西光と清盛が徹底対立に向かうまで

November 19 [Mon], 2012, 23:52
西光は、もとは信西の家人で俗名を藤原師光といったが、信西が死んだのち出家して後白河院に仕え、法皇第一の近臣と言われるまでのし上がった。
だが、その西光からの、相撲節会に対する協力要請は、冷たくはねつける清盛。
そんな形ばかりの宮中行事に現をぬかしている暇はないこれだけでも、ひどい言い方なのに、信西が生きていたら、きっと自分に味方するはずだと、勝ち誇ったように言って、西光の気持ちを踏みつけにする。
鹿ヶ谷事件の前哨戦とも言うべき比叡山の強訴が起きた。
加賀守藤原師高の弟で目代国守に代わり現地に赴任する代官を務める藤原師経が白山中宮の末寺湧泉寺と揉め事を起こし、師経が末寺を焼き払った。
怒った白山衆徒は本寺である比叡山に訴え、これを受けた延暦寺の山門衆徒は師高師経の解官と配流を求めて強訴の挙に出る。
だが、師高師経は後白河院の側近中の側近西光の息子であったため、後白河院は師経だけを罰して事態を収拾しようとした株式会社アルメイダ
延暦寺側は後白河院の処分に納得せず、4月13日には七基もの雛を担ぎだして高倉帝の閑院内裏に押し寄せた。
このとき、内裏を警備していた平重盛の軍兵の放った矢が雛のひとつに命中し、延暦寺の衆徒にも死傷者がでる事態に発展した。
怒った大衆は雛を放置して帰山。
しかし、武力攻撃を命じたのが後白河院自身であったということを知った大衆は、ふたたび強訴を行う姿勢を見せる。
やむなく朝廷は級ミに雛を預けて対応を協議、師高の尾張国への配流を決定し、雛に矢を射た重盛の家人を監獄へ送った。
結局は大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着する。
だが、これで西光の力は落ち後白河院の力も同時にそがれて行く。
こうして西光や他の後白河院の近臣達と清盛との決裂が決定的になり明日の鹿ケ谷の謀議に続くのだろう。
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