和歌山紀行「興国寺・虚無僧の本山」

June 03 [Sun], 2012, 6:41
和歌山紀行興国寺虚無僧の本山虚無僧の歴史は古く、七百年以上前にさかのぼります。
法燈国師によって開かれた臨済宗法燈派興国寺和歌山県由良町は、虚無僧の本山として名高いです。
東福寺臨済宗の心地覚心12071298が、建長元年1249入宋、建長六年1258に弟子四人を連れて帰国して、紀州由良に興国寺を立てました。
興国寺の中に普化庵を建て弟子を住まわせましたが、この流れの中から京都白川に明暗寺が作られることになっていきます。
禅宗が栄えて、禅宗の中の普化宗は紀伊、伊勢、志摩を中心に末寺百四十三ヶ寺を数える関南第一禅林箱根の関より南の禅宗の寺の第一に数えられるという意味と言われました。
大門から入ると二十三坊の坊舎が左右に建ち四十六坊もあったと古い文献にあり、当時全国から多くの学僧が集まり学問の府の偉容を誇っていましたが、信長秀吉に焼かれてこれらの堂塔はことごとく消失しました。
尺八の伝統の法は、国師から高弟虚竹禅師京都明暗寺開山およびその弟子たちに受けつがれ、やがて普化宗に発展し、愛人虚無僧により全国にひろめられました。
天明六年1786の勢州亀山藩領若松三村明細帳には、岸岡村枝郷打越に京都明暗寺末として普済寺の記述が見られます若松三村とは、北若松村、南若松村、岸岡村。
また、江戸時代末の地図には、打越村江島の隣村に普化宗の寺があったことが描かれていて、山門の前には立て札が立っていたことがわかります。
家康が与えたと伝えられる虚無僧掟書のちに偽書であることが判明には、虚無僧に重要な特権が与えられています。
帯刀の許可、浪人の保護、虚無僧になれるのは武家に限る、諸国行脚の途次とじで不法者を捕らえ役人に引き渡す権限をもつ、日本国中往来自由、芝居相撲などの木戸御免、といったものです。
治安維持のための情報収集に、虚無僧が一役買ったと思われますが、秘密裏に行われることなので実態は定かではありません。
一方、虚無僧に対する制限も多かったようで、鈴鹿市肥田村に居を持つ服部庄右衛門津藤堂藩大庄屋の文書には、その立入禁止の地域を設けたりする触れ書がしばしば見えます。
通常、武士は公務以外に旅行は許されず、旅籠には宿泊をさせない定めがあって、虚無僧は全国にある虚無僧寺普済寺をたよりながら旅をしたのです。
虚無僧を統制する役所あるいは寺は、伊勢地方では桑名伝馬町に普済寺役所、岸岡村打越に普済寺がありました。
虚無僧は浪人出身の武士であり、貧しく、品行が悪い者が多くいました。
武士であるためか、村民にたいしての所業は傲慢で無礼であり、中には偽物の虚無僧も横行しました。
そして布施を求め、村に入ってはいやがらせや暴行をはたらくのでした。
そこで村は金や穀物を支払う代わりに、村に虚無僧が入らないように、虚無僧寺に一定の金や穀物を納めて取り締まりを依頼するようになりました。
それを留場料といいます。
これによって、檀家を持たない普済寺でしたが、虚無僧の面倒をみる経済的基盤を確立することができ、ひいては虚無僧寺の運営の費用が得られるようになりました。
村々が、虚無僧寺と約束をかわした証文を留場証文と呼び、村の古い文書として残されている場合があり、それが時々発見されたりします。
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