三河物語1.松平家再興!大樹寺
July 09 [Thu], 2009, 16:14
本日はお仕事で岡崎まで行って参りました。
合間を縫って歴史道草。
時間もないので、徳川家(松平家)の菩提寺である大樹寺を覗いてまいりました。
ドーン!

↑ 多分そんなに古いもんじゃないでしょうが、周囲に不釣り合いな程大きな三門。
実はこの三門がクセものでして、境内から南方向を見ますと・・・・

↑ 分かりますでしょうか?
実は通りを隔てた南側が小学校のグラウンドなのですが、その南門は(旧)大樹寺の南門なんだそうです。
更に見ますと(この写真では全く分かりませんが)岡崎城の天守閣が見えるんですね。
つまり、岡崎城〜大樹寺南門〜大樹寺三門は一直線に配置されているらしいのです。
カメラ持って小学校の近くをウロウロしてると、変質者に間違われそうでコワいので、こんなショットしか撮れませんでした。
すいません。
このお寺が戦国史にその名を表すのは、桶狭間の戦いが行われた1560年。
その頃、主君(家康)を今川に人質に取られていた三河の地侍衆は、今川家の手先としてこき使われていたそうな。
「若君さえ三河に戻ることができたら・・。」
と、歯を喰いしばって耐える毎日。
そこに起こった今川軍の尾張侵攻作戦。
徳川家康(当時の名は松平元康)さんは三河軍団の指揮を許され、今川本軍とは別行動で尾張に侵攻いたしました。
現・名古屋市緑区にある織田方の鷲尾砦、丸根砦を攻め落とし、指し向いにある大高城で今川本軍を待っておったそうな。
そこへ「今川義元公、お討ち死に!」の報が。
駿河・遠江から来てた今川本軍は、一斉に撤退行動に移ります。
幸いなことに信長公の率いる織田軍団は、追撃するほどの余力はありません。
(そのつもりもなかったようですが)
元康さんにとっては、今川の元から離れて名実ともに独立するチャンス!
でも三河軍の本城である岡崎城には、今川の別部隊が駐屯しています。
そこで、大高城を出た元康軍は、まずこの大樹寺に入り、岡崎城の今川軍をうかがったそうです。
主君・義元さんを討たれた今川兵たちは戦意を失くしており、三河軍団にあっさり岡崎城を譲って撤退。
松平家は、ここに目出度く岡崎城を回復できたのですね。
その当時以前から、ここは松平(徳川)家の菩提寺だったようです。
有名な「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」の旗印も、ここの和尚さんの教えによるものだ、とか。

↑ こりは境内に建っている多宝塔で、7代清康さん(家康さんのおじいちゃん)が建立したもの。
1535年だそうですから、信長公はまだ2歳の頃です。(当時は「数え年」ですから。)
室町時代の史跡になりますな。
この優美な曲線を描く「檜皮葺き」の屋根をご覧あれ!
室町時代の建築物で、私が一番好きな点でござりまする。
「檜皮葺き」は、文字通り檜の木の皮を剥いで、そりを重ね合わせて屋根を葺く技法です。
現代ではそりをできる職人さんも少なくなり、檜の木も少なくなり、絶滅寸前の建築技法なんですよ。
定期的に葺き替えが必要なはずなんだけど、どうすんだろ?
で、話は戻りますが、この多宝塔を建立した松平清康おじいちゃん。
この人は、信長公の信秀パパと同世代の人ですが、
「この殿ならば、天下を取ることも夢ではにゃあぞ!」と、三河武士たちの期待を一身に集めた名君だったそうです。
でも、名古屋市の守山区にある森山城を攻めに行った時、勘違いした家臣に殺されちゃいました。
こりは「森山崩れ」とゆう痛恨の事件として、三河で語り継がれることになります。
まぁ、詳しくは・・・どっかで特集しましょうね。
で、跡を継いだ広忠パパのチカラが弱かったために、松平家の内部分裂を招き、そこを今川家につけこまれ、元康さん(幼名:竹千代くん)が人質に出されちまう情けない状態になったワケです。
運命の桶狭間まで、長かったですなぁ。

↑ 「菩提寺」となれば、お墓はつきもの。
こりは、松平家初代・親氏さん〜8代・広忠さん(家康さんのパパ)までの累代のお墓です。
え〜、今まで元康さんと書いて来ましたが、この「元」は勿論、人質先の今川義元さんの「元」ですね。
で、彼はこの桶狭間戦以降「元」の字を捨てて「家康」と名乗り始めます。
あからさまに「今川とは縁を切ったぞ!」と宣言したわけです。
ちなみに、「徳川」と名乗るのはもっと後。
信長公が「平氏」を称し始めた頃、松平家康さんも、
「我が家は新田義貞の血を受け継ぐ源氏の末裔である。」
と称し始めました。
朝廷から「源氏」を名乗ることを許されるのですが、群馬県?栃木県?の新田庄に徳川村というのがあり、松平家の始祖「徳阿弥」さんはそこの出だ、というのがその根拠だそうです。
まあ、いい加減な話ではありますが。
戦国大名なんてほとんどがこんなもんで、鎌倉時代から辿れる血筋を持つのはほんの数家。
確か、島津家と北畠家、他には京極や六角佐々木家とか、だったかな?
(足利の一族も古いですけど、この頃には没落して「大名」じゃなくなってましたし。)
織田家も徳川家も「どっかの馬の骨」だったわけです。
だから戦国大名の家系図なんて、大分いい加減なものだそうですね。
えーと、話が脱線しましたが大樹寺の見どころはこんなもんでしょうか。
あ、ちなみに本堂はこんな感じです。

ついでに岡崎城にも一度は行ってみようと思っていたのですが・・・時間がありませんでした。
てゆーか、模擬天守閣がメインになってるお城は「食わず嫌い」でなかなか足が向かないのです。
歴史上、重要なお城なんですけどね。
生活態度を改めましょう。
いや〜、今日もホントに暑かった。
合間を縫って歴史道草。
時間もないので、徳川家(松平家)の菩提寺である大樹寺を覗いてまいりました。
ドーン!

↑ 多分そんなに古いもんじゃないでしょうが、周囲に不釣り合いな程大きな三門。
実はこの三門がクセものでして、境内から南方向を見ますと・・・・

↑ 分かりますでしょうか?
実は通りを隔てた南側が小学校のグラウンドなのですが、その南門は(旧)大樹寺の南門なんだそうです。
更に見ますと(この写真では全く分かりませんが)岡崎城の天守閣が見えるんですね。
つまり、岡崎城〜大樹寺南門〜大樹寺三門は一直線に配置されているらしいのです。
カメラ持って小学校の近くをウロウロしてると、変質者に間違われそうでコワいので、こんなショットしか撮れませんでした。
すいません。
このお寺が戦国史にその名を表すのは、桶狭間の戦いが行われた1560年。
その頃、主君(家康)を今川に人質に取られていた三河の地侍衆は、今川家の手先としてこき使われていたそうな。
「若君さえ三河に戻ることができたら・・。」
と、歯を喰いしばって耐える毎日。
そこに起こった今川軍の尾張侵攻作戦。
徳川家康(当時の名は松平元康)さんは三河軍団の指揮を許され、今川本軍とは別行動で尾張に侵攻いたしました。
現・名古屋市緑区にある織田方の鷲尾砦、丸根砦を攻め落とし、指し向いにある大高城で今川本軍を待っておったそうな。
そこへ「今川義元公、お討ち死に!」の報が。
駿河・遠江から来てた今川本軍は、一斉に撤退行動に移ります。
幸いなことに信長公の率いる織田軍団は、追撃するほどの余力はありません。
(そのつもりもなかったようですが)
元康さんにとっては、今川の元から離れて名実ともに独立するチャンス!
でも三河軍の本城である岡崎城には、今川の別部隊が駐屯しています。
そこで、大高城を出た元康軍は、まずこの大樹寺に入り、岡崎城の今川軍をうかがったそうです。
主君・義元さんを討たれた今川兵たちは戦意を失くしており、三河軍団にあっさり岡崎城を譲って撤退。
松平家は、ここに目出度く岡崎城を回復できたのですね。
その当時以前から、ここは松平(徳川)家の菩提寺だったようです。
有名な「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」の旗印も、ここの和尚さんの教えによるものだ、とか。

↑ こりは境内に建っている多宝塔で、7代清康さん(家康さんのおじいちゃん)が建立したもの。
1535年だそうですから、信長公はまだ2歳の頃です。(当時は「数え年」ですから。)
室町時代の史跡になりますな。
この優美な曲線を描く「檜皮葺き」の屋根をご覧あれ!
室町時代の建築物で、私が一番好きな点でござりまする。
「檜皮葺き」は、文字通り檜の木の皮を剥いで、そりを重ね合わせて屋根を葺く技法です。
現代ではそりをできる職人さんも少なくなり、檜の木も少なくなり、絶滅寸前の建築技法なんですよ。
定期的に葺き替えが必要なはずなんだけど、どうすんだろ?
で、話は戻りますが、この多宝塔を建立した松平清康おじいちゃん。
この人は、信長公の信秀パパと同世代の人ですが、
「この殿ならば、天下を取ることも夢ではにゃあぞ!」と、三河武士たちの期待を一身に集めた名君だったそうです。
でも、名古屋市の守山区にある森山城を攻めに行った時、勘違いした家臣に殺されちゃいました。
こりは「森山崩れ」とゆう痛恨の事件として、三河で語り継がれることになります。
まぁ、詳しくは・・・どっかで特集しましょうね。
で、跡を継いだ広忠パパのチカラが弱かったために、松平家の内部分裂を招き、そこを今川家につけこまれ、元康さん(幼名:竹千代くん)が人質に出されちまう情けない状態になったワケです。
運命の桶狭間まで、長かったですなぁ。

↑ 「菩提寺」となれば、お墓はつきもの。
こりは、松平家初代・親氏さん〜8代・広忠さん(家康さんのパパ)までの累代のお墓です。
え〜、今まで元康さんと書いて来ましたが、この「元」は勿論、人質先の今川義元さんの「元」ですね。
で、彼はこの桶狭間戦以降「元」の字を捨てて「家康」と名乗り始めます。
あからさまに「今川とは縁を切ったぞ!」と宣言したわけです。
ちなみに、「徳川」と名乗るのはもっと後。
信長公が「平氏」を称し始めた頃、松平家康さんも、
「我が家は新田義貞の血を受け継ぐ源氏の末裔である。」
と称し始めました。
朝廷から「源氏」を名乗ることを許されるのですが、群馬県?栃木県?の新田庄に徳川村というのがあり、松平家の始祖「徳阿弥」さんはそこの出だ、というのがその根拠だそうです。
まあ、いい加減な話ではありますが。
戦国大名なんてほとんどがこんなもんで、鎌倉時代から辿れる血筋を持つのはほんの数家。
確か、島津家と北畠家、他には京極や六角佐々木家とか、だったかな?
(足利の一族も古いですけど、この頃には没落して「大名」じゃなくなってましたし。)
織田家も徳川家も「どっかの馬の骨」だったわけです。
だから戦国大名の家系図なんて、大分いい加減なものだそうですね。
えーと、話が脱線しましたが大樹寺の見どころはこんなもんでしょうか。
あ、ちなみに本堂はこんな感じです。

ついでに岡崎城にも一度は行ってみようと思っていたのですが・・・時間がありませんでした。
てゆーか、模擬天守閣がメインになってるお城は「食わず嫌い」でなかなか足が向かないのです。
歴史上、重要なお城なんですけどね。
生活態度を改めましょう。
いや〜、今日もホントに暑かった。
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