今夜は映画評論(57)―『ヒトラー最期の12日間』
February 25 [Sat], 2006, 23:00
TSUTAYAでレンタルが開始されてしばらく経つが、ようやく借りる事が出来たので観た。イスラエルは虐殺の歴史を美化していると批判していたが、現在の『ミュンヒェン』への姿勢を思うにつけて極端な立場からの批評はひとまず脇へ置いて、「とある一国家元首」を描いた物語として向かい合ってみた。
粗筋は今更書くまでもないが、全編に渡りこの史実をヒトラーの傍らで見てきた秘書トラウドル・ユンゲが主人公となっている。
冒頭、彼女が秘書として採用される過程が描かれている。深夜、他の秘書候補らと森にあるヒトラーのオフィスへ呼び出されて面接を受ける事になる。緊張する候補たちだが、ヒトラーは意外にも労いの言葉を発し、ナチ式の挨拶を省いて良いと言い、優しく候補者に接する。ユンゲもタイプライターのテストを受けるが、失敗してもやりなおす機会を与える。
いきなり観客は、大虐殺の首謀者、狂気の指導者・・・あらゆる悪名とは違った側面の彼の表情を目撃する。そう、これはこの作品の中核となるテーマである。それはユンゲ自身が劇中で「総統の内面は謎」「私生活は優しいが、冷酷な言葉を発する」と語り、ヒトラーの愛人エヴァはこれを「“総統”の時ね」と、応じる。つまり、ドイツ第三帝国の汚名を全て背負う結果となった彼の語られてこなかった部分を描いたのである。これは画期的な事でもある。戦争犯罪人とは、それ自体全てが悪の塊であり、例え事実だとしても犯罪人のもう一つの顔を描く事は許されなかった。日本のA級戦犯に通ずるものがある。つまり、そうした人々の悪でない、普通の人間である部分を取り上げる事は、何故か彼らを賛美するという事に議論が摩り替えられてしまうのである。
だがこれは歴史と向き合おうとする努力をするならば、思考停止、知的怠慢ではないか。
別に原作の一つを書いたユンゲ本人もヒトラーを賛美していない。「彼が怪物である事を当時見ぬけなかった」と語っているのがその証拠である。そして劇中でも、部下の進言を「弱腰」と切り捨てて激昂する彼に、怯えた視線を送りつづける。その一方で、逃げるよう奨められても逃げない自分が居たのだ。
劇中、「ナチの勝利を信じています」と泣崩れる従軍看護婦が出てくる。信じていたはずのものが、今まさに崩れ去りそうな状況で、人は何にすがればよいのか、見失ってしまったのである。この部分から、作品が「ナチに騙されて消耗していく国民」の悲惨な状況も描いている事が分かる。
折に触れて、抜け殻となった病院に取り残された老人、満足な医療も受けられない野戦病院・・・その一方で、水道・電気のある地下壕で酒をあおりダンスに興ずる側近を何度も対比している。
この映画は2時間半、あまりに虚しい戦争の様子を通じて、ヒトラーという「とある一国家元首」がいかに没落(原題であるder Untergang)していくかを、「総統」の側面だけでなく「個人」の側面からも描いた一種のドキュメンタリーと言った方が的確ではないだろうか。
それにしても、ヒトラーを演じたブルーノ・ガンツは凄まじい。時間が経つにつれて憔悴していくヒトラーを、見事に演じきっている。また、ヒムラーSS長官を演じたウルリッヒ・ネーテンに至っては、容貌が似すぎて怖いくらいである。
ゲッベルスは・・・役者の瞳が怖すぎ。本人は中々の二枚目なのだが。
全編がドイツ語となっているのも完成度を高めており、『シンドラーのリスト』とは違う。やはり言語は重要で、雰囲気が違う(大学時代はドイツ語を選択していたので、若干の単語はわかるから余計に)。
粗筋は今更書くまでもないが、全編に渡りこの史実をヒトラーの傍らで見てきた秘書トラウドル・ユンゲが主人公となっている。
冒頭、彼女が秘書として採用される過程が描かれている。深夜、他の秘書候補らと森にあるヒトラーのオフィスへ呼び出されて面接を受ける事になる。緊張する候補たちだが、ヒトラーは意外にも労いの言葉を発し、ナチ式の挨拶を省いて良いと言い、優しく候補者に接する。ユンゲもタイプライターのテストを受けるが、失敗してもやりなおす機会を与える。
いきなり観客は、大虐殺の首謀者、狂気の指導者・・・あらゆる悪名とは違った側面の彼の表情を目撃する。そう、これはこの作品の中核となるテーマである。それはユンゲ自身が劇中で「総統の内面は謎」「私生活は優しいが、冷酷な言葉を発する」と語り、ヒトラーの愛人エヴァはこれを「“総統”の時ね」と、応じる。つまり、ドイツ第三帝国の汚名を全て背負う結果となった彼の語られてこなかった部分を描いたのである。これは画期的な事でもある。戦争犯罪人とは、それ自体全てが悪の塊であり、例え事実だとしても犯罪人のもう一つの顔を描く事は許されなかった。日本のA級戦犯に通ずるものがある。つまり、そうした人々の悪でない、普通の人間である部分を取り上げる事は、何故か彼らを賛美するという事に議論が摩り替えられてしまうのである。
だがこれは歴史と向き合おうとする努力をするならば、思考停止、知的怠慢ではないか。
別に原作の一つを書いたユンゲ本人もヒトラーを賛美していない。「彼が怪物である事を当時見ぬけなかった」と語っているのがその証拠である。そして劇中でも、部下の進言を「弱腰」と切り捨てて激昂する彼に、怯えた視線を送りつづける。その一方で、逃げるよう奨められても逃げない自分が居たのだ。
劇中、「ナチの勝利を信じています」と泣崩れる従軍看護婦が出てくる。信じていたはずのものが、今まさに崩れ去りそうな状況で、人は何にすがればよいのか、見失ってしまったのである。この部分から、作品が「ナチに騙されて消耗していく国民」の悲惨な状況も描いている事が分かる。
折に触れて、抜け殻となった病院に取り残された老人、満足な医療も受けられない野戦病院・・・その一方で、水道・電気のある地下壕で酒をあおりダンスに興ずる側近を何度も対比している。
この映画は2時間半、あまりに虚しい戦争の様子を通じて、ヒトラーという「とある一国家元首」がいかに没落(原題であるder Untergang)していくかを、「総統」の側面だけでなく「個人」の側面からも描いた一種のドキュメンタリーと言った方が的確ではないだろうか。
それにしても、ヒトラーを演じたブルーノ・ガンツは凄まじい。時間が経つにつれて憔悴していくヒトラーを、見事に演じきっている。また、ヒムラーSS長官を演じたウルリッヒ・ネーテンに至っては、容貌が似すぎて怖いくらいである。
ゲッベルスは・・・役者の瞳が怖すぎ。本人は中々の二枚目なのだが。
全編がドイツ語となっているのも完成度を高めており、『シンドラーのリスト』とは違う。やはり言語は重要で、雰囲気が違う(大学時代はドイツ語を選択していたので、若干の単語はわかるから余計に)。
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