戦闘の継続 

2010年12月25日(土) 12時32分
愚劣な教団執行部とのインターネットの戦闘が数年にわたって長引いておりますが、それに伴ってこのページの更新がおろそかになってしまっていた事をおわびします。しかし、この戦闘は間もなく我々の勝利に終わりますので、間もなくこのページの更新が再開できると思います。

めぐみねっとを斬る 

2009年11月30日(月) 5時07分
セブンスデーアドベンチストの間違い」と称する文書が「めぐみねっと」の名前でインターネット上に放置されているが、我々はこれをしばらく見守っていたが、いつまでもそのままに置いておくのは正しいことではないと考え、正統なるセブンスデーアドベンチストである我々は下の文書に対して訂正を入れて再びインターネット上に送り出すことにした。下に誤りを指摘して、セブンスデーアドベンチストに対する誤解と偏見が訂正されるように希望するものである
セブンスデーアドベンチスト嵯峨野教会 長谷川寿紀
hisanori_hasegawa@hotmail.com

以下赤文字は、原文
青文字は訂正のコメント



セブンスデー・アドベンチストの間違い
http://www.pluto.dti.ne.jp/~sonnar/jccj/canon/seventh.htm

 彼らはホワイト女史を預言者と認め、彼女の著作によって聖書を解釈している。そして、彼女の預言には多くの問題がある。彼女の預言の間違いを知るためには、そのルーツを知る必要がある。 アメリカのバプテスト教会のウイリアム・ミラー(1782-1849)という牧師が1843年の3月21日から1844年の3月21日の間に世の終わりが来ると預言した。彼は、ダニエル書第9章24〜27節の預言から、アルタクセルクセス王が出したBC457のエルサレム再建命令(エズラ7:11〜26)から70週(490年)は、キリストが十字架につけられたAD33で(アッシャーの年代計算法による)、そして同じBC457から計算して2,300年は1843年になると言うのである。彼はダニエル書第8章14節の「2,300の朝と夕」とは、2,300年のことであると結論した。しかし当然ながら彼の預言は外れた。 ところがミラーのグループのひとりのサムエル・S・スノーが、キリストの再臨は1844年の10月22日であると預言した。10月がユダヤ歴の7月であり、その月の10日が贖罪の日であるからである。ミラー自身もそれを受け入れた。しかし、その日にもキリストは再臨されなかったので、彼らは大いに失望した。 その失望したグループの中にヒラム・エドソンがいた。彼は、天が開ける幻を見たと言った。そしてキリストは地上に再臨されたのではなく、その日に天の聖所の至聖所に入られたのであるという新しい解釈を唱え始めた。彼と彼の仲間は、この新しい解釈とヘブル人への手紙とを合わせて新しい教理を作り出した。

 エドソンと彼の仲間が考え出した教理は次のようなものである。「贖罪の日にささげられる二頭の山羊のうちの一頭はキリストの型である。他の一頭はサタンの型である。アザゼルとはサタンのことである。人間の罪は天にある聖所を汚した。その聖所の汚れをきよめるために、キリストはいけにえとなって死なれた。そして、やがてサタンは人間が犯した罪を負わされて追放され、人間の罪が消滅する。一方、1844年10月22日に至聖所に入ったキリストは、その日より審査の審判を開始された。審査の審判とは、キリストを信じると告白した者の行ないが、本当に復活させらる者に相応しいかどうかを審査することである。世の終わりにはキリストが再臨され、審査に合格した者だけが天に行くことが許される。その時、サタンは人間の罪を負わされ、人が全くいなくなった地にある底なしの穴に追放され、一千年後にそこから出されて、火の池に投げ込まれ、そこで消滅してしまう。」 (このような教義には聖書の裏付けは全くない。このことについては後に説明する。)
上記の教理の聖書による裏づけは別紙記載の通り。)
 セブンスデー・アドベンチスト教会の歴史の中で次に重要な役を演じた人物はジョセフ・ベイツである。彼は、安息日は第七日(土曜日)であるから、クリスチャンは土曜日を聖別すべきであると主張するセブンスデー・バプテストに影響されて、1846年の初頭と1847年にトラクトを書いている。その中で彼は、「ヨハネの黙示録第14章6〜12節に出てくる3人の御使いの中の第3の御使いが語った獣とは、ローマ法王のことである。ローマ法王が安息日を土曜日から日曜日に変えてしまったので、獣の名の刻印を額に受けるとは、日曜日に礼拝することである。神の戒めを守るということは、土曜日を安息日として聖別することである。従って日曜日を安息日として守る者は、神の激しい怒りのさばきを受ける。」と論じた。さらに1849年1月には、ヨハネの黙示録第7章の、生ける神の印で額に印を押される144,000人の者たちは、土曜日を安息日として守るセブンスデー・アドベンチストであると主張するトラクトを書いた。このようにして、セブンスデー・アドベンチストの教理に土曜日安息日厳守という教えが付け加えられた。

(ベイツのトラクトの主張はまだ厳しい聖書研究の吟味によってさらに洗練された。今日のSDAでは第七日安息日を守るのは十戒の戒めの一つであり、回復されなければならないと教えるがこれによって救われるか裁かれるかの直接決定要因になるとは教えていない。人が救われるのは信仰によるのであり、人が滅びるのは安息日を守らないからではない。)

 第3番目に重要な役を演じた人物は、エレン・ホワイト女史(1827-1915)である。彼女は数多くの幻を見たと主張し、それを宣伝し始めた。1847年4月7日、彼女は天に引き上げられ、天の聖所に入れられ、さらに至聖所の中にまで連れて入れられ、そこで契約の箱を見ることが許され、十戒の中の安息日に関する第4条が特に輝いているのを見たと主張し、それによってエドソンとベイトの主張を補強した。彼女はあらゆる分野にわたって神の啓示を得たと主張し、それによって彼らの間に女預言者として不動の地位を獲得した。
 ホワイト女史の唱えた教理が、現在のセブスデー・アドベンチストの教理のバックボーンになっているのであるが、彼女の教理の大略を挙げる。

1. キリストの十字架上の死によって私たちの罪は赦されるが、罪がサタンの上に負わされ、サタンがそれを運び去るまで、罪は消し去られない。 (罪を消し去るのはサタンではない。誤解)
2. キリストは現在調査審判を行なっておられる。すなわち信仰を告白した者たちの行ないが、復活に値するかどうか、その者たちが律法に忠実であったかどうか、すなわち土曜日の安息日を守ったかどうかに基づいて調査している。 (調査審判の認識が誤っている。我々はイエスの信仰によって義とされたのだから、調査審判の結果に救いを依存しない。調査審判が必要なのは我々の救いのためではないのは明らか)
3. 人間のたましいも肉体もひとつである。人間はたましいを持っているというよりも、人間自体がたましいであるという意味である。(人間自体が魂だという主張は存在しない。ホワイトは人間の肉体と魂は不可分だといっているのみ) だから肉体の死と同時にたましいも消滅する。
4. 人間はキリスト信者も不信者も肉体的に死んだ時、完全に無意識になる。すなわち消滅する。復活は、生きていた時と同じ姿に神の記憶に基づいて再創造されることである
。(再創造されるのではなく、第一の死の眠りから起こされるだけ)
5. 天使ミカエルは受肉前の神の御子である。 (根拠なし)
6. ヨハネの黙示録第14章9節の第三の御使いは、1846年からメッセージを語り始めたのであるから、ヨハネの黙示録第14章12節の聖徒たちとはセブンスデー・アドベンチスト教徒のことである。 (聖徒たちとは神の戒めに従う者であって、SDAだけではないだろう)
7. 地獄は存在しない。  (その通り)
8. 私たちの罪はサタンに負わされ、サタンがそれを底なしの穴に運び去ってくれる。 (反対者の作文か)
以上がセブンスデー・アドベンチスト教団の生い立ちと教理の大略である。これによって分かるように彼らの教理全体は、ミラー、エドソン、ベイツとその他の者たちが作り上げたものである。この教理の特殊性とホワイト女史が、神によって立てられた預言者であるということの宣伝と彼女の大量の預言によって、この教団は非常に多くの信者を獲得してきた。
 では彼らの教理の誤りを聖書から正してみよう。
1. 先ず1844年にキリストが天にある聖所の至聖所に入られたという解釈の根拠となった年代の割り出し法である。
エルサレムを再建せよとの勅令が出されたのは、ペルシャのアルタシャスタ王のBC444であって、アルタクセルクセス王のBC457ではない。おまけに紀元0年はないから、1年を引かなければならないのに、引いていないのでキリストが十字架で死なれた年が、その勅令が出されてから490年後のAD33としているが、実際にキリストが死なれたのはAD30である。BC444から69週後、すなわち1週を7年として、483年後、正しくキリストはエルサレムの町に入られ、公然とご自身がメシヤであられることを宣言された。そしてその後に十字架につけられた。ダニエル書第9章の預言のとおりである。なお、70週目の7年間は、教会が携挙(キリストの空中再臨)された後の、7年間の患難時代に実現される。 
(←神の民の携挙は再臨の時に行われるのであるから、この指摘自体が無効)
2. 現在キリストが至聖所の中で、「調査審判」をしているという考えは、全くの空想に基づいている。聖書的根拠は全くない。(調査審判の聖書的根拠は、黙示録) まことのキリストは、現在神の右にあって私たちのためにとりなしをしておられる。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34) (←とりなしと調査審判は矛盾しない。同時進行が可能である。調査審判は救いに定められた我々が救われるかどうかの決定のために必要なのではなく、サタンとキリストの大争闘を見守ってきた天使たちと、我々の救いに反対するサタンのために必要なのである。)
3. 私たちは日曜日、すなわち週の初めの日を、安息日として守っているのではない。 (←ではあなたがたはどうして土曜日の安息日を守らないのか?とこのめぐみねっとの著者に厳しく問いかけられるであろう→)安息日は土曜日である。安息日を守ることは、主なる神とイスラエルの民との契約の関係を表わすしるしてある。「六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。」(出エジプト記31:15,16)
 まことのキリスト信者は、キリストが復活された週の初めの日に主の復活を記念して礼拝するために集まっているのであって、安息日として集まっているのではない。
(まことのキリスト信者は安息日を守らずに主の復活の日を礼拝日にせよと聖書のどこに書いているか。そのようなものはないのである。間違ってはいけない)
4. 人間には霊とたましいとからだがある。「主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(Tテサロニケ5:23)
 人間の霊もたましいも不滅である。
 (人間の霊もたましいも神によって生かされ支えられなければ行き続ける事はできない。神なしの地獄に入れられても永遠に存在すると主張するめぐみねっとの著者こそかえって非聖書的な異端である)地獄、火の池は実在の場所である。「そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」(黙示録14:10,11)
5. ホワイト女史は、ヨハネの黙示録第4〜19章までを歴史的に解釈している。すなわちこれをキリストの復活から終末までの時代に当てはめようとする余り、全てを比喩的に解釈している。ヨハネの黙示録第4〜19章までは教会の携挙の後の、7年間の患難時代についての預言である。従って第14章の神の戒めを守りキリストを信じる信仰を守る聖徒たちは、患難時代のイスラエルの民であり、彼らは神の戒めを守って決してにせキリストとその偶像を拝まない。
 (聖書の預言は異なる時代に二重三重に適用されることがある。)
では彼らの主張を異端の基準で調べよう。
1. 聖書以外の権威を認める。
 彼らは、聖書が神の誤りのない霊感の書であることを認めている。しかし、ホワイト女史の預言を誤りのない神からの啓示と信じ、それによって聖書を解釈している。つまり、実質的に彼らは聖書の権威を認めていないことになる。
 (ホワイト夫人が誤りがないのではなく、預言の聖霊が無謬なのである)彼らにとってホワイト女史の著作は、モルモン教徒にとってのモルモン教典と同じである。彼らは聖書以外の権威を認めている。 (ホワイトの著作は聖書の真理に導く小さな光である。聖書の代わりではない。セブンスデーアドベンチストにとってホワイトの著作は経典ではないのである。)
2. キリストの神性を否定する。
 この点について彼らは十分にクリアしている。「天使ミカエルは受肉前の神の御子である。」としている。だがホワイト女史は、「キリストはご自分の神性の上に、罪で汚れた人間性をとられた。キリストは罪を犯すこともできたが、罪を犯されなかった。」と語っている。
(事実SDAはキリストの神性と人性を強調している)
3. キリストの血による贖罪の完全さを否定する。
 彼らの信仰告白だけを見れば、保守的なキリスト教会とほとんど同じように、信仰による、恵みによる義認を認め、キリストの血による贖罪の完全さを認めている。だが彼らの「調査審判」という教理は、信仰義認の完全な否定である。
(調査審判は贖罪の根拠に使われるのではないのだから、キリストの贖罪とは無関係)
4. 聖霊の人格的ご存在と神性を否定する。 (←これはSDAには当てはまらない)
5. 自分たちの団体、組織、教会のみが救いを与えると主張する。
 彼らの公の信仰告白では、彼らが土曜日を安息日とあかしするために特別に召されたクリスチャンの集団であると言っているが、彼らは土曜日を安息日として守らない者はさばかれると主張している。実際的には、自分たちのみがまことの信者であり、日曜日に礼拝している者は「獣」の刻印を押されたのろわれた者であると語っている。
(SDAはカトリックのように自分の組織、団体、教会のみが救われるとは教えない。聖書のみ言葉を信じてキリストにつくものだけが救われると教えている。SDAにとってSDAの教会組織は救いの根拠ですらない)
6. 地獄の存在を否定する。
 彼らは地獄の存在を完全に否定している。そして人間のたましいは死後に消滅すると主張している
。(地獄は存在しない)
7. 特定の人物の預言者的権威を認め、その人物のことばを信仰の対象とする。
 ホワイト女史を聖霊によって油そそぎを受けた預言者と認めている
。 (旧約聖書の油注がれた預言者は信仰の対象であったか? 笑止千万)
8. キリストの血に対する信仰以外の手段による救いを認める。
 彼らの表面的信仰告白では、救いは信仰によると言っているが、安息日を守らない者は救われないと主張している。
(救いはイエスきりストによるのみ。しかし、戒めを故意に破るものは救われない。それは聖書の教えでありセブンスデーアドベンチストの創作教理ではない。めぐみねっとの著者は正しく聖書を読んでこのファイルを作成したのか甚だ疑問である。)
  以上のことから判断して、セブンスデー・アドベンチストは、異端である。 (稚拙な判断を上に指摘させてもらったので、恥を知って出直してくるように。)

上記の訂正の反論は嵯峨野教会理事会で承ります。
http://257.teacup.com/newsda/bbs

安息日と信仰による義 1 

2009年07月13日(月) 19時47分
多くのプロテスタント教会、福音主義教会では「律法は廃された」、「安息日を守る必要はない」ということを主張している。その根拠として、彼らはガラテヤ人の手紙3章19節をあげている。これにより、もはや律法は十戒も含めて廃され、キリストの恵みによってのみ救われ、もはや守る必要はないと教えている。これに対して、第七日安息日を遵守しているセブンスデーアドベンチストの初期の指導者は、ガラテヤ3:17の聖句の指している律法とは、十戒や「道徳律」ではなく、ユダヤの宗教祭儀を規定する「礼典律」であると主張した。

しかしながら、ガラテヤ3:17の律法はやはり道徳律の事を言っているのであるという考察がSDA教会の中で起こった。死すべき人間に命を与えるのはキリストであって道徳律や十戒そのものではない、命を与えるのはキリストである。神の戒めは神を愛する者が神に従ってゆく指針なのであって、指針そのものが永遠の命を与えているのではない。律法を知ることは、神への信仰の心が励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を与えられ、神の奥義なるキリストをよく知るに至るためであるとコロサイ2:2に書かれている。律法は神の理解と神のみこころに一致する生活の指針と秩序を与え、われわれの信仰生活を豊かにするが、だからといって律法がキリストに代わって我々に罪の許しと永遠の命を与えるわけではない。律法を守ることがキリストの贖罪の代替にはならない。だからキリストの愛を忘れキリストの力に頼らず、自分が律法を守ることによって救われようとするのは間違いである。それがパウロがガラテヤの手紙で述べたポイントである。というのが福音のもっとも大切なメッセージである。パウロには十戒を廃するという趣旨は全くない。それが1888年のジョーンズとワゴナーのメッセージの本質である。これは単にSDAがルター以来の福音の基本原則を確認したということではなく、「キリストの福音は律法すら廃した」と主張する過激な福音主義に対して明確に線を引いたのである。

安息日学校エンジン始動 

2009年06月10日(水) 13時43分
2007年の1月から引越しで新しい病院に移転し、そこで新しいてんかんのプログラムを立ち上げる生業が忙しくなって、しばらくこのブログを休眠状態で維持していましたが、今から復活させます。聖書の第七日安息日を広く深く語るのがこのブログの設置目的です。管理人の生業は神経内科医ですが、信条はメシアニックジューたたき上げのセブンスデーアドベンチストです。これから再び細く長く始めてゆきますので、よろしくお願い申し上げます。
http://257.teacup.com/newsda/bbs

とりあえずコロサイの手紙の講解をこの夏までにしておかなくては。

第七日安息日を復興する 1 

2006年10月01日(日) 4時57分
日曜日がどうして土曜日をさしおいてクリスチャンの礼拝日になったのかという疑問は最近多くの注目を受けるところになっている。その最も広く受け入れられている説明はキリスト復活の直後の晩餐からキリスト者が日曜日を礼拝日にするようになったというものである。日曜日は4世紀のコンスタンチン大帝の時までは労働の日であった。それが4世紀になってから休みの日となり、キリスト者の礼拝日になったとしている。

もっと単純で幅広く信じられている説としては、(1)日曜日はキリストの復活後ただちにそれまでの第七日の安息日に置き換わった、とか、(2)日曜日遵守は2世紀以降になって、聖書宗教とは無関係の異教文化から影響を受けた、とするものがある。一体どちらが正しいのだろうか。

一つはっきりしていることは、初代教会で第七日安息日が放棄された事実は無いということである。第一日の復活も覚えられていて、両方の日が大切にされていたようだ。5世紀の教会歴史家、ソクラテス・スコラティカスによれば、「ほとんどすべての教会が毎週安息日に主の聖餐を行っていたが、アレクサンドリアとローマのクリスチャンは何かの古い伝統に従って、それをするのをやめていた」と書いている。それと同時代のソゾメンは、「コンスタンチノープルのクリスチャンは週の最初の日と同様に、毎週第七日安息日に集会をしていたが、そのような習慣はローマとアレクサンドリアでは全くなされなかった」としている。つまり、安息日を守っていたすべての初代キリスト教会というのは、ローマとアレクサンドリア以外のすべてのキリスト教会という意味だったのである。その他の歴史資料として、4世紀のApostolic Constututionsによれば、「安息日(土曜日)と主の日(日曜日)をともにキープせよ、なぜなら前者は神の創造の記念日であり、後者は主の復活の記念日だからである」、「奴隷を五日間働かせよ。そして安息日と主の日には休ませて、教会に行かせて敬神を学ばせるべし」と書かれていた。

また当時イグナチウスの註解者として知られていた匿名記者の記録によると、「あなたがたすべては安息日を守り、戒めに従って瞑想して楽しみを得るべし・・・、そして安息日の遵守の後には、キリストの復活を祝う主の日にはべらせよ」と書いた。5世紀には、ジョン・カシアンが、教会の安息日と主の日の両方の出席について奨励していて、ある聖職者が週に5日間断食していて、土日になると人を招いて家で食事をしていたと記録している。4世紀終りのニッサのグレゴリーは、安息日と主の日は「姉妹」であると書いていた。アステリウス・アマジアは「クリスチャンにとって二つの日があることは素晴らしいことだ」とし、毎週の安息日と主の日には聖職者が人々に聖書を教えていたという。
こうした歴史的文献から明らかなように、初代教会では第七日安息日がまず守られ、それに引き続いて主の日が覚えられたということである。しかもその毎週のサイクルはキリストの時代から今日に至るまで一度たりともずれたり狂ったりしたことは無かったのである。言い換えれば、その当時の土日は、今日の土日と何も違わないのである。

それがいかにして日曜日の主の日が土曜日の安息日を排除していったのかをこれから考えてゆこうとしているのであるが、そのためにまず聖書にさかのぼって考えてみよう。

ルカ4:16を見ると、キリストは習慣として安息日にはシナゴーグに行っておられたのがわかる。そればかりか、キリストの死後も、戒めに従って遺体は安息日に休ませたとある(ルカ23:56)。ここまで見るとキリストは安息日に関してなんらモーセの戒めと異なる指示はしていない事がわかる。彼らは第七日安息日を守り続けていたのだ。ルカはこの記事をキリストが十字架にかかられてから週十年後に書いたのであるが、その間に何も安息日遵守の認識に変更が無かったことを意味している。

その一方でキリストはパリサイ人から安息日遵守の違反者という非難を受けたことを知っている。キリストの弟子達が麦畑を通過する時に麦の穂を摘んで食べた事、安息日に病人を癒したことなどを挙げてキリストが安息日を破ったという非難が浴びせられた。しかし、もちろんこれは安息日を破ったことにはならないのである。当時のユダヤの宗教指導者たちは安息日遵守としてモーセの戒めのほかに任意基準としてミシュナのような厳格な人為基準を追加していたのであるが、キリストは安息日を守るにあたってミシュナには拘束されないことを明確にした迄であった。決してモーセの安息日遵守の戒めを否定したのではないのである。

ミシュナには39か条にわたる安息日にやってはいけないことという条項群があり、その中に、「縫い物、開墾、種まき、云々」と箇条書きに並べられていた。この39か条にはしかもさまざまなバリエーションがありまた、付帯条項も任意適当につけられていた。その意味ではこれはモーセの律法とは無関係な極めてリベラルな人為的律法だったのである。たとえば、「壁にヘブル語の文字の一字を書いて、その角の壁面に別な一字を書いてそれが同時に見えるなら安息日を破ったことになる」とか、「安息日に家から食べ物を持ち出すのに、敷居の上をまたいで出すか、二人で出すなら安息日を破ったことにはならない」とか「安息日に井戸から水を汲むのに、重りの石は水がめの一部とみなされる以上、石が落ちなければよいが、石が外れておちたのに水を汲むなら安息日を破ったことになる」とか、絶望的に無意味なことを規制していたのである。こうした馬鹿馬鹿しい無駄な規則の前にイエスが違反者とみなされないはずが無かったのである。

そういうこじつけとも嫌がらせともいえるミシュナの安息日遵守規則はモーセの律法とはなんの関係も無いが、キリストが安息日遵守違反者と言われた根拠はそれのみに基づいていたのに過ぎないことを知る必要がある。従って我々はイエスキリストが安息日を自ら破られたという指摘が事実であると受け入れる必要が無いのだ。

つづく

非常に緊急を要する問題提起 

2005年12月25日(日) 13時42分
今、速やかに解決しなければならない問題は、日曜日を守っているクリスチャンに土曜日が真の安息日であることをしらせることよりも、そもそも第七日安息日を標榜しているSDA(セブンスデーアドベンチスト)が一体どのようにしたら安息日を正しく守ることになるのかという聖書に基づく共通した認識を持つことです。牧師が怠慢なばかりに、この教育が過去30年間おろそかにされてきました。今こそここで額に脂汗を流してしっかり考えてください。

あなた方にとって第七日安息日を守ると言うのは一体どういう事を意味しているのですか?

人にとっての安息日の意義 

2005年12月25日(日) 0時56分
神は、私達の為に世界をおつくりになった。そして、人は誰もその創造に貢献していない。ただ、創造された世界を神からの賜物(贈り物)として受けるだけだ。先のスレッドにも挙げたように、安息日は神に属するが、この世界と同様に安息日もまた我々に与えられたのである。

神が安息日の契約をお定めになったのは、人類が堕落する前であったことを聖書を読んで思い起こして貰いたい。この事実の意義は極めてディープである。もしアダムとエヴァが罪を犯さなかったとしても、なおも安息日は休みの日、神との交わりの日として存在していただろう。しかし、罪が入ってきて安息日の意義が壊されてしまった。罪は神への依存に対する反逆であり、自己や人間のメリットに頼るように要求する。罪が我々を神から引き離したとき、安息日の意義もゆがめられた。人間は人間自身の単なるリクレーションの為に休みを日曜日として導入しなければならなくなったが、それは神の休みの本来の意義とは異なり、完全で完成された神のみわざや、創造や救いのみわざも何も指し示していないのである。一方では安息日を守ることが救いを達成する条件のように教えて、聖書にも無いような余分で複雑な人為的規制を設けて安息日遵守の本質をゆがめる人々もあったのは周知の通り。

新約聖書でパウロは、ローマ人への手紙4章などでも分るとおり、神の律法は人間の救いの手段としては与えられていないことを明快に説いている。しかも神は律法を与えてから人を救ったのではない。律法は救いの手段ではなく、聖書信仰を持つ人々の生活の単純なスタンダードとして与えられたのである。

神にとっての安息日の意義 

2005年12月25日(日) 0時49分
「安息日」という語は「休み」「休息」を意味していて、旧約聖書では安息日が神に属するという事実にまず気づかされる。

神はこの日を「わが聖日」(イザヤ58:13)、「わたしの安息日」(出エジプト31:13)とされている。「七日目はあなたの神、主の安息である」(出エジプト20:10)ともある。

安息日は明らかに神に属しているのだから、その所属はユダヤ教徒の伝統に狭義に限定されない。安息日は人のためにあるとマルコ2:27に書かれていても、安息日の制定権と安息日の主体は人に属するものは何もない。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、人に裁定権はないのである。これはただひたすら神に属する。安息日遵守のありかたを人間中心のヒューマニズムから論じるのは耳障りがよく聞こえるのであるが、こうした聖書の言葉を振り返ってみるとそれは非聖書的なロジックであることがわかる。神が6日の間に世界と人を創造されて、そうして第七日を安息日とされたという趣旨によれば安息日は初めから人と神の交わりの為に与えられたのが明らかであるのだから、ヒューマニズムの解釈は必要が無いのである

安息日学校テキスト 

2005年12月18日(日) 23時06分
安息日学校教科としてこの本を推薦します。

タイトル 「福音の解体新書」
著者  ジャック・セクエイラ
訳  辻好文

出版社 キリスト新聞社   2300円
ISBN 4-87395-385-5

内容はSDA以外のキリスト教会にも広く通用するしっかりした内容で、キリスト教福音の今まであまり強調されなかった律法や旧約の贖罪思想までも踏み込んで基礎から復習するものです。誰でも知っていると思っていた事をもう一度新鮮な視点から復習して聖句から確認をします。その過程で安息日も再評価されるでしょう。これはキリスト教書店ばかりではなく、日本全国どこの一般書店でもISBNを提示することによって注文と購入が可能です。

安息日の意義を再考 

2005年12月12日(月) 0時40分
安息日の大局的な意義とは何かをここで考えましょう。
P R
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