記憶

January 29 [Sun], 2012, 12:58

死んで逝く人間を想うのは無意味だ。

同じ言葉を何度も何度も繰り返す。まるで自分に言い聞かせるように。そうすることでやっと「正常」を保っているのだ。裏を返せば、今の俺の自我はちょっとしたことで簡単に綻びを生じてしまう、ということでもある。視界の端に入り込む簡素なベッドのことをなるべく頭から追い出すよう目の前の盥に意識を向けてタオルを絞る。しかしそのタオルはそこに寝かされた恩師の為に絞っているのだから、無関心であることなど始めから不可能であり意味もない。しっかり水気をきったタオルを手に立ち上がる。覗き込んだ恩師の顔は土気色に近い。生気はなく、胸の上下で辛うじて生きているのだと分かる。俺はまだ生きている肉体を無感動に眺め、タオルで恩師の身体を拭いていった。もう随分と風呂には入っていないが、これで我慢してもらうしかない。尤もそれを辛いと思う意識が残っているのならば、の話だが。

ふと、何気なく彼の放り出されている手に自分の手を重ねてみた。以前なら力強く握りしめてくれた手は、冷たく沈黙を貫いている。いくら呼びかけても応えることはない。もうずっとそうだったのだから。なのに、どうして今更傷付こうというのだろうか。
頬を伝う熱情をそのままに、衝動的に口付けをした。その冷たさにまた傷が深まるだけだと知っていても。まるで最後の別れを確かめるように。

さようなら。

口唇は熱を消し去って離れた。
確かに愛していた。形容し難い関係ではあったが、俺は確かに。父のように、兄のように、親友のように、愛していた。尖ったままの空気が奪い去ったのは声だけではなかった。俺の中に残ったものは、掬えば指のあいだからすり抜けていくような、実態を明かさない孤独と絶望だけだった。

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