和歌との出会い 歌人岩本明浩との出会い

March 09 [Mon], 2009, 18:25
和歌との出会い 歌人岩本明浩との出会い
はじめに――和歌の規則について
和歌を作る上で堅苦しい規則はありません。短歌なら5,7,5,7,7、長歌なら5,7,5,7,…,7,7、といったように、音数律(決まった音数の句を、決まったパターンで組み合せる形式)以外には、決まりごとは何も無い、と言っても過言ではありません。音数にしても昔から許容範囲は広く、字余りはごく普通に見られる現象です(下記字余りについて参照)。連歌俳諧のような季語の制約もありません。音数律という型を踏まえてさえいれば、どうでも好きに作って良いわけです。
もちろん、伝統主義的な和歌の詠み方となれば、漢語・俗語は避けるとか、縁語は用いた方がよいとか、結句の四三調は避けるとか、様々な範(のり)はありました。しかしそれも絶対的なものでなく、概して、望ましいこととして推奨されていたに過ぎません。



歌とは何か
ただの詞と歌の詞の違い 本居宣長『石上私淑語(いそのかみささめごと)』より
ただの詞(ことば)はその意(こころ)をつぶつぶといひ続けて、理(ことわ)りはこまかに聞ゆれども、なほいふにいはれぬ情(こころ)のあはれは、歌ならではのべがたし。そのいふにいはれぬあはれの深きところの、歌にのべあらはさるるは何ゆゑぞといふに、詞に文(あや)をなすゆゑなり。その文(あや)によりて、限りなきあはれもあらはるるなり。さてその歌といふ物は、ただの詞のやうに事の意をくはしくつまびらかにいひのぶる物にはあらず、またその詞に深き義理のこもりたる物にもあらず。ただ心にあはれと思ふことをふといひ出でて、うち聞えたるまでのことなれども、その中に底ひもなく限りもなきあはれの含むことは、詞に文あるゆゑなり。

【訳】(詩歌でない)普通の文章は、思うところをこまごまと言い続けて、条理は詳しく通じますけれども、やはり言うに言われぬ感情や心情のおもむきは、歌でなくては述べがたいのであります。その言うに言われぬ情趣の深いところが歌に表現されるのは何故かと言いますと、歌は言語表現に文(あや)――特別な曲折や変化をつけるからであります。その文(あや)によって、限りない「あはれ」も表れるのであります。さてその歌というものは、普通の文章のように物事の内容を詳細に述べるものではなく、またその言葉に深い意義道理が籠っているものでもありません。ただ心に深く感じたところをふと口に出したまでのことですけれども、その中に際限もなく奧深い情趣を持つのです。それは歌の表現に文(あや)がある故であります。

【補足】「文(あや)」とは、模様、特に織物の模様。言語表現上の「技巧」「言い回し」などを言うこともありますが、むろん宣長はそうした意味で用いているのではないでしょう。同じ本の中で宣長は「文(あや)あるとは、詞のよくととのひそろひて、乱れぬことなり。大方五言か七言にととのひたるが、古今雅俗にわたりて、ほどよきなり」とも言っており、五音と七音からなる音数律を「文(あや)」の要素と考えていたようです。

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