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モータースポーツ写真館「トヨタ・トムス 88CV-JSPC」 / 2005年05月26日(木)

1982年から始まったスポーツカー・カテゴリーのグループCカーによる耐久レースはル・マン24時間レースを中心に世界中で数多くのレースが開催されるようになりました。
特に日本ではF-1ブームを中心としてちょうどバブルの最盛期と重なるようにモータースポーツブームが起こり、特にこのグループCを中心としたJSPC(ジャパン・スポーツ・プロトタイプカー・チャンピオンシップ)はトヨタ、ニッサン、マツダの3大ワークスの参戦により80年代後半から90年代前半に大ブームを巻き起こしました。
グループCの中心的存在だったポルシェ956、962Cは日本のレースでも圧倒的な強さを見せていましたが、80年代後半には日本のワークスも互角かそれ以上の戦いを見せるようになり、益々盛り上がりを見せてきました。
写真はその当時のトヨタのワークスチームであるトムスが送り出した「トヨタ・トムス88CV」です。このエースナンバー36をつけた車のドライバーはジェフ・リース選手と小河等選手。
リース選手はこの頃はすでに日本に拠点を移しており長年にわたってトヨタのエースドライバーとして活躍していました。小河さんは当時F-2でトヨタエンジンを使用したり、トムスからF-3レースに出場してチャンピオン争いをしたりしてトヨタの日本人のエースドライバーとして活躍を始めた頃です。
富士で行われたトヨタ対ニッサン対ポルシェのレースはここ富士SWでも毎回、壮絶なレースが展開され、多くの観客を集めたものです。
写真は当時のAコーナーからの立上りをスローシャッターで捕らえたもので、自分で言うのもなんですがピントピッタシ(小さくてわかり難いですが)、車体が後ろに流れてスピード感満点。スローシャッターのために周りの景色が完全にボケて、車体を浮かび上がらせています。ただちょっと車体の後部が切れちゃったところがアマチュアの悲しさ。
でもこの頃のサーキットは観客の数も多くて撮影ポイントを確保するのは大変でした。今のGTレースもそうですけどね。

 
Posted at 15:24 / モータースポーツ写真館 / この記事のURL
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モータースポーツ写真館「中嶋 悟−Lotus 99b Honda」 / 2005年04月19日(火)

言わずと知れた日本人第一号のF-1レギュラードライバーです。
私は昔から中嶋さんの大ファンで彼がF-2で活躍しだした頃から頻繁にサーキットに通うようになりました。
彼のF-2での初優勝「1978年鈴鹿フォーミュラ・ジャパン」を見てからF-2やFP、Gr.Cでの活躍をずっと見てきました。
そしてついに1987年にロータスよりF-1デビューが決まり、フジTVでのF-1中継が始まったおかげで海外での中嶋さんのレースを日本で観戦する事が出来るようになったのです。
写真はこの年の鈴鹿での日本GPで予選中にS字を走っている中嶋選手のロータス99bです。この年のロータスはホンダエンジンを獲得してアクティブ・サスペンション付きの画期的なマシンとアイルトン・セナ、中嶋悟の新コンビでF-1GPに望みましたが、マシンの信頼性は同じホンダエンジンを搭載したウィリアムズには及ばず、セナが2勝をしたものの中嶋さんはイギリスGPでの4位が最高でした。中嶋さんは前年ロータスに在籍したジョニー・ダンフリーズをホンダの力で押し出してレギュラードライバーになったためにイギリスのプレスにはホンダエンジンの部品呼ばわりされたものですが、1年目のルーキーとしてはまずまずの成績だったと思います。しかも他チームとはいえ彼が中心になって開発したホンダエンジンがチャンピオンを取ったのですから、貢献度はポイント以上だと思います。
実はこの年は初めて車載カメラがシーズンを通して搭載された初めて年で、この中嶋さんのロータスに1年を通して搭載されました。今でこそ全てのマシンに搭載されていますが、F-1ドライバーの目線で全てのF-1GPを見ることができたのはこの年が初めてで、それは全て中嶋さんの目線だったんですね。
私は1992年の中嶋さんの引退レースを見に行って以来、日本GPには行っていません。そういえば鈴鹿サーキットにもそれ以来行ってませんね。

「続きを読む」には最近の中嶋親子のエピソードを書いてますよ。

続きを読む…  
Posted at 21:45 / モータースポーツ写真館 / この記事のURL
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モータースポーツ写真館「ザウバー・メルセデスC-9 LM'89」 / 2005年04月08日(金)

1989年のル・マン24時間レースはザウバー・メルセデスC-9の63号車がトップでチェッカーを受けました。この写真は2位の同じく61号車を従えて最後のフォード・シケインに差し掛かったところです。
チェッカー前だというのにすでに多くの関係者とオフィシャル、観客までもがコースになだれ込んで優勝者に拍手を送っています。もちろん私もこの後コースに行きました。ちなみにフェンスなんかよじ登ったりしなくてもレースが終了すると最終コーナー付近の金網を開放してくれましたので、そこから入りました。ル・マン名物のこの光景もトップが確定して2位以下が離れているから出きるんですけど、もし最後の1周までぎりぎりでトップ争いをしている車があったらこんな事してられませんね。そんなゴールも見てみたいですけど。
この年のザウバーはメルセデスのワークス色を全面に押し出して1955年のここル・マンでの大惨事以来はじめてナショナル・カラーのシルバーで登場しました。ザウバー自体はすでにGr.Cカーが始まってからプライベーターとしてメルセデスエンジンを使って戦ってきましたが、ついにワークス体制をとる事となり、念願のル・マン初制覇をなしとげたのです。この後はご存知の通りF-1に進出していく訳ですが。
私は86年にもここル・マンでザウバーのマシンを見ていますが、その時に印象はまるでエンジンに穴が開いているかのような轟音を響かせて走っていくのが印象的でした。でもさすがにワークスの手がはいると洗練したスタイリッシュなマシンになりますね。
この時代はGr.Cカーの全盛期で、このル・マンだけでも他にポルシェ、ジャガー、トヨタ、ニッサン、マツダのワークスが参戦しておりプジョーやアストンマーチンもプライベータ−で参加していました。その中での優勝ですから、さすがメルセデスといった感じでした。
優勝車には当時日本の耐久レースでタイサンよりポルシェで参戦していたスタンレー・ディケンズ選手が乗っており、後日タイサンの千葉社長がザウバーと交渉してこのマシンを日本に持ち込もうとしましたが、残念ながらエンジンのメンテナンスが出来ないという理由でこの計画は実現しませんでした。
Gr.Cの全盛期で各国のメーカーがワークスで参戦していて一番盛り上がっていた頃のル・マン24時間レースは私が一番好きなレースです。

 
Posted at 19:21 / モータースポーツ写真館 / この記事のURL
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モータースポーツ写真館「トヨタ・トムス86C-WEC'86」 / 2005年04月06日(水)

1986年富士スピードウェイで行なわれたWEC(世界耐久選手権)の最終戦でのトヨタ・トムス86Cです。
この車は中嶋悟選手にドライブにより予選でポールポジションのタイムを記録したのですがTカー扱いの車両だったために予選タイムを取り消された曰くつきの車です。
この年トヨタはワークスとして2年目のル・マンにこの車で乗り込んだのですが、前年の完走とはウラハラにわずか5時間程度の走行でリタイアしています。
富士ではその雪辱を晴らすべく果敢にアタックをしたのですが、結局外国勢を止めることはできませんでした。
実はこの写真はキャノンが主催した「WECフォトコンテスト」の佳作に選ばれた作品です。
見ての通り師匠(ビル大友氏)譲りの多重露光でスピード感をアップ!と言っても多重露光の練習中で露光回数は2回だけ。一回目のピンとぴったりの流し撮りがもう少し大きく撮れていたらもっといい作品になったと思うのですけどね。
この後に続けて同じように多重露光で撮ったジャガーはクロスフィルターも使ったもっと完成度の高いもので同コンテストで入選しています。但し、プリントも残さないままポジフィルムで応募したために佳作のこの作品は返品されたのですが、入選作品は返却されませんでした。結局入選した作品は今どこにあるのかわかりませんし撮った本人も応募してから一度も見てません。(キャノンが保管してると思うんですけどね)
レースの方はジャガーXJR-6が一旦チャンピオンになったかのように思われましたが周回数のカウントが間違っていた事が発覚。結局チャンピオンはポルシェ962Cでエントリーしていたブルンチームの手に渡りました。

 
Posted at 09:32 / モータースポーツ写真館 / この記事のURL
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モータースポーツ写真館「高橋 徹」 / 2005年03月15日(火)

またまたすでに他界したヒーローです。
3回続けてですが、やっぱりオジサンの心に強烈な印象を残して亡くなった人ばかりですので許してね。

高橋徹選手を最初に見たのは鈴鹿のFJ-1600だったと思います。その時はそれほど印象には残っていませんでしたが、その後F-3に出場するようになってからメキメキと頭角を現してきて注目をされるようになってきました。
F-3でチャンピオンになった訳ではありませんでしたが、1983年に星野一義選手が独立したために空席が出来た名門ヒーローズ・レーシングのドライバーに起用され一気にトップドライバーの仲間入りを果たしました。
彼の実力はF-2選手権のデビューレース、鈴鹿Big 2&4 レースでいきなり発揮されました。新人でありながら予選4位、決勝2位(ちなみに優勝は中嶋悟選手)。この頃のF-2レースは中嶋悟選手を筆頭に星野一義選手、松本恵二選手、J.リース選手などが絶頂期にあった頃でそれ以前のように海外からの招待選手(その後にF-1に乗るような)がきてもなかなか勝てない状況でした。
しかも、それがフロックでないことを第4戦(鈴鹿では2戦目)のJ.P.S.トロフィーレースですぐに証明。なんとF-2レース4戦目の新人がポールポジションを取ってしまいました。決勝でも見事3位に入賞。目の当たりにした人達(私も含めて)はこれはすごい選手が現れたと思ったものです。
その後のF-2、富士GCレースと大ベテランに混じって活躍を見せた彼は10月23日に富士GCレース中に富士スピードウェイの最終コーナーで23歳の若さで他界してしまったのです。

写真は彼のF-2デビューレースの鈴鹿Big 2&4 レースでシケインの飛び込みで撮ったものです。この時はシーズン最初のレース観戦だったのでまだ目が慣れず何とかピントの合った写真を撮る事に必死だったのでスローシャッターや流し撮りなんて余裕はありませんでした。この写真もピントは合っているのですが、シャッタースピードが速すぎて(多分1/500)タイヤのブリジストンのロゴが読めちゃいます。結局彼の写真はこんな普通に撮った写真ばかりでこれはと思うかっこいい写真を撮るチャンスはついに来ませんでした。

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Posted at 17:50 / モータースポーツ写真館 / この記事のURL
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モータースポーツ写真館「Roland Razenberger」 / 2005年03月14日(月)

モータースポーツ写真館の第一回目で紹介したアイルトン・セナが亡くなった1994年5月1日の一日前、4月30日のサンマリノGPの予選中に亡くなったローランド・ラッツェンバーガーです。
オーストリア出身の彼がヨーロッパ各地でのフォーミュラフォード1600でチャンピオンになりその後ヨーロッパのF-3、F-3000を経て日本のJSPC(全日本・スポーツ・プロトタイプカー選手権)にサードより参戦したのが1989年。
1990年より拠点を日本に移してJSPC、全日本F-3000選手権、全日本ツーリングカー選手権に本格的に参戦大活躍をしました。
写真は鈴鹿サーキットでのF-3000選手権に参戦した時のもの。ヘアピンのクリッピング・ポイントでの写真です。ヘアピンは絶対スピードが遅いので超スローシャッターでスピード感を出すようにしました。ゼッケンを見てもらえばわかるように画像が後ろへ流れるようにする事でこちらに向かってくるようにみせています。実際このように思った方向に画像が流れるように撮るのは難しく何枚も撮ったうちの一枚です。もちろんデジカメと違いますので現像するまで結果はわかりません。長く撮りつづけていると大体の感じはつかめるのですが、やっぱり現像が上がってくるまではドキドキです。でもこの時間がフィルムカメラの楽しみでもあるんですけど。

ラッツェンバーガーはこの年にはF-3000はたいした結果を残せませんでしたが、JSPCでは1勝をあげツーリングカーではBMW-M3でクラス-2のチャンピオンに輝いています。
翌年よりF-3000はステラ、JSPCはサードで活動。ル・マンにも1989年より連続で参戦しています。
日本での活躍が認められ1994年には新興チームシムテックよりF-1に参戦。残念ながらサンマリノGPの予選中に帰らぬ人となりました。

ところで同じオーストリア出身のドライバーでゲルハルト・ベルガーがいますが、彼のスペルは「Gerhard Berger」。つまり彼をベルガーと呼ぶならラッツェンバーガーはラッツェンベルガーと呼ばなくてはなりません。もしラッツェンバーガーが正しいのならゲルハルト・ベルガーはゲルハルト・バーガーです。どっちも正解で場合によって不正解です。外人の日本語読みは難しいですね。

 
Posted at 15:04 / モータースポーツ写真館 / この記事のURL
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モータースポーツ写真館「Ayrton Senna」 / 2005年03月13日(日)

最近の記事はダイビングや音楽の事ばかりですが、もともと私の趣味の中心はモータースポーツ観戦で、写真を撮る事でした。
1980年頃から自分のカメラを持って本格的に撮り始めていますので、すでにストックは膨大な量になります。(あくまでストックですよ)
その中からお気に入りの写真を撮った時のエピソードを交えて綴っていきたいと思います。
写真は全てフィルムで撮ったもの(80年代だからあたりまえ)をスキャンしたものなのでオリジナルとはちょっと色合いが異なります。

最初の写真は当然のごとくアイルトン・セナ。
この写真は1988年の鈴鹿での日本GPの時にヘアピンの立ち上がりで撮ったものです。
ヘアピンですので当然速度は100km以下。それをスローシャッターで流し撮りしています。多分1/30以下のシャッタースピードです。ホンとはセナのヘルメットにピントを合わせたかったのですが、実際にはリアカウルの「Marlboro」にピントがずれてしまいました。でもかえってセナがヘアピンのイン側に首を傾けている様子が強調されて良かったかなとも思っています。
このレースでセナは優勝して初めてのワールドチャンピオンに輝きました。マシンはマクラーレンMP4/4ホンダでターボエンジン時代の最後の車です。
この年はセナ・プロ時代と騒がれた最初の年で、マクラーレンはこの二人で16戦15勝と圧倒的な強さを見せた年です。最近のフェラーリとの違いはどちらがNo.1ドライバーという事はなく二人が常にコース上で争っていて、しかもそれが常に優勝争いになっていたところです。この年の二人はまだまだ仲良さそうに見えました。
ちなみに唯一マクラーレンの完全優勝に土をつけたのがフェラーリ。しかもエンツオ・フェラーリが亡くなった直後のイタリアGP。またまたよりによってセナをリタイアに追い込んだのが第一期ホンダF-1時代にホンダF-1で事故死したジョー・シュレッサーの甥のジャン・ルイ・シュレッサー(しかもウィリアムズでの代役出走)。何か因縁めいたものが当時の話題になりました。

 
Posted at 10:44 / モータースポーツ写真館 / この記事のURL
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