378)内田樹 『街場の教育論』 ミシマ社 

January 20 [Mon], 2014, 22:41
この前のM2飲みで話題に出た内田樹の『街場の教育論』です。

この世界の価値観に支配されず「今ここにあるもの」とは違うものとつながること。著者はそれこそが教育の可能性であるとして、昨今の教育改革熱を批判、教師と子どもがともに他者や外部に出会う学びを大切に、と訴える。より教師が正しい方法で教育すれば効果が上がるのではない。子供自身が学ぶべきものを『自分で学んでいくプロセスを学びの現場にゆだねようと主張する異色の道徳教育論−−−(帯より)

内田樹独特の世界観で教育がとらえられていて、難しい部分もあるが、多くは非常に説得的に書かれており、納得できることも多かった。特に、「政治家は教育に手を入れたがる。なぜなら、理屈をこねて、説得力のあるように説明すれば国民の目を引き付けやすいうえに、その成果が上がってくるのは当分先であり、自ら責任を取る必要がないからである。」といった主張は今まで考えたことがなかったため、非常に新鮮だった。

教育に関して、良くも悪くも新たな視座を得たい人にはお勧めの一冊である。

(ばち×2)

377)田中毎実(2012)『教育人間学――臨床と超越』東京大学出版会 

August 31 [Sat], 2013, 6:18
 この本の中では、教育について多様な議論を展開する研究者たちの先進的な議論を、教育人間学という学問によって括り、まとめられている。本書をご覧になれば、わかるが、議論は多岐にわたる。まとまりは感じられない。だからこそ、教育人間学という学問でしか括ることができないのだろう。教育人間学は、緩やかな広がりを見せる学問である。
 本書の目次は次の通りである。

序章・・・田中毎実「人間学と臨床性」
●第一部…臨床とライフサイクル
第一章・・・田中智志「共存在の主体」
第二章・・・岡部美香「生の技法としての応答」
第三章・・・松下良平「人はなぜ学ぶのか」
第四章・・・鳶野克己「『生きることのかなしみ』という力」
●第二部・・・超越とメディア
第五章・・・西平直「教育人間学の作法」
第六章・・・西村拓生「マルクス主義のシラー論」
第七章・・・今井康雄「表象とメディア」
第八章・・・矢野智司「生成と発達を実現するメディアとしての身体」

 このなかで気になった次の論文を取り上げ、紹介したい。
●西平直「教育人間学の作法――『教育人間学にはディシプリンがない』をめぐって」(pp.135-164)である。

 教育人間学にはディシプリンがないという。本論文では、この命題について、西平直自身が、自らの研究生活を振り返ることで、内部観測的に解明しようとしている。
 西平は、「教育人間学には明確なディシプリンがない。しかし何らか『居場所』を提供することはできる。〈ディシプリンの縛りの強い学問には馴染まない研究〉を受け入れる居場所である」と語る(p.150)。ゆるやかな広がりのある学問。
 「しかし、あらためて、教育人間学は『教育研究』なのか。むしろ教育人間学は〈教育を目指す物語〉に回収されることを拒否したのではないか。すべてを〈教育のための手段として見る〉教育研究への抵抗。〈すべての話題を教育という目標のための手段として回収する大きな物語〉から個々の話題を解き放つところに成り立っている」(p.150)。
 しかし、教育人間学は、教育との関係を絶つわけではない。
「教育人間学はやはり実際的な〈教育の物語〉と『緊張関係』を持ち続ける。あるいはむしろその特有の緊張関係が保たれている場合にのに教育人間学は生きて働くのであって、その緊張関係を失ってしまえばばらばらになる、〈教育の物語〉から離れる瞬間が大切なのであって、完全に無関係であることが大切なのではない」(pp.150-151)。
 ディシプリンはない。全てがゆるされかねない、緩やかな地平のなかで、しかし、教育との緊張関係は保ちながら、存在する学問。ともすれば、それは中途半端となってしまう危険性を持つ。だからこそ、西平は、「各自自分なりの作法を身に付ける必要がある」と説く(p.152)。
 本論文では、この作法に関する、西平自身の研究生活における紆余曲折が、その中核をなしている。

 この論文のなかで興味深いのは、西平自身の研究の紆余曲折と、そして教育人間学という学問である。修士論文を執筆するうえで、誰もが一度は、その構想に頭を抱えることだろう。そうした私たちにとっても、西平の紆余曲折の過程は、研究への姿勢について、何かしらのヒントを与えてくれるように思う。
 そして、教育人間学という学問。そのゆるやかな広がりのなかに、何か明るい兆しを感じてしまうのは、私だけであろうか。その反面があることは言うまでもないとしてもである。
 最後に、註に記してある、西平の教育人間学への思いを引き終えることにする。
「本章は個人的な回想を目的としない。しかしその根底に『教育人間学への感謝』が流れていることは認めざるをえない。本来ならばどの講座にも属することができず路頭に迷ったはずの流れ者を受け入れてくれた教育人間学という学問共同体への感謝」(註【8】,p.159)。
 脚下照顧。身が引き締まる思いである(トホホ・・・・・・)。

(?林)
 

布村育子(2013)『迷走・暴走・逆送ばかりの日本の教育 なぜ改革はいつまでも続くのか』日本図書センター 

August 28 [Wed], 2013, 16:53
本書は「教育=善なるもの」「教育改革=教育的な問題の解消にむかうための制度」といった認識そのものを問うところからして、教育社会学を専門とする人が書いた本だと理解できる。
「第三の教育改革」の副産物については参考になった。
落ちこぼれの増加や社会の学校化、受験競争の激化を解消するために出された「四六答申」と、それをもとに目指された臨教審答申(個性重視、国際化・情報化する社会変化への対応、生涯学習の推進)は「心の教育」「道徳教育の充実」などの教育勅語的な人格形成論をもたらした、という。
教育の自由化、市場化を推進することで現状の問題が改善されるという流れが推進される一方、中曽根康弘が『自省録』で述べるように「自分の国の伝統とか文化、共同体、国とか国家・責任義務そういった縦を貫く背骨」としての「日本的な要素が入らなくては、とても教育にはならない」という考えが臨教審答申を通じて反映された結果、教育の自由化と統制化という相反する期待が同時に浸透することとなったという。丁寧に社会政策の出来や教育現場にもたらした影響圧力を歴史的に考察することも興味深いと思った。

この他にも、小説家や評論家の言葉を紹介するなかに筆者の感性を読みとることができる。

「政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうではない。」坂口安吾1991『堕落論』p.19

「大人が子どもを観察して、案外大人だと発見する。それはよいが、人心の観察は、その性質上、切りのないものであるから、やがて、案外大人だと思っていたら、やっぱり子供は子供だという発見をする。なんにもならない。ただ、そんな道草を食ったあげく、大人は子供に対してずうずうしくなるだけである。」
                          小林秀雄1968「教育」『常識について』p.262

 私が惹きつけられたのは、著者の大学時代の指導教官(陣内靖彦)の言葉である。すでに20年以上前の引用であるが、今後ますますこのような覚悟が教師に求められなければいけないように個人的には考える。

「教師は本来孤独な職業人である。世間や現在社会からの様々な要求や批判をまともに受けとめながらも、 それにそのまま押し流されたり、巻き込まれ給うことは許されない。一方の眼で現実を見すえ、他方の眼 で未来を展望しながら、自らのとるべき道を選ばなければならない。そうした宿命にも似た社会的役割に 耐えること、それを自らの使命として、自己をその職業に捧げる強い意思が教師には必要であろう。」
                     陣内靖彦1988『日本の教員社会 歴史社会学の視野』p.15  
 
 本書で筆者が最も主張したい指摘は、以下の一文に集約されている。

「『制度』と『固有の場所』が共通の規則をもつためには、『教育くさい』言説ではなく、『制度』を意識 できるだけの言葉で教育現場を『教える』ことのできる人、できる場所、できる機会が保障されなくては ならず、その言葉を『学び』、それを制度として実現できる手腕をもつ為政者を、私たちは選んでいかな くてはならない」(p.272)

 「生きる力」「豊かな心」など教育改革のなかで多用される「教育臭さ」と各現場を共有する者同士のなかで実感を伴って語られる「教育臭さ」は「臭い」という点では共通している。しかし、制度と個別事例とを明確に区別しなければならないし、その教育臭さが最終的に個別事例へと回収されてしまうようであってはならない。個別事例はどこまで行っても個別の域を出ない。むしろ個別の域を出るためにこそ、経験のなかから「制度」を問題にできる言葉を紡ぎだせる人を育成し、そのようなことが語れる場所や機会を用意しなければならないということだ。

ごもっともと思うのだが、かなり厳しい課題であるようにも思う。実現は容易ではない。しかし、そうであっても、まずは、このような明確なビジョンを語れる人が不可欠であろうし、そのビジョンそのものを議論する場や機会が十分に用意されてしかるべきであろう。  

                                     BY 1+1=口                   

関根廣志(2012)『教師力を向上させる50のメッセージ』学事出版 

August 26 [Mon], 2013, 16:53
 私が初めて着任した中学校はなかなかやんちゃな生徒が多く、それなりの覚悟をもって欲しいと事前に話されていた。その学校でお世話になった校長先生が素晴らしかった。「これが教師道か!」と痛感する経験をたくさん目にすることができた。問題行動の対応の先にある着地点を設定することを通して、人の成長や変容への期待や信頼を垣間見ることができた。若手教師にはとにかく授業づくりの研修の機会を用意してくれ、放課後、校長室で研修会を開いてくれた。私にとってのみならず、当時の学校にとって不可欠な偉大な存在だった。その校長先生がこの夏(7月)、本を出版した。

『教師力を向上させる50のメッセージ』
 タイトルを見て、残念に思う人がいるかもしれない。
「なんだ、これもスキル本か…」「50のメッセージで教師力が向上するのか?」
 また、内容を見て残念に思う人がいるかもしれない。
「叱り方のポイント」や「学習集団にふさわしい風土をつくるための教師の心がまえ」を箇条書きにしてまとめたり、巷にある子育て本か?と思うような記述も…。

 どのような意図で書かれたのだろう。「あとがき」にはこんな記述がある。

「本書は一般にみられる教育関係の書物と違い、一つのテーマを理論的に深く追求したものでもなく、実践記録でもなく、また、単なる『ハウツー本』でもないと思っている。…中略…『教育実践の指針本』『教育の本質を理解する手助け本』だと勝手に思っている。」 p.164

 「本書を読んだだけでは決して伝わらないものがある。15年ほど前に、私が触れた筆者の魂は、文章表現のみによって伝えきることができない」。これが私の一読しての率直な感想だ。そうであっても、言葉によってしか継承し得ないものもある。これもまた一面における事実であろう。「序にかえて」で、筆者は以下のように述べる。

「なぜ、“言葉の力"かと言えば、私自身、これまで悩みの解決にぴったりの言葉に出会い、それを機に実践が変わったり、強烈で印象的な一言でやるべきことが鮮明になり、子どもばかりか、自分自身が変わるという実感を何度も味わってきたからである。」
  
 言葉に宿る霊である「言霊」には、2つの態度がある。一つは言葉を積極的に使って、言霊を働かせてようとする態度であり、もう一つは、言葉の使用を慎んだり避けたりしようとする態度である。本書は、若い教師をターゲットに、前者のスタンスで「教師魂」を育もうとする積極的意図をもって書かれている。しかし、その積極性とは裏腹に、その人となりやその教育実践があるからこそ、首肯できるものもあるように思える。

 筆者と面識のない人の感想をぜひ聞いてみたいものである。

By 1+1=口

平野啓一郎2012『私とは何か 「個人」から「分人」へ』講談社現代新書 

August 23 [Fri], 2013, 2:12
 近代的個人という日本人がその西洋的人間観の受け入れで苦労してきたテーマについて、その限界と個人のとらえ方に関する読みかえを平易な形で提示している。
 個人(individual)という発想は、そもそも一神教の世界において広く受け入れられてきた。唯一絶対の神の前で一人向き合う「私」を下地として立ち現れてきた。つまり、その起源そのものからして、日常に根ざした人格のとらえ方ではないし、近年のネット社会や多様な人間関係を反映するような人格のとらえ方にも対応できていない。とりわけ一神教を信奉していない文化のもので生きる人は、そのことに同意するのではないだろうか。したがって、個人という発想から出発する個人主義は「本当の自分」という名の檻に自らを押し込め、柔軟性を欠いた息苦しさをと抱え込むこととなる。
 以上の問題を著者は副題にも掲げられるように「分人(dividual)」という発想で乗り越えようとする。特段、奇抜で新しいことを言っていないように思えるのは、それだけ、私たちが生きている日常にマッチした考え方であり、言語化し得ていないものの、感覚的には多くの人が共有しうる事柄を捉えているからだと思う。

 著者の言う「分人」を簡単にいうと、人間の身体は分けられないが、人格は様々な対人関係のなかで、異なっているし、複数ある。対人関係によって異なる「分人」はまた、多層的な構造を有する。この構造は3つの層から構成されているという。お互いの自己開示を最低限にとどめ、失礼のない範囲での応ずる「社会的な分人」(p.71)、「社会的な分人」がより狭いカテゴリーに限定されたものが「グループ向けの分人」(p.75)であり、より一層相手に特化した形で形成されるのが「特定の相手に向けた分人」(p.76)である。
 著者は学園ドラマのなかで、よい教師は「特定の相手に向けた分人」を柔軟にもって描かれ、悪い先生は「社会的な分人」として誰に対しても当たり障りない対応をするものとして登場するという。やや単純すぎるが、ここでは教師論を説くことに主眼が置かれているわけではなく、「分人」を説明するための例示にすぎないと流すべきであろう。
 このほかにも、個人と社会との境界線の引き方の変更や責任の所在、人生の幸福や成功、失敗等々へと話題は広がる。それだけ自分自身についてのものの見方が変わってしまうだけで、世界の見え方が変わってしまうのか、と思えた。簡略な一般書のわりに、貴重な示唆に富んだ良書だ。 

BY 1+1=口

金井壽宏2004『組織変革のビジョン』光文社新書 

August 21 [Wed], 2013, 18:40
 学校や組織をリードし変革する人から見る組織像は、複数の主観による意味付与の結果として構成される組織像とどこまで同じものとして語ることができるのだろう…。そんな問題関心のもと、本書を手にしてみた。

 本書は、体系だった組織論というより、臨床的な立場から幅広く組織変革に関する話題を取り扱ったものといえる。一つ一つの言葉に「なるほど、そういうふうに表現できるか」と感心できるような語録も多数、紹介される。

「安定こそ不安定であり、不安定が安定である」(小林宏治)
「愚痴を言う権利もあるけれど、希望を語る義務もある」(A・O・ハーシュマン)
「適応は適応力を阻害する」(カール・E・ワイク)
「ひとの成長は、漫然と漸進的にずっとゆっくり進むのではなく、ここぞというときに大きなジャンプがある」(モーガン・マッコール)

 「なるほど」と感心する一方、このような言葉が並べられれば並べられるほど、こうした内容が一本の線としては結びつき得ないんだなという理解にいたる。いろいろな人の言葉を寄せ集めたものであるから当然なのかもしれないが、ここにこそ組織というものの捉えがたい特性が表れているようにも思える。
 著者にとって、組織の特性は自己組織性にあると述べられるように、組織は現状維持にとどまる閉鎖系とではなく、自己増殖する柔軟な開放系として把握される。さらにそのような組織が変革されていくには「よりオペレーショナルなシナリオの構築に結びつくビジョン」(p.212)が創出されていく必要があるともいう。液状化している現代社会において操作可能なビジョンを創出するというのは、無から有を創造するに等しい「飛躍」を含んできる。こういったからと言って、誤解をしないで欲しい。私は筆者の主張を否定しているわけではない。おそらく数々の組織変革にはおびただしい努力や運、劇的変化を併せ持つストーリーがある。だからこそ、それを一般性のある形で語り尽くせないのが組織変革なのではないだろうか。したがって、その複雑さを「整合性のないまま取り扱わざるをえない」ということこそ重要なのではなかろうか。組織については「一生懸命に考えてる人ほど、即効薬や万能薬がないことを知っている」(p.104)という言葉は、以上のようなことを示しているのであろう。

 私が本書で最も興味が引かれた箇所は、キャロル・K・ゴーマンの忠誠心に関する議論(pp.93-94)である。組織に全てを依存するような生き方は古いという風潮のなかにあって、ロヤルティ(忠誠心)は新しい形へと変化しているとし、その新しさを3つ提起している。
 一つ目は相手を大切に思うケアの気持ち。これがない会社組織がここで働く個人に対してロヤルティを要請することはできない。
 二つ目は、このロヤルティは一方的なものものではなく、双方向的でなければならない。
 三つ目は、ロヤルティーは多重的になったという見方である。
 「大切に思う会社に勤めていたとしても、そこで働く個人が大切に思うのはけっして会社だけではない。
  家族、趣味の仲間、地域社会など、大切に思う対象は一重にとどまるわけでなく、多重な対象がある。
  会社にとっても、従業員の他に顧客、株主、地域社会の住民、取引先などへのロヤルティが存在し、比
  重はますます高まっている。」(p.94)

 本書は一貫して組織変革を前提に語られるなか、この「ロヤルティ」に関する議論は、組織変革のみならず、労働そのものを支えるメンタリティーに焦点を当てられている。「双方向的で多層的になったケアに基づく忠誠心」をもって働くことの意味を再定義するという重要な示唆を与えてくれる。

BY 1+1=口

内田睦夫(2005)『突破力』三五館 

August 20 [Tue], 2013, 5:49
 民間企業を経験した校長の視点から、学校組織がどのように映ったのかを知る手がかりとなる一冊。

 日立製作所から東京都立高校校長へと転じた内田さんにとっては民間組織と学校組織との違いに戸惑いながらも、その折り合い所を見つけ、都立高島高校の改革を推進していく。何を改革の成功と見なすかは別に議論が必要としても、内田さんの目指す高校改革が軌道に乗り、職員も活気づいていく最大の鍵は、「活性化委員会」という校内コミュニケーションの場の設立によるところが大きかった。こうして管理職と現場教師とが本音で学校の方針について語り合える場を確保した。これを内田さんは「トップダウンとボトムアップとのサンドイッチ方式」(p.244)と呼ぶ。
「民間企業では、下から異論や提言がどんどん上がってくるようにするのが、よい上司です。現場からの情報が遮断されたとしたら、その部署の責任者はお手上げ」(p.55)というものの、「リーダーは、まず自分の考えを明確に示すことが重要」(p.56)と説くように、内田さんは徹底的にバランス感覚を重視している。
ほかにも、職員会議での先生方のふるまいを通して、組合の立場に立って「管理強化反対」を叫ぶ職員であっても同時に、現状を由としないという本音をも抱え込んでいる、という。管理職に反対する態度と学校改革への意欲とは別物であって、「人間とは、こうした相反する本音を同時に抱え込んでいる何ともややこしい生き物なのです。」(p.109)という認識にも彼のバランス感覚はさえわたる。

 民間人初校長としての立場から学校がどのように見えたかという関心から読んでみたが、読み終わって気になったことは、随所に登場してくる女房役の教頭(野地先生)や都教委の意図である。学校教育の専門的立場にない民間人校長が活躍できるステージを用意し、導き入れる人の計らいを射程に含めた、組織変革が実際には行われたからこそ、内田校長は活躍することができたはず。学校改革の舞台裏で、地味に行われる営みを明らかにすることもまた、重要な作業のように思われる。

BY 1+1=口

内田樹2013『修行論』光文社新書 

August 18 [Sun], 2013, 1:00
何年かぶりに内田樹さんの本を読んだ。
40年にわたる合気道の師の教えをもとに、道場での稽古を「楽屋」と位置づけ、道場の外の生業の場を「舞台」とする内田さんの見立てに興味をそそられた。様々な「道」(武道・武士道・合気道・剣道)の話が一つのものとして扱われているので「?」という箇所もあるけれど、納得できることもたくさんあった。失敗が許され、試行錯誤が許されるという点で「道場は楽屋である」という。その逆に「生活が本番の舞台だ」という意味は、武術を用いる必要はいつ、ふりかかって来るか分からないのであり、その意味で日常性こそが「本番」であるということだ。ゆえに侍たちは「日々繰り返されれ無限のルーティン、呼吸、起居、食事、歩行、着衣、会話、勤め…そのすべてのふるまいそれ自体を『稽古』」(p.114)し、日常生活のなかで臨戦的な態勢を身につけるようにしてきた、という。
 この武道の考え方と対比されるのが、学校教育におけるスポーツ競技。部活動等で行われるスポーツ競技は大会という非日常的で「限定的な舞台」における競技力の向上が追求される。また、引退という終わりを前提にした活動である。このような限定期間での活動だからこそ、過剰な負荷を与えて爆発的な身体能力のブレークスルーを短期的に経験させることを指導者は要求することとなる。こうして、部活動における教育戦略は「こんなことが自分にできるとは思ってもみなかった」という経験を子どもにさせることで自己有能感を獲得させることを目的の一つとしてきた。
 武道の発想はこのような部活動の発想とは対極にあるという。道場での稽古は時間が来れば終わるが、生活は終わらない。

 道場で稽古の相手はとらえてきたり、切ってきたり、突いてきたりするが、生活において私たちを「襲う」 ものは、いつ、どんなかたちで、どんな方向から、どんな文脈のうちで到来するか予見不能である。(p.113)

 こう述べたあとで、内田さんは、現代の武道修行者にとってめざすべき理想を「生活即稽古」「稽古即生活」のなかに見出す。なるほど、部活動指導のなかで重視され続けていることではあるし、桑田真澄の『心の野球』や長谷部誠『心を整える』などのようにプロスポーツ選手もそのような態度を理想としてきたことを伝えている。その一方で、戦が常態化していない現代日本において、武道を修めていない人、競技志向の活動を愛好していない人にとって、どこまで通用する話であるかは疑問が残る。要するに、この本が、どのような読者を想定して書かれたものかが問われているように思える。          BY 1+1=口    



370)宇佐美寛(2013)『教育哲学問題集』東信堂 

August 13 [Tue], 2013, 17:05
お久しぶりです。大好き宇佐美さん。
宇佐美さんの本は本当にどれも傑作だ。
今回は研究に役立った7章を。
基本的に宇佐美さんのおっしゃる通りなんだけれど、発表者の説明不足が目立つ気がするなー。

T 
 2012年の教育哲学会での発表について論ずる。発表者は、河野哲也、土屋陽介、森田伸子、村瀬智之の4名である。彼らは要旨集録で「子どものための哲学」という教育実践を行うことにおいては、日本は大きく後れを取っているという。しかし、日本での実態は、「哲学」と名づけて読んでいないだけではないか。つまり、実質的に哲学的思考を子どもが行っている実態は、日本の方が大きく先行しているのではないか。
 会場で配られた資料では哲学教育をすることの意義として、批判的思考力、想像的思考力、ケア的思考力の涵養が挙げられている。しかし、このような「思考力」ならば、わが国の教師は、「哲学」と名づけられてはいない教科、単元、教材において、既に育てようと努めている。
 また配布資料には次のような見逃し難い論述がある。
 
哲学対話教育にはそれ以外の対話教育にはない教育実践上の利点がある。
 一つは、知識の多寡が問題にならないという点である。(中略)たとえば「第二次世界大戦における日本の行動は正当か?」についてディベートの授業を行った場合、前提となる知識の多寡は議論の優劣を決定する要件になってしまう。数学の授業に対話を取り入れようと思っても(もちろんさまざまな工夫が存在し上手くいっている実践はあるものの)学力が高い子どもが教え役/できない子は聞き役という役割を超えることは(おそらく高学年になればなるほど)難しい。それに対して、哲学的問いは本質的に知識の多寡は問題にならないため、学習者間での平等性が保ちやすく、これは哲学対話教育の対話教育としての教育実践上の利点となるだろう。


 授業における知識は「多寡」などと単なる量に意義があるのではない。(単に多寡が重要だという授業の例を挙げてもらいたい。そんなものは無い。)いかなる思考指導であっても、当該の問題を考えるのに必要な知識を保証しなければならない。「哲学対話」であっても、同じことである。必要な知識を欠いては、思考はできない。

問題
@先行研究の検討不足
→教育全般で言えば確かに「哲学」と言っていないだけで、実践はされてきているだろう。また、批判的思考力、想像的思考力、ケア的思考力の涵養も目指した授業実践もあるだろう。おっしゃる通り、提案者の研究不足だ。ただ私のいう「哲学」(自分自身で考え、それについて他の人と対話して、そしてその対話を通して自分の考えを軌道修正し、最終的に自分の意見を発展させること)と道徳授業の先行研究を見ると、価値そのものを問う授業は少ない。 けれども、上記の「哲学」は求められている 。

A知識の多寡について
 んー、要検討。提案者の説明不足の気もするが、知識はないよりあった方がいいが、提案者哲学対話では知識の有無にあまり左右されないと言いたいのでは?もちろん第二次世界大戦における日本がどのような行動をしたのかを知っていれば議論は深まる(例や反例などにも使える)。「第二次世界大戦における日本の行動○○に賛成か反対か」などの議論では、それらの知識がなければ話せない。さらに言えば専門的な知識がなければ話せない議論(原発や核、地震予測など専門家だけで考えることになっている話)ではなく、一般市民が気軽に話せるのが哲学対話のよさでは?

U 
 配布資料ではK小学校の授業報告と会話分析が記されている。そこでの問いは「何で生まれてきたんだろう」だ。この問いが何を意味するのか確認しなければならない。メンバーに共通の内容確認がされなければならない。授業者らは自らに「何で生まれてきたんだろう」と問うて、どう答えるか。それを自ら考えないで。子どもに言わせるのは、無責任である。
→「問いの確認」については以下で論じるが、なぜ自ら考えないで子どもに言わせるのは無責任なのか。

V
 推測するに、この問いは「君はなぜ(何で)この学校を受験したのか。……<動機>・<意図>・<理由>・<意義づけ>・<価値づけ>の「なぜ」である。だからこの「何で生まれてきたんだろう」は次のいずれかに翻訳されるべきなのだろう。@「私は、だれの、どんな意図で、生まれてきたんだろう。」、A「私は、どんな意義・価値があって生まれてきたんだろう」。なぜ、こんな自己の内面までを複数の他者に話さねばならないのか。@は「神様」のような、自己を越えた存在を前提する宗教的心情を告白することになる。また、Aは、現在の自分の生きがいを述べることになる。
 まじめに、自分自身の経験とつき合せて考える子がつらい思いをする。提案者に問う。なぜこの状態の「対話教育」が「ケア的思考力の涵養」になるのか?どこにケアが働いているのか。
 「何で生まれてきたんだろう。」という問いに対する答えは、真偽の基準には合わない。真とか偽とか立証できる類のことではない。ただ、そう信ずるだけの答えである。だから発言したとしても、そこから先は議論になり得ない。「人間は選ばれしもの」という、これも立証し得ない主張が続くだけである。
 信じたことを集団の中で言わねばならないのは、それが真剣であり本音であればあるほど、苦痛である。だから子どもは、自分の生き方、自分の経験を具体的に考えようとはしない。具体的事実の支えが全くない「悪い人」の話へと流れる。
 要するに、概念に対応する事実を具体的に知り確認するという思考が欠けているから、問題意識が成り立たないのである。漫然と、恣意的に(気まぐれに)進む「対話」にしかなり得ないのである。
対話とは名乗らないがK小学校よりも優れた実践はたくさんある。例えば深澤久の『命の授業』『道徳授業原論』を読め。

U・Vの問題
問いが明確ではない。参加者全員に共通理解ができていない。
→おっしゃる通り。M.Lipmanの理論でもテキストを読む→問いを出す→問いについて考えるというとき、問いを出すことに時間を割いている。問いが洗練されていなければ深めることはできない。

W
 学会数日後、私は提案者に手紙を送った。「いわゆる学習指導案を書か(け)なかったのか」という趣旨のものである。教師がどんなつもりで、どんな目的で、どんな教材・方法を、なぜ選んで働きかけるのかを書くべきだ。教師が責任を問われるべきはこの自覚だ。(このへんの理論は私の本『授業にとって「論理」とは何か』を読むように)。例えば、K小は今までどのような話し合い(対話)をしてきたか、それによりどんな能力(学力)がついているのか。この授業はどのような変化(学習)を期待して行われるのか。とにかく、録音を起こした記録だけでは、研究でも報告でもない。学生がこんなことをしたら私は即座に「不可」を与える。
 問う。K小学校でのあの授業のどこで、何故に「批判的思考力・創造的思考力・ケア的思考力の涵養」が行われているのか。具体的に示してもらいたい。
 要するに、K小学校の授業ごときものが「哲学対話」ならば、諸外国も、悪性の流行病に感染しているのである。見習ってはいけない。

問題
指導案の有無
→おっしゃるとおり。

X
 一応、哲学的思考の教育の重要性は認めよう。しかし、そのためになぜ対話なのか。
 対話は、哲学的思考の方法(、、)としては、かなり劣った第二級の(マイナーな)方法である。
 このような評価を書くと、プラトンのソクラテスの対話を根拠に批判しようとする無邪気な(ナイーブな)読者がいるかもしれない。
 プラトンの本に書かれているのは、対話の過程の記録ではない。対話の結果(所産)をあたかも対話が進みつつあるかのような形式でまとめた読み物である。バートランド・ラッセル『西洋哲学史 上巻』は次のようにいう。

弁証法的方法は、ある種の問題に適してはいるが、ある種の問題に適してはいない。
プラトンの探求は、その大部分がこの方法で扱えるようなものだったのである。ただ、ある事柄は、そのようなやり方で扱うには、明白に不適切である。
 例えば、経験科学がそれである。確かにガリレオは、自分の理論を明確に唱えるために、対話様式は用いた。しかしそれは、偏見を克服するためにやったにすぎない。
 ソクラテス的方法によって処理するのに適当な事柄とは、次のようなものである。すなわちすでにわれわれが、正しい結論に到達し得る充分な知識は持っているが、思考の混乱だとか分析のし足りないために、われわれの知識をもっとも論理的にうまく利用することが、できなかったような問題なのである。「正義とは何か?」というような問題は、プラトン的対話で検討するのに著しく適している。われわれはすべて、「正」とか「不正」とかいう語を自由に使っているが、その使い方を検討することによって、われわれは帰納的に慣用的にもっとも適した定義に到達することができる。それらの語がどのように用いられるか、というだけを知っていればたくさんなのだ。しかしこのような探究に結論が出た時には、われわれは論理学上の発見をしたのではなく、ある言語的な発見をしたのに過ぎないのである。
 

 概念は、具体的な経験内容と対応していなければ働き得ない。概念を分析・検討するのはそのような経験との対応を知ることである。K小学校の子どもには、そのような経験がない。「対話」に出てきた「戦国時代」のように、いわゆる「間接経験」の情報で知ったことも乏しい。そのような状態では、古代ギリシャの「対話」でさえ不可能なのである。

問題
対話の適否
→ん?よくわからない。P4Cでやりたいことは「正義とは何か」とかいう概念そのものを問うことだ。少なくとも私のやりたいことはそういうことだ。とすると、ラッセルの主張で言えば適しているのでは?

Y
 「対話」の過程においては、自分一人で静かに長時間、思考する自由がない。考えをゆっくり文章に書く自由もない。考えるために、問題意識を持って読書する自由もない。「対話」は表現・伝達、つまりコミュニケーションの技術なのであり、思考の技術ではない。思考の訓練が副次的に意図されている技術なのである。
 哲学にとって必要なのは、自分個人の自由である。自分に誠実で、他者との妥協を避け自由であるためには、ゆとりが要る。時間的に強制される、急がされる状態では自由で入念な発想は不可能である。対話の過程では、この理想的状態は保証されない。

問題時間
→時間の制限があるのは学校でやるのだから仕方ない気もする。ただ、1つの問いで2〜3時間する場合はそのような時間を各人が行うことはできる。そしておっしゃるように対話は思考の技術ではない。ただだれも対話を思考の技術だと考えていないのでは?

Z・[・\は略。(「繰り返し言うのだが」と書かれているように、上記に検討するべき課題はすべて挙げたと思うため)

これを呼んでいたら森田伸子を思い出した。引用しておこうっと。

哲学の効用(使い道)は、哲学の「ねちっこさ」。なぜなら、哲学は、人間がなぜか共有している「意味」の世界へとどこまでも近づこうとする営み。この営みは、言葉を介することなしにはありえない。意味は言葉と別に存在することはできない。そこで、私たちは自分たちが使っている言葉の意味を互いに吟味しあい、言葉を尽くすことによって、一歩ずつ探求の歩みを進めなければならない。(p.193)『子どもと哲学を:問いから希望へ』勁草書房 2011年

(まっちー)

アメリカ映画『ア・フュー・グッドメン(A Few Good Men)』1992 

August 07 [Wed], 2013, 22:09
長距離バスの帰路のなか、映画談義になった。
同じ年代のTさんから紹介された映画がこの『ア・フュー・グッドメン』。
タイトルは耳にしたことはあったが、見たことのない映画であった。早速、見てみた。

アメリカ海兵隊の中で不文律として存在していたコードR(=軍隊内の落ちこぼれに対する組織的な暴力的制裁)が命じられたことによって一等兵が殺害された。この事件の真相を法廷で明らかにしようとする弁護人(中尉・少佐)たちが海兵隊のなかにある旧態依然とした悪しき体質を暴き、上司である大佐の有罪を立証していくというストーリー。
 
 正義感をもって生きるとういことが、どういうことなのかが分かりにくくなるなか、このような映画にはある意味、すがすがしさを感じる。ただ、私たちの世界は、水戸黄門やウルトラマンの世界ではないわけでして、必ずしも「勧善懲悪で万事休す」とはいかないことも多いもの。

マイケル・サンデルが正義をテーマに映画を作ったらどんなに複雑な筋書きになることだろう…。

BY 1+1=口