仕切り直し 人事研究ランド

March 20 [Fri], 2009, 9:37
当初継続的に記事を書くつもりでしたが、実に2年以上にわたり、中断をしてしまっておりました。

この度、配置転換により人事部門から離れることになりました。
新天地でも人事に関わる仕事は多くあるのですが、今までよりも「人事」というものを客観的にみつめることはできると思うので、仕切り直しをして、再スタートをしたいと考えます。

再スタートにあたって、過去の記事を一旦全削除しようかとも思いましたが、読み直してみると手前味噌ながら自分でもなるほどと思ってしまったので、残しておこうと思います。

新生 人事研究ランド「研究小町」 をよろしくお願いします。

ホワイトカラーエグゼンプション

January 19 [Fri], 2007, 22:37
ホワイトカラーエグゼンプションが近々法案提出予定であったのに、自民党の選挙対策にまみれて、先送りされることとなった。

そもそも「ホワイトカラーエグゼンプション」というカタカナ語がわかりにくいという人もいるけれど、適当な日本語訳がない。あげくに「残業手当不払い制」みたいな表現をとるものだから、抵抗感のある人を増やす結果にもなっていると思われる。

労働基準法というのは、1947年(昭和22年)に作られているが、強制労働から労働者を守るというスタンスで作られているといっていい。
その後、世の中の変化とともに、当初の労働基準法では想定しないような働き方が出てきた。そういうものへの対応も必要であるが、一方で前時代的な仕事があるのも否定できない。まさに多様化している。
労働基準法は「最低限の条件」を決めるスタンスであるから、最近追加される条文には、”労働組合またはそれに相当する代表者との協定により定めることができる”とするものが多い。
そういう前提のもとに
●フレックスタイム制
●変形労働時間制
●裁量労働によるみなし労働
●事業場外労働によるみなし労働
といったものが実施できるようになっている。

ところが、これもいろいろな制約があるからフリーハンドに活用できるわけではない。

一方、「管理職には残業代を払わなくていい」という慣習がまかりとおっているが、これも正しい理解ではない。
昔の課長さんはえらかった。たぶん戦前の課長さんは今でいうと役員ぐらいの重みがあったのではないかと思う。
今では課長はずいぶんと安くなった。部下なし課長もたくさんいるし、プレイイングマネジャーと称して部下の管理もしながら、自分自身が一部員としての働きをしなければならないこともある。
厳密にいえば、このような課長は、労働基準法第41条第2項に規定する「管理・監督の地位にある者」にはあたらない。
しかも、仮に本当にそういう仕事についていたとしても、深夜業手当(23時から5時まで :時間あたり賃金の25%以上)は支払われなければならない。

そして何より、ホワイトカラーというのは、その人の能力によって数倍の生産性の違いがある。システム関係では最高30倍の生産性の違いがあるというレポートも見たことがある。
10%や20%の違いというならまだしも、2倍の生産性があるということは、Aさんが12時間かかる仕事を、Bさんが6時間で済ませてしまうということだ。Aさんが4時間の残業をするのに、Bさんは2時間サボることができる。あるいはその2時間でもうひと仕事できてしまう。
にもかかわらず、今のしくみのままであると、Aさんには4時間分の残業代を支払い、Bさんには何も支払わない。仮にBさんの評価が高かったとして、年間で残業代100時間、200時間に相当する賞与の差があるかというと、ほとんどの会社ではそんなことはできていない。

こんな矛盾がホワイトカラーエグゼンプション導入の背景にある。

人事制度完全無欠主義の前提となっていること

May 07 [Sun], 2006, 13:52
人事制度は基礎部分であり、「運用」が非常に重要である。
にもかかわらず人事制度を使いこなせれば、マネジメントはうまくいくという仮説がある。
その仮説が成り立つためには、少なくとも2つの前提に基づいて考えられているからであると思われる。

前提のひとつは、
「人のパフォーマンスや能力は分析することによって、完全に表しうる」
というものだ。
評価をするためにいくつかの項目を設ける。うまくいかないとなると、その評価項目を増やしたり、定義を明確にすることで解決を図ろうとする。
この前提が正しければこの解決法は適切だ。
だが、果たしてこの前提が正しいのかということを疑ってみる必要がある。
過去に経験のあることで、かつ外部環境がかわらないとしたら限りなくその能力を分析的に見ることは可能かもしれない。
だが、新しいことに対する能力は前もってそれを認識し、その要件を設定できるのかということは疑問なところだ。

もうひとつの前提は
「すべての評価者は、人事制度を完璧に理解しそれを使いこなすためのスキルを身につければ、適切な仕事のアサインや目標設定および評価を行いうる」
というもの。
社長から第一線の社員まで連鎖のあるしくみで運営されているのが理想である。
実際には理想どおりにいっていないということで、「『人事制度再説明』、『マネジメント研修』や『考課者研修』が欠かせない」という話になる。知識やスキルを身につける訓練をする。
もちろん最低限の知識は必要だが、”制度の理解度を100%に近づけ、訓練で習得可能なスキルが備われば、運用が完全無欠にできるのか”という命題は残る。


これら二つの前提が正しいとするなら、精緻に分析をし、徹底した教育をすれば、完全なマネジメントを実現することができる。
正しくないとすれば、制度の精密さはそこそこにおいておいて、本質の問題に目を向け、パワーを注ぐ必要がある。

人事制度は道具にすぎない

April 29 [Sat], 2006, 0:21
人事制度改革をやったけれど、うまくいっていないという会社をたくさん聞く。
「コンサルタントだけがぼろ儲けだ」っていう言葉がすんなりと受け入れられるところを見ると、大半の会社がうまくいっていないと見ていいのではないかと思う。

よくよく考えてみると、極めて当たり前のことだ。
人事制度とはしょせん「道具」である。
いい道具であるにこしたことはないが、大事なのはその使い方である。

プロ野球の選手がいいバットを選び、マラソンランナーがいいシューズを選ぶ。優秀な選手たちがさらにいい成績を選ぶのは必然のことだ。
では凡人のわれわれが、同じバットを持ったとしてホームランが簡単に打てるようになるかというと、まったくそんなことはない。
それと同じことなのだ。

人事の世界では、「運用」でなんとかするというパターンがある。この運用というのが極めて不透明なので、できるだけ公平・公正にしようということで制度を見直ししようとしたケースが多いのではないか。
運用の不透明な部分を解消する努力は必要だが、運用というのは大事な部分であるということを忘れてはならない。

極端な話をすると、いくら制度上降格制度や飛び級制度をもっていても、数年間にわたりそれを使わなければ、降格や飛び級はないものと理解される。使ってこそはじめて意味がある。

さらにこの議論をする中で次の言葉を言った時には、たいていの方は”人事制度は道具”ということに大きくうなづく。

「人事制度で社長を決める会社なんて聞いたことない」

本社の役割

April 16 [Sun], 2006, 0:20
「本社の役割は何なのか」ということは私の最大の関心事項である。
これは親会社と子会社との関係という点でもそうだし、ひとつの会社の中での現業部門と管理部門との関係でも言えることだ。

いくつかの経験の上で、本社に必要な基本機能は次の3つだという仮説をたてている。
(1)指針
(2)監査
(3)情報公開

指針とは、意思決定をする際の考え方の原則や方向を意味する。
一から十までおうかがいを立てるしくみでは、意思決定の迅速さは保てないし、処理案件が過剰になって本社機能はマヒしかねない。考え方をしっかりと共有して、その範囲において、現場が自由自在に動くことが何より重要だ。
次に監査。現場で行う実際の意思決定やオペレーションが指針の中に納まっているかどうかをきちんと検証して、フィードバックする必要がある。
従来監査といえば、財務・経理の監査というとらえ方が強かったように思うが、最近ようやく会社のしくみ全般に対する監査ということが一般的になってきたように思う。
そして第三は情報公開。情報さえあれば簡単に意思決定できることはたくさんある。
情報が漏洩するリスクと、情報がないあまりに適切な意思決定ができないリスクのどちらを重視するかだ。これまでは一部の者しか重要情報を持っていないために、その人や部門におうかがいをたてないと意思決定できないということがあったのは否定できない。これが昂じると、自分の地位を保つために情報を囲い込むということすらおきていた。

「事件は現場で起きている」という某ドラマの名ゼリフに象徴されるように、その場その時の意思決定がすべてなのだ。
本社の役割は、現場の意思決定がより適切に行われるために、全体のしくみをコントロールすることだ。

こう考えていると、上司と部下との関係も同じであるということに気づいた。
上司の重要な役割は、部下が適切な意思決定ができるようにすること。そのために上司がすべきことは「指針」「監査」「情報公開」の三本柱で説明できる。
このタイプのマネジメントは、最新のいくつかの書物にはとりあげられているが、まだまだ「部下が意思決定をする」というパラダイムに転換できている会社は少ないと思う。

シンプルな原理であること。これが人間の生理としても受け止めやすい。
引き続き実地検証を続けていきたい。

アイフルが「成果主義を撤廃」 それでいいのか?

April 15 [Sat], 2006, 23:51
消費者金融のアイフルが、違法な取立て等を行ったことで、全店の業務停止命令という厳しい処分を受けた。
これに対して、社長は「支店の業績とボーナス支給額が連動する成果主義が、今回の違法行為の原因になった」として、社員教育の徹底とともに、成果主義を撤廃するとの宣言があった。

ここに、最近成果主義が非難されているものの縮図があるように思う。
問題なのは「成果主義」そのものではない。その成果を何においているかというその会社のスタンスである。
「支店の業績をあげること」をめざすのは私企業として当然のことであるといってよい。ただ大事なことは「長期にわたって支店の業績をあげ続ける」ことである。長期を視野にいれたときには、顧客、ここでは借り手と共生するということなくしては成り立たない。貸した金を取り立てる技を磨くことではなく、返済計画が適切な顧客を選んで、貸付と返済をバランスよく継続させることである。
返済計画のない顧客には貸さない、そういう英断もしなければならないはずだ。

こういったことを進めるのは、成果主義をやめることではない。評価の軸を変えることであり、「成果の定義」を見直すだけのことにすぎない。

もしかしたら単なる言葉遊びにすぎないのかもしれない。しかし、ライブドアが消滅しようとしていることやこのアイフルのことをきっかけにして、”成果主義がいけない”という魔女狩りが起きることの方が怖い。

今この国で健全さを失っている大きなものに、税金あるいはそれに準ずるものの無駄遣いがある。
最近でこそ、各省庁や特殊法人、あるいは地方公共団体の金の使い方の問題が少しずつマスコミにとりあげられるようになっているが、それとてまだまだごく一部だ。
ただそのレポートを見ていると、まさに「成果主義」というものの片鱗も見られない。金を使うことだけが仕事のようにさえ見える。
単に民間と同じような収益性を求める必要があるとはいわない。むしろわれわれ市民が「税金を払いたくなる」ような金の使い方をすることが最大の「成果」ではないか。

「成果主義はどうもうまくいかないからやめよう」という発想では、何をやってもうまくいかない。自分の会社や団体、そして自分にとって「成果とは何か」を問い続けることこそが必要なのだと確信している。

荒川静香選手に見た「人事」の真髄

April 02 [Sun], 2006, 9:40
トリノオリンピックで荒川静香選手が金メダルをとった。その時の映像は何度みても感動するものがある。その中でも何より心を動かしたのは彼女が魅せたイナバウアーだった。

フィギュアスケートは美しさを魅せる競技であるから、採点が主観的になる。それを避けるために、こういうジャンプは難易度がいくつ、こういうスピンはどう、と採点方式を抜本的に変えたのが2005年。
選手たちは、どんな演技が高得点になるのかを研究し、新基準に基づきオリンピックの出場権をかけた勝負に挑み、オリンピックの舞台でもその基準で勝負をした。
たしかに採点が恣意的であっては困る。ましてや利権が大きく動く可能性がある場だから、「誰がやっても同じ」という基準は必要なことだ。
一方でそれは、本当に美しいもの、本当に感動させるものを排除してしまう危険と裏腹である。

実は昨今はやりの人事制度はまさにこれと同じことをやってきているのだ。
「上司の好き嫌いによって評価されるのは公平性にかける」という名のもとに、客観的基準に基づく人事評価というものを多くの会社でトライしている。
これによって人事コンサルティング会社は大儲けをしているという話を聞く一方で、本音でうまくいっているという会社を聞かない。
客観性を重視するがあまりに、大事な何かを「評価対象としない」ということをやってしまっているのだ。

そういう「客観的評価制度の愚」に警鐘をならしたともいえるのが、彼女がメダルを賭けた舞台でみせたイナバウアーだった。
新採点方式ではイナバウアーには点数にはならない。それでも敢えて演技の中に取り入れたのは、彼女の「美しい演技」に対するこだわりだったと思う。
その思いは観客に通じた。場内は拍手大喝采だったという。彼女自身もイナバウアーに観客が反応したことしか覚えていないといっていた。
「記憶に残る名演技を採点をするのは、観客であって審査員ではない。」そう訴えているように私には思えた。結果として彼女は金メダルをもとることができたが、おそらく彼女にとっての満足は金メダルよりもあの拍手大喝采、スタンディングオベーションだったと信ずる。

この真髄は会社組織でも同じだと確信した。
真の評価をするのは、『顧客』であって、『上司』ではない。
上司の評価に関係なく顧客満足に邁進できるかどうかが、会社の命運をにぎっているといって過言ではない。

ドリームチームだからといって勝てるわけではない。

March 22 [Wed], 2006, 1:28
WBCは見事に王JAPANが優勝を勝ち取った。
日本として見れば、大リーガー2名を含む国内でもトップクラスのメンバー編成であったと思う。
だが、アメリカの大リーガーを豊富に編成したドリームチームに比べると、おそらく個人個人を見たときのクラスはそこには及ばなかったであろう。
ドミニカも大量の大リーガーでWBCにのぞんでいた。
しかし、結局決勝戦に進んだのは、その大リーガー2名だけの日本チームと、そもそもアマチュアで構成されるキューバだったのだ。

「ベストメンバーを揃えればおのずと結果は出る」というのは必ずしも正しくないということを証明した形になる。
もちろん、1回勝負のWBCと一年をかけての勝負とは違うかもしれない。ましてやスポーツと企業の仕事はさらに違いがあるかもしれない。
だが、何かそこにひとつのヒントがあるように思う。

王監督は、2004年、2005年と連続してパリーグで一位をとりながら、プレイオフで負けて優勝を逃している。
松坂投手は、オリンピックでの大事な試合で負けて、金メダルをもたらすことができなかった。
準決勝戦で得点圏で代打に出てホームランを打った福留選手は、そこまで1割台の打率、しかも得点圏にランナーがいるときには無安打で、当日スタメンをはずされていた男だ。
一般の企業活動に比べて、スポーツの方が数段結果を重視される世界であり、結果が出せない人間はその舞台にすら立つことができない場合がある。
そんな世界であっても、「過去の結果だけで判断をしてはいけない」ということなのだ。

実力とは何なのか、チーム力とは何なのか、表面的なものだけでは測れないということだ。
最近はやりの「安易な成果主義的評価制度」はスポーツの世界ですら通用しない”まがいもの成果主義”であることを物語っているような気がする。






きつね君の割り算の話

January 08 [Sun], 2006, 1:34
小学生の頃、こんな物語を読んだ記憶がある。
割り算をテーマにしたストーリーだ。

2匹のリスがどんぐりを17個とってきたのだが、どうやって分けたらいいかわからない。
そこに割り算ができるきつね君がやってきて、指導をしてあげる。
  17÷2=8・・・1
「1個あまったね」と別のところにおいておいたあと、「お母さんにもわけてあげる必要はないの?」と問いかける。そこで今度は「残りの」16個を3人で分ける計算をする。
  16÷3=5・・・1
あまった1個を取り除いたあとで、また持ちかける。「ぼくもわけるのに協力してるんだから、分け前がほしいな」
  15÷4=3・・・3
ということでリスたちは、お母さんの分を含めて1人4個ずつを持ち帰り、きつね君は分け前の4個のほかに別にわけておいた合計5個をせしめたという話。

このきつね君の場合には、悪意をもってだましとろうとしているから論外なのであるが、日常の仕事において、こういうことを「無意識のうちに」やっているということは実は多く起きていることなのだ。
その時点、その時点で必要に迫られ判断し、実行をする。その瞬間においては正しいように見えることなのであるが、全体の流れで見たときにまったくちぐはぐなことをしてしまっている。往々にしてありうることなのだ。

どこの会社の人事部でもやっていることを評価してもらえない、と人事部の人間は嘆いている。
論理的にも正しいことをやっているつもりなのだ。だが受け入れてもらえないことが多い。
いろんなファクターが考えられるが、このお話と同じことに陥っている可能性はある。
つまりその場での正しい解を求めて対処しているということだ。
人事部はその瞬間よりも一貫の流れの中で評価をうけているものだ。
自分が人事部に来るよりはるか前に起こったできごとも含めて評価されている。



北風と太陽

January 08 [Sun], 2006, 1:34
イソップ物語の「北風と太陽」の話はあまりに有名だ。
北風と太陽が男が着ているコートを脱がせる競争をする。
北風は風で吹き飛ばそうとするが失敗し、太陽はじりじり照らすことによって男が自らコートを脱ぐようにする。

人材マネジメントの基本のような話だ。
命令では人は動かない。
社員ひとりひとりがいかにいい仕事をするかは、自発性を促すことが大事だということ。

ところが実際のマネジメントの場面で起きていることの多くは「北風」に近いのではないかと思われる。
しょせん人間なんてさぼりたいものだ、だから強制をしないと動かない と確信をもってしまっている人もいるようだ。

LABOR(労働)という言葉の語源がSLAVE(奴隷)にあるということからも、人類として強制労働をしいてきたという長い歴史があるのだから、その考え方を簡単にはぬぐえないということもあるかもしれない。
一方で「パブロフの犬」の実験のようなことは、人間には必ずしもあてはまらないということも証明されている。人間には「刺激」と「反応」との間に「それを判断する」というプロセスがあるということらしい。
奴隷制があった時代、おそらくは動物のように働かされていたに違いない。判断することを否定されていたのだろう。

人を人として大切に扱うとすれば「太陽の論理」しかないのは明白なのだ。

もちろん仕事の現場にはいくつもの制約がある。
時間というしばりは大きい。ある期限までに仕事を仕上げなければならない時に、自発性を舞っていられない。
仕事の中には極めて単純作業もある。単純すぎてやる気の起こらないことに対しての強制力も必要だ。
本人のモラルもある。たしかに最初からやる気のない人間をやる気にさせるのはたいへんだ。
こういったことには「北風的アプローチ」も必要に見える。

これらは必ずしも「北風」と「太陽」とを使い分けるのだということは意味しない。
あくまでベースは「太陽」であることを忘れてはならない。
太陽ベースがあるからこそ「命令」は受け手にとって「強制」ではなく「自分の任務を促すガイドライン」として機能するのだ。
北風論理の「命令」は短期的に成果をあげるかもしれないが、人心は遅からず疲弊する。
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