三河物語57.二俣城お味方にC
2010年03月11日(木) 7時00分
この1568年の徳川軍遠江出陣の際には、割とあっさり片付いた二俣城でしたが、実はこのお城、地政学的に重要な場所にあるんです。
甲斐の武田軍が遠江進出を一旦決意したら、ここは武田領国(甲斐・信州) → 旧・今川領(駿河・遠江) への出口として最適なんですね。
(現)静岡県の平野を、海に向って開いた扇子に例えると、この二俣城は要の位置になるわけです。
ココを押さえれば、どこにでも行ける。
信玄さんが、見逃すわきゃないスよね?

↑ いや〜、ココに限ったハナシではないですけど、石垣は近くで見ると迫力!ですよねぇ。

↑ でも、この天守台だけ石垣造りのせいか、違和感がありませんか?
隅っこの「算木積み」も整然としてるし・・・この天守台は後から造られた?

↑ 「桝形門跡」の先はどうなってるのかな?

↑ ほほぅ。 ココも土塁跡がしっかりと残ってますなぁ。


↑ 桝形門跡を、二の丸側から見たところです。
まぁ、今回は例の密約がありますから、武田軍はココには来ませんでしたが。(と、この時点では思われました。)
なんで「思われました」なんて書くかというと・・・武田信玄さんには、密約を守る気がサラサラなかったからです。
既にこの頃には、武田24将の一人・秋山信友さんが大井川の西に侵入し(密約違反!)、土地の豪族たちを従えつつあったんです。
家康さんがそりを知るのは、曳馬城(浜松城)を落としてからになるんですが。
ま、結果的にこの時は正面衝突は避けられたのですが・・・・二俣城は、4年後に激戦の地となっちまいます。
信玄さんが信長公との対決姿勢を明らかにして、西上してくる時ですね。

↑ ここらでもう一遍、見取り図を。
現地に来てパッと見じゃ憶えきれませんよね?
私も、他の曲輪へ行ってはこの縄張り図の場所へ戻りもどり、何遍往復したことか。
(総面積の狭いお城だからできることですが。)

↑ よくよく見ると、本丸の周囲も土塁でしっかり固めてあります。

↑ そりでは、そろそろ本丸にも別れを告げて、

↑ 本丸の北東部にある食い違い虎口から搦め手に廻ってみましょう。

↑ ほぅほぅ。 コチラも道はきちんと舗装されているようです。

↑ 縄張り図によると、ここいらが・・・馬出し?
こんな山城で馬出し?
「馬出し」って防御施設ではありますが、その名のとおり騎馬の出撃口でもありますよね?
こんなとこから馬に乗って出撃したら、即、「義経の一ノ谷」になっちまうんじゃ・・・。
それに、お城に退却する時はどうすんだろ?
ナゾです。

↑ 堀切の跡には橋がかかっておりまして、

↑ その先の北曲輪跡(現在は神社さん)につながっております。

↑ 腰曲輪跡が道になってるんですが、その手前に大きな竪掘(たてぼり)が。

↑ 透かして見ると、天竜川が見えます。(この写真じゃ分かりづらいか・・スイマセン。)
ま、ここを転げ落ちると、麓の天竜川にドボン!と、思っていただければ間違いないかと。

↑ この腰曲輪道も、高所恐怖症の人にはよくないかも。 手すりもないし。
なんか、対人センサーがあるらしく、人が来るとアナウンスが流れ城郭の説明を始めます。
辺りに誰もいない時に聞くと、結構不気味。

↑ お約束の城跡石碑がないなぁ、と思ってたらココにあったんですね。
コチラが登り口になっていたようです。
このお城は、武田軍との激戦(1572年)でも有名ですが、家康さんの嫡男・信康くんが切腹した(1579年)お城としても有名なんですよね。
彼が眠っているお寺が近くにある、とゆうので・・・ついでです。 行ってみましょうか?
甲斐の武田軍が遠江進出を一旦決意したら、ここは武田領国(甲斐・信州) → 旧・今川領(駿河・遠江) への出口として最適なんですね。
(現)静岡県の平野を、海に向って開いた扇子に例えると、この二俣城は要の位置になるわけです。
ココを押さえれば、どこにでも行ける。
信玄さんが、見逃すわきゃないスよね?

↑ いや〜、ココに限ったハナシではないですけど、石垣は近くで見ると迫力!ですよねぇ。

↑ でも、この天守台だけ石垣造りのせいか、違和感がありませんか?
隅っこの「算木積み」も整然としてるし・・・この天守台は後から造られた?

↑ 「桝形門跡」の先はどうなってるのかな?

↑ ほほぅ。 ココも土塁跡がしっかりと残ってますなぁ。


↑ 桝形門跡を、二の丸側から見たところです。
まぁ、今回は例の密約がありますから、武田軍はココには来ませんでしたが。(と、この時点では思われました。)
なんで「思われました」なんて書くかというと・・・武田信玄さんには、密約を守る気がサラサラなかったからです。
既にこの頃には、武田24将の一人・秋山信友さんが大井川の西に侵入し(密約違反!)、土地の豪族たちを従えつつあったんです。
家康さんがそりを知るのは、曳馬城(浜松城)を落としてからになるんですが。
ま、結果的にこの時は正面衝突は避けられたのですが・・・・二俣城は、4年後に激戦の地となっちまいます。
信玄さんが信長公との対決姿勢を明らかにして、西上してくる時ですね。

↑ ここらでもう一遍、見取り図を。
現地に来てパッと見じゃ憶えきれませんよね?
私も、他の曲輪へ行ってはこの縄張り図の場所へ戻りもどり、何遍往復したことか。
(総面積の狭いお城だからできることですが。)

↑ よくよく見ると、本丸の周囲も土塁でしっかり固めてあります。

↑ そりでは、そろそろ本丸にも別れを告げて、

↑ 本丸の北東部にある食い違い虎口から搦め手に廻ってみましょう。

↑ ほぅほぅ。 コチラも道はきちんと舗装されているようです。

↑ 縄張り図によると、ここいらが・・・馬出し?
こんな山城で馬出し?
「馬出し」って防御施設ではありますが、その名のとおり騎馬の出撃口でもありますよね?
こんなとこから馬に乗って出撃したら、即、「義経の一ノ谷」になっちまうんじゃ・・・。
それに、お城に退却する時はどうすんだろ?
ナゾです。

↑ 堀切の跡には橋がかかっておりまして、

↑ その先の北曲輪跡(現在は神社さん)につながっております。

↑ 腰曲輪跡が道になってるんですが、その手前に大きな竪掘(たてぼり)が。

↑ 透かして見ると、天竜川が見えます。(この写真じゃ分かりづらいか・・スイマセン。)
ま、ここを転げ落ちると、麓の天竜川にドボン!と、思っていただければ間違いないかと。

↑ この腰曲輪道も、高所恐怖症の人にはよくないかも。 手すりもないし。
なんか、対人センサーがあるらしく、人が来るとアナウンスが流れ城郭の説明を始めます。
辺りに誰もいない時に聞くと、結構不気味。

↑ お約束の城跡石碑がないなぁ、と思ってたらココにあったんですね。
コチラが登り口になっていたようです。
このお城は、武田軍との激戦(1572年)でも有名ですが、家康さんの嫡男・信康くんが切腹した(1579年)お城としても有名なんですよね。
彼が眠っているお寺が近くにある、とゆうので・・・ついでです。 行ってみましょうか?
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