担当者にだって賞味期限がある

November 03 [Thu], 2005, 12:13
前にマネジャーとしての賞味期限について触れた。

似たようなことが第一線担当者としてもあるということに思い当たった。まさに私の経験になぞらえながら整理してみたい。
1991年D社の本社人事部に配属になったとき、「みんななんでこんなに枝葉末節のことばかりに時間をかけているんだ」と直感した。たしかにやっている立場の人にしてみれば、やらなければならないことをやっているのはわかる。しかし人事部全体でみたときに、本丸にはほど遠いことを、手間をかけながらやっているという感じなのだ。なげかけてみると、それぞれに問題意識として、本丸ではないとは認識しているようだ。
その中には「上から言われてやむをえず」というものがたくさんあったのも否めない。
それぞれの担当者が転勤していったあと、どの後任者も同じボリュームの残業はしていなかった。
それから11年。私は同じ場所にずっと居続けた。末期には土、日も出勤しなければならないほどたくさんの仕事があった。でもその多くは惰性であり、雑務であるという感があった。
本丸にアプローチしていないという感覚がものすごくあった。
部長に対してなんとかしてくれといっても「オレは知らん」といわれた。かといってそういうところに手をつけないと、結果としては、仕事の完成度は不十分なのだ。
やらなければ不完全なアウトプット、やっても達成感も充実感もない。非常にジレンマを感じた。
その年にその部署を転出し、後任がなかった。現有人員でまわしていくことになったのだ。そして、何の問題もなく定常の仕事はまわった。
これが、第一線担当者の賞味期限を如実にあらわした例であると思う。
人に仕事がついてくる形になっていたのだと思う。だからその人がいなくなれば、ある一定の仕事そのものが消滅するのだ。
マネジャーとしての賞味期限はどちらかというとその人の能力の限界であるが、第一線担当者の賞味期限はそこの部署での問題であり、違う仕事をすればその人は息を吹き返す。
ある人が長時間労働をしているにもかかわらず、根本的な問題解決がされていないとか、新しいものが生まれていないという状況が明らかになったとき。それが賞味期限である。
その状態になったら、仕事を変えてやるのが、会社にとっても本人にとってもハッピーである。

賞味期限(その2)

November 03 [Thu], 2005, 12:12
【続き】

課長は課長として、部長は部長として、ひいては社長は社長として、それぞれの役割における責任と権限をもっている。第一線で仕事をする者は、自分の仕事をまっとうしていく中で、問題点にぶつかり、解決策をつくってさらに前に進んでいく。
ただし、その解決策が自分の権限だけでは決められず、自分の上司やあるいは責任を持つ部門へ働きかける。
たとえば人のことを相談しに人事部長のところへ行くということもあれば、開発案件の優先順位の相談をしに研究所長のところへ行くというといったようなことだ。
最初は「権限を持っている人だから」ということでその役割を持つ人のところに相談にいき、問題解決を図ろうとする。ところが、それを繰り返すうちに「この人に相談しても問題解決を図ることができない」ということに気づくことがある。
実は最初から問題解決力や意思決定力がない場合もある。だんだんと保身が進んできて、大胆な意思決定ができない場合もある。他の人との関係で実質的な権限が行使できない場合もある。
いろんなケースはあるにしても、「この人に行ってもムダだ」と思う場面が出てくる。
そう思う人が一人だけだったら、それはアプローチする側が下手くそだったり、調整能力がないということに過ぎない。ところが、そう思う人がどんどん増えていったとしたら、これはアプローチする側の問題ではない。受け手サイドの問題だ。
賞味期限が切れたのだ。
賞味期限切れを判断して、適切に役割をはずすということが人事的には非常に大事な要素になると思われる。
難しいのは制度にならないことだ。本人の能力そのものではなく、本人に対してまわりがどう捕らえているかが重要なファクターになるからだ。
人事をつかさどる責任者は、賞味期限の判断がつかなくなったらその人自身が賞味期限切れなのかもしれない。

賞味期限(その1)

November 03 [Thu], 2005, 12:10
ある日ふと頭に思い浮かんだ言葉 それが「賞味期限」だった。
会社によっては「役職定年制」をもっているところがある。その多くは部長職は57歳までとか、課長職は55歳までとかいう年齢によって制限を設けるものである。役員についても明示的ではないものの役員定年を内規で定めているケースはある。
画期的だなと思ったのは、役職を年数で決めているケースだ。たとえば課長は5年とか、部長は8年といった類だ。
これらの会社を追跡はしていないが、おそらく年齢や年数で一律に定年とするルールは実用には耐えないだろうと思われる。そして例外的取り扱いが続くとその制度そのものが陳腐化してしまうのだ。人事制度によくあるケースだ。
ただ役職定年を決めたい気持ちは非常によくわかる。そしてその切り口として適切ではないかと思われるのがその人の「賞味期限」だ。

【その2へ続く】

「郵政民営化」と民間ビジネス(その2)

November 03 [Thu], 2005, 12:08
【続き】

(3)郵便局の数は減る・・・・否
郵便局が「郵便」「貯金」「保険」の仕事だけをやっていくとしたら、その数は減っていくかもしれない。銀行の統廃合により支店が減っていることでも明らかだ。それでも現金がおろせる場所は増えている。コンビニにその機能ができたり、ATMの専用エリアができたりしている。
コンビニがその数を増やしてきたように、ある一定の距離での拠点は大事である。
郵便局がその拠点として機能し、三事業以外のものを取り込んでいけばいい。もちろんある領域のビジネスの素人がやればそれだけで儲かり拡大するというものではない。リスクはある。ただ販売活動に「チャネル」というものは非常に重要である。しっかりした地元チャネルをもっているのだから、そこに何をのせていけばいいのかを経営的に考えていくことが大事だ。

まだまだいくつもの視点があると思うが、「民営化できない」というのは、お偉いさん方の民間企業に対する蔑視があるように思えてならない。もはや官でないと信用されない時代は終わっている。
民間企業では、「徹底的なアウトソーシング」ということが行われている。いわば民間企業のさらなる民営化だ。
単なるリストラの側面も否めないが、「何は自分たちでやるできだ」「何はアウトソーシングできる」ということを、その実態にあわせて見極めようという努力の過程だ。
人事の仕事もかつては聖域であったが、個人情報の秘密さえきちんと守られる保障があれば、ほとんど何でもアウトソーシング可能だということが見えてきつつある。

大事なのはセーフティネットだけしっかりはって実行すること。そうすればさらに次の課題が見えてくると思う。


(2005/06)

「郵政民営化」と民間ビジネス(その1)

November 03 [Thu], 2005, 12:05
郵政民営化がとりだたされている。
賛成、反対いろいろな意見があげられているが、私は賛成。
細かいところの仕組みについては理解できていないところもあるが、おおまかなところをきちんと押さえておきたい。
反対派の意見について、こう思う。

(1)公の仕事は国がやらないとできない。・・・否
国だから安全であって、民間だから危険であるという保障など何もない。社会保険庁、神奈川県警、大阪市役所などの報道でも明らかなように、官の組織でもきちんとできていないことなど山ほどある。
そもそも「役人仕事」という言葉があって、官として仕事をやることは信用されていないのだ。
「民間は儲け主義一本」という見方があるが、これもステレオタイプな発言で、コンプライアンスということがかなり経営の柱になりつつある。長期的に見れば、コンプライアンスのない利益などないといっても過言ではない。
大事なことは、やるべき仕事をきちんと果たし、一方個人情報などの守るべきものはきちんと守ること。
(2)民間がやるとサービスの切捨てになる ・・・否
国鉄や電電公社が民間になってどうなったかというと結果としてはサービス合戦になっている。
もちろん従来のサービスはなくなっているかもしれない。だがその代替のものは生まれて、とーたるとして市場は拡大しているのだ。
国鉄の路線はずいぶんと廃止はされてしまった。ではその地域の人は身動きできずに自分たちの町や村にじっとしているかというと、バスが代替し、あるいは自動車による往来が発達している。トータルで見るとなんらかの代替機能がそなわっている。鉄道であることだけに固執すればサービスの切捨てに見えるかもしれない。
通信も電電公社のままであれば、ここまで携帯電話は発展しなかったかもしれない。
いまや郵政公社がかかえる「郵便」「貯金」「保険」はいずれもインターネットでの対応が可能な商品だ。インターネットが使えるのであれば、都市だの田舎だのはまったく関係なくなる。
そうなるとお年寄りでもインターネットが使えるとか、本当に品物のデリバリーをどうするか、ということに焦点はうつる。それは民営化であるかどうかということとは無関係である。

【その2へ続く】

(2005/06)

福利厚生(その3)

November 03 [Thu], 2005, 12:02
ちなみにD社で福利厚生の見直しをしていたときに、無理矢理私が割り込んでいって整理したベースの考え方がある。
まだ具体的な制度への展開は十分ではないが、「ライフスタイルサポート」という単語はそれなりに社内に定着した。
その考え方とは次のようなものである。
 ●自己責任による自己選択で自己負担が原則
 ●会社の役割は場の提供
 ●税制メリットを享受できるものは追求する
 ●スケールメリットが享受できるもの追求する

1999年にまとめたものであるが、少し時代が早すぎたかもしれない。それから5年が経過して進んだ会社はこういったことをベースにしくみに落とし込んでいるし、あと10年以内には当然のこととして世の中に浸透していると自負している。

(2004/12/28)

福利厚生(その2)

November 03 [Thu], 2005, 12:00
【続き】
改めて福利厚生に絞るとすれば、賃金として渡すか、福利厚生として提供するかは、企業全体のサイフからみれば同じなのだ。
わかりやすい形で表現してみることにする。

仮に1000人の企業で年間6億円の(法定外)福利厚生費を使っていたとする。そうするとひとりあたり月5万円になる。
そこで給料明細に「福利厚生手当」として月5万円を支給し、「福利厚生サービス費」として月5万円を控除するのだ。
(細かいことをいうと、本当に手当として払うと税金も社会保険料もかかることになるが、便宜上なので、この手当は表示しているだけで、税金も社会保険もかからないということにしておく)
ここの福利厚生サービス費は全部つっこみのどんぶり勘定だ。そうすると「なんでこんなに高いんだ」とクレームをいいたくなる。ある人には「あなた社宅を使っていて、社宅料を1万円しか徴収していないけど、あそこの家賃は10万円なんです。その差額9万円は福利厚生サービス費です」と説明することになる。多くの恩恵をもらっている人はたぶんそれで納得するだろう。でもその分をかぶっている人がいることになる。
なかなかすぐには受け入れてもらえないかもしれないが、福利厚生とは本質的にこういう形での互助によって成り立っていると認識をするべきなのだ。
互助の認識がないから、福利厚生は充実していればしているほどよく、それにあてる原資がなければ、外からもってくればいいという発想が生まてしまう。そこに厚生労働省のケシカラヌ自体が生まれるのである。

【その3へ続く】
(2004/12/28)

福利厚生(その1)

November 03 [Thu], 2005, 11:59
厚生労働省の役人によって、われわれの大事な年金原資が彼らの福利厚生費用に化けたとか、各省庁の役人が、極めて安い値段で豪華な住居に住んでいるとかというのが、今までにも増して問題としてあげつらわれるようになった。
これは何にも増して、「福利厚生」の概念を日本の国をあげて変えていかなければならない局面に来ているのだと思う。
一般的に福利厚生とは、お給料以外にもらえる恩恵と受け取られている。
「給料が安い分、社宅があるのだ」という論理は、公務員の世界だけでなく、企業でもよく言われることである。
保養所があったり、海外旅行ができたり、社員割引でものが買えたり、ということが優良企業ほど充実しているというのがある時期事実でもあった。
ところが、最近少なくとも私企業においては、総人件費という見方が主流である。
月例賃金、ボーナスは当然として、社会保険料、退職金、そして福利厚生も全部同じふところであるということだ。
退職金については、退職給付債務削減が大きな問題になったり、退職金をなくして月例給料で払うという会社が増えていることにそれが表れている。
福利厚生についても、社宅を売却して住宅手当に置き換えたり、カフェテリアプランの導入によってサービスを維持しながらコストを下げようとしているというのがその一例である。

【その2へ続く】
(2004/12/28)

成果主義の中で忘れられていること(後半)

November 03 [Thu], 2005, 11:57
【続き】
営利を目的とする企業である以上は、最終的な目標が利益でなければならない。これは絶対に否定しない。だから利益という成果を出すためにすべての人が役割を果たす。
ただそこには時間軸というものが存在する。ある仕事は今日きちんとやりとげなければ、売上や利益につながらない。仕事の種類によって、それが月単位であったり、三ヶ月単位であったりする。会社の決算という意味で一年というのはひとつの区切りである。
だが本当に利益を生む力はもっと長いスパンだ。3年、5年あるいは20年といったものまである。もちろん20年先の利益をきちんと定義することなど不可能であるが、ベクトルは確実にある。
ところが人事制度は得てして1年単位だ。1年で評価できることしか俎上には上がってこない。「5年先の仕事にも1年ごとの一里塚がある」とはこれまたもっともらしい理屈であるが、その1年先の姿を言葉にあらわすと極めてアバウトになる。精緻に記載しようとすれば、極めて陳腐なものにしかならない。
ここに今世の中で流行している「成果主義型人事制度」の限界がある。
日々ルーチンの仕事をやっている人を「誰でもできる単純作業」とみれば、成果主義の中ではあまりクローズアップされない。「日々の仕事をきちんとやることで、社会に信頼を得る役割」と見た時には、非常に大きな価値になる。実はコンプライアンスそのものであるとも言える。それは時間をかけてにじみ出てくる。
成果主義に時間の概念を取り去ってしまったとき、これほど無意味な思想はないとつくづく思う。
(2004/12/28)

成果主義の中で忘れられていること(前半)

November 03 [Thu], 2005, 11:53
1990年代後半ごろより、成果主義という言葉が台頭してきて、各社とも成果主義的な人事制度に移行し、そして今それの不具合が出つつあり、修正を余儀なくされているというのがトレンドであろう。
「成果主義は必ずしもよろしくない」という風潮があらわれようとしている。
私は「成果主義」はもっと徹底するべきだと思う。
ただ現在の「成果主義的な人事制度」が成果主義をきちんと反映できていないということにすぎない。
「思想」が間違っているのではなく、「道具」が間違っているのだ。
もっと言ってしまえば、人事制度だけで成果主義をささえられるものではない。もっと経営の総合的なものである。
だから人事制度だけによって成果主義を加速することは非常に困難であり、ただし人事制度によって成果主義を減速させることはおきうるということ。

【後半へ続く】
(2004/12/28)


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