深夜の考察

May 30 [Wed], 2012, 2:41
「止めない息」に新たに加わった虎拉ぎによるオーバーシュート&リリース、つまり『虎拉ぎハグ』効果が凄まじく、なんというか興奮して眠れない。


あ〜〜

今日は家事はやらないで笛吹こう!と思っていたのに、ガスレンジと換気扇の掃除をしてしまいました。

未だかつてないくらい、ラクラクに掃除が出来たことにびっくり。
磨く作業も腕指は全く痛くならず、あれこれしなくても全身運動に。
こうしたことが、全てフルートに繋がっている、と改めて感じました。


レッスンの合間に結局今日は4時間吹いたけれど、吹いた、という気がしなくて、物足りないくらい。シャコンヌ付きのヴァイオリンパルティータも先週吹いていた時とは全く違う景色になる。


色々なものが以前よりも軽くなる。
はたき、箒、掃除機、デッキブラシ、包丁、フライパン。

杖、模擬刀、法螺貝。

そしてフルート。


音楽と武術、音楽と掃除、料理を区別しない。

如何なる時も、部分ではなく全体で。


師匠は

「で、そのテクニックで何がしたいの?」

といつも問われる。

さらに重ねて

「もちろん、テクニックがなければ、何もできないけどね」

と仰る。


はっきり○○です!と言える答えは未だ持ち合わせていないし、テクニックという面だけ取り出したって、実際、まだまだだ。

でも、以前よりはずっと大きなゆとり、余裕が生まれた。
そうなると、曲の景色がまた違って見える。

吹くことにアタフタしつつでは、相手のことなんて考えられないんじゃないか。自分のことでせいいっぱい。

このゆとりと余裕があって、初めて、本当に他者の事を考えられるんじゃないか、と今日フト思った。


他者とは、つまり、楽器、作曲家、作品、共演者、観客、友人、家族・・・

これもまた部分ではなく全体で。

他者のことをより深く感じ、考えられるようになるために、テクニックを付ける。

優しくなるために、強くなる。

もっと強くなりたいと思う。






『古武術に学ぶ楽器奏法』 5月27日(日)

May 28 [Mon], 2012, 22:15
音教楽器たまプラーザ店での講座でした。

今回は常連さん3名に加えてサックスの男性。


予定していた一番の今日のトピックはなんといっても、「止めない息」のビフォーアフターなのですが、せっかくサックスを持参してくださったので、先に公開レッスン形式で、サックスを吹いていただきました。

「音楽家講座」にも参加されていて、その折の甲野先生のご助言で、随分と変わり、その後御自分でも工夫を重ねているとのこと。

その音と演奏姿勢から、推測して、いくつかのご助言を。

左右の身体の圧は揃えた方が絶対いいな、というのは今度のことでも再確認。


そして、本日はみなさまに持参した、足袋、手甲、カラー、胴甲?などを実際に装着して音の違いを楽しんでいただきました。

例の前に出さない膝も、足袋を履くのと、靴、はだし、でその結果は大違い。

以前も書いたことありますが、足袋、凄いです。

皆様の驚き様も面白かった。

「似て非なる正座」っていうのもやってみました。


そして、「止めない息」

サックスをこのオーバーシュート&リリースのところで、吹いていただいたところ、やはり大違いののみやかな音に。

もともと、他の様々な稽古会にも参加されている方なので、変化は顕著でした。


ランチもお天気が良かったので、外のテラスで。
ここでも、プロ打楽器奏者Oさんのお話がヒントになり、新たなバチの持ち方とそれを利用した身体が中から広がる感じのする整え方を発見。足先から繋がる身体。また違うところが広がった。滞りが取れた。人間が太鼓になる。
「虎拉ぎ」の応用です。

多分、これで打つと凄い響きがするんじゃないか、と思います。

・・って人事ではない。

今日は流石に若干二日酔い気味だったので、帰宅後お昼寝し、吹いていないのですが、明日、楽しみです。


・・・・・・・・・・

28日、お天気も良かったので、結局、たまった洗濯をしたり、掃除、料理でフルートは吹けなかったのですが、それでも、その効果にびっくり。

掃除機、箒、ハタキ、デッキブラシ、包丁・・どれもが急に、軽くなる。

身体と道具がより仲良くなる。

『虎拉ぎ』が凄いことはもちろん、重々感じてはいたけれど、あのままでは、強すぎるし、あの指のままでは楽器演奏にはあまり使えないな、と思っていたなんて、センスの悪さ丸出しで恥入るばかりです。

今回の気付きは、強いていえば『虎拉ぎハク』

『オーバーシュート&リリース』を虎拉ぎで最初行うことで、足まで、つまり全身が繋がる。

明日は料理以外の家事はお休みにして、存分にこれで吹いてみたいと思います。

間際の気付き 手の内と親指

May 26 [Sat], 2012, 0:35
いよいよ明日は「古武術に学ぶ楽器奏法に集った仲間達」の演奏会です。

今年になってからの進展は恐ろしいほどで、それを全て練習のたびにシェアしているので、さらにメンバー同士の響きは溶け合うものとなりました。

明日はのびのびと演奏できれば、と思います。

とはいっても、私にとっての「恐い対戦相手」はフェルーの3つの小品の第3楽章。

とっても速い高音域でのパッセージ。

以前はふんばって間に合わせていたところなのですが、そのふんばりがようやく自覚され、大分はずされたものの、モデルチェンジが追いつかず・・

先日の合わせ練習で聴いてもらった時も、結局は間に合わせるためにふんばってしまったなあ、という後悔が。

誰よりも自分が一番わかる自分の「嘘」と「ふんばりの自覚」。

今晩は最後のアガキ、ということで、なんとかなんないかなあ、と色々とやっていました。

そして。フト思い出したのは甲野先生が真剣を振っていらっしゃる時の御様子。

これが何故か、スローモーション映像で浮かぶ。

少しの動きの間にも、微妙に変化し続ける手。つまり、様々な「手の内」の連続。

先に「手の内ありき」ではなく、真剣を扱う中で結果として生まれた様々に微細に変化していく「手の内」。

そんなことを考えたとたんに、フっと何かが変わり、急に気になっていた指のふんばりが取れる。

先生は、どんな時でも愛おしそうに、そっと優しく道具に触れていらっしゃる。

甲野先生のことを思い出しただけで、こんなに変わる、という話も眉唾物かもしれませんが、本当の話です。思い当たる稽古人の方もきっといらっしゃることと思います

一番大きな変化は左手の親指。

ああ、こいつがまだ悪さをしていたんだ、とようやく。

「親指は・・」
とあれほど仰っていたじゃないですか。

さらに

「指のちょっとした角度で身体全体が変わりますからね」

とついこのあいだ仰ってくださったばかりだったじゃないか、と・・

なのに、それを楽器を構える時だけの事、と納得してしまい、カヤックを駆使することで、もうすっかり「出来ているつもり」になっていた、と猛反省。最近の進展に浮かれすぎてたな。

フルートでは、構えた後だって、散々、使う左手の親指。
あまりに無頓着すぎていた、ということです。

以上は色々と分析した結果ですが、実際には「アレ?」という感じで急に指が軽くなり動きの質が変わり、フト見ると、左親指の様子、当たる場所までがすっかり変わっていた、という感じです。



進展に伴う息の変化 5月24日(木)

May 24 [Thu], 2012, 22:23
5月22日に下駄、足袋、ドレスによって、もたらされた気付き。

もっともそのベースになっているのは、甲野陽紀さんが気が付かれた「膝を前に出さない」という使い方なのですが・・

それだけでも搭載エンジンパワーアプでしたが、今回はさらにその質が向上、と言う感じ。BMW3シリーズから5シリーズへ、内装が革張りシート、木製パネル、みたいな・・居心地良い居住空間・・


すぐに驚いたのは、指先がくすぐったくなったことでした。

湿り気を帯びた暖かい息が指先をくすぐる。

楽器の押さえているキィの指もそうですが、押さえていない、少し離れた場所に置いている指先にも、その暖かさが伝わってくる。

こんなことは、フルートを吹いてもう41年目になりますが、初めてのことです。

指先から伝わる楽器の振動、ということには敏感だったけれど、こんな、息の湿度と温度まで感じるなんて・・・

殊更強く沢山息を吹きこんでいる、ということでもなく、速いスピードで出している、という実感もないのに。

むしろ、のびやかに、穏やかな心持で吹いているのに、その息はそよそよと、本当にそよそよ、と風になって、フルートの指穴から吹いて、指先をくすぐる。

ああ、これは何か、自分の感覚が酔っているからかもしれない、とたまたまだろう、と思い、昨日吹いたところ、やはり同様。

そして本日も。

これは、もうそうなんだ、と確信。

止めない、つまりセットしない息、というのは、これほどまでに、まさに生き生きとして自由。

「はじめまして、私の息」

という感じで、嬉しい、というよりも、何かちょっと不思議で妙な気がする。この湿り気と暖かさが、とても生々しいから。

生生しい、自分の身体の一部が自分から離れて存在することの不思議さにしみじみしてしまいます。

フト21年前、出産直後の事を思い出す。

ついさっきまで、私のお腹の中に居たのに、今ここで産声を上げて泣いている。暖かで、湿った小さな生き物。そして、それは、とても愛おしい。

指先をくすぐった息は、そのまま指先からまた身体の中に戻ってきているような感じもする。

面白いのは、これだけ、暖かく湿っているのに、キィのタンポは、以前よりもベチャっと湿気で塞がりにくくなったことです。

私のロットのキィの空きは、今や師匠とほぼ同じくらいの狭さ。
以前は30分吹くと、すぐに吸い取り紙で、湿気をとってやらないと、ペタっとくっついてしまうことが多く、中々面倒だったのですが。

この吹き方になってから、2時間くらいはOKに。
これは、気候、湿度にもよるのだろうけれど、それにしても、大きな変化です。

息の流れ方が変わってきたんだと思います。

コンサートのドレスと下駄、足袋による進展

May 23 [Wed], 2012, 21:31
昨年暮れから今年の3月まで、体重は53キロでした。

当然、昔のドレスは辛うじて着られたものの、みなハチハチになってしまって、動き難くなり、演奏には不向き。

ということで、ハイウエストで切り替えのある、少しゆったりめの白いのドレスを素材違いで2枚購入し、主にそればかり着ていました。


でも、4月に偶然であった「医者が勧める背伸びダイエット」という本のお陰で、スルルっと4キロ痩せることができ、現在49キロをキープ。体調も快調、というオマケも。

とはいっても、10年前は45キロ。もう1、2キロ痩せるともっとスッキリするのになあ、と思いつつ、ずっとこの49キロなので、もしかしたら、これが私のベスト体重なのかもしれません。

今日は、週末、26日のコンサートのドレスを選び、それを着ての練習をしました。

本番前には、必ず家でも本番と同じ衣装、アクセサリー、靴・・じゃなかった下駄で練習します。

今回も、また昨年のリサイタルで着た白、と思って袖を通したところ、なんとなくボワっとしてユルユル・・

そうだ!痩せたんだった!忘れてた!

と嬉しい気持ちで、すっかりあきらめていた、手持ちの昔のドレスをいくつか探す。

形や色が微妙に似合わなくなったものは、去年の夏の「片付け祭り」の時に随分と処分したのですが、気に入っているものは、やはり捨てられずに、キープ。いつか直してもいいな、と思い仕舞いこんでいました。

その中の一枚はジバンシーの淡いグレーのシルク地に銀の総レースが重ねてあるもの。
昔、町田の大丸デパート「ビーミー」が無くなる時、撤退セールということで、90パーセントオフになっていたもの。それでも5万円強、という結構なお値段だった。

もう20年近く前になるんじゃないかしら。

そうそう。「身体から革命を起こす」の本に掲載された写真で、女性ピアニスト(浜尾夕美さん)と一緒に写っているもので着用しているのが、このドレスです。

久しぶりに袖を通してみたら・・

腰の周りは若干ピタっとしているものの、いけるじゃないですか。
裾も長く、足元も隠せる長さ。

さらに胴体部分にはドレスの立体的シルエット形成の為に軽いグラスファイバーらしき芯が入っているのですが、これが、実に具合が良い。

昔はこの効果には気が付かなかった。

でも、これは、おそらく着物の帯と同様の「筒」効果。
つまり、手首の手甲と同様の効果を及ぼす。籠で包まれているような心地。
安心する胴体。

本来、西洋のコルセットも、和服の帯同様、スタイルを良く見せるために締め付ける、というのではなく、整える、包み安心させる、という効用があるものだったんじゃないか、と思いました。

バロック時代のダンスの衣装などは、男女共みなこのコルセットを着けているので、体幹はねじられないようになっていた、とかつてのバロックダンスの講習会でうかがい、ハっとしたことを思い出しました。

コルセットもまた浮くための装置・・?


そして、足元は下駄にまた復帰。

最近は足首も演奏時によく使っていたのでベッチンの足袋で演奏していたのですが、例の膝の身体になってから、また感覚が変わり、足裏を返す必要も殆ど感じなくなったので。それに、この今の身体だと、下駄でも足首を自在に動かせる・・

そして、やはり、2本歯の下駄もまた、素晴らしい離陸装置だと改めて思う。

でもしばらく素足に下駄で吹いていて、違和感が生じる・・
居つく感じに以前より敏感になったせいか、塗りの下駄に素足がピタっとくっついてくるのが気になる。

ということで、白い木綿の足袋を履いて下駄。

ああ、最初からこうすればよかったんだ、というくらいの納得感、というか落ち着き感。いや、もとい浮き感。

このドレスを着て、足袋と下駄で吹き始めたところ、大きな変化が生まれました。

構え方が、そのまま呼吸に繋がる。そうしよう、と思ってやったのではなく、結果としてそうなった。

オーバーシュート&リリース、そして釣り合い。

今までは
1、オーバーシュート、2リリース、そして3、釣り合い、で体制を整え、その後息を吸って演奏していました。



でも、今はその1、オーバーシュート「乗り越え」時に、息が入ってくるようになりました。そして2でのリリースしながら音を出す。

音を出しながら釣り合いに向う、といったところか・・

「〜しながら」というのは、実は大きな変化。違い。

「息を吸う。しかるのち、お腹でしっかりセット。(止める)そして出す。」

これもまた過去に培い、そして何十年も実際に私を助けてくれていた大きな「基本」。「ふんばり」です。

でも、丁重にお礼を言って、お別れを。


「今まで、ありがとう。でも、もういらない。」



寛いでいる心地良い状態の時の普段の息、「止める」瞬間というのは殆どない。そういえば。

似て非なるもの

May 20 [Sun], 2012, 10:48
お稽古仲間Tさんのつぶやきで、「膝を出さない姿勢での正座」に触れているものがあって、そうか、正座ね、と思いやってみてびっくり。

憧れていた、「痺れない正座」

身体全部がスっと纏まって、浮きが勝手にかかっている。
まさに「痺れない正座」

正座での耐久時間が格段に延びる。

正座に関しては、甲野先生の稽古会などでも、本当に何年も武術に携わっている方など、先生の前では、膝を崩されることは殆どなく、ずっと正座。
技が使え、心身が練れている方程、その佇まいも無理なく、美しい。

最初は私も心がけてはいたものの、すぐに痺れてジンジンしてくるので、先生も周囲の方も特にとがめだてることもされないことに甘えて、直ぐに膝を崩して横座りや、アグラになったり、となっていました。

実際先生の公開の稽古会では、正座ではない人の方が多いくらいなので。

とはいえ、心情的には、ずっと正座でお話をうかがったり、技を見せていただきたい、と思っているのに、身体の事情で、それが叶わない、というのも情けない話です。

でも、痛いのを無理に我慢して、正座を続ける、というのも、嘘になる。
注意力も散漫になってしまうので、これでは本末転倒、とついつい易きに流れてしまっていました。

子供の頃、家にお茶の先生がいらして、母に付き合わされて無理矢理習わされていたのですが、この時も、珍しいお菓子を色々いただけるのは嬉しかったけれど、正座が苦痛でした。

そのトラウマ?もあるせいか正座はずっとヘタなまま。


でも、そうはいっても、こうして色々と稽古会に参加したりしていると、昔よりは随分と長く正座できるようにはなってきました。

知識としても色々なことを知った。

接地面、つまり膝からつま先までを足の裏、と思い、その真ん中に重心が来るように調整し、膝は握りこぶし1個分くらい開いて、親指同士を重ねる。


これだけでも、画期的。随分とラクになりました。

それが!

今回の例の膝が前に出ないように、とやった後の身体で正座をすると、何もしなくても、勝手に上記のような状態になっているではありませんか!
何度やっても勝手に重なる足の親指が不思議・・
全てが勝手に、「結果」として整う。

そして、特筆すべきは・・・

形状、見た目はまさに同じなのですが、その中身は全然別物。

「似て非なるもの」

知識として知って、形だけ整えたものは、そうでないものに比べれば、かなりマシにはなっているけれど、やはり、体重はズドンと感じられるもの。
つまり、たるんだままの身体、といった感じの五十歩百歩。


それが、この「膝が前に出ない」立ち方をし、その状態を持ち運んだ正座になると、浮いている。身の内のタルミも減っている。
全くの別世界。

面白いのは、床に接している膝から下が、木馬の脚みたいにカーブしてその釣り合う一点だけで釣り合い、床と触れているような感じがするところ。

もちろん実際には全部が触れているんですが。

とはいえ、「とってもラク。ずっとこの姿勢でも平気だも〜ん」

という感じではないので、まだまだ私の「膝」の精度は粗悪なんだと思います。

「屏風座り」も踵を上げはしないけれど、ジワジワとかなり足幅は広がる・・

でも、おそらく、以前よりは、長く正座出来るようになっているんじゃないか、と思います。


・・・・・・

「似て非なるもの」で関連して思い出したのは、S教授の言葉。

ミュンヘン音大のピアノ科の教授で、日本人のお弟子もとても多い。

彼にレッスンを受けた、という知人が

「コップフ インマー アウフ!」

といつも言われていた、という話を思い出した。

「頭は常に上げて!」

これも、身体が繋がっていないのに頭だけ上げてみたところで、あまり効果はないんじゃないか、と思う。
いや、むしろ、自分の全体の身体の状態を省みないで、それだけ真似しても、それまでの自分なりの釣り合いが崩れてしまうような気もする。

でも、この「膝が出ない立ち方」を持ち運んだ状態でピアノを弾いてみて驚いた。
まさに、勝手に上がっている頭部。それものびやかで、清清しい。

その音といったら・・・

極上品。

今までのあんなに大喜びしていた気付きが色褪せる程。

(あ、でも「魔法の椅子NO.3」は加えた方がさらに良いけれど・・)

そして、急に思い出した。

「あ!?奈良康佑さん元気かな?」

私もゲンキンな性格で、ご一緒した本番が終わるとすぐに共演者のことは忘れてしまうし、そうじゃないと次にも向えない。

という訳で、すっかり忘れていたのですが、突然、あの素敵なピアノの音と、その時の御様子が浮かんできた。

まさに、これは奈良さんの弾き方じゃないか・・?

思わずやってみる「奈良さんの真似」

嫌でもいつでものびやかに上がっている頭部。
ピアノに向う身体が発している上機嫌な感じ。
そして、おそらく根源的自信がもたらしているであろう、あの音楽や楽器への謙虚さが伝わってくる自然な佇まい。

やっぱり、康佑さんは、「天然もの」だったんだなあ、と再確認。

今度お会いしたら、やってみせちゃおうかな・・・

・・・・・・・・・・

「似て非なるもの」

これらが決して悪いという訳ではない。

知らないままよりは、ずっと良い。

でも、それを「良し」としてしまうのは、まさに落とし穴。

「小成は大成を阻む」

その先が必ずある。
そして、それは他者からやり方を教わった、というだけでもたらされるものでは決してない。

マイブーム

May 15 [Tue], 2012, 14:13
渡米、そしてその前の関西行きを控えての荷造りで、とてもお忙しい中だったのですが、諸連絡もあった、ということで、少し甲野先生とお話させていただくことができました。

今回の大きな変化をもたらしてくださった、あの日の講座のお礼も。


それにしても、前回の「虎拉ぎ」にしても、この陽紀さんの「膝」にしても、普通は、まさに「秘伝」にして一子相伝だけにしておいておくものなんじゃないか、と思う。

それを惜しげもなく、こうして講座で誰に対してもオープンにされている先生、ご子息の陽紀さんには本当に頭が下がる。

例えばこれが具体的な商品や技術であれば、特許も取れるだろうし、企業の研究等であれば、トップシークレット扱いだろう。

そんなことを申し上げたら、

「いや、まあ、『虎拉ぎ』は誰でもすぐ出来ますが、これは、そうでもないですからね。『屏風座り』は、今、マイブームですから。」

と嬉しそうな先生。


先日、先生の『屏風座り』のツィートを見て、久々に私もやってみた。
今回の『膝』にしてからやると、以前よりも数段マシに出来る様になっている『屏風座り』にびっくり。

もちろん、私の行っている『膝』は先生のものとは、質的にかなりの違いはあるにしても、実際に、こうして搭載エンジンがパワーアップし、『屏風座り』もマシになった、ということがとても嬉しい。

このことも申し上げると

「ああ、あの膝と屏風座り、それは確かに関連ありますね。うちのこも、それは言っていました。」とのこと。

この『膝』。

私にとっては、『虎拉ぎ』よりも、『逆さ狐』よりも、とにかく、過去のどんなものよりも、大きな大きな進化をもたらしてくれたもの。

もちろん、タイミングも良かったのだと思う。
カヤックや蔵王権現で道具との親和性が増し、滞りも少しは減ってきていたからこそ、だとも思う。

ねじってふんばっていたら、全く関係ない話であることは言うまでもない。

そして、今、ハっとしたのは、この『膝』のことをうかがったのが、「音楽家講座」だったから良かったんだ、と気が付く。

音楽家講座での私は、いつも着物だ。(一回だけ洋服にしたこともあるけれど)。

着物だったからこそ、スルルっと特に苦労もなく、先生のお話を聞いて、その所作を見て、すぐに、この『膝』になれた。

だから、私のフルートの生徒さんや、講座に参加された生徒さんにお伝えした時に、「あ、ここからは、私の勝手な工夫ですが、」とお教えして、皆すぐに出来たんだ・・・

それは、おそらく昔の着物が日常着だった日本人がみな、普通にやっていた所作。礼を尽くした立ち居振る舞い。

達磨落としの達磨を積み上げる様に、コインを積み上げるゲームの様にタタタタタっと整う身体。

多分、洋服だったら、ピンとも来ずに、終わっていたかもしれない。
いや、きっとそうだろうと思う。

着るものによって、気分、所作は大きく変わる。

実際、洋服バージョンで行なってみると私の場合は膝裏と腰周辺に緊張が走り、身体の在り様は全く異なる。

簡単な動きなだけに、これも質の差というのは大きいんだろうな、と思います。

ともかく・・

今回の進展の恩人、ご子息の陽紀さんの講座に、久しぶりに参加したいなあ、と思う。会ってお礼も申し上げたい。

甲野先生にしても、陽紀さんにしても、国が生活を保障して、研究費、予算を付けるくらいのことをしてもいいんじゃないか、と思う程。

人の身体が秘めている可能性をどんどん再発見しオープンにされているお二人。

おそらく「秘密にしたい」と思う心根にあるものは「慾」。
何故秘密にしたいか?自分だけ人より抜きん出て、良い思いをしたい、という慾。金銭慾、名誉慾、色々な欲望。弱肉強食資本主義の中では、至極当然とされている慾。私なんぞは、もうこの慾まみれだ。

今も同業者が自分の講座に来るのが嫌だったりするもの。

しかし、「慾」は「居つき」。

「居つき」は「滞り」を呼び、技の進展を阻む。

全ては技の進展の為に。

だから全てをオープンに。

きっとそういうことなんだろう、と思う。

・・・・・・・・・・・・



それにしてもこの『膝』効果は本当に凄い。

普段の姿勢、呼吸もこちらになってきたせいか、さらに健康、元気に。
身体が軽いので、動くことが苦にならない、というか、むしろ動きたがっている。お肌のコンディションもグッド。

興味のある方は、ぜひ陽紀さんの講座にてオリジナルを体験してみてください!

HPはこちら!


http://web.me.com/taberunori/HKHP/Home.html

「古武術に学ぶ楽器奏法」

May 13 [Sun], 2012, 22:31





昨日の冷たい空気は残っているものの、素晴らしい青空の広がる良い一日でした。
日曜日の午前中のこの講座に行く時は、大概夫に送ってもらって短いドライブ。
ま、家族サービスです・・ときっとお互い思っているんだろうけど。

フルートに杖、そして今日は法螺貝も持参、と大荷物なので、とても助かります。

あざみ野からたまプラーザに抜ける道の途中にある大きな木のアーチが素晴らしい新緑で、思わず車内からパチリ。あの木はなんという名前なんだろう・・



本日は京都から篠笛の方が参加。
既に甲野先生の稽古会にも参加されている、とのことで、話は早い。

あっと言う間に変化していかれました。
私がやっていることは、もう殆ど、それまでに培ってしまった「〜しましょう」「〜しなくてはいけません」という「学び」の中でかけられてしまった呪いを解く事なんだなあ、とつくづく思う。

遠くからいらしてくださった甲斐があり、本当に良かった。

知れば知るほど、近代の殆どのマニュアル、教えは、ふんばるためのものだ。

まさに「教育」って何だろう?と浮世のことを思うと悲しい気持ちになる。


私の講座までいらしてくださる方、というのはみなさん、相当の問題意識と現在のご自身の奏法、そして様々な世の中に溢れる音に違和感を抱えていらっしゃる。

これは私自身もそうだけれど、つまりは「これでいい」とは決して思えないくらいの違和感、焦燥感があるのだと思う。

でもそれが不幸か、というとそんなことはなく、むしろ、変化すること、進化することの幸せを存分に味わえる。


ということで、本日もワクワクルンルンのメウロコの講座となりました。

どれかひとつくらいは出し惜しみして次回にとっておこうかな?と思わなくもなかったけれど、結局総ざらえ。

最初にお互いの肩から首にかけての感じを見ておいていただき、講座が終わった時のお互いの印象の違いを比べていただく。

何よりも、自分自身の「首がのびたような気がします。」との感想が。

ランチに向う坂道でTさんが「歩くのがラク!」と声を上げる。
そう。実際、荷物も軽くなっているし。

今日はせっかくなので、吉野で購入した法螺貝を持参。
修験道ごっこをして遊びました。

左手で法螺を持つ時のオーバーシュートとリリース、そしてそれだけではまさに片手落ち。

左手に法螺なら、右手には杖。

杖を突きつつ歩けば、右手にもかかる負荷。

左右の釣り合いがとれ、圧が揃い、深々とした味わいある音が響き渡る。

最近お気に入りのウォーミングアップ方法です。



そして、丸い椅子を持上げるワークもやりました。
この椅子押し込み方法は野口宇宙飛行士と甲野先生の楽屋での会話を聞いていて思いついた「天邪鬼の気付き」から。そして「はやぶさ」のイトカワタッチダウンとサンプル採取のニュースの頃の気付き。共に懐かしい・・

1.普通に持つ

2.椅子を床に押し込んでから持つ

3.「蕾の手の内」を作り、「はやぶさタッチダウン」で持つ

4.3に加えて「はやぶさサンプル採取」で持つ


もう最後などは、ヒューンと頭上に掲げ挙げてしまうくらい、軽くなる椅子。

で、この解説をしていて「あ!?」と気が付いたのは、ああ、この「はやぶさタッチダウン&サンプル採取」が効果がとてもあったのは、もちろん、他の理由も色々あるのだけれど、この時の膝の状態に大きな要因があったんだ、ということでした。


最後にビフォーアフターでボランのセンチメンタルを最初の1ページ分くらい、聞いていただく。低、中、高音域が登場するのでわかりやすい。

ビフォーは、もう本当にやるのが嫌だ。塚田さんのピアノまで、普通のピアノの音になってしまうし。何より、とても疲れる。久々にやってみてふんばるって、こんなに疲れるんだ・・と改めて思う。

とはいっても、それなりにもう随分と身体自体が変化しているので、実際に昔吹いていた時よりも遥かに滞りのない音にはなっているのを感じる。ふんばってても。

こうした嫌な身体の使い方をした後、というのは、自分の身体に対しても、何よりも楽器に対しても、とても申し訳ない気持ちになるので、ちゃんとロットに謝って、水に濡れた犬の様にブルブルっとモロモロ振り払いリセット。

そして、最新のEクラスエンジン搭載バージョンでスタート。
塚田さんのピアノの響きが天国から聞こえてくるような心地で始まるボラン。

でも、自分の耳にはむしろ音は聴こえなくなるので、果たして大丈夫か?と不安になり、聴いてくださっているOさん、篠笛の方の表情などうかがってしまう。

でも、もう比べ物にならないくらいの変化、とのことで一安心。

最初はただ揃う音程、音量。
後者は溶け合う響き。

まったく異質な世界が広がる楽しさ。

とはいえ、ここ数日試しているヴァイオリンパルティータ第2番。
4回通すと、右の首に若干生じる滞り。
まだまだ伸び代だけは、ある。



・・・・・・・・・・・・


それにしても、全ての動きはみな「権現」つまり「仮の姿である」ということも再認識。

オーバーシュートする時に、ついつい人は実感を込めてしまいがち。



そして、音楽、芸術もまた「権現」である。
音楽はさらにその実感を込めたくなる罠と誘惑に満ち満ちている。

やっと師匠から怒られていたことの意味、日頃仰っていることの意味がはっきりと実感。腑に落ちた。


「自分には聴こえないように吹くんだよ」

「本番楽しんでいるようじゃ素人だ」

「舞台で本当に相手役を殺してしまったら、誰も相手役は居なくなっちゃうよ」

「音量なんて幻想だ。音程なんて錯覚だ」

「フォルテもピアノも同じに吹けばいいんだよ」


つまり、それは

『常にニュートラルであれ』

という教えなんじゃないか、と思う。


「ふんばり」からは決してもたらされないニュートラル。釣り合い。

嵐の様な情熱も、澄んだ水面の静けさも、全ては権現。仮の姿。

4月29日、吉野に詣でなかったら、蔵王権現像を拝観しなかったら、まだまだずっと気が付かないままだったと思う。



考察

May 12 [Sat], 2012, 0:27
「ふんばりは滞りの量に比例する。」


「ねじったまま身体を使うことが滞りを呼ぶ」



つまり・・

道具との関係性を考ずに、道具という他者を自分という主体に添わせようとする動きの殆どは身体をねじったまま使うこととなり、それが滞りとなり、ふんばりを呼ぶ。


だから、近代化、合理化が進んでしまった文化の中、殆どの技芸において、この「ふんばり」が支配してしまうようになったのも、その流れの中では、むしろ必然。

年数を経た道具を妖怪に例えたり、縫い針を供養したり、と道具の擬人化が普通であった時代、日々生きるために、実際に身体を沢山動かし使っていた頃の身体性とは異なってしまったのも、当たり前のことなんだろうと思う。

時代を追うごとにオーケストラの人数がどんどん増えてきたのも、作品が巨大なものになってきたのも、近代化に伴う人々の趣味の変化、会場の広さ、資本主義、商業主義、と色々な理由はあるだろうけれど、一番の理由は産業革命以降、殆どの人間、奏者がふんばり始めて、「溶け合う音」がどんどん失われてきた結果なんじゃないか?
響きを補うための増量化。(・・補えないんだけど・・)

バロック以前の古い時代の楽器の音も、おそらく、現代人が今、聴き知っているようなものじゃなく、もしかしたら、もっとダイナミックに響き渡っていたんじゃないか?とも夢想。

ルネッサンスもバロックも決して静かな時代なんかじゃない。

ふんばらずに浮いていられた身体からふんばり地に落ちた身体になってしまった私達。失楽園。

失われた身体性。

ヴィブラートに関しても同様。

「ふんばらない」が当たり前だった身体性の頃には、必要もなかった。

しかし「ふんばる」ようになった身体はいわば、ふんばりで身体と楽器の響きを止める。その響きを補いたくて、ついついかけたくなるヴィブラート。(・・補えないんだけど・・)

さらに、そのふんばりが、楽器の重量等で加速すると、最早ヴィブラートを通り越した、支えきれない重さが呼んでしまう、かけたくなくともかかってしまう慢性の痛々しい揺れ揺れ症状に。

ヴィブラートは「ふんばり」が生み出した子供みたいなものかもしれない。

なので、ふんばった身体で演奏されている音で、つまり響きがない音なのに、最近はやりだから、というのでノンヴブラート、という演奏は、なんとなく味気なく感じることも多い。

このあたりの身体性をないがしろにして、ヴィブラートだけはずしてしまうのは、なんというか、それまで助けてくれていた恩人を邪険に放り出すようなものなんじゃないのか?と思うこともある。

あんまり響いてないんだから、せめてかけておけば?とか、色々思う。

と色々書いてきたけれど、どれもみな、自分自身が背負ってきている深い悩み、ということです。


とはいえ、滞りが減るに連れて、ふんばる必要も減ってきた。


最初、甲野先生と出逢った時は、「ふんばらない」と仰る先生のお話をうかがっても、

「そうはいっても、フルートですから〜」

とお腹の支えは不可欠だと思っていた。足腰腹でしっかりとふんばっていた。

そう。身体がそれ以前より整った分、よりふんばれるようにもなっていたし。

その後、その度合いは捻れが減り、滞りが減るに連れて減っていったけれど。

でも、まだ、いくばくかの「支え」は使っている。
固めるのではなく動かして。

つまり、それが以前書いた下腹部の中に居る「ピンクのカタツムリ」
当時は1.5センチくらいで、這い回っていた。
それが、あの膝の変化以降、今は小さなシラスボシくらい。
より細く小さくなり泳ぎ回る。

心配なのは、私のこうした日記、ブログを読んで下さって、ただ「ふんばらない」「お腹の支えをやめる」という場合。

念のために書いておこうと思う。
物事には段階、というものがある。

つまり、自身の身体の捻れや滞りに鈍感なまま、お腹の支えなしにしてしまったら、それは、むしろ、ダボダボの音。

ただの主観的リラックスという、より酷い状態になるだろう、ということだ。

つまり、どんなに、身体だけを整えたとしても(これだけでも、かなり難しいことだと思うけれど)その先の道具との係わり合いの中で、滞りを生じている、ということに鈍感だと、それが、もう滞りを呼ぶので、むしろ、「ふんばり」に助けてもらわないと、何も出来ないだろうと思う。

「お腹の支え」つまりお腹の「ふんばり」は人に言われてなくすものではなく、自身の心身の変化と共に変化し動き始めてくれるものなんだと思う。

今まで、「ふんばり」は悪者という意識だったけれど、ああ、ずっと滞りだらけの私を文字通り「支え」助けてくれていたのだな、とちょっと申し訳なく思えた今日。


シャコンヌ

May 10 [Thu], 2012, 23:02
高校時代の同級生と組んでいる52バンド。

今日は、10月に実施予定のライブ会場選定を兼ねての飲み会。
そして、同じく、高校の縦繋がりでもある「ニクの会」
美味しいお肉(に限らないけど)を食しつつ、俳句にいそしもう、という会。

こちらも、今日が会合日。いいなあ、両方に顔を出したいなあ、と思うも、それは難しく、どちらかを断るのも申し訳ない。
あとでバレルと行かなかった方から恨まれちゃいそうだし・・

ということで、両方のお誘いをお断りして、レッスン、そして練習にいそしむことに。


ニクの会には俳句だけをエントリー。久々に駄句をひねり出しました。


今回のお題は「箱」

・衣替え 樟脳香る 茶箱かな

  今はあまり見かけませんが、子供の頃、家に大きな茶箱がありました。


あとは自由なものを2句

・拭き掃除 済ませし部屋に 風薫る

・法螺の音が 葉桜揺らす 蔵王堂 (吉野・金峯山寺にて)

・・・・・・・・・・・・




さて、なんといっても、4月末からのモデルチェンジ。
・甲野先生がもたらしてくださった「膝」(4月26日)
・吉野で蔵王権現像が教えてくれた「乗り越え」と「ふんばり」の違い
(4月29日)
・法螺貝と杖での気付き(4月29日)
・中島さんにお教えいただいた「ゆっくり走り」それによる股関節パワーと、その折気が付いた股関節がもたらすパワー
 ・そして股関節と腕指の関連性の気付き(5月1日)

ざっと数えた大きなものだけでも5つも。


搭載エンジンがパワーアップしたので、色々な微調整も必要。それに何より、以前は出来ないことが出来る様になったので、楽しくて、ついつい色々なことを試したくなってしまいます。

今日は久々にバッハのシャコンヌで有名なヴァイオリン無伴奏パルティータ第2番(ニ短調 BWV1004)の楽譜を取り出しました。

以前から時折取り組んではいたのですが、テクニカルの難しさもさることながら、とにかくボリュームが凄い。長い。

シューベルトの「萎める花」もプロコフィエフのソナタもみな大曲ですが、ピアノ伴奏付き、というのは、結構休む場所もあります。若干ムリな奏法になっても回復させ、リセットすることが可能です。

でも、無伴奏となると・・
休めるのは楽章と楽章の合間だけです。

20代、いや、30代の頃だって、そもそも、こんなヴァイオリンの難曲をフルートで吹いてみよう、などとは思わなかった。

でも、こうした難曲は、とてもわかりやすい「鉦」となってくれるので、心身の進展があるたびに、取り出して吹いています。

ちゃんと吹けている訳ではないのですが、それでもバッハの素晴らしさ、果てしない大きさ、深さに包まれる。

今まではシャコンヌに至る前の楽章、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグと吹いてきたら、そこで一休みしてからでないと、シャコンヌは吹き通せなかった。喉をうるおして、肩をまわして・・と。


それが、今回はユトリで・・
それも、どの楽章も前半の繰り返しをやって、トータルで、約30分。

それで、3回通してしまったというか、時間があれば、さらに吹き続けられたと思います・・

まあ、こういうのは、あまり練習、とは言わないのですが・・
どれくらいまで可能なのか?と新たに搭載したエンジンでのお験し走行をしてみたかった、といったところです。


本当に凄い変化です。
それも、たった、あれだけのことで・・・
いや、いったい何やってきたんだろう?と嬉しいやら悲しいやら・・

そりゃあ、ヴァイオリンとは違って重音での2声の吹き分け、というのは出来ないけれど、フルートでこの曲を演奏する、という必然性、説得力に関しての可能性は、あの「膝」によるモデルチェンジで、音の深みとボリュームが増したことで、少し出てきたか・・?

もちろん、今の段階ではまだまだまだ・・ですが・・

何時の日か本番でも演奏出来る日がくるといいな、と今日初めて思いました。

ようやく可能性が出てきた、といったところ。

精進、精進・・



プロフィール
  • ニックネーム:白川真理
  • 性別:女性
  • 誕生日:9月22日
  • 血液型:AB型
  • 現住所:神奈川県
  • 職業:専門職
  • 趣味:
    ・ハンドメイド-足半(あしなか)作り
    ・お酒-宴会
    ・お笑い-ダジャレ収集
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武蔵野音楽大学卒業。
ミュンヘンのM.ヘンケル女史のもとで1年半、研鑽を積む。
1998年より現在、元NHK交響楽団の植村泰一氏に師事。
川崎優氏率いる「茅笛の会」の一員としてヨーロッパ公演多数。同氏主催の「アンサンブルムジカフィオーレ」の一員としてTV出演、コンサート多数。
企業・自治体依頼のコンサート等でフリーのソリストとしても活動。
CD[SERENADE〜flow〜」をリリース。
2003年よりヴィンテージフルートである銀のルイ・ロット(現在99才)を愛用。独自の音色で講評を博す。


2003年より、古武術研究家、甲野善紀氏のもと、演奏時の身体の使い方、応用を研究実践。
関連の公演、演奏を銀座山野楽器、防衛大学、横浜市の依頼で行う。
専門誌「ザ・フルート」に「古武術に学ぶフルート」を連載。
「身体から革命を起こす」(甲野善紀・田中聡・共著・新潮社)にインタビューが掲載。
甲野氏を招いての音楽家の為の勉強会、公開講座を定期的に主催。

福島県江平(えだいら)遺跡より発掘された奈良時代、日本最古の竹笛「江平の笛」(研究復元製作・関根秀樹氏)を演奏。NHKTV,FM放送等に出演。


こちらのブログでは、少しずつ、過去に発表した自身のテキストを再検証しつつ、現在の気付きなども書いていく予定です。

日々の雑感、出来事などは、mixiにて,ハンドルネームmariで公開で書いております。どうぞ、お気兼ねなくご訪問ください。

演奏・レッスン・講習会の依頼、お問い合わせ等は、どうぞ、こちらに!

karadatoongaku@gmail.com
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