信長公記42.織田家臣団の編成A丹羽、木下
2009年11月05日(木) 6時43分
さて、美濃侵攻作戦での親衛隊の出世頭、と言えば、何と言っても丹羽長秀さんでしょうね。

犬山城を落とした後の、鵜沼城調略、猿啄城攻略、堂洞砦攻略、と立て続けに手柄を立て、中濃制覇の一番功名です。

↑ 丹羽さんちの家紋、「直違い」です。
丹羽長秀さんちのご先祖様は、武蔵の国の出。
武蔵七党の内、児玉党が、その源流と言われています。
ところが、尾張には、もういっちょ「丹羽家」があるんですね。
後の「小牧長久手の戦い」に登場する岩崎城(ウチのご近所さんです)、そこを拠点とする一族で、こちらは足利将軍家の親戚・一色家の流れ。
長秀さんちとはカンケ―ない模様。
その長秀さんちの跡は、現・名古屋城の西1.5kmほどの所にあります。

↑ やっぱり住宅地のド真ん中で、かろうじて空地が残ってる感じ。

↑ 「城」跡ではなく、「邸」跡となっていることから、ココは織田株式会社の社宅だったのか?。
ココから清州城へ通勤してたのかも。

↑ すぐ近くには、児玉神社が。
旧町名も、「尾張国丹羽郡児玉村」だし。 やっぱ、児玉党なんだ。
で、長秀さんも長男ではなかったらしく、10代の初めの頃(一説には15歳)より、信長公の小姓として奉公に出されました。
そこから馬廻りとなり(馬廻りの方が小姓より「上」とは必ずしも言えないのですが)、部将へと出世していくわけです。
のちには織田家の重臣として、柴田・佐久間・丹羽・明智・羽柴・滝川、などと言われるようになりますね。
では、具体的に美濃戦線で長秀さんは、どんな手勢を使ったのか?
彼も小姓上がりですから、柴田さん、林さん、佐久間さんたちのように大兵力を持ってたわけじゃありません。
当然、「借り物」兵力を使わざるをえなかったはず。
そこに、木下藤吉郎さんとの接点があるような気がするのです、シロウトとしては。
そりで、木下藤吉郎秀吉さんです。

彼に関しては、いろいろな伝説がありますが、資料に初めて名前が出てくるのは、1565年。
木曽川の尾張側沿岸にあった松倉城の城主・坪井利定さんへの信長公の宛行状(あてがいじょう)に木下藤吉郎さんが副書(そえがき)しているのです。
宛行状とは安堵状みたいなもんで、国人の権利を確認・保障してやるものです。
藤吉郎さんが副書している、ということは、保障する実行者は藤吉郎秀吉さん。
つまり彼には、坪井さんに対する指揮権がある、という意味になります。

↑ 松倉城のあった、木曽川の南岸の堤防。
前方の林の付近が城跡?

↑ この木曽川、今では考えられないほどの「暴れ川」で、何度も洪水を起こすわ、しょっちゅう流れが変わるわ、で本来の松倉城は今では川の底、らしいです。

↑ 当時のランドマークだった樫の大木を記念する碑です。
この松倉城の坪井さん、実は「川並衆」の束ね役でもあったんですね。
川並衆と言えば、蜂須賀小六さんに前野将右衛門さん。
信長公記1.で書いたように、藤吉郎くんとコイツらとは生駒屋敷で顔馴染みです。

↑ 松倉城近くにある川湊、というか渡し場跡の説明板。

↑ 実際はこの辺りが、そうだったんでしょうね。
川並衆もここを利用した?

↑ この水面下の砂利石は湊跡の名残りか? 単なる自然石か?
つまり、昔の生駒屋敷時代とは異なり、命令系統が、信長公→木下藤吉郎→坪井利定→蜂須賀小六&前野将右衛門、となっていたことが分かります。
この「藤吉郎軍団」が、丹羽長秀さんに与力として付けられ、全面協力したのではないか?と、シロウトは思いついたわけです。
そうすると、「武功夜話」との矛盾点も少なくなるのではないでしょうか。
因みにこの坪内さん、信長公に勘当された前田利家くんを松倉城に匿っていたこともあるとか。
いくら信長公が人材登用に差別をしない、と言っても、藤吉郎秀吉さんのように地下人からの取り立て、というのは珍しいんです。
(もう一人だけ、「巡礼上がり」というのがいたような・・・)
たいていの部下は、やはり実家が武家なんですね
後々まで、そんな「異質な」藤吉郎さんと仲良く付き合ったのが丹羽長秀さん。
他の武将たち、特に柴田勝家さんや佐々成政さんたちが藤吉郎さんを蔑み嫌っても、意に介しませんでした。
まあ、彼の性格もあったんでしょうが、この美濃作戦時代の関係があったから、と考えるのは深読みし過ぎ、でしょうか?
以上、推理小説・「丹羽長秀と木下藤吉郎のナゾ」、でした(ウソです)。
(さらに続く)

犬山城を落とした後の、鵜沼城調略、猿啄城攻略、堂洞砦攻略、と立て続けに手柄を立て、中濃制覇の一番功名です。

↑ 丹羽さんちの家紋、「直違い」です。
丹羽長秀さんちのご先祖様は、武蔵の国の出。
武蔵七党の内、児玉党が、その源流と言われています。
ところが、尾張には、もういっちょ「丹羽家」があるんですね。
後の「小牧長久手の戦い」に登場する岩崎城(ウチのご近所さんです)、そこを拠点とする一族で、こちらは足利将軍家の親戚・一色家の流れ。
長秀さんちとはカンケ―ない模様。
その長秀さんちの跡は、現・名古屋城の西1.5kmほどの所にあります。

↑ やっぱり住宅地のド真ん中で、かろうじて空地が残ってる感じ。

↑ 「城」跡ではなく、「邸」跡となっていることから、ココは織田株式会社の社宅だったのか?。
ココから清州城へ通勤してたのかも。

↑ すぐ近くには、児玉神社が。
旧町名も、「尾張国丹羽郡児玉村」だし。 やっぱ、児玉党なんだ。
で、長秀さんも長男ではなかったらしく、10代の初めの頃(一説には15歳)より、信長公の小姓として奉公に出されました。
そこから馬廻りとなり(馬廻りの方が小姓より「上」とは必ずしも言えないのですが)、部将へと出世していくわけです。
のちには織田家の重臣として、柴田・佐久間・丹羽・明智・羽柴・滝川、などと言われるようになりますね。
では、具体的に美濃戦線で長秀さんは、どんな手勢を使ったのか?
彼も小姓上がりですから、柴田さん、林さん、佐久間さんたちのように大兵力を持ってたわけじゃありません。
当然、「借り物」兵力を使わざるをえなかったはず。
そこに、木下藤吉郎さんとの接点があるような気がするのです、シロウトとしては。
そりで、木下藤吉郎秀吉さんです。

彼に関しては、いろいろな伝説がありますが、資料に初めて名前が出てくるのは、1565年。
木曽川の尾張側沿岸にあった松倉城の城主・坪井利定さんへの信長公の宛行状(あてがいじょう)に木下藤吉郎さんが副書(そえがき)しているのです。
宛行状とは安堵状みたいなもんで、国人の権利を確認・保障してやるものです。
藤吉郎さんが副書している、ということは、保障する実行者は藤吉郎秀吉さん。
つまり彼には、坪井さんに対する指揮権がある、という意味になります。

↑ 松倉城のあった、木曽川の南岸の堤防。
前方の林の付近が城跡?

↑ この木曽川、今では考えられないほどの「暴れ川」で、何度も洪水を起こすわ、しょっちゅう流れが変わるわ、で本来の松倉城は今では川の底、らしいです。

↑ 当時のランドマークだった樫の大木を記念する碑です。
この松倉城の坪井さん、実は「川並衆」の束ね役でもあったんですね。
川並衆と言えば、蜂須賀小六さんに前野将右衛門さん。
信長公記1.で書いたように、藤吉郎くんとコイツらとは生駒屋敷で顔馴染みです。

↑ 松倉城近くにある川湊、というか渡し場跡の説明板。

↑ 実際はこの辺りが、そうだったんでしょうね。
川並衆もここを利用した?

↑ この水面下の砂利石は湊跡の名残りか? 単なる自然石か?
つまり、昔の生駒屋敷時代とは異なり、命令系統が、信長公→木下藤吉郎→坪井利定→蜂須賀小六&前野将右衛門、となっていたことが分かります。
この「藤吉郎軍団」が、丹羽長秀さんに与力として付けられ、全面協力したのではないか?と、シロウトは思いついたわけです。
そうすると、「武功夜話」との矛盾点も少なくなるのではないでしょうか。
因みにこの坪内さん、信長公に勘当された前田利家くんを松倉城に匿っていたこともあるとか。
いくら信長公が人材登用に差別をしない、と言っても、藤吉郎秀吉さんのように地下人からの取り立て、というのは珍しいんです。
(もう一人だけ、「巡礼上がり」というのがいたような・・・)
たいていの部下は、やはり実家が武家なんですね
後々まで、そんな「異質な」藤吉郎さんと仲良く付き合ったのが丹羽長秀さん。
他の武将たち、特に柴田勝家さんや佐々成政さんたちが藤吉郎さんを蔑み嫌っても、意に介しませんでした。
まあ、彼の性格もあったんでしょうが、この美濃作戦時代の関係があったから、と考えるのは深読みし過ぎ、でしょうか?
以上、推理小説・「丹羽長秀と木下藤吉郎のナゾ」、でした(ウソです)。
(さらに続く)
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