ブログに挑戦 

October 31 [Sun], 2004, 0:56
ブログに挑戦しようと思いまして、このヤプログを
いろいろいじくっているところです。
今までの雑文を全部ここで見れるようにしたら、
なかなか面白いかもしれないなぁと思うけれども、
それをするにはちょっとめんどくさいなぁとおもいまして、
んで、やっぱHPと併用して、リンクをはっておくのが
お手軽という結論に達しました。
今度はいろんな人にURLを教えようと思います。ヨロシク!

アナログプレーヤーを買ったよ 

February 04 [Wed], 2004, 0:53
プレーヤーを買いました。8千円ぐらいで買えました。
いいのだとうん十万してたけど,いいもんね〜〜。
あほ〜〜,あほ〜〜。ぷ〜〜。

■音楽の鑑賞形態の変化に物申す!

CD,MD,そしてMP3の普及により,
音楽との出会いが軽んぜられているような気がします。
一曲一曲を愛しみながら鑑賞する態度が無くなる傾向に
ある気がしてなりません。非常に残念です。
というか,自分自身が一番そうだったりする。
人生の特定の時期とある音楽がオーバーラップしている事って
ありますよね? しかしながら,そういうことが
最近無くなってきているような気がする。

まぁ,いいや。またこんど。

かぁちゃんの誕生日 

February 03 [Tue], 2004, 0:52
かぁちゃんの誕生日。

■岡本太郎を読んでます。

ピカソの絵を前にして涙した事に寄せて,
岡本氏は次のように語っている。

 私の流した涙は鑑賞者としての感動ではなかった。
 創作者として,同じ時代の悩みを悩み,たくましく
 正面からぶつかって進んで行く先達者の姿に
 全身を以って感激し,涙が眼からふき出たのである。

創作者として観るとはどういうことか。

 創るとは決してキャンバスに向かって筆をとり,
 絵の具を塗ることだけではない。それはまったく
 形式的で素朴な考え方だ。己れの世界観に新しい
 ホリゾンを打ち開くことが実はクリエートなのである。
 真に芸術作品に対した場合,鑑賞者は己れの精神の
 中に何らかのセンセーションによって,新たに
 何ものかが加えられる。というよりむしろ己れ自身に
 己れが加えるのであるが。精神は創造的昂揚によって
 一種のメタモルフォーゼを敢行する。だから芸術作品と
 対決する以前と以後の鑑賞者の世界観,平たくいえば
 物の観方自体が質的に飛躍するのである。つまり
 創造であって,そのような創造の場なしには芸術,
 並びに芸術鑑賞は成り立ち得ないのである。だからこそ,
 観るということは同時に創ることなのだ。

■次回はピカソ論・・・

銀ちゃんと3年ぶりに会ってきたよ 

February 02 [Mon], 2004, 0:50
ワシの知らないところで色々あったことを知った。わはは。

■鉄五郎
鉄五郎が「日記を更新せぇ」と言ってきた。うっさいわ!
と,言いたい。わはは。

■芸術
プリミティブな形で芸術を感じてみたい。
プリミティブな形での芸術鑑賞とは,岡本太郎も言っているように
「創作者として鑑賞する」ということである。うーんとねー。

人間としての「中心軸」を揺さぶるような芸術に出会うということ。
ワシが,美術館の芸術に興味が無いのは,「中心軸」を揺さぶられる
ことが無いだろうと思うからである。つまり,「創作者の立場に
立って感じることがない」ということである。まぁ,しかしだ。
ワシのように感じている人がむしろ多数派であることは間違いあるまい。
それでも,したり顔に芸術を鑑賞する人が多い事もまた事実であろう。
ふんっだ! わかんねーもんはわかんねーんだよ〜〜。
大体,自分の「中心軸」を絵画で表現しようと思う事なんてないよ!
それにひきかえ,「音楽」の場合は違う! 自分の心の揺れだとか,
生命の欲望みたいなものをプリミティブな形での音楽で表現する
ことは非常に多い。ワシは嫌いだけど,「カラオケ」がアレほど
日常化したのも,そういう「中心軸」に「歌」がかかわる事が
あるからであろう。

しかし,その「歌」でさえ,歌に心を揺り動かされる機会でさえ,
あのような商業化した形(つまりカラオケ屋さん)でしか経験できない
ようになりつつあるのは悲劇である。

「音楽と出会いたい」。

感覚(当てにならない) 

January 28 [Wed], 2004, 0:45
今持っている感覚。『無痛文明論』はすごい。

■従来持っていた違和感(思い出せるだけ)
(1)思弁的に過ぎる
(2)adrescenceに毒されすぎ
(3)結局は「説明原理」に過ぎない:General nonsense
(4)「説明原理」を具体的に用いた例に乏しい
(5)時代の影響を受けすぎている

■今持っている感覚:『無痛文明論はすごいぞ』
もう少し読み込んでからでなければ断言はできないが,
『無痛文明論』はすごいです。ただし,そのすごさは
無痛文明論を色読(日蓮)しなければ分からないと思う。

色読とは,実生活を生きることによって論の正しさを
実感する,というような意味で使ってます。日蓮上人は
妙法蓮華経を布教するにあたって受けた迫害が,
妙法蓮華経の教えが正しいということを示すことだとか
なんとかおっしゃってます。

いや,もう少し踏み込んだ表現をしてみよう。
『無痛文明論』が説明原理に思えてしまうひとつの原因
でもあるだろうから・・・。それは,一人ひとりが
自分だけの『無痛文明論』を持たなければならないということである。

『無痛文明論』は三元論である。
「身体」「生命」「知」
やすきに流れてしまいがちな「身体」と,
現状を超克して自己変容を求める「生命」との対立。
いずれもが「知」を自分の味方につけようとしている。

森岡氏は,この三元論は見方によってはほかの二元論に
見えることもある,とおっしゃっているが,ここでは触れない。

森岡氏は「身体」と「生命」の対立において,
「身体」<「生命」だから,「生命」と「知」だけを
結び付けようという理想論だけを語っているわけではない。
むしろ,「生命」は「身体」の一部として含まれるから,
そのようなことは不可能であると言っている(はず)。
「身体の欲望」を自己変革を求める「生命の欲望」に
転轍(力の方向を変えること)し続けることこそが,
大切だと言っている。そのような,三元論的な事態の中にしか
われわれが取りうる選択肢は残っていないのである。

そういう三元論をわれわれ一人ひとりが自分なりに構成し,
普段の生活の中で反芻し,実践していかねばならない。
そうであるらしい。そうであるような気がしてきたのである。

でも,ワシの感覚です。これは当てにならないことが多い。

偽りの母性と本当の母性 

January 20 [Tue], 2004, 0:43
オトコの恋愛て,「恋愛の向こう側」を見がちや思うケド,
森岡正博ゆー人はその傾向が人一倍ツオイんやないかなぁ。

|愛は,相手を支配したり,相手と合一するという幻想に
|落ち込んだりはしない。そのかわりに,相手のことを真に
|大切に思うがゆえに,相手をむしろ突き放し,相手が自由へと
|解放されていくことをもってみずからのよろこびとする。

ごっついやろ? 「相手と合一するという幻想」・・・・
無痛文明においては,その幻想を,自由恋愛,セックス,・・
を通して得られるゆー「欺瞞」が蔓延してるねんなー。
もちろん(?),恋愛・セックスなんちゃらでその幻想が
得られるワケあらへん。
それを隠蔽してるんが無痛文明なんやな〜。
愛の三条件
(1)お互いを大切に思い,信頼しあう。
(2)お互いを突き崩しあう(自己解体を助ける)。
(3)お互いの自縄自縛からの解放を自らの喜びとする。

男の肥大した自我をここに見ますわ。抽象論に聞こえるねん。

そーやねん。ワシの求めている「本当の母性」ゆーんは,
ワシの男としての肥大化してもた自己を表しているんやと
感じとんねん。そんなことホンマは不可能なんちゃうか〜?
森岡正博氏は,これが不可能やと感じること自体を無痛文明に
毒されとるひとつの表れやと語り,無痛文明から抜け出て,
わしの言うホンマの母性に至る道を明らかにしとーねん,・・・
という章はまだ読んでーへんねん。キーワードは絶対孤独。

無痛文明論(2) 

January 19 [Mon], 2004, 0:42
I氏と電話でしゃべる。
ワシとは大きな共通点のあるI氏としゃべる。
明日(日付が変わったから今日)呑みに行くことになりました。

んで,今日はだらだらと酒を呑みながら『無痛文明論』を
読んどったんよ〜。そしたらな〜,やっぱ森岡氏はイカれた
人間やゆーことが分かってきたねん。
森岡氏は真実の愛を求めている!!
実はワシも求めてるねん。森岡氏のイカれたとこゆーたら,
現実の結婚生活の中で,つまり,森岡氏のヨメハンとの生活の中で
真実の愛を求めてるっぽいゆーことやと思うねん。
こんなアホなことは誰にでもでけることちゃうと思うねん。
ほんま筋金入りのあほやな〜思うねん。
そーゆー筋金入りのアホになりたい思てるから,
ほんま,『無痛文明論』ゆー本は示唆に富むな〜思う。

多分,従来『共依存』ゆー言葉で表現されてきた
(おそらく主として男女の)関係を『共犯関係的支配』ゆー
言葉で表現しようとしてるねん。「共犯」ゆーんは,
お互いが責任をなすりつけ合っているにもかかわらず,
その当人同士がその関係をむしろ望んでるゆーことやと思うし,
ほんで,「支配」ゆーんはその非対称性を際立たせて
言いたいんやと思う。それやからこそ,そこから抜けだすんは
ほんまにむずかしいことになってるんやろね〜。

明日は,新聞を買ってCTの問題を解くことになるやろ。
ほんで,4テキの案を考えることになるやろ。
ほんでもって,J地区のSのことを考えることになるやろ。

余力があれば,橋爪大三郎の本を読むことにしよかな〜。

無痛文明論 

January 13 [Tue], 2004, 0:40
森岡正博さんの『無痛文明論』読んでるねんけども、
なかなか進まんのや。むつかしわぁ。

とりあえず、『生命論を問いなおす』を読み返してからに
しとこかな、思てる。

あ、今日から出身の**弁で日記をつけることにしたねん。
(大阪では、「してん」と言うやろなぁ・・・)

**弁も使わんかったら忘れてまうから・・・。
ま、あんましつづかへんやろなぁ・・・。

ん? **弁って、「・・・」が多なるんかな?

■オウム問題について(遅ればせながら)

森岡氏は、「自分を棚上げした思想は終わった」と述べ,
自分を棚上げにしない思索の必要条件として、
対象となる「ものごと」の追求と、そのものごとに
立ち向かっているこの「自分自身」の追求の間を、
絶えず行き来することを挙げている。

自分自身の追求は、さまざまな自己表現の形をとるが、
ともすれば、その自己表現はうっとうしいナルシシズムに
陥りがちだし、また、強烈な甘えに過ぎなかったり
しがちである。その点を森岡氏は強調することを忘れない。

その上での「自己表現」評価。文章を書くことかもしれないし、
芸術という形をとるかもしれない。そして、誰かに語り
かけるという形をとるのかもしれない。
わしはこれからどんな風にして自己表現をしていくのだろうか。

さて、無理やりこれをオウムとか、神戸の自動殺傷事件とかに
結びつけちゃうんだけれども、ワシとしては、これらの事件を
起こした彼らを他人事とは思いたくなかった。
オウムの彼らは、佛教をはじめとする諸宗教に傾倒していた
大学時代の自分そのものであると感じられた。また、
神戸の事件の場合は、彼の育った環境の元で自分が正気を
保っていられたかどうかをいちいち思考実験したくなった。

そういう、自分の身に引き寄せて考えるということを
最近の自分はやってないなぁと思う。そもそも、
神戸の事件のときに行った思考実験(はなはだ不十分だとは
思うが)があまりにもつらいことだったために、
「もうTVなんて見ないし、ニュースなんてチェックしない」
んでもって、「俗世間なんかとは健全(?)な距離をとる!」
と決意したものである。そして、その傾向は今でも残っている。

そういう自分はダメだなあといまさらながらに思うんだよね〜〜。

あ、**弁じゃなくなってる!

さおりちゃんの写真がやってきた。 

December 26 [Fri], 2003, 0:38
はい,Garbagecollectorです。
さおりちゃんの写真が届きました。かわいいです。
ゆうパックでさおりちゃんのレコードが届いているようです。
明日の早朝に取りに行くことにします。わーいわーい。
んで,レコードを買うということはプレーヤーが必要になると
いうことなのでございますね。はい,買いますよ。
年内には買いますよ。わっはっは〜〜〜。

うーん,なんだか,病気?? さおり中毒・・・。

朝からB地方へ・・・ 

December 25 [Thu], 2003, 0:35
うーん,朝からY市K区B地方へ。きつい。
2時間しか寝れなかった。うん,ちょっと気持ちの高揚。・・

えーと,S谷さんに,「S谷家には,サンタは来ましたか?」
とたずねてみたらば,「サンタは私です。」とおっしゃってました。
うーん,かっこいい! サンタの正体はS谷氏だったのねん。

えーっと,先日M市に行ったときに,T治氏とお話を
させていただいたのですが,森岡正博氏の「無痛文明論」
に関する集大成ともいえる本が出ているらしい。欲しい!
氏は,臓器移植は「菩薩行」であるというべきだ,と,
梅原猛氏を批判されていた,・・・・うーん,かっこいい。
というか,自身は「菩薩行」だと言ってないようですがね。

ま,今日から死ぬほど忙しくなりますが,がんばります。
菩薩行として,仕事をがんばります。
もうすぐ,さおりちゃんの写真がやってくる!
ついでに買った時計もやってくる!(安物だけど・・)