CITY HUNTER 

June 23 [Sun], 2013, 13:16

一体、警察ってのは何をしてるんだろうねぇ。過去の事をほじくり返して経済効果を期待するか?そうは問屋が卸さないって事よ。岡崎京子事件の主犯格は4WD。ステップワゴンやパジェロあたりなんじゃないか?麻薬中毒者あたりが関の山だろうなぁ。警察はすでに犯人を把握済みのはずだ。犯人を知りながらも出したら出したでメーカーさんたちへの苦慮が障壁となっているとか?悪い事は悪い事であり、駄目なものは駄目だ。囚人に梱包やタレントやDTPやらタイピングをさせたら上手くいったから、そこらへんのハードルを高めれば一般の入り込む余地が無いのでそうだとは気付かれずに社会に溶け込ませる事が出来るとか?人はそうそう変わらないものでねぇ。そういった奴は警察さんあたりにおんぶにだっこで、大体、何か悪い事をして収監された事があるな、ってのは把握できちまうんだよ。残念ながらモチベーションに行き着く動機を考えてみれば短絡極まりない。調書をとるまでもなくバカさ加減が垣間みれるのだから「犯人」はどんな奴でも顔写真付きで報道に出すべきだと思うけどねぇ。殺人まで犯して、更に統合失調症あたりの奴にのうのうとヘラヘラ顔をされていたら困っちまうんだよ。それとも何か情にほだされるようなところがあるか?そういうのを「ミイラ取りがミイラになる」と言うのだ。なるほど、あんたら「官能」にどうやらご執心なようですねぇ。そういうのを「骨抜きにされて吠えるだけ吠える狂犬病の犬」と言う。これを読みながら何か画策しているあんたらの事だよ。肝に命じればいい。OVER FUTURE

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○警察、違反取締ノルマある?

Q:交通取締りに、ノルマはあるのですか?パトカーや白バイ、ネズミ捕りなどは、ノルマ制なのですか?確かに事故の抑止がメインだとは思うのですが、路上駐車や暴走族、原付ノーヘルは、かなり見過ごしても、一旦停止は必ず捕まえるというのはどうしてですか?

A:ノルマ・・・・という言い方にすると語弊があるかもしれませんが、それに限りなく近いものがありますよ。(努力目標がある)
まず罰金などの反則金は国金として納められますので、そのあたりも調整してますし、何より実績(検挙とか違反切った件数)が来年度の予算に大きく関わってくるのです。「これだけ検挙件数がありました。だから来年度もこれだけの件数を処理するためには、これだけの予算が必要です」と、予算確保のために取締りにも実績が求められるのです。警察の給料から捜査費などはみーんな国、引いては県の予算から出てますからね。営利団体じゃないけど、警察だってお金がなけりゃ捜査もできないし、警察官に給料も払えない。だから予算の取れる事件が多発したり、それを解決すれば歓迎されるし、評価もされる。でも、パトロールを増やして犯罪発生件数を抑えたり、未然に防ぐ・・って事は、実はあまり評価されないんです。いくら防犯に力を入れても、「予算のぶん取れる取り扱い事件数」にはカウントされない、だから上からは「何ムダな事やってんだー、そんなヒマあったら泥棒の一人でも捕まえてこい」現場がこうですから若手警察官の士気も下がりますよ、そりゃ。本当は、防犯こそ警察官の大切な仕事だと思うんですけどねぇ・・・・・。路上駐車は、あまりに多すぎて、いちいち挙げていたら書類作成だけで1日終わってしまいますし、人手も足りません。なので、日を決めて1度にやります。暴走族もほぼ同じです。警察では暴走族を珍走族と言っていますが、人手不足で、暴走族にその場で対処出来るだけの人員がありません。また、検挙に出ると当然、逃げるゾクがいるんですが、そういうのを無理に追跡して相手が事故死でもした場合、「警察官の追跡に問題があったんじゃないか」などと、責任問題になる事が多く、なかなか少人数ではやりません。(たとえ逃げたゾクが信号無視で事故死しても、追いかけた警官の責任が追求される)これも、日を決めて、人員を集めて、大掛かりな一斉検挙計画でやらないと難しいようです。原付のノーヘルなどでも同じような理由で追跡に出て事故死などされたら問題になるので、なるべくやりたくない、と思っている警官も多いですよ。それよりは一時停止場所などでずっと張り込んでいて、そこに来た違反者を捕まえる方が間違いがないですよね。

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○屁理屈と理屈

 実は、屁理屈というのは正しいのです。なくてはならないものであると言い切れます。理屈は屁理屈ではありません。しかしそれは「屁理屈」という存在があるからこそ、「屁理屈ではない」と言う事が出来るのです。なぜなら、存在しないものに名前を付ける事はできませんので、屁理屈というものがこの世になければ「屁理屈」という言葉も存在しません。存在しないものに名前を付けることほど、意味のないものはありません。これにより、「屁理屈なるものがこの世に存在しているからこそ、屁理屈という言葉が存在しうる」という事がわかります。そして当然ながら「この理屈は屁理屈ではない」などという言葉を使うときも、“屁理屈”なる言葉が必要となってきます。つまり、「屁理屈ではない」と言い切れるような“理屈”は屁理屈の存在があってこそ初めてそう言えるのです。つまり、屁理屈でない理屈は屁理屈によってその存在が保証されているものであり、“屁理屈でない理屈”の前提となる屁理屈が、理屈より優れているはずなどないのです。
 私たち人間の存在は、その父や母の存在がいればこその存在です。だからこそ私たちは父母や祖先を尊びます。これは人間として当たり前の感情です。ならば屁理屈でない理屈のお世話になっている私たちが、屁理屈でない理屈の存在の前提となる屁理屈を尊ばなくても良い理由など存在しないはずです。
 近年、親不孝な若者が増えている事と、屁理屈を軽んじている人が増えている事とは無関係ではないでしょう。いつから日本人はこのように堕落してしまったのでしょうか?また理屈は屁理屈より正しいので、「屁理屈の存在は良くないもの」などとの妄言を垂れ流す輩も少なくありません。しかし、これほど無知な言動もないでしょう。例えば人を釜ゆでにしたり、針の山に突き刺したり、臼で引き潰すなどという事は正しい事ではありません。明らかに犯罪であり、良くない事です。しかし、日本人は昔から地獄というものの存在を説き、そこがその恐ろしいところであると説いてきました。これは、地獄の存在を説く事で、人々が地獄に落ちてしまうような悪業を積まないよう戒めるため、地獄の存在が必要だったのです。
 このように、本来あるべきものの状態とはまったく逆の存在を説く事で、人々をあるべき方向に向かわせようという図式があるのです。だとするならば、正しい理屈に向かわせるために、それとまったく逆の屁理屈の存在が必要になってくるはずです。
 私たちは日本人として恥ずかしくない精神的な支柱を取り戻さなければなりません。そのためには、もっと屁理屈を大切にし、感謝しなければいけないと、断言することができます。
・・・・などという屁理屈はいかが?

冴羽リョウ

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☆「拳で殴るより笑顔で成せ」 シェークスピア

孫悟空 

June 20 [Thu], 2013, 21:49

元気玉 

June 18 [Tue], 2013, 10:53


間黒男(架空の人物) 

June 10 [Mon], 2013, 8:43







本人の事を書くと「漫画になってしまう」のは、ある程度なら許容できますが、「漫画にさせられてしまう」のは、私は拒否します。ある事と無い事があるのだから、漫画に描かれているのが心と心の結びつきを考えた上でのオマージュされたノンフィクションやドキュメンタリーならば仕方がないと鑑みる事も出来ますが、架空の産物としての創造物と現実とを混同されてしまっては私自身も自分が何物なのか自分でもわからなくなってしまう。私は通信技術には長けています。そのような行動科学をわきまえているのも事実ではあるが、現実的に置き換えての今現在の状況とある意味、夢の表現とでは「ギャップ」がつきものです。本当の事は本人が一番良く分かっている事で、その周辺の人物も「そのようにも思える」というものです。つまり、「そう思える」か「そう思えない」か「そう考えられる」か「そう考えられない」かは、各自の判断に委ねられる。暗黙の了解からなる依頼に対しては直接的な事しか聞き入れないというのが現実世界での私の本当の姿です。人間関係からなる行動科学ならばドキュメンタリーとして成立し、説得力も生まれ、信憑性も高いものだが、それが出来る人と出来ない人とに分かれるものです。本当の自分が何であるのか、媒体に惑わせれてしまって自らの行動に支障をきたしている人がいるとするならば考え直す事が賢明であると考えます。とりあえず政治がらみからなるマスメディアの誘導みたいなものは腹立だしい事、この上ない。政治上どうのこうのというのは自らの道徳に反するものとしての言い訳にすぎないものだと断定する。結論的に自分は自分でしかない。免疫力「ブロリコ」



果たして中間貯蔵施設は「割れ鍋に綴じ蓋」と、成り得るのか・・・
割れ鍋には綴じ蓋だと思えばいいさ・・・
現実は子々孫々まで語り継がれていくものだ・・・
原発は何のためにあるんだ
核兵器を保有しない対価としてあるのだ
覆水盆に返らず
It's no use crying over spilt milk.

POLICY(ポリシー) 

June 05 [Wed], 2013, 9:53
ポリシー(policy)の意味は賢明な良策の事を指す。辞書ではまた違うが、私はそのように考えている。ポリシーを持っているかいないかで色々な考えは変わっていくだろう。ポリシーとは守るべきものを守ろうとする意思にもなぞらえる事が出来る。インターネットにおいて情報を出しているというのは「大切なものを守るべきポリシー」があるからに他ならない。俺にはポリシーがあるのだから、そのポリシーに反する勢力等が台頭してきた場合には徹底的に叩くという事にしている。つまり、時と場合によっては殺す。

神経症 

June 05 [Wed], 2013, 9:27
私は軽い神経症だ。

それをわきまえた上で生活するという事を余儀なくされているのだが、時と場合によっては、その神経症が過度になりうるような不測の事態に陥る事もある。その場合においては徹底抗戦するように心がけている。徹底抗戦しなければ原因究明も出来ないからだ。また、原因が究明されたところで病原を取り除けるという訳でもない。問題となっているのは今も昔も同じく「カルト」である。破壊的カルトは破壊神による一神教と同等である。カルト教団は反社会的宗教の事である。

サブカルチャーを考える上でカルトの存在は現代では欠かせないものとなっている。客観的に見て、真理に近い表現のカルトも存在する。いわば本質を突いているというものだ。しかしながらプロパガンダやマスメディアがその片棒を担いでいるというのはまぎれもない事実であり、すべてを無とする事は不可能に近い。いわばカルトの中における過激派に手を焼いているという訳だ。

「レジスタンス活動」というものがある。政府に対して抗議活動をするというものだ。私はサボタージュをするように心がけている。サボタージュとは、破壊活動の意味もあるが、「打破」に置き換えて考えている。「サボる」とは怠ける意味もあるがカルト的意味合いの先導者に対して抗議をしているという意味もある。時と場合によってはサボタージュにより粛正を行う事もある。

Secret Service

オカルトに詳しい人ってのは、語源であるデカルトの事を知ってるのかね?
デカルトがすべてではないという事はオカルトもあくまで断片的な思想にすぎないという事。
人生において一時的にでも何かに傾倒するというのは経験上、悪いという事ではないが。
過ぎたるは及ばざるがごとし。

行動科学 

June 05 [Wed], 2013, 6:44
「FBI心理分析官」「診断名サイコパス」早川書房刊

上記2冊が行動科学の礎として、日本で出版されている書籍である。
読んだ事は読んだが、読んだのみで行動科学すべてが把握できるという訳ではない。もしもそれでできるというなら、それは頭でっかち尻つぼみの考えでしかない。行動科学はある意味、非科学的な側面の多い分野である。日々、日常は移り進んでいく。その中に(範疇に)おいて、どのような行動が科学的に求められるのか、それを実際に行動で示すのが本当の意味での行動科学の分野である。もしくは行動に示さずとも、科学的に割り切って解読して先導するというような事。

斡旋するという言葉があるが、ある意味、宗教じみている。率先するというのは勝手にしているだけなのだから、ついてくる人もそうでない人もいる。率先しながら先導するというのは並大抵の事ではない。それなら何をどうしているのだという話にもなるが、端的に言うならばコントロールをしているとでも言う事になる。コントロールが定まる時もあればそうでない時もある。コントロールもパトロールもプレイヤー(主人公)からすればロールプレイングになぞらえられる。

行動科学は科学的に割り切れるものではない。なぜならば原理化を拒む分野であり、それは日々、進化し続けている。そして追いつく者も追い越す者もいるために、何よりもバランスが大切だという事にもなる。

ちょっとだけ書いてみたが、数値化されない分野が非科学的だと言うのも稚拙な考えだ。逆に数値化して割り切って解釈するという方法もあるが、それは分野の一部分を解読したにすぎない。

昔からある言葉に「第六感」というものがある。脳内の働きは医学の分野でも1割程度しか解析されていない。アーティフィッシャル・インテリジェンスは、そう簡単に断定できるというものではない。

CONTINUE 

June 05 [Wed], 2013, 5:33
ブログを終わらせてもいいと考えていたのだが、続けてみようかと思いながらキーパンチャーしているところっす。「絵は写真よりも鮮明であり、なおかつ克明だ」というゆえんについて・・・・。それは特徴を写真よりも確実に捉えているような絵の事を指すのです。視覚伝達というのか、例えば顔なら人相を本人以上に的確に捉えて描く事により、写真に納めた本人よりも生き生きとして見える、とか・・・。わからないという人は絵の力にある意味、負けているタイプが多い。しかしながら速報的には写真が勝る。媒体において出せる写真と出せない写真があると思うが、ネットにおいてはそれは関係がなく、撮影した本人もしくは撮影された者が出すか出さないかのみだ。絵は時間差なので速報としてはスケッチとなるが、そうでないとしたならば職人芸の技がいかんなく発揮された絵にはやはり視覚伝達としての力があるものとなる。抽象概念(例えば、とてつもない力の表現など)で、写真ではオーロラがすばらしいが、オーロラの絵とオーロラの写真を比べると、やはり写真の方が勝っているように感じるものだ。しかしながらオーロラを踏まえた上でその概念的なイメージを具現化させた絵は森羅万象とも言えるようなものとなり、オーロラと重なり合いながらも、それ以上の視覚伝達の効果をもたらすものだ。と、いう訳で価値観の相違というものはどのような場でもあるものだけど、互いに相乗効果をもたらしている事には間違いがない。何を言いたいのかというと、「絵は時間差だ」という事。断定するなら、漫画の事を指す。今現在、描かれているように動いているという事はないですよ。全く違う行動をしていると言っても過言ではない。そのように媒体と本人とが現在進行形として重なり合うというのは、あってなきものであるとも断定できる。俺は俺、漫画は漫画、ドラマはドラマ、映画は映画、ニュースはニュース、番組は番組、CMはCM。クリエイターは自己同一性を計る事が大切だけど、結果的には自分は自分でしかないものなのですね。それは個体という生命体一個人の事を指し、独立した形態での個体としては誰にでもある個性というものの事なのです。

鉄コン筋クリート 

May 19 [Sun], 2013, 11:07

「鉄コン筋クリート」は「コドモ警察」と同じく精神年齢・低年齢層向けです。作者は特殊捜査部の者です。何かにつけて原理として活用されがちです。乗るか乗らないかは自分次第。クロとして描かれた俺もシロとして描かれた者も、もうすでにこの原理からは降りています。「ろくでなしBLUES」は学生時代に漫画に描かれた者たちの衝突が描かれている漫画です。「池袋の葛西編」以降は作者・森田まさのりの手を離れ、地検とFBIの手により成立しています。「池袋の葛西編」以降の作画は地検/FBIに選抜された囚人の手によるものです。警察の役割を担っているのは「池袋正道館高校」に描かれている面々です。「鉄コン筋クリート」は糸井重里のプロデュースです。敵対している宝町の面々は「模範囚」です。結論づけるならば「惑星ベジータ」(農村)に生きる現代人が描かれています。「惑星フリーザ」は「封建社会」です。もしこれを読んでいる貴方が「鉄コン筋クリート」が封建的な扱いになっていると考える事ができるとするならば、意味不明として一笑に付するべきだ。ある人物を警察がシロだと判定していても大衆的にクロに思われてしまう事がある。その事が描かれているのが「鉄コン筋クリート」である。

イタチ 

May 19 [Sun], 2013, 9:48
イタチの正体は、これです。
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加賀充のあんたいとる℃II
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