信長公記43.織田家臣団の編成B森可成、坂井政尚、滝川一益
November 09 [Mon], 2009, 7:25
お次は「金山城落居せしめ候」編でお城訪問した森可成さん。

この人も馬廻り衆出身で、既に見て来たように1565年、金山城を預けられて東濃の束ね役を兼ね、東美濃衆を率いる一軍の将となり、「部将」に昇格いたしました。
信長公は、自分が裏表の多い性格のせいか
、竹を割ったような性格の武辺モノが大好きなんです。
若くして散った蘭丸くんは、のちの石田三成さんみたいに吏僚のお仕事中心でしたが、可成パパや長可お兄ちゃんは、絵に描いたような「武辺モノ」でしたもんね。

↑ 森家の家紋、鶴丸紋。
森さんは木曽川沿いの地(ほとんど美濃?)の出身なんですが、早くから信長公に仕え、「信長公記4.稲生ヶ原の合戦」なんかにも名前が出て来ています。
その後の桶狭間にも美濃侵攻作戦にも名前が出てくるし、もうほとんど譜代衆ですな。
さてさて、滝川一益さんをご紹介する前にもう一人。
その名を坂井政尚さんと申します。
この人については・・・・あまり詳しいことは分かっておりません。
ただ、美濃の出身らしいこと、この頃まではワリと森さんとカップリングでお勤めしてたらしいことが推測されます。
(神社の安堵状なんかも森さんと連名で発行されてますし。)
森さんと仲が良かったのか? 敵意むき出しのライバルだったのか?
森さんが金山城をいただいた頃に、、この人は明智城をもらった、とか。
はて?
とにかく、この人も上洛戦の頃には一軍を率いる部将であったことが分かっちょります。
上洛後も、行政チームに名前が見えますし。
しかしこの坂井さんは、長男は姉川で亡くなり、ご本人が1571年の堅田の戦いで討ち死に、一族は武田勝頼軍の明智城攻めでほぼ全滅、最後に残った次男も本能寺の変で戦死と、とても不運なお方なので伝承がほとんどナッシングなのだ。
合掌!
でも、1569年現在はお元気ですぞぅ。
お待たせいたしました。
甲賀の忍び上がり
の部将、滝川一益さんでございます。


↑ 滝川家の家紋は、「丸に竪木瓜」紋。
この人は、滋賀県甲賀の出身。
だけど、「忍者だった。」というのは、どうも間違いみたいですのぅ。
「忍者出身の武将」の方が、ロマンがあっていいんですけども・・・。
滝川さんは、1567年になって初めて軍事作戦に名前が出て来ます。
(織田家における滝川一益さんの存在自体は、後で書きますが清州城時代から証明されちょります。)
稲葉山城が落ちるのが確実となったこの年、信長公は彼を北伊勢攻略(調略)に派遣しました。
・・・いやいや、余裕が出て来たじゃん、信長公。
まだ美濃も獲ってないのにねぇ。
一益さんは、尾張の蟹江城を拠点にして調略作戦を開始しました。
(愛知県蟹江町は、ホントに三重県との国境近くにあります。)

↑ やはり蟹江城も平城だったので、住宅開発のエジキに。

↑ あと残っているのは、本丸井戸ぐらいです。
悲しいな。

↑ 城跡のすぐ西には蟹江川が流れています。
多分、この川をお堀として取り込んだ縄張りだったのでは・・・。
ま、シロート考えなんで、根拠はないですけど。
滝川一益さんは甲賀の出身だけあり、ツテがあったのか、1567年の内に桑名郡(現・桑名市)と員弁(いなべ)郡の2郡を味方につけてしまっています。
稲葉山城陥落とほぼッ時期ですね。
スゴ腕!
さすが元忍者!と、言いたいが言えない!
まぁ、甲賀武士ちゅうのは滋賀の六角家の家臣団なんですね。
で、六角家が北伊勢に勢力を伸ばしていたこともあり、知り合いなんかもいたんでしょうか。
・・・勝手知ったる他人の家?
ところで、彼の活躍の証拠として、この時彼が発行した禁制書(まあ、法令の布告書ですな)が、桑名市の大福田寺に残されているそうです。

↑ 大福田寺・三門。
今ではそれほど大きなお寺ではありませんが、歴史も古く、寺領もかつては広大だった、とか。

↑ 今では、44ヶ所巡礼の第1巡礼所だそうです。

↑ 大福田寺・本堂です。
この手柄をきっかけとして、伊勢攻略の先鋒は滝川一益さん、ということになり、伊勢衆、特に北伊勢衆のまとめ役になります。
立派な「部将」に昇格ですな。
北伊勢は小豪族が乱立している状態だったので、たいした合戦には及ばず、比較的スムーズにいったみたい。
しかし!
桑名と蟹江の間にあるのは?
そう。 一向宗徒が支配する長島!なんですね。
この長島一向宗徒との戦いは、のちに信長公をさんざん苦しめることになるのですが・・・その直接対決の第1回目は、早くもこの年に行われています。
滝川一益さんが北伊勢を押さえたことに勢いを得た信長公は、軍を率いて北伊勢に出陣。
長島に落ちて行った斎藤龍興さんを追っかけたのか?
そいで、長島に火をかけましたが、今回はこれまで。
西美濃三人衆が謀反を企んでいる、というウワサが陣中に流れ、信長公は大事をとって軍を返しました。
けど、なんで信長公と長島衆の間はこんなに険悪なのか?
もちろん、桶狭間の時に熱田を襲った、アノ服部左京友禎&服部党の存在もあったでしょうが、彼らはしょせん小豪族。
それよりも気になるのは、織田家の経済力を支えた津島衆とこの長島衆の関係です。
伊勢湾を利用した経済圏として、長島と津島は隣同士。
当然、競争関係になりますよね。
同じ経済力でも、津島のバックは信長公。
当然、最終結論は全国規模で整備された経済活動・経済交流になります。
長島の中心は「道々の者」。
つまり、中世以来「上ナシ(天皇以外は)」として束縛を嫌う自由人です。
この人たちは、定住者ー武士や農民ー以外の人間、芸能者・鋳物師・海運業者・漁師、はてはサンガ(山禍)や忍者まで、 「帝(みかど)以外に主人は持たない。」
と称し、武士の支配を拒んできた人たちなんです。
ま、税金払わない民衆が、為政者に好かれるわきゃないんですよね。
だから、この人たちの「自由」は常に死を覚悟したうえでの「自由」なんです。
(今で言えば、「自己責任」の極地ですな。)
そこいら辺の不安定さが、浄土真宗を受け入れる素地になったんでしょう。
ココで注釈。
浄土真宗=一向宗、とゆうのは正確ではないそうです。
親鸞上人の教えには、
「他宗の者と争うな。 領主には従え。 自分の信仰に反する習慣でも、郷に入っては郷に従え。」
とゆう部分があり、こりに従う者が一揆を起こすはずがありません。
(現実に、同時期の常陸・佐竹領では佐竹さんと浄土真宗のお寺はウマく行ってました。)
どうも、末端では土着信仰と混じり合って伝えられたらしく、こりが”一向宗”なのだそうです。
キリスト教とアフリカの土着信仰が混じって、ヴゥードゥー教(ゾンビで有名)になったようなもんか?
のちにはこれらの人々は、「長島一向一揆」とまとめて呼ばれるようになります。
まぁ、親鸞聖人の教えを守ってれば、そもそも浄土真宗の「教団」自体が成立するわきゃないんですが。
ねえ、顕如さん?
つまり、津島衆と長島衆は、似たような経済活動をしていても、中身が全然違う訳ですよね?
まあ、長島については後々に大事件となるので、今回はパスしときます。
で、今回は近くまで来たついでに、織田家とも縁の深い津島神社に立ち寄ってみることにしました。
ここ関連の逸話には、滝川一益さんも登場してきますので、お楽しみに。
(またまた続く)

この人も馬廻り衆出身で、既に見て来たように1565年、金山城を預けられて東濃の束ね役を兼ね、東美濃衆を率いる一軍の将となり、「部将」に昇格いたしました。
信長公は、自分が裏表の多い性格のせいか
、竹を割ったような性格の武辺モノが大好きなんです。若くして散った蘭丸くんは、のちの石田三成さんみたいに吏僚のお仕事中心でしたが、可成パパや長可お兄ちゃんは、絵に描いたような「武辺モノ」でしたもんね。

↑ 森家の家紋、鶴丸紋。
森さんは木曽川沿いの地(ほとんど美濃?)の出身なんですが、早くから信長公に仕え、「信長公記4.稲生ヶ原の合戦」なんかにも名前が出て来ています。
その後の桶狭間にも美濃侵攻作戦にも名前が出てくるし、もうほとんど譜代衆ですな。
さてさて、滝川一益さんをご紹介する前にもう一人。
その名を坂井政尚さんと申します。
この人については・・・・あまり詳しいことは分かっておりません。
ただ、美濃の出身らしいこと、この頃まではワリと森さんとカップリングでお勤めしてたらしいことが推測されます。
(神社の安堵状なんかも森さんと連名で発行されてますし。)
森さんと仲が良かったのか? 敵意むき出しのライバルだったのか?
森さんが金山城をいただいた頃に、、この人は明智城をもらった、とか。
はて?
とにかく、この人も上洛戦の頃には一軍を率いる部将であったことが分かっちょります。
上洛後も、行政チームに名前が見えますし。
しかしこの坂井さんは、長男は姉川で亡くなり、ご本人が1571年の堅田の戦いで討ち死に、一族は武田勝頼軍の明智城攻めでほぼ全滅、最後に残った次男も本能寺の変で戦死と、とても不運なお方なので伝承がほとんどナッシングなのだ。
合掌!
でも、1569年現在はお元気ですぞぅ。
お待たせいたしました。
甲賀の忍び上がり
の部将、滝川一益さんでございます。

↑ 滝川家の家紋は、「丸に竪木瓜」紋。
この人は、滋賀県甲賀の出身。
だけど、「忍者だった。」というのは、どうも間違いみたいですのぅ。
「忍者出身の武将」の方が、ロマンがあっていいんですけども・・・。
滝川さんは、1567年になって初めて軍事作戦に名前が出て来ます。
(織田家における滝川一益さんの存在自体は、後で書きますが清州城時代から証明されちょります。)
稲葉山城が落ちるのが確実となったこの年、信長公は彼を北伊勢攻略(調略)に派遣しました。
・・・いやいや、余裕が出て来たじゃん、信長公。
まだ美濃も獲ってないのにねぇ。
一益さんは、尾張の蟹江城を拠点にして調略作戦を開始しました。
(愛知県蟹江町は、ホントに三重県との国境近くにあります。)

↑ やはり蟹江城も平城だったので、住宅開発のエジキに。

↑ あと残っているのは、本丸井戸ぐらいです。
悲しいな。

↑ 城跡のすぐ西には蟹江川が流れています。
多分、この川をお堀として取り込んだ縄張りだったのでは・・・。
ま、シロート考えなんで、根拠はないですけど。
滝川一益さんは甲賀の出身だけあり、ツテがあったのか、1567年の内に桑名郡(現・桑名市)と員弁(いなべ)郡の2郡を味方につけてしまっています。
稲葉山城陥落とほぼッ時期ですね。
スゴ腕!
さすが元忍者!と、言いたいが言えない!

まぁ、甲賀武士ちゅうのは滋賀の六角家の家臣団なんですね。
で、六角家が北伊勢に勢力を伸ばしていたこともあり、知り合いなんかもいたんでしょうか。
・・・勝手知ったる他人の家?
ところで、彼の活躍の証拠として、この時彼が発行した禁制書(まあ、法令の布告書ですな)が、桑名市の大福田寺に残されているそうです。

↑ 大福田寺・三門。
今ではそれほど大きなお寺ではありませんが、歴史も古く、寺領もかつては広大だった、とか。

↑ 今では、44ヶ所巡礼の第1巡礼所だそうです。

↑ 大福田寺・本堂です。
この手柄をきっかけとして、伊勢攻略の先鋒は滝川一益さん、ということになり、伊勢衆、特に北伊勢衆のまとめ役になります。
立派な「部将」に昇格ですな。
北伊勢は小豪族が乱立している状態だったので、たいした合戦には及ばず、比較的スムーズにいったみたい。
しかし!
桑名と蟹江の間にあるのは?
そう。 一向宗徒が支配する長島!なんですね。
この長島一向宗徒との戦いは、のちに信長公をさんざん苦しめることになるのですが・・・その直接対決の第1回目は、早くもこの年に行われています。
滝川一益さんが北伊勢を押さえたことに勢いを得た信長公は、軍を率いて北伊勢に出陣。
長島に落ちて行った斎藤龍興さんを追っかけたのか?
そいで、長島に火をかけましたが、今回はこれまで。
西美濃三人衆が謀反を企んでいる、というウワサが陣中に流れ、信長公は大事をとって軍を返しました。
けど、なんで信長公と長島衆の間はこんなに険悪なのか?
もちろん、桶狭間の時に熱田を襲った、アノ服部左京友禎&服部党の存在もあったでしょうが、彼らはしょせん小豪族。
それよりも気になるのは、織田家の経済力を支えた津島衆とこの長島衆の関係です。
伊勢湾を利用した経済圏として、長島と津島は隣同士。
当然、競争関係になりますよね。
同じ経済力でも、津島のバックは信長公。
当然、最終結論は全国規模で整備された経済活動・経済交流になります。
長島の中心は「道々の者」。
つまり、中世以来「上ナシ(天皇以外は)」として束縛を嫌う自由人です。
この人たちは、定住者ー武士や農民ー以外の人間、芸能者・鋳物師・海運業者・漁師、はてはサンガ(山禍)や忍者まで、 「帝(みかど)以外に主人は持たない。」
と称し、武士の支配を拒んできた人たちなんです。
ま、税金払わない民衆が、為政者に好かれるわきゃないんですよね。
だから、この人たちの「自由」は常に死を覚悟したうえでの「自由」なんです。
(今で言えば、「自己責任」の極地ですな。)
そこいら辺の不安定さが、浄土真宗を受け入れる素地になったんでしょう。
ココで注釈。
浄土真宗=一向宗、とゆうのは正確ではないそうです。
親鸞上人の教えには、
「他宗の者と争うな。 領主には従え。 自分の信仰に反する習慣でも、郷に入っては郷に従え。」
とゆう部分があり、こりに従う者が一揆を起こすはずがありません。
(現実に、同時期の常陸・佐竹領では佐竹さんと浄土真宗のお寺はウマく行ってました。)
どうも、末端では土着信仰と混じり合って伝えられたらしく、こりが”一向宗”なのだそうです。
キリスト教とアフリカの土着信仰が混じって、ヴゥードゥー教(ゾンビで有名)になったようなもんか?
のちにはこれらの人々は、「長島一向一揆」とまとめて呼ばれるようになります。
まぁ、親鸞聖人の教えを守ってれば、そもそも浄土真宗の「教団」自体が成立するわきゃないんですが。
ねえ、顕如さん?
つまり、津島衆と長島衆は、似たような経済活動をしていても、中身が全然違う訳ですよね?
まあ、長島については後々に大事件となるので、今回はパスしときます。
で、今回は近くまで来たついでに、織田家とも縁の深い津島神社に立ち寄ってみることにしました。
ここ関連の逸話には、滝川一益さんも登場してきますので、お楽しみに。
(またまた続く)
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