
ボスニアヘルツェゴビナを訪れると、誰もが気づく。
20年前に起きた内戦の跡。
全てを蜂の巣のように撃ちまくられた民家の壁。
これを至る所で見かける。

故チトー大統領率いるユーゴスラビア連邦は、6ツの共和国の寄り合い所帯であった。
1991年に勃発した旧ユーゴ内戦は、ユーゴスラビア連邦の崩壊、各共和国の独立闘争であった。
2000年まで続いたユーゴ内戦の中で最も激しい戦火を交えたのは、ボスニアヘルツェゴビナ紛争であった(1992〜1995年)。
旧ユーゴ連邦では、5つの異なった民族が存在したが、ここではイスラム教徒、セルビア人、クロアチア人が激しく対立。
死者25万を越え、200万人もの難民を出し、ムスリム人(ボスニア人)女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。
ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する、セルビア人・クロアチア人・ムスリム人とも、民族は「南スラブ人」である。
外見や言語の違いはなく、民族の違いは宗教だけである(セルビア人=セルビア正教徒、クロアチア人=カトリック、ボスニア人=イスラーム)。
かつては何の問題もなく共存共栄をしていたセルビア人・クロアチア人・ムスリム人が血で血を洗う戦いを繰り返した。
それまでは異なる民族同士の結婚も多く、人々は混ざり合って暮らしてきた。
それが突如、家族や友人、恋人の間に壁を作った。
昨日までは夫婦だったのに今日からは敵同士。
昨日までは親友同士だったのに今日からは敵同士。
昨日までは恋人同士だったのに今日からは敵同士。
公の前で家族や友人を自ら殺さなければならなかったり、妻が公の前で集団レイプされたり。
言語に絶する悲惨極まりない内戦だったと聞く。
「今となっては、何のために戦ったか分からない」という声を聞く。
結局政治的な主導権争いに民衆が巻き込まれた形となった。
しかしその傷はあまりにも深い。
平和な日本に暮らす我々には、その銃痕の現実を理解することはできないだろう。
コソボ地域をはじめ、民族問題はいまだ完全に解決したとは言いがたい。
単一民族である日本人には、なかなか理解出来ない問題だ。

ここで、このボスニアヘルツェゴビナ紛争の内容を話す(文献を多少参考)。
1991年6月、クロアチアの独立宣言をきっかけに、クロアチア軍とユーゴスラビア連邦軍との間で武力衝突が勃発した(クロアチア紛争)。
それを機に、ボスニアヘルツェゴビナの独立を求めるムスリム人・クロアチア人と、独立に反対するセルビア人との間で対立が深まり、セルビア人は自治区を設立して独立の動きに対抗しようとした。
しかし、当時ムスリム人主導だったボスニアヘルツェゴビナ政府は自治区設立を認めなかったので、セルビア人との間で衝突が生じた。
そんな状況の中、セルビア人の反発を無視し、ボスニアヘルツェゴビナ政府は10月に国家宣言を行い、1992年2月、独立の賛否を問う住民投票を行なった。
住民投票は、セルビア人の多くが投票をボイコットしたため、90%以上が独立賛成という結果に終わる。
これに基づいて、ボスニアヘルツェゴビナは独立を宣言、4月6日にはECが独立を承認し、5月には国際連合に加盟した。
独立に不満を抱いていたセルビア人は、ECの独立承認をきっかけに大規模な軍事行動を開始し、翌日にはボスニア・セルビア議会がボスニア北部を中心に「スルプスカ共和国」の独立を宣言した。
これが紛争のきっかけである。
紛争の開始直後は、その数と装備の質において、ユーゴ政府の支援を受けるセルビア人勢力が優勢であった。
ムスリム人勢力は装備の質で劣り、クロアチア軍は数の面で劣っていた。
しかも、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力は、必ずしも緊密に連携しているわけではなかった。
そのため、セルビア人勢力は、最初の攻勢でボスニアヘルツェゴビナ全土の6割を制圧し、首都サラエボを包囲する。
国際社会は、セルビア人勢力を支援するユーゴ連峰への制裁、サラエボへの人道支援などを行うが、戦局を動かすまでには至らず、92年はその状況が続いた。
1993年春、ムスリム人勢力とクロアチア人勢力の間での対立が深まり、クロアチア人勢力は同年8月にヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の樹立を宣言した。
セルビア人勢力と争う地域が少なくなっていたこともあり、クロアチア人勢力はセルビア人勢力と同盟を結ぶ。
これにより、ムスリム人勢力は一層の苦境に立たされた。
94年に入ると、アメリカの圧力によりクロアチア人勢力が再びムスリム人勢力と同盟を結んだ。
3月1日にはワシントンで、ムスリム人勢力・クロアチア人勢力の連邦国家が結成されることも決定された。
これは、アメリカによる対セルビア人勢力弱体化への第一歩であった。
4月10日から11日にかけては、NATOによるセルビア人勢力への空爆が実施された。
このNATOによる空爆に加えて、秋からは、アメリカによるムスリム人勢力・クロアチア人勢力に対する軍事援助も開始された。
これにより勢いづいたムスリム人勢力は攻勢に転じる。
この攻勢は一時的には成功したが、11月初めには早くもセルビア人勢力による反撃に遭い撤退を余儀なくされた。
これを支援するため、11月21日にNATOによる3度目の空爆が実施される。
繰り返される空爆に対し、セルビア人勢力は少数・軽武装で活動していた国連保護軍兵士を人質として拘束するという手段をとった。
これにより、国連保護軍に兵士を派遣しているイギリス・フランスと、さらなる空爆を求めるアメリカとの間で意見が対立し、NATOは機能不全に陥る。
紛糾した事態は、カーター元アメリカ大統領による和平交渉で打開された。
これにより、95年1月1日から4ヶ月の停戦が実現した。
1995年春、4ヶ月停戦の期限が切れると、再び激しい戦闘が始まった。
セルビア人勢力VSムスリム人勢力の間では、セルビア人勢力が最後の攻勢に出た。
一方、セルビア人勢力VSとクロアチア人勢力の間では、クロアチア軍と連携したクロアチア人勢力が優勢であった。
戦闘は、ボスニア・ヘルツェゴビナではなく、隣接するクロアチア国内のセルビア人居住区で行われた(嵐作戦参照)。
この間の5月から7月にかけて、セルビア人勢力の攻勢に対し、NATOはセルビア人勢力の拠点を攻撃することで対応した。
8月28日、サラエヴォ中央市場に砲撃が行われ、37人が死亡する事件が起きた。
この事件をきっかけに、NATOはこれまでにない大規模空爆・デリバリット・フォース作戦を実施する。
8月30日から9月14日までというこれまでにない長期なものであった。
この結果、セルビア人勢力は、クロアチア方面で敗退しただけでなく、ムスリム人勢力からの反撃を支える力も失った。
これにより、セルビア人勢力も和平交渉への本格的な参加を決定し、10月13日には停戦が実現して戦闘が終結した。

この3民族によるこの内戦の目的は、「民族浄化」と考えられている。
民族浄化とは、異民族を排除し、ある一定の地域を民族的に単一にしようとする政策である。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において、各当事者はそれぞれ自民族の勢力圏を拡大することを目的とし、紛争は「陣取り合戦」の様相を呈していた。
このような中で、安定的な自民族の勢力圏を確保し、支配地域から不安要因を取り除く目的で、自勢力の支配下に住む異民族を排除し、勢力圏を民族的に単一にする民族浄化が行われた。
民族浄化は、異民族に対する各種の嫌がらせや差別的な待遇、武器の没収、資産の強制接収、家屋への侵入と略奪、見せしめ的な殺人や強姦によって、その地域の異民族が退去せざるを得ない状況に追いやる方法や、強制追放、強制収容、あるいは大量虐殺によって物理的に異民族を地域から取り除く方法がとられた。
従軍可能年齢にある男性は各地で集団殺害や強制収容の対象とされた。
また、女性らは強制収容後、組織的にレイプを繰り返し、妊娠後暫くしてから解放することによって出産せざるを得ない状況に追い込まれた。
家父長的な男権社会の影響が残るボスニア・ヘルツェゴビナの村部では、女性をレイプによって妊娠させるこの方法は、効果的に異民族を排除する方法として用いられた。

モスタル市のスターリモストという橋のたもとには、「1993年を忘れるな」という英語のメッセージが刻んだ石があった。
アラビア語でもなくトルコ語でもなくボスニア語でもなく、英語である。
これは誰に大して言っているのだろうか?
しかし、「許すな」ではなく、「忘れるな」だから、少しホッとする。
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