。
(だって、私の人生を変えた『新選組!』の三谷さんですから・・・)

一番気になるのは来年の大河『真田丸』で、その為の試金石として、今回の『オリエント急行』に注目していた。来年の今頃は、三谷×堺雅人の『真田丸』がスタートしてるんだから・・・。

【役者がちょっともったいない】

>ときどき、三谷さんは自分にも他人にも甘いあたりで作品を着地させてしまっているように思えるときがある。それらの作品が私にはややつまらない。
と、自分が『ペッジ・パードン』の感想に書いた。
この作品は、野村萬斎さんが夏目漱石役で出演した。三谷さんが初めて満載さんと組んだ作品(だと思う)。この時も萬斎さんは良かった!映画『のぼうの城』より前のことだ。

今回も萬斎さんは素晴らしかった。
しかし他のキャストは、そんなに輝いていた、とは言えないだろう・・・。
悪かったと思う役者は誰もいない。けれど、「取り換えが効かない役者」が、一人でもいたかなぁ・・・?
それだけでなく、役柄として「取り換えの効かない役」だって半分もなかったような。

萬斎さんのアシストコンビである笹野高史さん×高橋克実さんも、豪華すぎ老成しすぎ。古畑の今泉君と西園寺君の立場なら、もう少し軽くても・・・。
松嶋菜々子は化粧の色が濃すぎて美しさが減殺。沢村一樹も大事な役なのにキャラが埋没。
西田さんは実力と予算の無駄遣い。コバさん存在感がない・・。
三谷さんが嵐を使うのは珍しいけれど、二宮君は微妙な演技が割とよかった。
安藤夫妻はビジュアル担当かなぁ・・・玉木外交官、帽子の持ち方からカッコよかった。杏は終始軽くかわいく、微妙なバランスも行けるんだなぁとちょっと感心。
剛力大佐の石丸幹二もビジュアル最高だけど、ピストル自殺の場面は、顔が似ている飯田基祐さん(この人も『組!』仲間)が『SP』で自殺したシーンを思い出した。
佐藤浩市は、一片の情状酌量もなく憎むべき存在と感じねばならないのだろうが、どこか憎み切れない奴と感じさせる部分もあり、結末までもやもやしていた。

個人的に一番よかったと思うのは、侯爵夫人草笛光子と、事件の中心人物となる「大奥様」富司純子。
この老女二人の貫禄、演技、凛とした美しさには、何度もハッとさせられた。昭和初期の時代感や、当時の上流階級の一本背骨の通った雰囲気は、この二人が醸し出してくれた部分が大きい。

萬斎さんは一人突出して素晴らしかったが、かつての三谷さんの脚本なら、突出した主役は必要とされなかったように思う。それぞれのパートをアドリブなしで演じていれば、通して見た時完璧に面白い芝居になるのが三谷マジック。
傑作である『12人の優しい日本人』や『ラジオの時間』や『新選組!』などみんなそうだった。特に前『12人』は、均整の取れた完璧な脚本。12人同じウェイトでありながら、緊密に関係して取り換えが効かない。役者がバトルロワイヤルする場ではないのだ。
ところが脚本が信用ならないと、役者が力量でなんとかしようとバラバラに突出する。視聴者をつかむのが上手い役者のパートだけ面白いけど全体はサッパリな作品になっちゃう(例:『平清盛』)。
三谷作品で言うと大泉洋が走った『清須会議』。大泉は面白くしようと頑張ったのだろうけれど、見てると笑えなかった。三谷劇の面白さはそういう個人技じゃないと思う。
作品自体に仕掛けがあって、役者も視聴者も手玉に取られる楽しさ。

平成27年正月帰省つれづれ

January 08 [Thu], 2015, 11:34
あけましておめでとうございます。
いろいろとありまして、すっかり、ご挨拶のタイミングが遅れてしまいました。
今朝門松外しました・・・。

本年もよろしくお願いします。
皆様にとっても、良い年でありますように。

ツイッター、フェイスブックなどSNSの興隆のためか、ブログ人口は減りつつあるらしいです。アクセス数が相当減ってるのにランキングが下がらないというのは、ヤプログ!の利用者そのものが減ってるってことですよね。
サービスがなくなったらどうしよう・・・。

私はFBやツィッターを利用することもあるし(観たばかりの演劇の評判など聞けるのが面白い)一応アカウントも持っているけれど、発信ツールにしてません。140字(かな?)で勝負することも潔いと思うけれど、長文を許してくれる、長めのコメントでディスカッションもできるブログ形式の方が好きなので・・・。
・・・今読んでくださってる方、今後ともよろしければ、よろしくお願いします。

◆◆◆

年末年始は結婚以来ずっと変わらず、私の方の実家で一族集まります。
例年通り紅白も観ました。(女たちはいつものように台所でおせちの準備しながらね)。
「妖怪ウォッチ」も楽しく聞けたし、出ないかと思ったサザンが登場して嬉しかった。中島みゆきも・・・。しかし、いつもより画面を熱心に見なかったかも。

話の方が盛り上がってたからなあ・・・。
私の父親をてっぺんにした自分たち一族、特に(父から見ての)「孫世代」が続々と成人しては大学を卒業して就職(含むフリーター)していきます。一昨年には大学生が5人、という状況で学祭めぐりを楽しませてもらっていたのに、来春以降は学生は一人だけ。

特に驚いたのは、昨年甥っ子(まだ24)に子供が生まれたこと(デキ婚だけど)。誰が一番先に結婚するか・・はオバサン3人(私と姉と妹)の大きな興味だったけれど、全員ハズレました。
また、我々「子世代」に、本年ついに還暦を迎えるメンバーが現れる(姉の夫)。
65までの継続雇用の道を選ばず、「体力があるうちにやりたいことをやる」のだそうだ。
働くにせよ遊ぶにせよ、下の夫たちの手本になってください!

還暦かぁ・・・と一瞬驚いたけど、後約10年の間に我々子世代全員が打ち続いて還暦を迎えるんですよね(夫の弟たちはまだだけど)。
・・・と書いてから、「五十路の雑考」カテゴリに入れ直しました。
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