現代の日本人及び日本国政府は、朝鮮半島及び中国大陸の人間に対して無茶苦茶に甘すぎる。だから舐められてしまうのだ。

September 11 [Tue], 2012, 11:38
現代の日本人及び日本国政府は、朝鮮半島及び中国大陸の人間に対して無茶苦茶に甘すぎる。
だから舐められてしまうのだ。
先人達の血と汗の苦労を完全に無にしているのが現代の日本政府だ僅かに1000年を遡ってご覧なさい。
壱岐対馬に対する、朝鮮民族の襲撃を思い浮かべてください。
彼等は斯様に歴史的にも恩知らずの卑属千万な集団なのです。
平安時代の1019年寛仁3年には、北部高句麗の女真族満州族と見られる賊徒が高麗沿岸を下って襲いまくり、さらにわが国の対馬壱岐肥前にも現れたのです。
この時、壱岐国国司藤原理忠は、賊徒と戦い討ち死にしています。
当時の日本の政治の中心は遥かに遠い京の都でした。
従って救援と反撃が手遅れだったのでした。
一通り略奪を繰り返した後、肥前北九州に移り、そこで藤原隆家によってようやく鎮圧されたのでした。
刀伊の入寇中世近世に於いては、西欧から渡ってきた、マルコポーロがフビライに、日本は黄金の国であり、家の内外ともに金があふれてる、と解いたことが、元寇のそもそもの発端なのです。
マルコは、いい子になろうとして、元の国王フビライの心を揺さぶったのです。
とんでもない悪党です。
即刻フビライは北条時宗に使者を送り、元国の属国になるように脅しをかけてきたのです。
北条時宗は1回も返書を出すことなく、無視し握りつぶしました。
このため、フビライは、文永11年1274に、およそ兵等4万人、船900隻で日本占領に出発しました。
これが世に言う文永の役です。
当時、壱岐対馬は、松浦党の勢力下に置かれました。
この鎌倉時代、文永の役の際には元軍に占領され大きな損害を被ったのでした。
続く弘安の役では壱岐の島の戦いが勃発。
壱岐島を占領した元軍と日本軍が激戦を繰り広げ、日本軍はようやくのことで壱岐島から元軍を駆逐することに成功したのでした。
下って、江戸時代には松浦党の流れを汲む平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となったのです。
兎に角、朝鮮半島の人間、及び、中国大陸の人間には、常に油断がなりません。
この2021世紀になってもです。
ましてや、現在は、日本に永住している彼等が沢山居ります。
その中には、正真正銘の善人も僅かに居るでしょうが、概して、そうでない連中が相当居ります。
勿A彼ら本国の工作員も居るとみて間違いないでしょう。
これだけ、日本は辱めを受けていても、中国は勿フこと、朝鮮及び韓国系の人や会社と日本人が平気で行き来しているというのは、些か不思議でなりません。
私自身は、彼等との取引関係に三年ほど前から一線を敷いて、マリを続けています。
補足松浦党まつらとうは、平安時代から戦国MYコミュ 鈴木あや時代に肥前松浦地方で組織された武士団の連合。
水軍として有名。
摂津国渡辺党嵯峨源氏の流れをくむ松浦氏を惣領とし、渡辺綱わたなべのつなにはじまる渡辺氏を棟梁とする摂津の滝口武者の一族にして水軍として瀬戸内を統括した渡辺党の分派とされる。
祖の松浦久渡辺久、源久は、渡辺綱源綱の子の奈古屋授渡辺授、源授の子とされ、松浦郡宇野御厨の荘官検校けんぎょうとなり、松浦郡に所領を持ち松浦の苗字を名のる。
一族は、それぞれの拠湯nの地名を苗字とし、一族の結合体を松浦党という。
党的結合体であるから中心となる氏の強い統制によるものではなく、同盟的なものであったといえる。
その中から指導力と勢力のある氏が、松浦党の惣領となった。
東国御家人との確執本流の摂津の渡辺党は摂津源氏の源頼政一族の配下にあったが、肥前の松浦党は平家の家人であり、源平合戦においては当初は平家方の水軍であった。
しかし、壇浦の戦いでは源家方につき、源家方の勝利に大きく貢献したことから、その功により、鎌倉幕府の西国御家人となり、また九州北部の地頭職に任じられる。
しかしながら同じ環境にあった秋月氏や蒲池氏、菊池氏などと同じく、元平家家人の九州御家人を信頼していない源頼朝が送り込んだ少弐氏、島津氏、大友氏などの下り衆の下に置かれることになる。
特に13世紀の元寇の時には佐志氏や山代氏をはじめ活躍したことで知られ、肥前国松浦郡で蒙古軍と戦った佐志房と三人の息子の直留勇は揃って戦死し、松浦党数百人が討たれ、あるいは生け捕りにされ、松浦は壱岐や対馬同様に蒙古軍に蹂躙されたという。
松浦氏と安倍氏松浦党には、嵯峨源氏渡辺党松浦氏系のものが大半だが、一部に奥州安倍氏の生き残りで、源義家に敗れ宗像むなかたの筑前大島に流された安倍宗任の子孫の安倍宗任系のものがある。
松浦党の系図は30種ほどもあり、その系譜については異同が多く、不明な唐熄ュなくないとされる。
戦国大名から平戸藩主へ斯くして、松浦党は、居住する地域によって上松浦党と下松浦党とに大別された。
上松浦党は、松浦久以来の松浦地方の岸岳城を中心に大きな勢力を誇ったが、その最大勢力である波多氏は、戦国時代をへて滅亡してしまった。
下松浦党の傍系である平戸松浦氏は、戦国大名として成長し、関ヶ原の戦い以降、旧領を安堵されて平戸藩6万3千石の外様大名として存続した。
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