何気ない一言に・・ 

2005年04月02日(土) 22時54分
 久しぶりに娘と二人だけでスーパーに買い物に出かけました。スーパーマーケットというと、大体どこにでも試食コーナーがあって、僕もよく声をかけられます。ほとんどの人が知らん顔して通り過ぎるのですが、実は僕にとっては、こういう言い方をするとおおげさだと言われるかもしれませんが、ちょっとしたやすらぎの時間なのです。「おひとついかがですか?」と笑顔で言われます。僕は普段の仕事が、人のもめごとや争いごとの中に入っていくことが多く、毎日のように電話などで文句を言われ、現場に行けば怒鳴られ、そんな毎日を過ごしているものですから、時々人間同士の関わりというものに嫌気がさすことがあります。
 そんな中で、買い物の途中でかけられる何気ない一言が非常にやさしく、自然にそこで足が止まります。二言三言話しを交わすこともあります。そんなちょっとした時間が僕は好きです。今日は、レジで会計を済ませ、帰ろうとしたとき、特別に栄養相談のコーナーがあり、栄養士さんがアドバイスをするというものだったのですが、そこで「よろしければ体脂肪をはかってみませんか。」と言われ、はかってみました。そして、「何か普段心配なことはありませんか。」と聞かれたので、「お風呂上りにビールを一杯飲むのですが、毎日なので、ちょっと・・・」と答えたところ、「それはかえって健康のためにとてもいいことなのですよ。ただ週に一日はお酒を休む日があるともっといいですね。」とアドバイスしてくださいました。とてもうれしかったんです。こんなにやさしい言葉をかけてくださったことに。何か心の中にあったもやもやしたものが飛んでいったような気がしました。
 神様は、私たちに直接語りかけるということはなさらず、いろいろな人を通してご自身が働かれることをお選びになりました。僕にやさしい言葉をかけてくれる人、背中をポンと押してくれる人、あたたかい食事を作ってくれる人、そんなさりげないことの中に、神様の深い愛と恵みが存在していることを改めて考えるとき、神様に感謝せずにいられません。

朝の感謝 

2005年03月22日(火) 16時12分
 創世記の2章に神様が「人がひとりでいるのはよくない。彼に合う助けるものをつくろう」とおっしゃった後に、人を眠らせ、その間に神様が新しい創造をされました。これは決して当時のお話だけではないことを最近強く感じています。朝、目覚めたときに、家族でお祈りをするのですが、ついついお願い事ばかりで、こんなお祈りでいいのかとずっと心にひっかかっていました。僕がぐっすり眠っている間に神様は眠りを守ってくださると同時に、次の新しい日を創造され、目覚めたときに、僕だけの最高の一日を下さることを教えられました。今朝はそのことを思いながらのお祈りができ、神様とのよい交わりの時が持てたと思います。
 感謝と賛美で一日を始められるのはクリスチャンとしてのこれとない幸いだと感謝しています。

これで安心して・・ 

2005年03月08日(火) 12時57分
僕は、時々夜眠れない時があるんです。そういう時のために、お医者様から薬を処方されているのですが、その薬は効き始めるのに少し時間がかかるんですね。でも飲んだ瞬間、「これで眠れる」という何ともいえない安心感に包まれるんです。それで薬が効く前にその安心感で眠ってしまいます。もう何も心配することなしに。
 神様にお祈りするときも同じだなあって思います。以前はよく、「お祈りしたはいいけど、本当にかなえてくれるんだろうか。一体いつになったら神様は応えて下さるのだろうか。」そんなことを考えたものです。(今でも時々ありますけど)
 でも今は、祈るときこんな聖書の言葉を思い浮かべます。「祈り求めるものはすでに得られたと信じなさい。そうすればかなえられる。」その時、薬を飲んだときと同じく、「もう心配しなくていい。」という大きな安心感がやってきます。心配が一気に吹き飛ぶこともよくあります。ここまで来るには時間がかかりました。でも最初から重荷や心配事は神様にお任せすればいいんだということを自分に言い聞かせるとき、「これで安心して・・できる。これで安心して・・に臨める。」もちろん結果も僕にとって一番いい形になります。最近はそんなことが起こるたびに言い表せない感謝がわきおこってくるのです。

「何もいいことないじゃないか」からの転換 

2005年03月08日(火) 12時49分
 クリスチャンとして歩みを始めたときは、何かこうパーっと前が開けたように思えたんです。それが堕落への第1歩でもあったんですけど・・・。事態は以前よりも悪くなりました。職場での人間関係の悪化、体調の悪化、気分の落ち込みなどなど・・。それで「神様を信じたって何にもいいことないじゃないか。」と勝手に思い込み、それ以外の楽しみを見つけようとし、財産を無駄にしてまで遊びほうけ、礼拝には出席したものの、心ここにあらずの状態でした。来る日も来る日も「今日は何をしよう。」「誰と遊ぼうか。」そんなことばかり頭の中をかけめぐり、とうとう何もかも使い果たしてしまったのです。自分の部屋で頭がボーっとしたまま座り込み、言葉にもならない祈りをはじめました。「どうかあわれんでください。」と。
 それから今に至るまでは僕にとって長い長い試練の日が続きました。悔い改めてもやっぱりまた元に戻りそうになる。またひざまずいて祈る。また突き落とされる。その連続だったと思います。でも今こうして元気に喜びをもって仕事に生活にはげむことができています。「人知をはるかにこえた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリストイエスにおいて守るでしょう。」という聖書の言葉を思い出します。時に「どうしてこんなことが」と思うことがたくさんあります。でもそういう神様の恵みは僕自身が考えたり想像したりするところではとうてい納まらないんだということを今強く感じています。
 いろいろなところを通されて成長させてくださるんだなあとつくづく思い知らされるこのごろです。

>「甘ったれた宗教だ!」からの転換 

2005年03月08日(火) 12時42分
 僕は、仏教系の高校を卒業しました。在学中は、礼儀を重んじられ、禅の教えも受けました。自分を痛めつけて、とにかく努力を続ける。とにかく他人よりも上に行くことを教えられ、また自分にも一生懸命言い聞かせてきました。宗教の教えを受けていますから、他の宗教のことも耳にするわけです。とりわけキリスト教については、聞くたびに何か嫌悪感のようなものがただよいました。「罪をゆるす。」「十字架」「お祈り」「救い」そんな言葉を聞くたびに、「何?罪をゆるす?そんな甘ったれた宗教があるか!」とよく友人と話していたものです。
 卒業後12年たち、そんな僕が、不思議な摂理によりイエスキリストを信じクリスチャンになったのです。今では当時とはまったく反対になって、「仏教では人間は救われない。本当の幸せはここにあるんだ。」という確信に満ちています。
 しかし、僕の信仰はすぐに音をたてて崩れていきます。次回につづきを書きます。

愛がなければ、私は無に等しい 

2005年03月08日(火) 12時38分
 僕がクリスチャンになる前、いろいろな本を読んでいて、その中で印象に残った言葉などを自分でまとめた古いノートがあるんです。その中に「愛がなければ、私は無に等しい。」という文がありました。「あっ、これ聖書の言葉と一緒だ!」と思い、その解説を読んでみると次のように書いてあります。「夕食を時間通りにつくったり、洗濯を全部きれいに片付けたりしたとしても、そういう仕事をいやいややったのではなんにもならない。夫や子どもの世話をうまくこなし、自分のパートタイムの仕事や趣味をてきぱきやってのけたとしても、優しい言葉をかけたり、愛情を込めて相手のからだに手をふれたり、にっこり微笑みかけたりする余裕すらないとしたらなんにもならないのである。」
 聖書が教える愛にも、信仰的に非常にすばらしいと思える行動をしたり、言葉を語ったりしても、そこに愛がなければ、「私は騒がしいどら、やかましいシンバル」、また「無に等しい。」とあります。
 聖書を知らなかった時にも、何事も愛が必要なんだということは自分なりにわかっていたようです。でもなかなか具体的にどうすればいいのかわかりませんでした。愛というのを自分で勝手にいろいろイメージして、でも結局は自分に都合のいいものにつくっていたものでした。そうすると、自分のやっていることや、今目の前にいる身近な人そのものが自分にとって都合のいいものにならないと不満になり、もうそこには愛も何もなく、それこそ私という存在も無に等しいものになってしまう・・。キリストに出会った今でさえ、神様の教える愛とはかけ離れた方向に走ってしまうことも多々あります。これからも生きていくうえで、愛というのは永遠の課題であり、テーマなんだとつくづく思っています。

美しい花を見て根っこを思う人は少ない 

2005年03月08日(火) 12時26分
 僕がクリスチャンになる前、まだキリスト教を全く知らなかったときに好きでよく自分に言い聞かせていた言葉が、タイトルにもあるように、「美しい花を見て、根っこを思う人は少ない。」という言葉です。人が空気のような存在に感じている様々な仕事やそこで働いている人のことを思い浮かべ、その人たちに心の中で感謝の気持ちをあらわしていました。でも、自分がそういう存在になろうとはあまり思わず、むしろ、人の賞賛を得るような人の目に付く仕事がしたくて、どうしたらできるか、よく考えたことがありました。根っこのような存在の人に自分が支えられていることは認めていたものの、それでも自分は"美しい花"の存在でいたかったのです。
 今は逆になりました。新しい道に向かって今度は今までとは方向転換して、目立たないけど、でも人が生活するには欠かすことのできない技術を今一生懸命学んでいます。聖書と向き合い、祈り、確信を得ることができたのです。この先、行き詰ることもあるでしょうが、心はいつも前向きに明るく、何があっても大丈夫だという平安が与えられていること・・・これはやっぱり見えないところで働いておられる、「私の神」が永遠の味方であるからなのです。

何事にも時がある 

2005年03月08日(火) 12時19分
 先日、労働組合の学習会が開かれ、その中の討論でいろんな意見が出たのですが、ある人が、「何事も偶然はないよね、何事にも理由があるんだよ。」とおっしゃっていました。これを聞いて、旧約聖書コヘレトの言葉を思い出しました。コヘレトの言葉の3章には、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」と始まり、人生で起こる様々な出来事や感情が書かれ、そしてそれらすべてが神様の時にかなっていると教えています。僕は何か心に浮き沈みがあったときにこの部分を思い出します。
 人間から見れば「何で今こんなことが・・」と思いたくなるようなことがたくさんありますが、神様から見れば何もかもが神様の定められた時にかなっているのでしょう。また神様はただ僕が泣いたり笑ったりしているのを見ているだけではありません。悲しんでいるときに一緒に悲しんでくれたり心配してくださったり、また喜んでいるときは一緒に喜んでくださいます。だからどんなときでも神様を思うことが出来るのです。泣きたいのをがまんせずに、神様のことを思いながら、安心して泣くことができるのです。一緒に泣いてくださる方がおられるから・・。

私の神よ 

2005年03月08日(火) 12時14分
旧約聖書詩編138編8節に次のような詩があります。「主はわたしのためにすべてを成し遂げてくださいます。」
 ”わたしのために”このことを思うとき、神はわたしの、”僕自身の”神であることを告白します。あせることなど何もない。思い悩むことなどない。何もかも神におまかせすればいいんだなあと・・。それは決して自己の甘えじゃない、怠慢でもない。本当に強めてくださる方のおかげで、何でもできるようになる。それは、すべてを成し遂げてくださる”わたしの神”にすべてをゆだね、自分をおささげすることにあると確信します。
 「自分で何とかしなきゃ」「まず精一杯やってみてそれからお任せする。」そういう世界じゃないんですね。自分の計画や意思よりも神様のご計画とご意思に従うことで、喜んで自らをおゆだねすることができるんです。「自分は・・」でなく「神様は・・」をいつも心に刻み続けたいものです。

十字架を背負う 

2005年03月07日(月) 16時18分
 イエス様が裁判にかけられてから、処刑場に歩いていくとき、イエス様はご自分で十字架を背負って歩かなければなりませんでした。しかし途中で重荷に耐えられず倒れてしまいます。その時、そこにいたシモンという人が代わりに十字架をかついで、人々のさらしものにされながらイエス様と刑場まで歩きました。シモンにとってはまことに迷惑な仕事だったと思います。
 しかし、このことを思うとき、シモンを自分の姿におきかえて考えると、自分の罪がたくさんつまった十字架を背負ってイエス様と歩き、そしてその十字架にイエス様がおかかりになった姿が目に浮かびます。僕自身がかからなければならない自分の十字架に・・・。
 イエス様の恵みを考えるときに、またそこから出る言いようのない喜びの根底にあるものはやっぱり”身代わりの十字架”なんだなあとつくづく感じます。その十字架ですべてを僕のために成し遂げてくださる主の恵みを今このときかみしめています。
2005年04月
« 前の月  |  次の月 »
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
ゲストのコメント
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:katsu-k
読者になる
Yapme!一覧
読者になる