【 更新情報 】

スポンサードリンク

片倉小十郎と武家の歴史

戦国武将片倉小十郎は、妻のお腹に長男・重長ができたことを知るとその時殿の政宗がまだ子供を授かっていなかったので、わが子を殺害しようとしたそうです。それほど政宗を支えていたのです。政宗が初めて戦に行った時、敵兵を長追いし逆に敵の兵隊に囲まれてしまったことがありました。そのとき戦国武将の景綱は「おのれこそが政宗なり」としゃしゃり出て相手方を誘い寄せ、政宗の危機一髪を救ったと言われています。また、政宗は幼ない時に天然痘がもとで右の視力を失いました。しかも病気後、その患った目玉が眼孔から突出し、その不細工な顔表から政宗は大きな引け目を抱き、むっつりと陰気な性格になってしまいました。景綱はそんな政宗の気質を改めるために政宗を侍医のいる診療室に引っ張っていき、自分で政宗の頭を抱え込み小刀で一気に眼球をえぐり出したといわれています。これ以来、政宗は陰気特質から生き生きとした文武両道を目指す少年に変ぼうしたといわれています。戦国武将景綱の才知は、天下をとっていた豊臣秀吉にも認められました。奥州仕置のとき秀吉は景綱を直の家来にしようとして三春5万石の領主に取り立てると言いましたが、景綱は政宗への忠誠からその名誉ある申し出を拒否しています。戦国武将景綱の死んだ後、その人柄に魅せられていた家来6人が殉死したと言われています。また、跡取りの重長は大坂夏の陣における道明寺の対戦で後藤又兵衛らを討伐するなど奮闘し、「鬼畜の小十郎」の別名を取りました。さらに重長の子供・景長もまた小十郎を名乗り、伊達騒乱のごたごた中に幼き殿・綱村につかえました。先祖代々伊達氏につかえた戦国武将「片倉小十郎」の名家は、以来伊達家家臣のかがみとたたえられました。

片倉小十郎は白石城の城主

片倉景綱(かたくら かげつな)は、伊達政宗の家臣で軍師役を長い間務めた戦国武将です。「小十郎」は世代を越えて片倉家当主が継承している名前です。初めは伊達政宗の父親である輝宗の従者としてつかえ、後に遠藤基信の引き立てによって1575年に政宗の従者となり、軍師として起用されました。1585年に起きた人取橋の戦争や1588年の郡山戦争、1589年の摺上原の戦争、1590年の小田原参陣、1593年の朝鮮出征、1600年の関ヶ原の合戦など伊達政宗の主体となる戦の大部分に参列して、どれも伊達氏の危機を救っています。関ヶ原の戦いの後、1602年に殿である政宗が仙台城主になると一国一城令が公布されましたが、小十郎は特別な扱いで残された1万3000石白石城の城主となりました。その後、片倉家は明治まで11代にわたって白石の土地を統治し続けます。「智の片倉景綱」と噂されるほどで、剣術も上手く、幼ない政宗に剣術の手ほどきも務めたと言われ、智と勇をかねそなえた戦国武将でした。またものすごく笛が上手く達人でもあったと言われています。NHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」で戦国武将の片倉小十郎役のセリフを西郷輝彦が演じました。このドラマは史上最も高い視聴率をかちとり当時人気番組でした。

片倉小十郎の紹介

片倉小十郎は、戦国武将の中でも特に人気が高く若い女性のハートを捉えています。片倉小十郎の実家白石城があった宮城県白石市は、片倉小十郎の墓や神社があり当時の歴史を知ることができます。最近、小十郎プラザもできイベント開催時には若い女性客で賑わっています。戦国武将片倉小十郎の勇姿のイラストを車体にかっこよく描きあげたバスも運行しています。また、白石市役所では、小十郎プロジェクトを立ち上げTシャツやキャラクターコケシなどの販売も始めました。戦国武将ブームは、ゲームで演じるイケメンキャラクターで火がつきました。命をかけて仕事をする戦国武将に理想の男性像を重ね、そんな人間を求める女性達で火に油をそそぐように一気に広まったようです。戦国無双の片倉小十郎が出るゲームは、戦国basaraや戦国バサラ2などで片倉小十郎の衣装も素敵です。今、若い女性達が時代小説の専門店で理想の戦国武将の命日や墓、神社、歴史など懸命に本で調べています。今年の春にはテレビでアニメ化される予定で益々人気は高まって白石市は新たな観光スポットになるのではないでしょうか?戦国武将片倉小十郎が実際にはどんな人だったのか、その魅力を、紹介したいと思います。