予言(笑) 

July 04 [Fri], 2008, 12:02
抜き差しならない状況が経済を苦しめる。時代が入れ替わりつつあるが、抵抗も大きい。たまたまそこにあった経済的な問題が通信にあおられて広がる。この事件は人びとの無意識に働きかけるだろう。人びとは、ある目的に向かって邁進するが、権威は無関心を装おう。

恨み節 

May 28 [Wed], 2008, 19:24
例えば「ビール飲む?」と聞かれて「いらない」と答えたのに、「飲む」と答えるまで質問を繰り返されたら? こういうことすら虐待になってしまう。あなたの言う事など聞いていないよ、というメッセージだろう。こうした事を子供の頃から延々と繰り返されていたとしたら…恐ろしい話である。

両親が海外旅行から帰って来た。彼らの不在中は非常に快適な引きこもりライフだった。良い事もあるが、悪いこともある。別に食べて行けるからいいやという気持になるのである。これが第一の罠だ。そして彼らが帰ってくる。そして途端に息苦しさを感じる。ああ僕はこの人たちが本当にキライなのだ、ということを実感した。

土日と弟達が犬を返しにくる。問題のない家族を演じる。そして疲れる。月曜日に夕飯を食べていたら、涙が出て来て、何もやる気が起きなくなってしまった。下を向いて涙をこらえる。これが鬱というものなのかも、と思った。頭の中のやらなければという気持と、やる気が乖離を起こすのだろう。

これではいかんと思い、火曜日に久々に神社に向かう。母親はまた新興宗教の集まりに出かけてゆくようだった。神社でお祈りを済ませる。だいたい1か月ぶりだ。あの家にいると澱のように何かが貯まってくる。恨みの念とでもいおうか。神社はどうやらそれを浄化する力を持っているらしい。別に神社でなくてもいいのかもしれないが、神社はオープンアクセスだ。神社から帰ってくると気がまぎれている。

さて、前置きが長くなった。今日のテーマは「僕が何に怒っているか」だ。最初の転職のきっかけは、僕がやりたいことを認めてくれないからだった。僕は外国に行き、やりたい仕事についた。その会社は2年でだめになった。これが僕に「承認」を与えたのだと思う。つまり、会社はつぶれてしまうこともあるのだから、嫌になったら辞めてもよい、という正当化だ。だから、僕は会社を転々とした。そのたびに給料は増え、部下が増えたりした。でもイライラは収まらなかった。

どうやら僕は自分の欲求を無視されるたびに嫌気がさしているらしかった。あんなに尽くしてやっているのに…。無茶な要求を聞き入れ、他の人たちがさぼっても、僕は雇い主達の言う事を聞いてやった。しかし、結局僕のやりたいことはいつも無視されるのだった。

考えてみれば僕には2つの選択肢しかない。それは相手の言う事を無条件に聞き入れるか、その場を立ち去るかだった。無条件に受け入れている限りは、給料は貰える。ちょうど今無条件に受け入れれば食べさせてもらえるのと同じようにだ。しかし、そんなことは長くは続かないのだろう。何か自分の中に邪魔されない領域を作るか、長年に渡って積み重ねた行動様式を克復しない限り次には進めないのかもしれない。

僕にとってやりたいことって何だっけ、と考えた2か月だった。しかしいつの間にか、人にとってどうやったら喜んでもらえるかという議論にすり替わっているように見える。

どうやら、人はいろいろな罠にはまるようだ。

智の輪くぐり 

March 21 [Fri], 2008, 17:26
太陽電池で永遠に動くはずの時計が止まっていた。ずっと使っていなかったからなのだが、妙に悲しい。しばらく置いておいたのだが動かないので時計屋に持って行くことにする。

途中の千葉神社では鳥居になにやら飾りがしてある。左、右と八の字に2回くぐってから天神様にお参りすると知恵が付くのだと言う。智の輪くぐりというそうで、実際には3月25日から始まるということだが、今やってもよいのではないでしょうか、というのでやってみる。玄武石の上に時計を置いて、これがなおったら再び時計が回りだしますようにとお願いなんかをしてみる。まさに神頼み総動員だ。

時計屋では時計はなおらない。がっかりしてお客様相談センターとやらに電話。10分ほど文句を言った。図書館は休み。普通は木曜日が休みなのだが、昨日が休日だったからなのだろう。歩いて家に戻ることにする。ラジオを聞きながら、時計に太陽をあて、ぷらぷらと歩く。しばらくしたら動き出した。どうやら室内の光では足りなかったらしい。

いろいろ縁起担ぎをするものの、運気は動き出す気配なし。

一週間 

March 15 [Sat], 2008, 21:12
日曜日にソードテールが子供を生む。弟夫妻が来るのだが、僕は完全に落ち込んでおり、食卓は気まずい雰囲気。6匹ほどの子供を生むが、どうも泳げそうにないらしい。水槽の下に沈んでしまう。

火曜日に成田山に行く。結構よさそうな電話面談を明日に控えておりお祈りにいったわけだ。出世稲荷というものがあり、そこにお参りに行った。そろそろ暖かくなってきており、遠足日和だが、逆に焦りも最高潮に達する。

水曜日に電話面談を受けるが、全く芳しくない。どうやら何人か候補を集め、選ばせようとしたのかもしれない。はじめから落ちるだろうヒトとして選ばれたのではないか、とすら思えてくる。

木曜日。夢を見る。砂漠の壁に三角形が2つあり、それをこじ開けると外に出られる。母親の目の手術。簡単なものらしいが、一応自宅で待っていることにする。

金曜日。だめだったらすぐに返事がくるからまだ望みがあるのではないか、と右肩で誰かがささやく。「とりあえず、大丈夫だから」と、右肩の誰かはいう。曇っているなかを出かけ、神社に行く。雑誌の占いでは絶好調。これがまた落ち込む。現実的には絶不調だ。水槽の中の稚魚は2匹に減ってしまっている。

あまり芳しくないが、何かがいる感じはする。建物をみていると、天に向かって何かが上がって行っているような気がする。しばらくそれを見ている。

次に、図書館に行く。お目当てはビブリオマンシーだが、本は貸し出し中の様子である。別の本を開くと自分の誕生日が一発で出てきた。今日は当てになるんだなと思う。恋占いのビブリオマンシー本があるので「今、占ってもいいでしょうか」と聞くと「No。でもここから始まります」という卦がでる。これは今日は占うなということなのか、懸案のことがNoだったのか、よく分からない。もう一回試してみると「答えは自分で知っているだろう」と言われてしまった。今日は止めにしたほうがよさそうだ。

携帯電話で見た来週の星占いは「YesかNoの選択を迫られることになる」だった。今週は「扉が次々に開く」だったが、大して扉が開くようなことはなかった。ただ、ポストしていたインターネットの相談サイトによると三角形の夢は「知恵が着き成長する」という意味があるらしい。

帰って来たら、ご縁がありませんでした、のメール。結局懸案はNoだったわけだ。ビブリオマンシーは嫌な事でも当たってしまう。

去年は爆発的に花を咲かせたシクラメンが壊滅状態となり、爆殖していた魚もなかなか増えてくれない。まるで調子が出ない。仕事の様子と植物と動物。これらはリンクしているのだろうか。それともただ気弱になっているだけなのだろうか。

土曜日。ずっしりと落ち込む。気温は20度近い。部屋を猛烈に模様替えする。視界を開き、テレビを東向きにした。散歩に出かけ、公園の芝生に横たわっていると、なんだか泣けてきた。

アリマキに食われる 

February 26 [Tue], 2008, 22:00
シクラメンが咲かない。正確にはつぼみは付くのだが、葉っぱがどんどん落ちてゆく。まるで禿げ山のようだ。やっと一輪ついたと思ったら、それもだめになってしまった。これはつらい。水切れかと思ったが、どうやらアリマキが原因のようだ。

去年のバラがそうだった。葉っぱがほとんど落ちたのだが、結局強いものだけが生き残った。秋には花がいくつかついた。こうやって葉っぱが全部落ちたあとでないと、健全な状態は取り戻せない。分かってはいるのだが、やはりこの状態はツラい。

去年枯れたところから1枚だけ葉っぱが出てきた。


昨日電話があり、いくつか質問に答えた。予備審査みたいなものだ。でも今日は電話がかかってこなかった。きっとだめだったに違いない。仕事には「達成の喜び」と「欺瞞に耐える苦しみ」がある。どうやら苦しみの方がじゃまをしているらしいことは分かる。そもそもそれがつもりつもってすべてを投げ出してしまったのだからなおさらだ。いつのまにかアリマキにやられた植物に似ている。ということは、葉っぱを全部落とさないと前に進めないことになる。これはかなりしんどそうだ。焦りが募る。

春になったのに、たくさんお祈りしているのに、前に進めない。

オラクルの本というのがある。電話がかかってくる前には質問の内容と出てくる答えが符合した。期待の持てる内容だった。で、電話のあと冷静さを失った。今日はまったくちぐはぐ。こういうの当たるんだなあと思った次第。しかし、ものすごく先の事は分からず。分かっても、せいぜい1日とか2日とかのことみたいだ。

今日、Amazonの売り上げ集計を見たら、2月の1か月で、250円の売り上げが上がっていた。5年で1300円くらいだったのだが、最近窓を増やしたのだ。こういうのうれしいなあと思ったのだった。何か自分のやったことに成果が出る。アリマキに食い荒らされた後に出てくる小さな葉っぱ。これは、花に結びつくのだろうか。

天使ナサニエル 

February 16 [Sat], 2008, 20:56
実は節分が明けたら、この忌まわしい一年も消えてなくなるのではないかと少しばかり期待していた。しかし、事態は一向に変化せず、それどころか膠着状態に陥ってしまった。

事態が好転しないままに、太陽の日差しがだんだん強くなってくる。最近思うのは、2月ってこんなにまぶしかったっけというようなことだ。

節分の区切りとして一週間神社に行くのを止めてみた。現世に興味を移し替えなければならないからだ。ある日寝ようとすると心の中に天使ナサニエルとミカエルという名前が浮かんだ。ミカエルは知っていたが、ナサニエルという言葉に聞き覚えはない。

見た夢は仕事をしながら膠着状態に陥っている夢、この場所から抜け出そうとしているものの後ろを振り返ってしまう夢、そして春が来たら状況は好転すると人に説明している夢、さらにそろそろ審査の期間が終わりそうだから結果を見に行こうとしている夢だった。

春の夢には色までついている。シクラメンの花の色で、実際に育てているものだ。現在花の数は1つ。今年はシクラメンに花が付かない。12月から待ち望んで、2月に入ってようやく1輪の花がついた。

英語のウェブサイトなんかを探してみるモノの、ナサニエルについてはいま一つ分からない。Q&Aエンジンというものがあってそこで質問してみる。それを総合して何か意味がないかどうか探ろうというのだ。

ナサニエルは「神の贈り物」という意味がある。正式のキリスト教とは別に、最近のスピリチュアルブームにのって天使信仰をしている人たちも多いのだろう。答えはわりとすぐに見つかった。英語のウェブサイトによるとナサニエルは「神様から自分たちを遠ざける間違った信仰を焼き尽くす」というような意味であり、日本のQ&Aエンジンで知ったところによると「自分に課した制限を焼き払うための火」というような意味だそうだ。ミカエルの方は、日本の天使信仰では「変化の怖れを取り除く勇気を与える」というような意味で、元々ユダヤ教では「イスラエルの守護者」「神を護衛する」というような役割を与えられている。

2つ合わせると、「過去の間違った思い込みや自分に課した制限を焼き払い、前進しろ、そのための勇気は与えてあげよう」ということになる。夢の内容- 膠着した状況から外に出ようとしているとも合致しなくはない。

思えばこの旅の最初は、妙見信仰への出会いだった。しかしそれは静かで、これといった変化も実りもないままに過ぎた4か月だったといってよい。次はなんらかのアクションを暗示させる夢とメッセージだが、これといった実際のアクションが伴っているわけではない。

なんだか、気がどうにかなってしまったのではないか、という焦りと、このまま何も変化しないのではないかという不安が頭の中を渦巻く。着実に日は高く昇り、季節は春へと向かっているのだけど、なかなかそれを実感できないでいるのだ。

空亡年の終わり 

February 03 [Sun], 2008, 20:15
年の切り替わり、節分。今年ほど年の切り替わりを待ち望んだ年はなかった。折しも千葉は大雪。雪を踏みしめながら、修行の最後としてはふさわしいなと思ったりもする。普段の日曜日と違い、神社には人もまばら。夜の7時から盛大に豆まき会が開催されるということだ。

昨日の経験を元に、千葉公園で鳥に餌をやる。韓国のお菓子セウッカンの辛いやつを買う。カモメやカモがわんさかとやってくる。投げる振りをするだけで大騒ぎだ。やっぱ鳥に好かれていたわけではないのだなあと思ったりする。

一陽来復 

February 02 [Sat], 2008, 19:12
一陽来復とは、易経の言葉で、悪い事が終わり良い事が来る事をいうそうだ。冬至から節分までにお祈りするのは、太陽の力が弱くなる季節が終わり、だんだん日が長くなってくるからだろう。本当に、悪い事がなくなり、いいことがあふれてくればいいなあと思う。

これとは全く関係がないのだが、千葉公園の鴨がこちらによってくる。じっとこっちを見ている。逃げるでもない。餌をねだっているのかもしれないけど、別に鳴くわけでもない。ただじーっとこっちを見る。気のせいかなと思ったが別の鴨もそうだった。まるで鳥に意思があるような不思議な現象だった。

空亡の終わり 

February 02 [Sat], 2008, 18:33
明日は節分。四柱推命的には明日が大晦日にあたる。これで空亡年から抜けるわけだ。このところ、ふわふわした感覚が消え、現実的な興味・関心・不安が脳裏をよぎる。

神社にはいろんな人が来る。このところ多いのが福祉団体の人たち。お年寄りを引率してくるわけだが、この人たちかなり口が汚い。手と口をすすぎ、心をきれいにしてご神体になっている鏡を見る。つまり心を清らかにするわけだが、その脇で老人たちを叱り付けている。今日は賽銭箱の前でフラッシュをたいたりしていた。目を開けたら、でっぷりと太った女の人だった。福祉にしろ教育現場にしろ、社会では一番大切な部分を担っている。しかし、実際には弱い人たちが、さらに弱い人たちを「処理」している現場でもあり得るわけだ。

今日、図書館で読んだ本は、これまでみたいに心理学や占いの本ではなく、M&Aの本だった。12年に一度の休暇も終わりつつある。

家に帰ってくる道すがら、父親について考えていた。どうやら「イニシアティブを奪われる」のを極端に怖れているらしいのだ。それは、TVのリモコンとか、話題の中心にいたいとか、そんな小さなことだった。最近母が修行にでかけるというので彼は誰とも口をきかないという行のようなことを行っている。

だから食事の時には3人とも話をしない。無言の行なのだ。これを毎日繰り返すことで、僕は家庭団らんというものを今まで一度も経験したことがなかったのだということを知った。食事時に会話があったのは「父親が幸せな家庭を誇示する」儀式か、このような無言の行だったのだから。これは結構な経験であると同時に空恐ろしいことだ。なぜならば僕はそのことを意識したことがなかったのだから。

母親は人の心が読めず自分のことしか考えていない人なのだ。僕はこれが「わざとだ」と考えていたのだが、どうやらそういった素質がないらしい。頭の中は自分の事でいっぱい。しかし家族の世話をして、父親に仕えなければならない。今日は一人でお好み焼きの専用の粉を使っていないことを言い訳していた。誰も何も言わないにも関わらずだ。

僕が何か小さなお願いごとをする。すると母はそれを読み取ることができない。そのような能力はないし、心は不安でうつろなのだから当然といえる。父親はそれに反対することで「イニシアティブを持っているのは自分だ」ということを強調する。最近思うことは「何でも反対している」ということだ。なので、違ったことをいうとそれにも反対の意見を述べる。

繰り返し繰り返しそれをやられるうちに、僕は人に期待をしないし、自分で望みを持たない大人に成長したんだ、ということがよくわかった。意識して初めて克復ができるわけだが、失ったものは大きいように思われる。

母は今日も修行に出かけてゆく。この新興宗教の狙いは「霊能を得ること」だ。人の心を慮ることはできなくても霊能を得ることはできるのだろうか。

うつと厄年 

January 28 [Mon], 2008, 9:56
仕事をしなくなって1年以上が経った。最近なんだか恐ろしくなることが多い。逆に言うとこれまで大して恐ろしくもなく過ごしてきたわけで、そっちの方がよっぽど恐いことのかもしれない。つまり夢から醒める直前といった感じだ。多分、鬱病ではないとは思う。別に死にたくなったりもしないし、一日中寝ているということもないからだ。Yahoo!知恵袋のメンタルヘルス板を見ると、薬談義がたくさん出ている。「××」は利くが、副作用が…みたいな話だ。

40になってくると、人生の成功とか失敗が見えてくる。ある人たちは家を持ち、地位を手に入れて、家族がある。ある人たちには何も残らない。少ししか残っていない貯金ももうすぐ地方税として持って行かれてしまう。仕事は手に入りそうだが、大して面白そうでもなく、このまま就職したとしてもそれは牢獄でしかなさそうだ。

今日古本屋で立ち読みした本。つれあいは外資系会社でカスタマーサポートの仕事をしていたが、リストラとなり忙しさのあまりウツ病を発症する。「季節の変わり目が実感できない」とか、いろいろ共感できるエピソードが含まれていた。病状はひょうひょうと語られていて、途中でつれさんのエッセーが挟まれている。「教会の同窓会で奥さんが突然泣き出した」というの読んだ時に、不覚にも涙がこぼれそうになってしまった。つれ氏はそこで「つらいのは自分だけでなく、家族もつらいのだ」ということを発見するのだ。

つれ氏はちょうど同じ40歳でウツを迎えるのだが、こういう意味で、厄年(数え年で42歳なので実際は40歳ごろにはまる)はうまくできているのかも知れないと思う。ただ祈祷をして無事に通りすぎるのを待つというのではなく、実際に問題が起こった時にどう解決するのかが重要なのではないだろうか。
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:kaichukin
読者になる
2008年07月
« 前の月  |  次の月 »
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31