大勅書 

January 01 [Mon], 2018, 0:02
1451~1492: Exsurge domine (1520年6月15日)

 マルチン・ルターの95箇条の命題はいち早く全ドイツに広まり、多くの者の同感を得、教会にとって大きな危機になった。ルターはすでに1517年11月にローマに訴えられ、ローマへ呼ばれた。レオ10世は自分の態度を変え、枢機卿カエタヌス・デ・ヴィオにルターと交渉し、その意見を撤回させるように委任した。1518年10月のアウグスブルグの国会も、その他の場所での討論会も不成功に終った。
 1519年6月27日〜7月16日のライプチッヒの宗教討論会では、カトリック教会側の強力な弁護者ヨハン・エックと改革者ルターおよびカールスタットとの討論は特に注目に価する。ローマではヨハン・エックによるライプチッヒ宗教討論会の議事録にによって、ルターに対する裁判が進められた(1520年1月~4月)。この裁判にケルン大学とルーヴァン大学も協力した。…ルターがその誤謬を全然撤回せず、1520年12月10日の大勅書を公衆の面前で焼き捨てたので、1521年1月3日の大勅書「デチェット・ロマヌム・ポンティフィチェム」によって破門された。…大勅書の命題は、ルター自身の命題をほとんどそのまま引用してある。…

 マルチン・ルターの誤謬

1451(741)@ 新約の秘跡は障害を持たない者に義化の恩恵を与えるという説は一般に受入れられているが、異端である。

1452(742)A 洗礼を受けた後の幼児に罪が残ることを否定する者は、パウロとキリストを同時に踏みつけることである。

1453(743)B 自罪がなくても罪の芽は肉体を離れた霊魂が天国にはいるのを遅れさせる。

1454(744)C 死に直面した者の不完全な愛は、必然的に大きい恐れを伴う。この恐れは、自分ひとりで煉獄の罰を償うために十分であり、天国に入ることを妨げるものである。

1455(745)D 告解には痛悔と告白と償いの三つの部分があるというのは、聖書にもキリスト教の昔の博士たちの教えにも基づいていない。

1456(746)E 痛悔は罪の糾明と罪を嫌うことによって準備し、それによって自分の罪の重さ、数、害や永遠の幸福を失い、永遠に罰せられることを考え、自分の魂が苦しんだ年月を数えなおすことである。この痛悔によって、人は偽善者とない、もっと悪い罪人になる。

1457(747)F 「二度としない、ということは最上の痛悔である。最上の悔俊は新しい生活である」ということわざは、今までにあった痛悔についてのすべての教えよりもすぐれたものである。

1458(748)G どんなことがあっても小罪を告白しようなどと考えてはならない。そしてすべての大罪を思い出すことは不可能なことであるから、すべての大罪を告白しようなどと考えてはならない。それだから初代教会では公の大罪だけを告白したのである。

1459(749)H われわれがすべてを告白しようと心から望むことは、神がその憐れみによって赦すことを何も残さないことである。

1460(750)I 司祭が赦しを与える時に赦されたと信じなければ、罪は赦されていない。実際に赦されたと信じなければ罪が残る。罪の赦しと恩恵の授与だけでは不充分であり、赦されたと信じなければならない。

1461(751)J 痛悔をしたから赦されたと決して思ってはならない。「あなたが地上で解くものは、みな天でも解かれるだろう」(マタイ16・19)というキリストの言葉によって赦されたのである。司祭から罪の赦しを受けたので、赦されたと固く信頼し、信じるのであれば、痛悔があってもなくてもあなたは本当に赦されたのである。

1462(752)K 告白をする人が痛悔をしていなくても(実際にこれは不可能であるが)または、司祭が本気でなく、冗談で赦したとしても、自分は赦されたと信ずる人は本当に赦されている。

1463(753)L 告解の秘跡と罪の赦しとについて、教皇や司教は単なる一司祭と同じ権限しか持っていない。司祭がいない時には女でも子供でも、すべてキリスト信者は同じことができる。

1464(754)M 痛悔しているかどうかという司祭の質問に答える必要もなければ司祭はこれについて尋ねてはならない。

1465(755)N 告白をしていても、大罪がなくても、準備の祈りを唱えても、それに信頼しているものが、聖体を拝領することによって、自分自身の裁きを飲食するのである。聖体拝領によって恩恵を受けると信じ、信頼する者はこの信仰だけで清く、ふさわしくなる。

1466(756)O 信徒は両形色のもとに聖体拝領すべきである、と公会議によって教会は決定するがよい。両形色のもとに聖体を拝領しているボヘミア人は、異端者ではなく、離教者である。

1467(757)P 教皇が免償を与える教会の宝庫は、キリストと聖人たちの功績によるものではない。

1468(758)Q 免償は信者を迷わせ善業を怠けさせるための信心深い詐欺であって、許されはするけれども役に立つものではない。

1469(759)R 神の正義が要求する自罪の罰のゆるしのために、免償は実際にもらっていても何の役にも立たない。

1470(760)S 免償が有益なもの、霊的に役立つものと信ずる人は欺されている。

1471(761)21 免償は公の罪にだけ必要であり、頑固な者と短気な者だけに与えられる。

1472(762)22 次にあげる階層の人々、すなわち死者または死に直面した者、病人、合法的に償いができない者、罪を犯さなかった者、隠れた罪を犯した者、善業を行う者にとって、免償は不必要であり、無益である。

1473(763)23 破門は外的に制裁だけであって、教会の祈りによる霊的交わりから除外することはできない。

1474(764)24 破門を恐れるよりは、それを愛するようにキリスト者に教えるべきである。

1475(765)25 ペトロの後継者であるローマ教皇は、聖ペトロにおいてキリストから全世界のすべての教会の上にキリストの代理者と任命されたのではない。

1476(766)26 「地上で解くものはみな…」(マタイ16・19)と主がペトロに言った言葉は、ペトロによって個人的につながれたものだけを解くのである。

1477(767)27 信仰箇条を制定したり道徳または善業に関する法を定めたりするのは、教会または教皇の権限でないことは確実である。

1478(768)28 教皇が教会の大部分と同じ意見を持つならば、誤ることはない。しかし、特に救いに必要でないことがらについて、反対の意見を持つことは、公会議によって一方が排斥され、他方が承認されるまで、誤りまたは異端ではない。

1479(769)29 公会議の権威を弱め、自由にその決議事項に反対し、その中で真実と思われること、承認されること、非難されたことを信ずることが自由である。

1480(770)30 コンスタンツ公会議で排斥されたヨハネス・フスの命題のあるものは完全にキリスト教的なものであり、福音の教えに忠実なものであり、全教会もこれを破門することはできない。

1481(771)31 すべての善業において義人は罪を犯す。

1482(772)32 完全に行われた善業は小罪である。

1483(773)33 異端者を火刑に処すのは聖霊の意志に反する。

1484(774)34 トルコ人を攻撃することは、彼らを通してわれわれの不正を罰しようとする神の意志に反することである。

1485(775)35 高慢の罪は隠れたものであるため、大罪を犯さなかったという確信を誰一人として持つことはできない。

1486(776)36 (アダムの)罪の後、自由意志は名前だけのものであって、ある人が自分の力でできることをする時、大罪を犯す。

1487(777)37 煉獄の存在は正典に含まれている聖書から証明できない。

1488(778)38 煉獄の霊魂は自分たちの救いについて確信を持っていない。少なくともみんなは確信をもっていない。また彼らが功績を立てたり、愛徳を増したりする状態にないということは、理性によっても聖書によっても少しも証明されていない。

1489(779)39 煉獄の霊魂は安息を求め、罰を恐れている間は絶えず罪を犯している。

1490(780)40 地上の信者の代願によって煉獄から解放された霊魂は、自分自身で償いを果たした者よりも少ない幸福の状態にいる。

1491(781)41 教会の高位聖職者および世俗の君主が、托鉢者の袋をすべてなくしてしまっても、悪いことをしているのではない。

1492(782)(譴責) 上にあげた全部と各条項すなわち誤謬はそれぞれ、異端、つまづき、あやまち、信者の耳を傷つけるもの、素朴な人々を誤りに導くもの、カトリックの真理に反するものとして、有罪であると宣告し、非難し、完全に排斥する。

ハドリアヌス6世: 1522年1月9日〜1523年9月14日
クレメンス7世: 1523年11月19日〜1534年9月25日

『カトリック教会文書資料集』より
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