三河物語54.二俣城お味方に@
2010年03月08日(月) 7時45分
おはようございます。
先週は(木曜日に)京都日帰り出張があったので、「ヨシッ! この勢いで信長公記再開ダァー!」と意気込んだのですが・・・
先週末は雨で終わってしまいましたね。
うぅぅぅぅぅ。 ネタが尽きた。
そうゆうワケで、もう少し三河物語ワールドにお付き合いくださいまし。
さて、あっけなく井伊谷城を下した家康さんは、鈴木三郎大夫重時さん、近藤岩見守康用(やすもち)さん、菅沼次郎衛門忠久さんの3人に城代を命じました。
この3人は、後に井伊谷3人衆と呼ばれるようになります。
(まだまだ井伊直政さんの出番は来ないようですね。)
で、先に書いたように徳川軍は浜松/曳馬城(浜松城)目指して南下してゆくわけなんですが・・・その行軍の背後が気になりますよねぇ?
曳馬城を目指している最中に、背中や横腹を突かれては困ります。
現・浜松市の北に位置する二俣城がソレに当たるわけで、そこはまだ今川のハタを降ろしていないんです。

↑ 大手門跡でございます。
この二俣城は、天竜川の湾曲部にそそり立つ山を要害化したお城で、険しいことこの上なし。
だけど、今はクルマで本丸近くまで行けちゃうんですよね。
ホントは、この大手門にたどり着く前にも帯曲輪とかあったらしいんですが・・・今では、アッと言う間に大手門、でごじゃりまする。

↑ 大手門の左袖と、

↑ 右袖です。
石垣マニアの方はすぐに分かるでしょうが、角っこの石の積み方が整然とした算木積みになっていません。
つまり、結構古い遺構だ、とココで分かるワケですね。

↑ 現在の遺構は、こんなふうになってます。

↑ 大手門跡の左袖に上ってみると、「物見櫓跡」とありました。
そりゃ眺めはよかったでしょうねぇ。

↑ そして、大手口は二の丸へと続きます。
ここはフラワーガーデンみたいになってるらしい。
あいにく、今の季節は何も咲いてませんでしたが。

↑ その二の丸に鎮座する城山稲荷神社さんです。
二俣城は元々、今川家の家来衆・松井宗恒(むねつね)さんのお城でした。
そこでやっかいになっていたのが、鵜殿氏長さん。
鵜殿?
憶えていらっしゃるでしょうか?
彼こそが、上ノ郷城の落城の際に松平勢の捕虜になり、竹千代(徳川信康)くんとの人質交換のタネになった子供なんです。
この時(1568年当時)、19歳ぐらい。
・・・って、よく考えてみれば、本多忠勝さんや榊原康政さんとほぼ同い年だから、「子供」じゃないか。
立派な「武将」ですよね?
ま、そりはさておき、鵜殿長照パパの仇=徳川軍にまたもや補足されちゃったわけですな。 可哀想に。
しかたなく、松井さんと共に降参し、曳馬城攻めの案内をすることになっちまったようです。
こりで、徳川軍も背後を気にしなくて済むようになりました。
・・・氏長さんにしてみれば、長照パパを殺し、住み慣れた上ノ郷城を奪った松平軍(徳川軍)から、人質交換というカタチでようやく逃れたのに、またまた寄宿先で徳川軍に降参するハメになろうとは。
「これも戦国の世のならい。」と、割り切ったんでしょうかねぇ?
彼はこれ以降徳川家に仕え、最終的には旗本となっていきます。
そう言えば・・・これは幕末話になるんですが、新撰組の基になった「浪士組」編成の責任者で、鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)とゆう幕臣がおりましたな。
清川八郎暗殺の黒幕とも言われる人ですが・・・・この鵜殿さんの子孫なんでしょうかね?
ま、いっか。
(続くよん)
先週は(木曜日に)京都日帰り出張があったので、「ヨシッ! この勢いで信長公記再開ダァー!」と意気込んだのですが・・・
先週末は雨で終わってしまいましたね。

うぅぅぅぅぅ。 ネタが尽きた。
そうゆうワケで、もう少し三河物語ワールドにお付き合いくださいまし。
さて、あっけなく井伊谷城を下した家康さんは、鈴木三郎大夫重時さん、近藤岩見守康用(やすもち)さん、菅沼次郎衛門忠久さんの3人に城代を命じました。
この3人は、後に井伊谷3人衆と呼ばれるようになります。
(まだまだ井伊直政さんの出番は来ないようですね。)
で、先に書いたように徳川軍は浜松/曳馬城(浜松城)目指して南下してゆくわけなんですが・・・その行軍の背後が気になりますよねぇ?
曳馬城を目指している最中に、背中や横腹を突かれては困ります。
現・浜松市の北に位置する二俣城がソレに当たるわけで、そこはまだ今川のハタを降ろしていないんです。

↑ 大手門跡でございます。
この二俣城は、天竜川の湾曲部にそそり立つ山を要害化したお城で、険しいことこの上なし。
だけど、今はクルマで本丸近くまで行けちゃうんですよね。
ホントは、この大手門にたどり着く前にも帯曲輪とかあったらしいんですが・・・今では、アッと言う間に大手門、でごじゃりまする。

↑ 大手門の左袖と、

↑ 右袖です。
石垣マニアの方はすぐに分かるでしょうが、角っこの石の積み方が整然とした算木積みになっていません。
つまり、結構古い遺構だ、とココで分かるワケですね。

↑ 現在の遺構は、こんなふうになってます。

↑ 大手門跡の左袖に上ってみると、「物見櫓跡」とありました。
そりゃ眺めはよかったでしょうねぇ。

↑ そして、大手口は二の丸へと続きます。
ここはフラワーガーデンみたいになってるらしい。
あいにく、今の季節は何も咲いてませんでしたが。

↑ その二の丸に鎮座する城山稲荷神社さんです。
二俣城は元々、今川家の家来衆・松井宗恒(むねつね)さんのお城でした。
そこでやっかいになっていたのが、鵜殿氏長さん。
鵜殿?
憶えていらっしゃるでしょうか?
彼こそが、上ノ郷城の落城の際に松平勢の捕虜になり、竹千代(徳川信康)くんとの人質交換のタネになった子供なんです。
この時(1568年当時)、19歳ぐらい。
・・・って、よく考えてみれば、本多忠勝さんや榊原康政さんとほぼ同い年だから、「子供」じゃないか。
立派な「武将」ですよね?
ま、そりはさておき、鵜殿長照パパの仇=徳川軍にまたもや補足されちゃったわけですな。 可哀想に。
しかたなく、松井さんと共に降参し、曳馬城攻めの案内をすることになっちまったようです。
こりで、徳川軍も背後を気にしなくて済むようになりました。
・・・氏長さんにしてみれば、長照パパを殺し、住み慣れた上ノ郷城を奪った松平軍(徳川軍)から、人質交換というカタチでようやく逃れたのに、またまた寄宿先で徳川軍に降参するハメになろうとは。
「これも戦国の世のならい。」と、割り切ったんでしょうかねぇ?
彼はこれ以降徳川家に仕え、最終的には旗本となっていきます。
そう言えば・・・これは幕末話になるんですが、新撰組の基になった「浪士組」編成の責任者で、鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)とゆう幕臣がおりましたな。
清川八郎暗殺の黒幕とも言われる人ですが・・・・この鵜殿さんの子孫なんでしょうかね?
ま、いっか。
(続くよん)
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