三河物語50.井伊谷・龍潭寺A
2010年03月02日(火) 6時35分
井伊家霊殿から、本堂の裏手(北側)に廻り込みますと、小堀遠州さんの造ったお庭がございます。

↑ 利休さんの孫弟子・小堀遠州さんです。
こりは、まだ壮年の頃、ワザと老人風に描かせた肖像画だそうですな。
小堀遠州さんが作庭されているのは、彦根・龍潭寺さんと同じなのですが、庭の趣は大分異なります。
はは〜ん。
先ほどの井伊谷宮に遠州さんの歌の短冊があったのは、この関係なんですかね?

↑ 本来は本堂の縁側(?)から眺める庭ですが、本堂が工事中の為、2〜3メートル庭に張り出した渡り廊下から眺めることに。
ち、近い!


↑ 自動案内テープが、須弥山を模した山に、「心」の字を映した池に、などと説明してくれますが、近すぎて何が何やら分からん!
(断っときますが、わたしゃ老眼じゃありませんyo。)
日本庭園というのは既に室町時代から、遠近法や一点透視法などの西洋から伝わった技法を取り入れており、「視点」を意識して造られておるのですよ。(大抵は縁側からの視点)
だから、なんでも近くで見れりゃいい、ってもんじゃないことを、実感いたした次第でございます。
まぁ、普段は見れない場所から見れることは確かなんですが。

↑ ほぼ真横からみた図、でございます。
やや不満を残しながら庭園を後にし、書院の出口に向かおうとした時です。
何気なく、廊下にある陳列棚に目をやると、

↑ えぇぇぇぇぇぇ! 信長公の遺品の茶入れ、ですかぁ?
南京焼き茶入れ、とありますね。

↑ ここで大殿の遺品にお目にかかれるとは!
信長公の時代は、まだ利休さんの「侘び茶」が確立する前なので、「名物」というのは舶来物、つまりほとんどが中国製だったんです。
こりは、足利義政さん(銀閣寺を造った人)以来の伝統なんですが・・・。

↑ ふぉぉぉぉぉ! こりも信長公の遺品、天目茶碗(てんもくちゃわん)だぁー!
「天目茶碗」とは、天目釉(てんもくゆう)という鉄釉をかけて焼かれたモノを言います。
有名なトコでは、石山本願寺の顕如上人が信長公に贈ったとされる「白天目茶碗」とか・・・。
そうかぁ・・・。 こりを信長公が持ってたのかぁ・・・。
ガン見。

↑ にょほほほほ。
同じく信長公の陣中茶碗までありました。
信長公の集めた「名物」の内、最上のモノたちは本能寺の変で焼失しちまいましたが、まだまだ残っていたんですねぇ・・・。
しかし、なんでこんなとこ(失礼!)に信長公の遺品があるんだ?
そりはそりとして、(陣中茶碗でもいいから)どれか1コ欲しいなぁ・・・などとラチもないことを考えながら、お隣に眼をやると、

↑ は? 東山天皇のお召になっていた服、ですか?
この方は、確か・・江戸時代の元禄期あたりの帝だったような・・・。

↑ 同じく東山天皇の女御のお召物だそうです。
こりは・・・井伊家が南朝以来の勤皇の家、とゆうことで下賜されたモノでしょうか?
いやいや、さきほどの井伊谷宮といい、ココといい、思いがけない場所で思いがけないモノを見ることができました。

↑ 書院を出て、南側のお庭に廻ろうとすると、井伊直政さんの誕生の地、の石碑が。

↑ だけど、家康さんが井伊谷に到達した頃には、井伊家は息も絶えだえで、当の直政さんは三河の鳳来寺さん(ブッポーソーで有名ですな)に逃げ込んでおる始末。
まあ、当時7〜8歳のコドモが、今川氏真さんに命を狙われたんですから、どうしようもないっスよね。
彼が遠江に戻って来て家康さんに仕えるようになるのは、1575年、つまりこの時(徳川軍の遠州侵攻)から更に7年後になるんです。
直政さんが15歳ぐらいになり、元服できる年頃になってからですな。
そんな外様中の外様の若輩者が、なんで「四天王」に数えられるようにまでなったか、つーのは・・・へへへへ。
追々分かって来ると思いますので、その辺はアセらずに。

↑ 南のお庭には、これまた立派な「仁王門」がありました。
・・・う〜ん、今回だけじゃ書き切れないなぁ。
もう1コ続きと致しとうございます。

↑ 利休さんの孫弟子・小堀遠州さんです。
こりは、まだ壮年の頃、ワザと老人風に描かせた肖像画だそうですな。
小堀遠州さんが作庭されているのは、彦根・龍潭寺さんと同じなのですが、庭の趣は大分異なります。
はは〜ん。
先ほどの井伊谷宮に遠州さんの歌の短冊があったのは、この関係なんですかね?

↑ 本来は本堂の縁側(?)から眺める庭ですが、本堂が工事中の為、2〜3メートル庭に張り出した渡り廊下から眺めることに。
ち、近い!


↑ 自動案内テープが、須弥山を模した山に、「心」の字を映した池に、などと説明してくれますが、近すぎて何が何やら分からん!
(断っときますが、わたしゃ老眼じゃありませんyo。)
日本庭園というのは既に室町時代から、遠近法や一点透視法などの西洋から伝わった技法を取り入れており、「視点」を意識して造られておるのですよ。(大抵は縁側からの視点)
だから、なんでも近くで見れりゃいい、ってもんじゃないことを、実感いたした次第でございます。
まぁ、普段は見れない場所から見れることは確かなんですが。

↑ ほぼ真横からみた図、でございます。
やや不満を残しながら庭園を後にし、書院の出口に向かおうとした時です。
何気なく、廊下にある陳列棚に目をやると、

↑ えぇぇぇぇぇぇ! 信長公の遺品の茶入れ、ですかぁ?
南京焼き茶入れ、とありますね。


↑ ここで大殿の遺品にお目にかかれるとは!
信長公の時代は、まだ利休さんの「侘び茶」が確立する前なので、「名物」というのは舶来物、つまりほとんどが中国製だったんです。
こりは、足利義政さん(銀閣寺を造った人)以来の伝統なんですが・・・。

↑ ふぉぉぉぉぉ! こりも信長公の遺品、天目茶碗(てんもくちゃわん)だぁー!

「天目茶碗」とは、天目釉(てんもくゆう)という鉄釉をかけて焼かれたモノを言います。
有名なトコでは、石山本願寺の顕如上人が信長公に贈ったとされる「白天目茶碗」とか・・・。
そうかぁ・・・。 こりを信長公が持ってたのかぁ・・・。
ガン見。

↑ にょほほほほ。
同じく信長公の陣中茶碗までありました。信長公の集めた「名物」の内、最上のモノたちは本能寺の変で焼失しちまいましたが、まだまだ残っていたんですねぇ・・・。

しかし、なんでこんなとこ(失礼!)に信長公の遺品があるんだ?

そりはそりとして、(陣中茶碗でもいいから)どれか1コ欲しいなぁ・・・などとラチもないことを考えながら、お隣に眼をやると、

↑ は? 東山天皇のお召になっていた服、ですか?
この方は、確か・・江戸時代の元禄期あたりの帝だったような・・・。

↑ 同じく東山天皇の女御のお召物だそうです。
こりは・・・井伊家が南朝以来の勤皇の家、とゆうことで下賜されたモノでしょうか?
いやいや、さきほどの井伊谷宮といい、ココといい、思いがけない場所で思いがけないモノを見ることができました。


↑ 書院を出て、南側のお庭に廻ろうとすると、井伊直政さんの誕生の地、の石碑が。

↑ だけど、家康さんが井伊谷に到達した頃には、井伊家は息も絶えだえで、当の直政さんは三河の鳳来寺さん(ブッポーソーで有名ですな)に逃げ込んでおる始末。
まあ、当時7〜8歳のコドモが、今川氏真さんに命を狙われたんですから、どうしようもないっスよね。
彼が遠江に戻って来て家康さんに仕えるようになるのは、1575年、つまりこの時(徳川軍の遠州侵攻)から更に7年後になるんです。
直政さんが15歳ぐらいになり、元服できる年頃になってからですな。
そんな外様中の外様の若輩者が、なんで「四天王」に数えられるようにまでなったか、つーのは・・・へへへへ。
追々分かって来ると思いますので、その辺はアセらずに。

↑ 南のお庭には、これまた立派な「仁王門」がありました。
・・・う〜ん、今回だけじゃ書き切れないなぁ。
もう1コ続きと致しとうございます。
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