三河物語55.二俣城お味方にA
2010年03月09日(火) 8時00分
徳川家康さんの遠江出陣に関する資料を見ていて、面白い事に気付きました。
徳川軍が侵攻するまでもなく、今川家の家臣団の豪族たちはガタガタになっていたみたいなんです。
一番多いのが「城主の一族が2つに割れて、徳川につくか、武田につくか、で内紛になった。」とゆうパターン。
これでほとんどのお城が自滅するか、内紛の最中に徳川軍に攻められて簡単に落城するか、どちらかの道を辿りました。
井伊谷城のように、そのパターンに加えて、城主が今川氏真さんに疑われて殺され、残された家臣団が2つに割れて・・・・・というのも結構あります。
無能なお屋形様を戴くと、戦国大名領はこうなっちまう、とゆう見本のような状態ですな。

↑ さて、二俣城の縄張り図をもう一度確認しますと・・・二の丸の南にも何かある様子。

↑ 大手門跡まで戻って、石垣を廻り込むと・・・おぉ!!! 曲輪の跡が。

↑ こりは縄張り図によると・・・空掘の跡らしいですね。
縄張り図によるとココは・・・「蔵屋敷」曲輪だそうです。

↑ 曲輪の外周を囲む土塁跡も残ってるぞ?

↑ その土塁跡の土台?部分を固める石垣です。

↑ この曲輪の南西のコーナーには、虎口が。

↑ その虎口を下りてゆくと、またまた空掘がありまして、

↑ その更に先の「南曲輪」は・・・残念ながら竹ヤブと化しておりました。

↑ しかし、見事に残っておりますのぅ、空掘が。
なんか、嬉しくなりませんか? ・・・なんないですよね、ハイ。
二俣城の場合は、鵜殿さんは徳川に降参し、松井さんは逃げ出して武田を頼る、というカタチをとったみたいです。
まあ、この時点では、
「徳川が武田にかなうはずがない。 武田についた方が利口だ。」
という考え方が支配的でしたから。
「大井川の西は徳川、東は武田で駿遠を分け取りにする。」
という密約には誰も気づいていなかったんですね。
無理もないか。
(もうちょい続くよん)
徳川軍が侵攻するまでもなく、今川家の家臣団の豪族たちはガタガタになっていたみたいなんです。
一番多いのが「城主の一族が2つに割れて、徳川につくか、武田につくか、で内紛になった。」とゆうパターン。
これでほとんどのお城が自滅するか、内紛の最中に徳川軍に攻められて簡単に落城するか、どちらかの道を辿りました。
井伊谷城のように、そのパターンに加えて、城主が今川氏真さんに疑われて殺され、残された家臣団が2つに割れて・・・・・というのも結構あります。
無能なお屋形様を戴くと、戦国大名領はこうなっちまう、とゆう見本のような状態ですな。

↑ さて、二俣城の縄張り図をもう一度確認しますと・・・二の丸の南にも何かある様子。

↑ 大手門跡まで戻って、石垣を廻り込むと・・・おぉ!!! 曲輪の跡が。

↑ こりは縄張り図によると・・・空掘の跡らしいですね。
縄張り図によるとココは・・・「蔵屋敷」曲輪だそうです。

↑ 曲輪の外周を囲む土塁跡も残ってるぞ?

↑ その土塁跡の土台?部分を固める石垣です。

↑ この曲輪の南西のコーナーには、虎口が。

↑ その虎口を下りてゆくと、またまた空掘がありまして、

↑ その更に先の「南曲輪」は・・・残念ながら竹ヤブと化しておりました。

↑ しかし、見事に残っておりますのぅ、空掘が。
なんか、嬉しくなりませんか? ・・・なんないですよね、ハイ。
二俣城の場合は、鵜殿さんは徳川に降参し、松井さんは逃げ出して武田を頼る、というカタチをとったみたいです。
まあ、この時点では、
「徳川が武田にかなうはずがない。 武田についた方が利口だ。」
という考え方が支配的でしたから。
「大井川の西は徳川、東は武田で駿遠を分け取りにする。」
という密約には誰も気づいていなかったんですね。
無理もないか。
(もうちょい続くよん)
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