三河物語92.ご近所散歩F玉砕!木下一族
2010年07月27日(火) 7時00分
この当時秀次くんに仕えていた有名な武将で、可児才蔵さんとゆう人がおりました。

↑ 別名、笹の才蔵。
笹の枝を指物(さしもの)代わりに背負い、自分の獲った首にはその笹の葉を噛ませたことから、こーゆーあだ名がつきました。
こりは、獲った首をいちいち腰にぶら下げてたんじゃ重くて戦えない為、放置しとく代わりに目印として葉っぱを噛ませたんですね。
(明治の戊辰戦争の体験談では、首を2つも腰にぶら下げると、重くてヨタヨタになったそうな。)
で、どこぞの戦場では、背負った笹の枝が丸裸になっちゃったくらい(首を獲った、とゆう意味)だとか。
(よくよく考えれば不気味なハナシですのぅ。)
まぁ、このとおり「武将」とゆうても、ほとんど「一騎駆けの武者」なんですがネ。
馬もなく徒歩でオタオタ逃げていた秀次くんの横を、この才蔵さんが馬で追い越してゆきました。
「う、馬じゃ! その方の馬をワシによこせっ!」
と、秀次くんがハァハァ言いながら命ずると、才蔵さん ジロッ と秀次くんを見て、
「雨の日の傘にて候。」(こうゆう敗走の時の馬は、雨の日の傘と同じで必要なモノだ。 人になぞ貸せるかっ。)
と言い捨ててサッサと行っちまいました。
有名なハナシですよね。
まぁ、「忠義」の概念の薄かった戦国時代には、こうゆう武者はよういたみたいです。
力量の劣る主君を、まるっきり主君として認めていないんですな。
戦場往来のいくさ人たちは、普段からよほど秀次くんを軽蔑していたとみえます。
人間、普段の振る舞いが如何に大切か、ってことですよね。
一方、(おねさんの)木下一族はそんなことするわけにはいきません。
なんたって、秀次くんは身内なんですから。

↑ さっきの本地ヶ原神社から、南に1kmほどの場所にある、木下勘解由塚(きのしたかげゆづか)。
勘解由さんが秀次くんを逃がすために戦って討ち死にした地です。
つーことは秀次くん、自分の足で1kmほどは逃げたとみえますな。

↑ チョ―新しいマンション群に囲まれて、ポツンと残っております。
この近辺が戦場だったなんて、想像もつかないカンジ。

↑ まぁ、こりだけのスペースを残してもらっただけでヨシとしますか。

↑ ほぅほぅ。
この方が秀次くんに、自分の馬を与えてくれたんですナ。
秀次くんとゆうのは、甘やかされて育ったせいで勘違いしたセレブ意識があり、秀吉本陣に逃げ帰ったあとで、
「家臣がようけ死んじゃったでよぅ、新しい家臣をつけてちょーでぇ。」(名古屋弁)
と、コトもなげに秀吉叔父さんにおねだりして、秀吉さんを激怒させてます。
「貴様っ! 自分のために討ち死にしたもののふたちを何と心得る!?」
秀次さんを斬り殺さんばかりの秀吉さんを、周囲がよってたかって止めたとか。
こんな青二才のために命を投げ出した木下さんたちって、なに?つーハナシですよね?

↑ この木下勘解由さんとゆうのは、おねさんの叔父さんらしいんです。


↑ そして、わずか20mほど東には、「木下周防守(すおうのかみ)戦死の地」が。
まぁ、出陣の時、秀吉さんから特に
「あのたわけの秀次が心配だでよぅ、よう見とってちょーよ。」
と監察に付けられた木下一族ですから、ましゃか秀次くんを見捨てて逃げるワケにもいかなかったんでしょうが、この地で木下一族は秀次くんを逃がすため、壮絶な戦いをしたことになります。
木下一族と言えば、のちの木下長嘯子(ちょうしょうし)勝俊さんのような文人系のイメージが強いですよね。
この木下長嘯子勝俊さんなんかは(のちのハナシですが)、関ヶ原の前哨戦で、自分が駐留する伏見城が攻められそうになると、トットと逃げ出してますからねぇ。
つーことは、一族の内のマトモな武人は、この時に全滅しちゃったみたいです。
のちに関白・秀次さんが謀反の疑いで太閤さんに殺される時、おねさんがあんまし助けてあげなかったのは、この時の恨みのせい?
自分の一族を大勢死なせておいて、さしたる反省もなし、じゃねぇ・・。

↑ ところで、この木下一族の戦死した地から南東に1kmほどの所に、堀”名人”久太郎秀政(ひでまさ)さんが陣を構えておりました。 (Q太郎ではない。)
秀次くんは身内の犠牲も顧みず、この陣地目指してタッタカターと一目散。
そして彼を追いかけて来た榊原康政さん&大須賀康高さんの徳川別動隊と、堀久太郎秀政さんが激突することになるのです。
( スイマセン。 「久太郎、反撃!の巻」とUP順番が逆になっちまいました。 ・・・直ったかな? )

↑ 別名、笹の才蔵。
笹の枝を指物(さしもの)代わりに背負い、自分の獲った首にはその笹の葉を噛ませたことから、こーゆーあだ名がつきました。
こりは、獲った首をいちいち腰にぶら下げてたんじゃ重くて戦えない為、放置しとく代わりに目印として葉っぱを噛ませたんですね。
(明治の戊辰戦争の体験談では、首を2つも腰にぶら下げると、重くてヨタヨタになったそうな。)
で、どこぞの戦場では、背負った笹の枝が丸裸になっちゃったくらい(首を獲った、とゆう意味)だとか。
(よくよく考えれば不気味なハナシですのぅ。)
まぁ、このとおり「武将」とゆうても、ほとんど「一騎駆けの武者」なんですがネ。
馬もなく徒歩でオタオタ逃げていた秀次くんの横を、この才蔵さんが馬で追い越してゆきました。
「う、馬じゃ! その方の馬をワシによこせっ!」
と、秀次くんがハァハァ言いながら命ずると、才蔵さん ジロッ と秀次くんを見て、
「雨の日の傘にて候。」(こうゆう敗走の時の馬は、雨の日の傘と同じで必要なモノだ。 人になぞ貸せるかっ。)
と言い捨ててサッサと行っちまいました。
有名なハナシですよね。
まぁ、「忠義」の概念の薄かった戦国時代には、こうゆう武者はよういたみたいです。
力量の劣る主君を、まるっきり主君として認めていないんですな。
戦場往来のいくさ人たちは、普段からよほど秀次くんを軽蔑していたとみえます。
人間、普段の振る舞いが如何に大切か、ってことですよね。
一方、(おねさんの)木下一族はそんなことするわけにはいきません。
なんたって、秀次くんは身内なんですから。

↑ さっきの本地ヶ原神社から、南に1kmほどの場所にある、木下勘解由塚(きのしたかげゆづか)。
勘解由さんが秀次くんを逃がすために戦って討ち死にした地です。
つーことは秀次くん、自分の足で1kmほどは逃げたとみえますな。

↑ チョ―新しいマンション群に囲まれて、ポツンと残っております。
この近辺が戦場だったなんて、想像もつかないカンジ。

↑ まぁ、こりだけのスペースを残してもらっただけでヨシとしますか。

↑ ほぅほぅ。
この方が秀次くんに、自分の馬を与えてくれたんですナ。
秀次くんとゆうのは、甘やかされて育ったせいで勘違いしたセレブ意識があり、秀吉本陣に逃げ帰ったあとで、
「家臣がようけ死んじゃったでよぅ、新しい家臣をつけてちょーでぇ。」(名古屋弁)
と、コトもなげに秀吉叔父さんにおねだりして、秀吉さんを激怒させてます。
「貴様っ! 自分のために討ち死にしたもののふたちを何と心得る!?」
秀次さんを斬り殺さんばかりの秀吉さんを、周囲がよってたかって止めたとか。
こんな青二才のために命を投げ出した木下さんたちって、なに?つーハナシですよね?

↑ この木下勘解由さんとゆうのは、おねさんの叔父さんらしいんです。


↑ そして、わずか20mほど東には、「木下周防守(すおうのかみ)戦死の地」が。
まぁ、出陣の時、秀吉さんから特に
「あのたわけの秀次が心配だでよぅ、よう見とってちょーよ。」
と監察に付けられた木下一族ですから、ましゃか秀次くんを見捨てて逃げるワケにもいかなかったんでしょうが、この地で木下一族は秀次くんを逃がすため、壮絶な戦いをしたことになります。
木下一族と言えば、のちの木下長嘯子(ちょうしょうし)勝俊さんのような文人系のイメージが強いですよね。
この木下長嘯子勝俊さんなんかは(のちのハナシですが)、関ヶ原の前哨戦で、自分が駐留する伏見城が攻められそうになると、トットと逃げ出してますからねぇ。
つーことは、一族の内のマトモな武人は、この時に全滅しちゃったみたいです。
のちに関白・秀次さんが謀反の疑いで太閤さんに殺される時、おねさんがあんまし助けてあげなかったのは、この時の恨みのせい?
自分の一族を大勢死なせておいて、さしたる反省もなし、じゃねぇ・・。

↑ ところで、この木下一族の戦死した地から南東に1kmほどの所に、堀”名人”久太郎秀政(ひでまさ)さんが陣を構えておりました。 (Q太郎ではない。)
秀次くんは身内の犠牲も顧みず、この陣地目指してタッタカターと一目散。
そして彼を追いかけて来た榊原康政さん&大須賀康高さんの徳川別動隊と、堀久太郎秀政さんが激突することになるのです。
( スイマセン。 「久太郎、反撃!の巻」とUP順番が逆になっちまいました。 ・・・直ったかな? )
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