そもそもの始まり 

2005年07月01日(金) 6時00分
それは、まったく些細なことだった。激昂したわたしが、子供じみていたのかもしれない。それでも。わたしは我慢ができなかった。
実家には、個室という概念がなかった。ささやかな、本当にささやかな両親の城は、一階にガレージと8畳程度のダイニングキッチンと8畳の居間兼両親の寝室。それに洗面所と浴室。二階には、6畳の部屋が二間と6畳の客間、建て増しをした本専用の納戸。それだけだった。わたしと姉は、6畳間のひとつを寝室とし、もうひとつを勉強部屋として、学習机を並べてすごしていた。
姉はマイペースな人で、わたしが受験勉強をしている隣で、漫画を読んで声を立てて笑うような人だった。そのたびに、苛立ったわたしは、本専用の納戸に勉強道具を持ち込んだものだった。
大学入学に伴い、わたしは上京し、一人暮らしを始めた。6畳二間は、事実上姉のものになった。帰省すれば、その部屋は確かにわたしの居場所でもあったのだが、日常住み暮らしている姉の荷物に埋もれていくのは、当然の帰結だったのだろう。だから、姉が結婚して家を出た後、わたしが地元企業に就職して実家に出戻ったことが間違いだったのかもしれない。
姉は、結婚して家を出るに際して、全くと言っていいほど荷物の整理をしなかった。共有の箪笥は姉の服で埋まり、一人にひとつ与えられていた衣装ケースは二つとも姉の本で埋まっていた。一人暮らしで増えてしまったわたしの荷物は、そのほとんどが荷解きされることもなくダンボールに詰め込まれていた。そのままで三年の月日が流れた。
さらには、小さな家に、休みごとに姉の一家が帰省してくることがネックになっていた。日当たりのよい寝室は、普段はわたしの居室だったが、姉の一家が帰省してくると明け渡さなければならなかった。そのため、わたしは日常の化粧道具さえ、どこか旅先ででもあるかのように、どこにしまうことももなく、小さな鏡を覗き込んで化粧をしていたものだった。
それでも、姉がわたしに気遣いをしてくれれば、そんな生活にも我慢ができたのかもしれなかった。だが、姉はそんな人ではなかった。与えられたものを享受し、その陰に誰かの我慢があることなど考えない人だった。

家族ごっこ 

2005年06月24日(金) 19時57分
30半ばのわたしと70半ばの両親。今の家族はこれだけだ。本当の家族は、これに40になったばかりの姉が加わる。両親と姉を絶縁させたのは、他ならぬわたしだ。

姉とわたしの諍いから、両親+姉VSわたしの対立が始まり、わたしは家を出た。一生家族と縁を切るつもりだった。死ぬことばかりを考えて暮らした。どうすれば、誰にも迷惑をかけずに死ねるか、そればかりを考えていた。

紆余曲折の後、両親は最終的に、他家へ嫁にやった姉ではなく、わたしを選んだ。家に帰り、両親と和解する条件が、姉との絶縁だった。今はもう、姉とは音信不通になってしまった。後悔はない。むしろ、いつか訪れる両親の葬儀に、姉が訪れる日を待っている。「ここはお前の来るところではない!」と追い返す日の来ることを待っているのだ。

かりそめの和解を果たした両親とわたしは、奇妙な家族ごっこを始めた。

誕生日だ、父の日だ、母の日だ、とわたしは花やプレゼントをせっせと贈る。両親は、わたしの誕生日祝いに、と「何でも好きなものを買ってやる」と言う。互いに、歯の浮くような手紙を交換する。

こんなことは、わたしが幼かったころには、あり得なかった。小学校低学年のころの「肩たたき券」の他に、家族の間でやり取りされるプレゼントなどなかった。誕生日もクリスマスも、ケーキを食べる口実でしかなく。かろうじて、サンタクロースはプレゼントを運んできたが。

贖罪なのだと思う。お互いに。わたしは、両親から娘と孫を奪った代償に。両親は、わたしを追い詰め、欝という病を再発させた代償に。

本当には心の篭っていない贈り物の応酬で、家族の隙間を埋めているのだ。『家族ごっこ』・・・今も昔も、わたしたちは、家族のふりをしてきただけなのかもしれない。
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