『残す人』 第二話・秋の下 

November 27 [Mon], 2006, 0:00
聡の大学生活は、他人のそれとさほど変わらない、ごく普通のものだった。頭の良い聡は、親の期待を裏切ることなく学力が優秀で全国的にも有名なK大学に入学する。実家からはかなり遠い場所にあったが、聡は一人暮らしという選択を拒んだ。聡には2つ離れた妹がいて、この妹が聡の家の大きな問題であったからである。妹の名前は美琴といって、聡が大学四年の秋に、大学一年(美琴は一浪している)だった美琴は一時期全く家に帰らなくなった。家庭内で何かトラブルがあったわけでもないが、父親は毎晩酒を飲みながら激怒し、母親はしきりに美琴の友人に連絡をとった。

美琴の身に何かあったわけではないことは確かだった。何故なら、聡の携帯に美琴が毎日、決まって午前10時すぎに電話をかけてきていたからだ。電話越しの美琴はいつもと変わらず明るかった。「お兄ちゃん」と聡を呼ぶ、年の割りに子供くさい声には、心配かけてごめんね、だけど美琴は大丈夫だから、といった感情が込められているような気がして仕方がなかった。美琴が聡に自分の居場所や今何をしているかを伝えることはなく、聡は心配こそしたが問い詰めるようなことは決してしなかった。

聡と美琴は対照的だった。聡は小さい頃から頭が良く、小学校一年の時に始めて12年間続けたサッカーでは、高校時代に全国大会に出場したこともある。母親によく似た、中世的で整った顔立ちも加えて、聡は学生時代、女子たちの間で常に話題だった。聡はあまり社交的ではないし、人見知りも激しかった。これといって夢中になれる趣味などもなかったが、その何の変哲もない日々の生活には満足していた。そんな聡を見て、美琴はいつもため息を吐きながらこう行った。「お兄ちゃんみたいな人間にはなりたくないけど、お兄ちゃんみたいな人って大好きよ」。

美琴には友達がたくさんいた。積極的でよく話し、家族で食事をする際にはいつも会話の中心になっていた。美琴は決して美人なタイプではないし、小さい背の割りに体格がいい。聡がそれを口にすると美琴は必ず声を張り上げて怒ったが、美琴の飾り気がなく、誰にでも平等な姿勢はとても好感が持てるし、何といっても彼女の笑顔は本当に可愛らしかった。聡は美琴の笑顔はひまわりに似ている、と密かに思っていた。

美琴から毎日連絡があることを、聡はもちろん両親に話した。それを聞いた父親は、全く、と呆れながら、ぶつぶつと文句を言ってはため息をついた。聡にはそんな父親の姿が、怒りで寂しさを紛らわしているようにも見えた。母親は今にも泣き出しそうな顔をしていた。聡の家の誰もが美琴を心配し、その消息を気にかけた。しかし、美琴がすぐに帰ってくることを聡は分かっていた。

美琴の姿を見なくなって10日目の朝、聡は大学の敷地内にある裏庭の、ドアから一番遠くにひっそりと置かれたベンチに座った。そしてそこで美琴からの電話を待っていた。聡が空を見上げると、そこには羊雲が群れをなした淡い青が広がっていた。凛と澄んだ空のわりに、風が冷たいなと聡は思った。9時58分。美琴は10時を目安に聡に電話をしてくる。大学の裏庭の、聡が座るベンチからは、大学が所有するテニスコートが見える。裏庭とテニスコートは、丁寧に管理された花壇が並ぶ小道によって繋がっている。聡にはそれが何の花か定かではなかったが、ピンクや白などの色が、乾いて肌寒い秋風に美しくなじんでいると思った。まだ午前中だからか、テニスコートには人の姿が見えない。

ポケットに手を入れながら、ベンチの背もたれに思い切りよしかかってみる。先ほどと変わらず、空は青く、遠かった。手を伸ばしても届かないことなどわかってはいるが、もし触れることができるなら、空に浮かぶ羊雲を一握り手にしてみたい。聡は携帯電話で時間を確認した。10時2分。美琴からの連絡はまだない。

「聡」

聡は声のする方に目を向けた。沙夜香だった。沙夜香は黄土色のトレンチコートに細身のジーンズといういでたちで、いつもと変わらぬ長い黒髪を風になびかせながら、聡が座るベンチに小走りで駆け寄ってきた。

「何してるの」

聡は答えなかった。沙夜香は聡の右隣に腰掛けて、コートのポケットに手を入れる。

「寒いね」

聡は、うん、とだけ答えた。沙夜香の匂いがした。柑橘系で、今日は少し強かった。きっと朝にシャワーを浴びたのだろう。沙夜香とは不思議な女で、真昼に入浴することを好んだ。講義を終えて午後2時には家に帰宅することができる沙夜香は、帰宅後すぐにバスタブに湯をはり、決まって白い粉状の入浴剤を入れては1時間以上の長風呂を楽しむ。一日の汚れは夜に落とすものだと考える聡とって沙夜香の入浴の習慣にはしばし疑問を抱いていた。「電気じゃなくて、太陽の明かりを浴びながら体を洗うのが好きなの」と言う沙夜香のこだわりは、聡には到底理解できなかった。

テニスコートには数人の若者が集まり始め、沙夜香がバスタブに湯をはる姿などをぼんやりと想像していた聡は慌てて携帯電話に目を落とす。10時7分。美琴のことが気になった。

『残す人』 第一話・女 

November 26 [Sun], 2006, 0:00
この女はいつも聡の隣に立つ。毎朝、7時15分の電車を待つ聡の、必ず右隣に。

長い黒髪が化粧気のない白い肌を際立たせていて、小ぶりだが口角がきりっと上向きな赤い唇には色気を感じる。身長は150cmほどだろうか。小柄だけれど、この女が子供でないことは雰囲気で分かる。かと言って中年という枠にも当てはまらず、聡の予想が正しければ20代前半だ。

この女の存在に気が付いたのは、去年、初雪が降ったいうニュースを見た日の朝だった。いつもと同じように、この場所で電車を待っていた。前の晩は寒さで目が覚め、それからなかなか寝付けなかった。聡は、眠気ではなく刺さるような寒さに耐えるために目を閉じ、深く息を吸った。鼻の奥に冷気がしみて、冬の風が喉まで届いたような気がした。聡はその感覚で疲れた体が少しだけ元気になる気がして、吸った息を大きく吐き出し、もう一度大きく息を吸った。聡は驚いた。

沙夜香。

空気を吸い込んですぐに、聡は目を開けた。見えるのは、聡の前に並び電車を待つサラリーマン風の男の背中。しかし、確かに感じたのは沙夜香の匂い。沙夜香が好んで使っていたシャンプーの香り。海外出張に出かけることが多い沙夜香の父親の土産で、「高級な外国製」と沙夜香はよく言った。柑橘系のその香りを聡はあまり気に入らなかったが、聡が沙夜香を抱く時には間違いなくその香りがした。

この女は沙夜香と同じ匂いがするのだ。聡はこの女が気になった。聡の右隣に立ち、落ち着いた姿勢もどことなく沙夜香に似ていた。背の高い聡は、背筋を伸ばし少しだけ後ろに体を反らし、小柄なこの女を上から見下ろすように眺めた。沙夜香よりも細身のこの女は、いつの頃からか聡にとっての朝の楽しみになっていた。
P R
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