真田戦記1.第1次上田合戦@徳川と断交!の巻

September 24 [Thu], 2009, 6:48
 おはようございます。
 この連休は如何お過ごしでしたでしょうか?

 私は久しぶりに故郷・上田市に行ってまいりました。
 上田、と来れば・・・・上田城と郷土の英雄・真田氏をご紹介しないわけにはいかないでしょう。
 で、「真田」と言えば 「幸村(信繁)」さんなんですが、真田氏の名声を叩き出したのは、ほとんどが幸村さんのパパ・昌幸でした。



 ↑ 昌幸パパです。
 1585年、1600年と2度にわたって上田に押し寄せた徳川家の大軍を撃退したことで有名ですよね。

 昌幸パパは、小さい頃から武田信玄さんに仕え、信玄スクールの優等生でした。
 「プチ信玄」のいっちょ上がりぃ!ですな。
 しかし、彼の「信玄譲りの策士振り」は、主に合戦の時の戦術や外交交渉に発揮され、暗殺だとか毒殺だとか、そのテの陰惨な行動は取らなかったようです。
 その点が、暗殺の繰り返しでのし上がった宇喜多直家さんや、主家を乗っ取り、大仏殿を焼き、将軍家を殺した「極悪人」松永”弾正”久秀さんなどと決定的に違うところじゃないでしょうか。
 クラいイメージはないですね。
 しかし、どうも最近の大河ドラマ「天地人」では、真田昌幸パパは「小悪党」キャラになっているようですねェ。

 上杉、北条、徳川、と周囲を大国に囲まれ、アッチに付いたりコッチに付いたりしたのがたたって、当時から「表裏比興(ひょうりひっきょう)の者」と言われちゃいました。
 そう言ったのは豊臣秀吉さんですが、「ウラオモテがあって信用ならないヤツ」みたいな意味でしょうか。
 でも・・・こうして右往左往しなけりゃならなかったのは、小国の大名の宿命で、別に真田氏だけがそうだったわけじゃないんです。
 昌幸パパの場合は、本能寺の変で日本の政界が激変した時に、短期間で外交方針をコロコロ変えたために、そんなありがたくない名を頂戴したようですのぅ。

 さて、上田合戦ですが、ここではまず1585年の「第1次上田合戦」を見てみましょう。
 真田氏と言うと「真田郷が発祥の地で、上田の領主」ってイメージ。
 長野県の大名だと思ってらっしゃる方も多いと思いますが、実は群馬県の沼田市辺りまでが領地でした。
 つまり、長野と群馬にまたがった領地の大名なんです。

 「本能寺の変」で信長公が亡くなると、長野県、山梨県の織田領は支配の歴史が浅いこともあって、簡単に崩壊しちゃいました。
 なにしろ、武田家を滅ぼして長野・山梨に織田軍が進駐して1年もたっていない時期のことです。
 滝川一益さんとか森長可さんとかは旧領(三重県や岐阜県)に逃げ帰っちゃうし、川尻秀隆さんなんかは逃げ遅れて国人一揆に殺されちゃう始末です。
 そこに、いそいそと軍を進めて来たのは北条家と徳川家でした。
 徳川家と北条家との領地争奪戦争の始まりです。

 北条家は、「群馬県はオレのもの」と思っていますから、当然のこと群馬県内にある真田家の領地が目ざわりです。
 で、昌幸パパ、最初のうちは「北条家に従います。」と、なるべく衝突を避けてました。
 しかし、エラそうな北条家の態度には正直アタマに来てたし、真田家の沼田領(群馬県)や吾妻領(これも群馬県)という火ダネは抱えたまま。
 そこで今度は、南信州に進駐して来た徳川家に注目します。

 「どうも、徳川と組んだ方が良さそうだな。」

 で、北条とは国交断絶、宣戦布告しちゃったんですな。
 ところが、しばらくたつと徳川と北条が休戦、平和条約を結んじゃったからエラいことに。
 徳川家康さんが言うには、

 「この度、長野県=徳川領、群馬県=北条領ということで、北条家と合意した。 よって沼田・吾妻領は北条に引き渡すように。 代替え地は徳川が与えよう。」

 こりを聞いて昌幸パパはキレました。

 「ワシの領地を承認・保護してくれる(当時の言い方では「安堵する」)、と言うから徳川に従ったのに、何つー言い草! 沼田・吾妻領は自分の力で切り取った我が領土。 北条にくれてやる筋合いはない。 それに、代替え地と言うが、どこの土地かハッキリ言わないのは不誠実ではないか! もういい! ワシは上杉を頼ることにする!」

 今度は家康さんがキレました。

 「木っ端大名のくせに態度がデカい。 ワシを誰だと思っておる! ええいっ、討伐してくれるわっ!」

 こうして、徳川軍7,000人が上田に押し寄せることになっちまいました。
 哀れ、幸村(信繁)くんは上杉家への人質に出されちゃいます。
 そりゃそうですよね。
 真田家は今まで武田方として上杉家に楯突いてきたんですから、口先だけで「お味方に」ってワケにゃいきません。

 こうして、幸村(信繁)くんの永〜い人質人生が始まるわけです。
 最初は上杉家へ。
 で、おうちに帰れるかと思ったら、今度は豊臣秀吉さんの元へタライ廻し。
 ようやく真田幸村(真田信繁)個人として歴史の舞台に登場した時には、昌幸パパは既に亡く、太閤さんも既に亡く、豊臣家が家康さんに滅ぼされる「大坂の陣」が始まろうとしていたのです。
 戦国の最後の大舞台にゃぁ間に合ったわけですな。
 そして、この「大坂の陣」にて、最初で最後の活躍を見せ、歴史に名を残すことになるんです。
 ま、そりはまだまだ先のお話。

 当時の北信濃に於ける徳川軍の拠点は、小諸にありました。
 う〜む。
 小諸城祉にも行かにゃなりませんのぅ、いつかは。
 で、軍勢を整えた徳川軍は、現在の国道18号線を東から攻め寄せて来ました。
 徳川軍は総勢7,000人。
 そりに対する昌幸パパの軍勢は、わずかに1,200人であったと云います。
 (実は応援の上杉勢が既に到着しており、昌幸パパの兵は額面どおりには受け取れない、とゆう説もございます。)
 当然、徳川軍は真田勢をナメきっちょりますな。
 着陣した後、早速降伏勧告の使者を送りました。



 ↑ 徳川軍が陣を張った、国分寺跡。
 上田市の東側、千曲川沿いにあります。
 現在は公園に。

 わたしゃジモピーなんで、ココにも少々思い出がございます。
 国分寺跡の発掘調査がおこなわれている間、草むしりのボランティアに駆り出されたんですな。
 夏休み中の早朝だった気がします。
 チャリンコ漕いで通ったっけなぁ。
 確か、中学生の頃だったか・・・。
 あん時にコッソリ現場に忍び入り、ヨロイカブトのひとつも掘り出してりゃ・・・。
 (んなもん、出て来るかぃっ!)
 言うても詮無いコトですが。





 ↑ 現在の国分寺は、国道18号線を挟んで東北方向にズレてますが、健在です。



 ↑ 現・国分寺内に建つ三重の塔。
 室町時代の作です。

 昌幸パパは、最初はしおらしく従うフリをし、使者を帰しました。
 こりが昌幸パパのいつものテなんですな。
 で、翌日には掌を返したように徹底抗戦を宣言いたします。
 田舎大名にダマされた、と悟った徳川軍は怒り狂って押し寄せてまいりました。

 実は、
 「コイツらを上田城下に引きずり込んで、徹底的に叩いてやろう。」
 ちゅうのが、昌幸パパの戦略だったワケ。
 長男・信幸くんを砥石城(神川上流の真田郷)、イトコの矢沢頼康さんを矢沢城に配置して、自分は上田城本丸に籠り、準備は万端でございます。

 

 ↑ 居館跡です。
 真田氏→仙石氏→真田氏→松平氏、と代々の領主が住みました。 現在は、と言っても明治以降ですが、我が母校・県立上田高校です。



 ↑ もちろん、この内の校舎は鉄筋コンクリートなんですが・・・城門と塀と、ご丁寧にお堀まである学校って、ちょっと珍しくないですか?



 この居館は、三の丸にあるので、燃えてしまうのは覚悟の上。
 で、昌幸パパは本丸に移ったんでしょうね。
 上田高校(三の丸)から大手道に出て本丸の方を見ると、こんな風。 ↓



 へへへ。 攻め易そうでしょ?
 でも昌幸パパは、この道をもっと狭く、曲がりくねって、クランク状にしたり、袋小路を作ったりして、攻めにくく逃げにくいようにしておきました。
 上田城って、大手から(現・上田市街地から)は、割と平坦で平城みたいなんですよね。
 じゃあ、搦め手(裏口)側は?



 ↑ こんなカンジなんですね。
 今でこそ写真のとおり駐車場&公園ですが、当時はこの下まで千曲川が迫っていました。
 天然のお堀ってわけです。
 ご存じのとおり、上田市は盆地なので、一番底の千曲川までゆるやかに傾斜してるんですが、この上田城の部分だけは段差が大きく、崖になってるんですね。

 さあ、迎撃の準備は整いました。
 いよいよ開戦です。

 ( 続く )

真田戦記2.第1次上田合戦A罠の完成、の巻

September 25 [Fri], 2009, 6:50
 さてさて、圧倒的な人数差を自覚している徳川軍は、負けるなどとは露ほどにも思っておりません。
 「こんな小城で(真田は)あの人数だら。 一日で落とせるじゃん。」(三河弁)
 昌幸パパの繰り出した、オトリ部隊に簡単に引っ掛かりました。

 少人数でヒョロヒョロと矢を射ては逃げ出して行くオトリ部隊の跡を追って、ついに徳川軍は上田市街地(当然ながら、当時は「市」じゃないですけど)に踏み込みました。
 ほとんど抵抗なし。
 簡単に上田城三の丸までも侵入できちゃったんですね、これが。



 ↑ くどいようですが、、当時はこんなまっすぐで広い道じゃないですよ。
 ここで図に乗るな、と言う方が無理ですよね。
 当時のサムライにとって、手柄功名は人生目的ですもん。
 「一番槍」の名乗りははワシのもんじゃあ!ってか?
 二の丸の寸前まで簡単に来れちゃった時点で、あり?と気付くべきだったんですな。

 このいくさには大久保党の平助くんも従軍しちょりました。
 平助くんて誰?などと問うなかれ。
 「三河物語」の作者、のちの大久保彦左衛門さんのことです。
 お兄ちゃんの大久保忠世さんが、主将の一人だったんで、くっついて来たんでしょう。

 彦左衛門さんとゆうと・・・ゴム紐のメガネをかけて大タライに乗って来るお爺ちゃんのイメージが強いんですが(どんなイメージじゃ!?)。
 バカにしちゃいけませんぞ。
 文武両道に秀でた、将来有望な三河武士だったのです。
 彦左衛門さんも、この当時は15歳。
 てぇことは、桶狭間の年にお生まれになったんですな。
 徳川家の譜代の中でも、大久保家は最も古い方に属しちょりまして、卓越した人材は輩出しませんでしたが、一族の数が多く、結束が強い。
 まぁ、今の国会ではありませんが、「数は力」ちゅうのはこの頃でも真実だったワケですな。
 そん中で、「このコは将来、大久保の名を後世に・・・。」と期待されたそうなんで、逸材と見做されてたんでしょう。



 ↑ 現在の二の丸入口。
 二の丸と三の丸の間には、結構深い空堀が切ってあります。
 左を見下ろすと、



 ↑ 下を歩いちょる人が、こんなふうに見えます。
 今は遊歩道になっるんですのぅ。
 昔はココに血まみれの武者たちが・・・いやいや。

 ↓ 右を見下ろすと、



 ね? 深いでしょ?
 私が小さい頃は、この底を電車が走ってました。
 確か・・・丸子電鉄、だったかな?
 電車が走ってた、ということでお分かりのとおり、この二の丸の入口は土橋じゃないんです。
 土橋、というのは堀を切る時に、その部分だけを残して掘る、つまり半永久的な橋です。
 大抵のお城は、大手口(正面玄関口)はこの土橋で、搦め手口(裏口)はいつでも焼き落とせるように木橋でした。
 ここも今でこそ石橋?コンクリート橋?ですが、当時は木橋だったはず。
 つまり、本格的な防御装置があるのは二の丸から先で、三の丸までは侵入できて当然。
 そういう設計のお城だ、ってことに気付くべきだったんですね。



 ↑ 今でこそ立派な石垣がある二の丸口ですが、当時は土塁を描き上げただけの「掻き上げの城」です。
 「空掘からよじ登れさえすりゃぁ・・。」と見えたんでしょうね。
 他の攻め口を探そうにも、南側はこんなだし。↓







 まあ、こりは自分が千曲川のお魚になったつもりで、西の端から東側(徳川軍が攻めてる方角)を眺めた連続写真、とでも思ってください。
 この断崖は、上田高校のグラウンドまで続きます。
 (今考えてみると、私らは曲輪の跡で野球やったりサッカーやったりしてたわけですな)
 もう、さっきの二の丸口に集中して攻めかかるしかないんですね。
 そんな状況を前にして、軍記ものによると、昌幸パパは素知らぬ顔で碁を打っていた、とか。
 いやいや、「名将」を演出するのも大変ですのぅ。

 「敵方が二の丸の土塁に取り付き、登り始めましたっ!」
 という報告を受けて、昌幸パパはやっと腰をあげます。

 「それでは、三河の衆にチト馳走いたそうかのぅ。」

 ( またまた続く )

真田戦記3.第1次上田合戦B反撃!真田軍、の巻

September 28 [Mon], 2009, 6:58
 おはようございます。
 
 第1次上田合戦のエセ戦記・第3弾でございます。
 そりでは、上田城内に侵入してみましょう。



 ↑ 現在の、二の丸 → 本丸への城門です。

 私が住んでる頃には(もちろん上田市に、ですよ? 上田城に住んでたわけじゃないです。)、この城門は無かったんですよね。
 当然、パチもんです。
 パチもんではありますが、・・こういうの、何て言うんでしたっけ?
 多聞櫓門?
 城門の形式の中では、一番防備が固いんですよね。



 ↑ 右手を見下ろすとお堀。
 冬場には、このお堀でスケートをしたっけなぁ。
 いや、させられたのか?
 まぁ、今では温暖化のせいか、こにょお堀が凍ることもないようですが。



 この城門に徳川兵が取りついた時、昌幸パパは号令を下します。

 「丸太を切って落とせッ!」





 ↑ 現在の本丸城門の右脇の石垣には、こんなもんが。

 さあ、密集してるとこに丸太を落とされ、矢で射られ、鉄砲で撃たれ、徳川軍は大混乱。
 その中に昌幸パパは城門を開き、討って出ます。
 一瞬にして形勢逆転!

 私は前々回、真田勢はかき集めても1,200人余り、と書きましたが、一説によると上田の領民数百人が加勢して、幟を持って「擬兵(見せかけの人数)」となったり、印字撃ち(石を投げること)ナ援護射撃したりしたらしいです。
 上杉家からの援軍がいた、とも言われていますね。
 徳川軍は遂に入れませんでしたが、本丸内も覗いてみましょう。



 ↑ 入ると正面に「真田神社」があります。
 皆さん、お参りしてますね。
 振り返ると、城門両脇の櫓が間近に。

 実はこの櫓たちにも苦難の歴史があるのです。
 明治維新の後、お城が破却されると、この櫓も移築・売却されちまったんですが・・・その買取先がにゃんと遊郭だったんですと。
 で、買い戻されるまで遊女たちのお宿、ハッキリゆうと売春宿にされちまったんですな。





 ↑ こっちの櫓は公開されてて、中に入れます。
 (本日は歴史に興味のない人間と一緒だったので、入場する提案はアッサリ却下! ちっ。





 ↑ 本丸の右半分(北側)は、一段小高くなってます。
 昔はここに茶店というかお団子屋さんというか、があったのですが・・・。
 でも、おそらくこちら側が昌幸パパの屋形だったのでしょう。

 合戦のお話しに戻りますと、統制を失った徳川軍は雪崩をうって逃げ出し・・いや、退却し始めました。

 ( 尺が長くなるので、またまた続く )



真田戦記4.第1次上田戦記C徳川勢敗退!の巻

September 29 [Tue], 2009, 6:25
 おはようございます。
 今週は「信長公記」美濃侵攻を予定しておりましたが、天候が思わしくなく、攻撃開始が遅れております。
 早く晴れてくれ〜ッ!
 
 ・・・そんでは引き続き上田城編をどうぞ。

 

 ↑ 本丸の土塁の上をちょっと歩いてみました。
 なんでも、発掘調査の一環でこにょ辺りのお堀の底を浚ったら、金箔押しの瓦が出て来たとか。
 こにょ合戦の後、真田家と豊臣家は急接近するんですが、北信濃〜北関東の押さえとして天守閣建造を太閤さんに許され、その天守には金箔押しの瓦があったのでは、との説が出て来てるんだそうです。
 へ〜え。
 強いけどジミなお城だと思ってたら・・・。
 「安土桃山」風のきらびやかな天守がねぇ・・・。





 ↑ しかし、このお堀も「澱み」が一層深まってきたような・・・。
 私がいない間に、カッパが住みついてるかも。

 徳川軍団には、「真田は少人数だから、みんなして本丸に籠っているんだろう。」という思い込みがあり、攻城戦の常識である包囲網を作らなかったようです。
 記録を読むと、一気に全軍で、しかも大手から攻めかけたカンジ。
 アホ。
 そこを昌幸パパに付け込まれたんですね。



 ↑ 昌幸パパ着用の甲冑。 (この時着てたか、は定かでない。)

 昌幸パパが追撃に移ると、あちこちから真田兵が湧きでて来ます。
 (ウジ虫みたいに言うなっ! あ、この場合サナダ虫か? あはは。)
 徳川兵は、攻める時も苦労した昌幸メイズに引っ掛かり、思うように逃げられません。
 そこを一斉攻撃。
 徳川勢は、バタバタとヤラれていきました。

 やっと悪夢の市街地から抜け出たかと思うと、今度は砥石城から真田信幸軍が攻めかかって来ます。
 上田市の東を流れる神川まで追い詰められ、次々と討たれ、また溺死する者も多かった、と言いますから本陣を敷いた国分寺でも踏み止まれなかったんですね。



 ↑ 恨みの神川。

 もう大混乱。
 ホンモノの「三河物語」によると、真田側も混乱してたらしく、「上杉から援軍が来たぁ。」とカン違いして徳川軍の中に入りり込み、途中で気づいて慌てて逃げ出す者もいた、とか。

 ところでこの徳川軍、記録を見ても誰が総大将だったのか書かれていません。
 大久保忠世さん(「大久保党」の棟梁格で、後の小田原城主。)、鳥居元忠さん(後の関ヶ原の前哨戦に於いて、伏見城で討ち死に。)、平岩親吉さん(後に徳川義直のお守役になり、尾張徳川家に勤務。)、といったほぼ同格の三河の武将たちが、信濃や山梨の兵たちを率いていたので、お互いの連携がうまくいかなかったのではないか、と思います。
 まぁ、同格の武将同士の反目もあったんでしょうな。

 徳川方の死傷者は千数百人、真田方の死者はわずか40人というからオドロキ。
 その後、徳川軍は真田方の丸子城を攻め落とそうとしましたが、これも失敗。
 ふふふ、そんなに甘くないぜ。
 失地回復ならず。

 同盟相手の北条氏政さんに対し、メンツ丸つぶれの徳川家康さんは、更なる援軍派遣を行います。
 もう、こうなったら意地ですな。
 いよいよ再決戦か!?という時になって・・・・・・・なぜか徳川軍は信濃から一斉に撤退していきました。
 実は、ホンモノの戦闘とは別に、昌幸パパは必死に政治的戦いも行っていたのです。

 この頃になると、上杉さんと豊臣秀吉さんは一体なので、上杉家を通して秀吉さんに「何とかしてくれよッ!」と頼み続けていたんですね。
 秀吉さんも、前年の「小牧長久手の戦い」で家康さんにミソをつけられているので、直接は仕掛けませんでしたが、徳川に調略の手をのばします。
 その結果、西の石川(岡崎城)・東の酒井(豊橋・吉田城)とまで言われた重臣、石川数正(いしかわかずます)さんが徳川を見限り、岡崎から秀吉さんの元に脱走しちゃったんです。
 もう、徳川の機密は筒抜けですな。
 家康さんも、上田城どこの話じゃなくなっちゃいました。

 やったね、昌幸パパ! これでめでたく終戦と相成ったワケです。



 ↑ 嗚呼、神川に日は暮れて。

 「強大な相手を倒したわけじゃないけど、局地戦を有利に進めたまま終戦。」という、まるで後の日露戦争みたいな戦でした。
 これ以降、妖刀村正か真田のジジイか、というくらいニガテなものとして、昌幸パパは徳川に祟り続けることになります。
 「アノ徳川を破った男」として、真田昌幸の名は全国に知れ渡ることになりました。
 ヨカッタネ、昌幸パパ。

 (オマケ)



 ↑ 上田市にある、我が家の菩提寺、いや菩提教会? 聖ミカエル及び諸天使教会です。
 え? キリスト教会に見えない?
 そんでも、我が家とは、3世代、いや4世代か?に渡っておつきあい頂いておる教会でございます。
 なんでも、同様の和風建築教会堂が奈良にあるそうで、こりは模倣建築されたんだそうな。
 大正時代?
 昭和初期?
 今考えると、ちゃんと調べたことなかったなぁ。



 ↑ でも、ほらほら、ちゃんと十字架あるし・・・。
 
 ↓ 内部もちゃんと「教会」でしょ?



 私の祖母は明治生まれで、かなり気丈な方でした(らしい)。
 戦前から敗戦に至るまでの「鬼畜米英」ムードの真っ最中に、特高警察につけまわされ、イヤがらせされながらも、頑として教会通いをやめなかった、とか。
 まぁ、当時は「キリスト教」とゆうと危険思想の一種でしたからねぇ。
 武勇談ですのぅ。
 戦国史でゆうと、高山右近タイプの人だったんでしょうか。
 しかし、その孫ときたら・・・。
 いやいやいや。 こんな孫で申し訳ござりませぬ。

 なんちゃって。

 注)

 井伊達夫氏によると、ホンモノの甲冑でも竹刀で叩いただけで凹んでしまうらしいです。
 だから、現在残っている甲冑でキレイなヤツは、凱旋パレード用とか、「替え」の甲冑がほとんどだそうです。
プロフィール
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    ・旅行-史跡巡り&食い倒れツアーならお任せ!
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 え〜、皆さまのブログに無責任にお邪魔するばかりでは申し訳ない、などと殊勝な理由でブログを立ち上げるものであります。 ・・・・(後が続かない)
 とにかく、日本の歴史(鎌倉以降ならオッケー)大好きで、史跡巡り実行中。 音楽、イラスト、読書、映画、なども趣味。 極真空手門下生なれど、只今長期サボり中(まあ・・いわゆる、ヘタレです)。 名古屋市在住。
 プロフィールに貼り付けた私のイラスト・・・かわいくないですね(T_T)
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