善く生きる

July 08 [Tue], 2014, 15:32
私は優秀であるべきである、私は好かれるべきである、などの自己理想がある。このうち人が目標を設定し、それを追求することは自己理想にかかわる。この自己理想自体が目標であるが、これは究極の、あるいは上位の目標である幸福を達成するための手段となる。自分や世界についての信念、あるいは意味づけがどうかによって生き方そのものが変わってくる。神経症的な意味づけをしている人にとっては人生は複雑なものになる。症状の除去ではなく神経症者にとって症状は必要なものである。直面する人生の課題を解決することができないと思いこんでいる人にとって、症状はそれを回避するための口実として必要であるという意味である。人生の課題を解決できるという自信をもち、もはや症状を必要としない、と思える前に症状だけを除去しても、多くの場合は別の、しかもたちの恐い症状が代わって生じることになる。そこで人生の課題を解決し対人関係をうまくやっていけるという自信をもてることが必要だということがわかる。ライフスタイルが変わるのでなくてはならない。そもそもライフスタイルを変えることができるのか、あるいは、どんなライフスタイルであれば、神経症的な意味づけから脱却ひいては善く生きることができるだろうか。


現実的なものの領域

June 13 [Fri], 2014, 16:45
現実的なものの領域に位置づけられる象徴化のプロセスの残余。たとえば論理的な例外やパラドックス、文字や言語のシニフィアンのシニフィアン。命令する、あるいは捉としてのシニフィアン。孤立している場合、それは主体を服従させる。いくつかの他のシニフィアンと結びついた場合、主体化のプロセスが生起し意味としての主体が帰結する。他のあらゆるシニフィアン、あるいは他のすべてのシニフィアン。四つのディスクールにおいては、それは知をひとつの全体として表象する。これは多くの形式を持つ。たとえばあらゆるシニフィアンの宝庫あるいは貯蔵庫、要求としての他者、欲望としての他者、享楽としての他者、無意識。欠如するものとしての構造的に不完全なものとしての、その欠如へとやってくる主体によって不完全なものとして経験される他者。他者のなかの欠如のシニフィアン。他者は構造的に不完全なので、その欠如とは他者に本来的に備わっている特徴であるが、その欠如はいつも主体に対して現れているわけではなく、たとえ現れているときでさえ、いつも名づけることができるわけではない。このシニフィアンはその欠如を名づけるものである。


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