紫雲の瞳 【萩野武編】その一
August 30 [Thu], 2007, 21:50
第二章 萩野 武
限りなく退屈だった。
何をするでもなく雑踏の町を歩く。
中堅の大学に入り、卒業こそしたがこのご時世に就職もなく、だがここ以上に田舎で遊べない実家に帰る気も起こらずもう今年で二十六にもなるっていうのに親からの少ない仕送りに頼りながらフラフラしている毎日だった。
年を取ることに危機感はないが、財布の軽さにはかなりの恐怖がある。
あの台で当たりが来てりゃ今ごろ肉でも食えたんだろうが…
流れていくほかの連中の顔が俺を馬鹿にしているように見えて仕方なかった。
後少し運が向いてりゃなんでもうまくいったんだ。
ワンランク下の大学に行くことも、就職にあぶれることも、こんなところで腹を鳴らしながらぶらつくことも…
「ち、切れてやがる」
空のタバコの箱を握りつぶして投げ捨てる。どうやらつくづく俺という人間は運に見放されているらしい。
「…ん?」
ふと、見慣れた街中から少し違和感を覚えて立ち止まる。
歩道にぽつんと置かれたダンボール製のちゃっちい看板。そしてそれには「幸せ売ります」の文字。その横には俺より若いだろう青年が一人なぜか不機嫌そうに虚空をにらみつけて座っていた。
どうせ怪しい置物やらお守りやら置いてあるんだろうと馬鹿にしながら遠巻きに目をやると、売り物らしきものはひとつもそこにはなかった。ただ、看板の隣の男と目が合った瞬間に悪寒が全身を走る。
紫色の瞳。
カラコンだろうか。
「…なぁ、あんた」
俺が声をかけると、ただつりあがっていた眼が若干おとなしくなり俺を向く。
「何だ」
意外にハスキーな声だった。
「その幸せっての、マジで?」
「…やめとけよ」
まるで諭すように紫の眼の男が言う。
「悪いことはいわねえから、帰れ」
「なんだよ、客を選ぶってのか?」
ここまで絡んどいて、引っ込んだら面白くねぇ。
ポケットの中に手を突っこむと何とか残っていた最後の小銭を投げ渡す。
「それだけでいいからよ。売れ」
別段、気を害した様子はない。まぁもともと機嫌の悪い感じはあったが。
しばらく男は手に取った小銭とにらめっこしたあと、顔を上げて今度は俺の顔を見据える。まるで俺のすべてを見透かすかのような目につい顔をそむけそうになる。
一瞬表情を歪めた後、ゆっくりと立ち上がって看板を畳む。
「…ついてこいよ」
言うが早いかもう奴はそっぽを向いて歩き出していた。黙って後につきながら、俺はすでにわずかな後悔を感じていた。
「どこに行くんだ?」
尋ねたものの奴は答える気などさらさらないのか振り向くそぶりすら見せない。
どこまで歩いていくのかと不安をよぎった矢先に紫色の瞳の男はタバコの自販機の前で止まると、こちらをちらりと見てからひとつタバコを買う。
軽い音を立てて出てきたタバコを手に取り、ビニールをすべて剥ぎ取るとそれを俺に投げつけてくる。
「それをそのまま持って、ここから一番近いパチンコ屋の男子トイレに行けばいい」
「…あ?」
言っている意味がまったくわからず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「どういう…」
「じゃあな、俺も暇じゃないんだ」
そう言うときびすを返して急に走り出してしまう。
「お、おい!」
いったいなんだってんだ。奴が去り、俺の手元にはタバコが一箱。…ここから一番近いパチンコ屋って言えば、つい昨日ほぼ全財産をすった店だ。
仕方ない。行ってみりゃわかるだろう。
気乗りしないまま、足はまっすぐに店のほうへと向かっていった。
店は相変わらず何百ものパチンコ台が出す騒音に満たされていた。パチンコなんてそんなものだろう。今こうして俺がトイレに向かう間にも損をしたり得をしたりしている連中の金がこの店を潤すために流れているかと思うとさすがに馬鹿馬鹿しくなる。結局のところ儲からない商売なんてねえんだから。
入店して、まっすぐにトイレを目指す。
一体何があるっていうんだ。
別段悪いことをしたってわけでもないのに肩は張るし手には妙に汗がにじむ。一度深呼吸してからゆっくりとトイレのドアを開ける。
「…何もねえじゃねえか」
待っていたのは何でもない、ただの便器だった。
馬鹿にするつもりが馬鹿にされたって事だ。
「つくづくついてねえ…」
どの道これで正真正銘の一文無しだ。こうなったら家に電話して金を振りこんでもらうしかない。
便器を見ていると少しもよおしてきた…ついでだ、済ませてから出よう。そう思いチャックに手をかけるとトイレに人が入ってきた。
そいつの顔を見たとき、悪寒が走った。あの紫の眼を見たときとは違う単純な理由だ。
目が明らかにおかしい。俺を見ているんだろうが、そのくせ俺なんかどうでもいいような目。顔は不気味にやせ細っていて、体全体がわずかに震えている。
荒い息遣いをしながら俺に手を伸ばしてくる。
「ちょ、ちょーっと待て…」
こいつはヤバイ。ここは関わらないほうがいい…これ以上ケチがついたらやってられねえ。
(続く)
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