信長公記200.オマケ/爺のおうち
January 29 [Sat], 2011, 9:36
おはようございます。
ナゼか・・・昨日試してみたら、お写真があっぷろぉどできるようになっておりました。
何もイジッテないのに、なんでじゃ?
せっかく復帰できたのに、かくゆう私めが中華人民共和国に転勤となってしまい、別の意味で継続が(当面)不可能と相成ってしまいました。
姉川の合戦は、しばらくお預け!として、今日はヤング信長公の守役で、1553年に切腹して果てた「爺」平手政秀さんのお屋敷跡をご紹介したいと思います。
「爺」平手政秀さんについては、信長公記14.平手政秀、切腹!をご覧くださりませ。

↑ 爺のお屋敷は、(現)名古屋城の北2km弱ほどの場所にある志賀公園となっております。
ホンモノ信長公記では、ヤング信長公に付けられた家老は4人。
林秀貞さん、平手政秀さん、青山与三右衛門(よそうえもん)さん、内藤勝介(しょうすけ)さんが、その4名であったと書かれています。
が、青山さんは信秀パパの稲葉山城攻めの折に戦死してますし、内藤さんは「あしがる衆」との記述があるため、実際は林さんと平手さんの2名のみが、ヤング信長公の付け家老であったと思われまする。

↑ 公園の中を探検してゆくと・・・

↑ おぉ! ありましたぞ!
信秀パパの時代、京都のお公家さんや連歌師さんたちは、おカネを稼ぐために戦乱の京を離れ、地方の大名を頼ってドサ廻りをするのが常でした。
山科言継さんなどが尾張を訪れた際、まず織田弾正忠家(当時は信秀パパ)の家老である平手政秀邸にて接待されたそうです。
たかが(失礼!)地方豪族の家老の屋敷なのに、京でもめったにないような立派さに驚いた、と日記に書かれています。

↑ 信秀パパは尾張で実力随一でしたが、立場的には尾張の南半分を支配する清洲織田家の家老に過ぎませんでした。
平手さんは、更にその彼の家老だったのですから、信秀パパの財力に言継さんご一行はショックをうけたのでしょうな。

↑ 今ではこの石碑が残るだけですが、この公園がほぼ屋敷跡だったとすると、やはり広大なお屋敷だったのでしょうなぁ。

↑ 石柱には「平天」の文字が。
愛知県在住のご子孫の家には、「平天後改め平手家牒譜」とゆう文書が伝わっているそうですが、当時の「ひらて」は「平天」と書いた?

↑ 「爺」平手政秀さんは、信長公が建立した政秀寺(せいしゅうじ)さんに眠っておるのですが、思わず石碑に手を合わせてしまいました。

↑ 信長公が人目をはばからず大泣きしたのは生涯に3度ありますが、その内1回目が「爺」の切腹した時、3回目は「爺」の3男とも孫とも伝わる平手汎秀(ひろひで)くんが三方が原で戦死した時です。
よほど平手家に思い入れがあったんでしょうねぇ。
自分の家老のはずの林秀貞さんや、実の母・土田御前までもが敵に廻る状況で、ヤング信長公の唯一の味方が「爺」だったんですから、ムリもないか。
「自分が苦しい時に敵対したヤツは絶対許さん!」とゆう信長公の執念深さは有名ですが、反対にそうゆう時に味方してくれた人への恩義も絶対忘れない人物だった、とも言えるんじゃないでしょうか。
まぁ、秀吉→家康と時代が続くにつれて、時の権力者を誉めるために、信長公の狂気や執念深さが誇張されてきた側面もありやすので、その辺は公平にみてあげないと、ね。

↑ 権力者の交代があっても、こうして(徳川家にとって)前々代の遺跡を大切にするなんて、やっぱり日本はいい国なんだなぁ。
ナゼか・・・昨日試してみたら、お写真があっぷろぉどできるようになっておりました。
何もイジッテないのに、なんでじゃ?

せっかく復帰できたのに、かくゆう私めが中華人民共和国に転勤となってしまい、別の意味で継続が(当面)不可能と相成ってしまいました。

姉川の合戦は、しばらくお預け!として、今日はヤング信長公の守役で、1553年に切腹して果てた「爺」平手政秀さんのお屋敷跡をご紹介したいと思います。
「爺」平手政秀さんについては、信長公記14.平手政秀、切腹!をご覧くださりませ。

↑ 爺のお屋敷は、(現)名古屋城の北2km弱ほどの場所にある志賀公園となっております。
ホンモノ信長公記では、ヤング信長公に付けられた家老は4人。
林秀貞さん、平手政秀さん、青山与三右衛門(よそうえもん)さん、内藤勝介(しょうすけ)さんが、その4名であったと書かれています。
が、青山さんは信秀パパの稲葉山城攻めの折に戦死してますし、内藤さんは「あしがる衆」との記述があるため、実際は林さんと平手さんの2名のみが、ヤング信長公の付け家老であったと思われまする。

↑ 公園の中を探検してゆくと・・・

↑ おぉ! ありましたぞ!
信秀パパの時代、京都のお公家さんや連歌師さんたちは、おカネを稼ぐために戦乱の京を離れ、地方の大名を頼ってドサ廻りをするのが常でした。
山科言継さんなどが尾張を訪れた際、まず織田弾正忠家(当時は信秀パパ)の家老である平手政秀邸にて接待されたそうです。
たかが(失礼!)地方豪族の家老の屋敷なのに、京でもめったにないような立派さに驚いた、と日記に書かれています。

↑ 信秀パパは尾張で実力随一でしたが、立場的には尾張の南半分を支配する清洲織田家の家老に過ぎませんでした。
平手さんは、更にその彼の家老だったのですから、信秀パパの財力に言継さんご一行はショックをうけたのでしょうな。

↑ 今ではこの石碑が残るだけですが、この公園がほぼ屋敷跡だったとすると、やはり広大なお屋敷だったのでしょうなぁ。

↑ 石柱には「平天」の文字が。
愛知県在住のご子孫の家には、「平天後改め平手家牒譜」とゆう文書が伝わっているそうですが、当時の「ひらて」は「平天」と書いた?

↑ 「爺」平手政秀さんは、信長公が建立した政秀寺(せいしゅうじ)さんに眠っておるのですが、思わず石碑に手を合わせてしまいました。

↑ 信長公が人目をはばからず大泣きしたのは生涯に3度ありますが、その内1回目が「爺」の切腹した時、3回目は「爺」の3男とも孫とも伝わる平手汎秀(ひろひで)くんが三方が原で戦死した時です。
よほど平手家に思い入れがあったんでしょうねぇ。
自分の家老のはずの林秀貞さんや、実の母・土田御前までもが敵に廻る状況で、ヤング信長公の唯一の味方が「爺」だったんですから、ムリもないか。
「自分が苦しい時に敵対したヤツは絶対許さん!」とゆう信長公の執念深さは有名ですが、反対にそうゆう時に味方してくれた人への恩義も絶対忘れない人物だった、とも言えるんじゃないでしょうか。
まぁ、秀吉→家康と時代が続くにつれて、時の権力者を誉めるために、信長公の狂気や執念深さが誇張されてきた側面もありやすので、その辺は公平にみてあげないと、ね。

↑ 権力者の交代があっても、こうして(徳川家にとって)前々代の遺跡を大切にするなんて、やっぱり日本はいい国なんだなぁ。
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